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  Flow 作者:森カラ
第七章 プレイ 三
 一月十一日、水曜日。午前九時。
穿き古したジーンズに厚手のニットを着込み、マフラーを無造作に巻いただけの格好で僕は寒空の下に飛び出した。

握り締めた白い紙には向井龍之介の住所が殴りつけてある。
僕は未だ向井の家には行ったことがない。

この住所も住所録からコピーしてきたものだ。
誠大の家は帰り道の途中に位置しているということもあり、上がりまではしないまでも去年は下校中に何度か家の前まで誠大を送ることもあった。
だが向井とクラスが一緒になってからはそういったこともなくなり、誠大と満足に話をすることさえなくなりつつある。

 アイツらは絶対に何か隠している。
 いや、もしくは僕の知らない所で何かを企んでいるに違いない。

 見えない彼らの本心は僕を疑心暗鬼に陥らせ、そうした不安は僕に彼らを疑わせることしかさせなくなったということだ。
何が信じられるというのか。行ってやる、この目で見てやる。

僕は歩く。
だが一方で誠大を信じ、彼が自分に伝えようとしていたことを待った方がいいのではないかと迷う心を何とか繋ぎとめようとしていた。

 初めて踏む町のコンクリートは想像以上に冷たく僕をあしらい続けている。
 同日、午前九時半。

 自宅からバスを乗り継ぎ、三十分程で着いたこの町のどこかに向井がいるのだろう。
僕は手に握り締めたままだった住所の写しをもう一度確かめると、等間隔に立てられた電柱の住所を時折確認しながら進んだ。

どこにでもある住宅街の風景は一瞬僕の気を緩めそうになるが、小さな変化にも心を動かされぬよう、向井が住むというこの町をギラギラと徘徊しながら必死で表札を探す。
そうでもしないと僕の足はすぐにでも自宅に舞い戻ってしまいそうなのだ。

もし彼らが一緒に居たとて、きっと僕は何も出来ずに尻尾を巻いてその場を去るだけだと分かっているからだ。
だが速度を緩めると、昨日の帰りに誠大に言われた「意気地なし」という声がまた頭の中で響きだす。

 分厚い黒い雲から落ちてきた霧雨が頬を濡らしたと思った頃、僕は向井家の黒光りする門扉の前に着いていた。
重厚な作りのそれは他の民家に比べて一際目立っていた。

車庫は車が二台置けるようになっており、シャッターは自動で閉まるようになっている。
庭が広く、門扉を抜けて玄関に着くまでに二十メートルほどあり、五十坪くらいはあるだろうか、歩いて来て分かるのはここまで大きな住宅はこの辺りじゃかなり珍しいということだけだ。

異様な雰囲気を醸し出して立つそれは向井そのものに似ている気がする。
隣家は向井家とはその大きな庭の関係で離れてはいるが、向井家に向いている窓だけは朝だというのにガッチリとカーテンが閉められていて、それだけであまり関わりを持ちたくないのかが容易に推測できてしまうような気がした。

 僕は少し離れて実質三階建ての向井家を下からゆっくりと見上げ、ため息を漏らし、重い足をインターホン前に進めた。
恐る恐る人差し指を伸ばすが思っていたよりも震えるその指を見て、直前でインターホンを叩くように拳で押す。

甲高い音で鳴るそれは、頭の中で周りの音全てを道連れにして膨張し、その町に不穏な静寂をもたらした。
音も気配も感じられない向井家はまるでままごとの中の玩具のように嘘っぽく、無機質だ。

だがそれは三十秒後にあっけなく壊された。
止まっていた時間が突然早送りで動き出しかのように、向井家の玄関脇の大きなガラス戸を隠していたカーテンが開かれたのだ。

僕の身長ほどもある大きな門扉の隙間から見えるそれに既に恐怖以外何も感じられない。
睫毛や髪を浸食しようとするかのように激しく降り出した霧雨から身を守ることも出来ずに、ただでくのぼうの如く目に映った上半身裸の長身の男を見ていた。

 カーテンはすぐにまた閉じられ、一分も立たないうちに玄関扉は開かれた。
たぶん、生涯これほど長い一分間を味わうことはそうないだろうと思えた。

玄関に現れたのはくっきりとパーマをかけたセミロングの女性だった。
若作りしているがよく見ると化粧が濃く、自分の母親と同じ歳くらいだろうと思えた。

たぶん彼女が向井の母親だろう。
さり気なく羽織られた厚手のニットのカーディガンから覗くシルクの光沢に、少し頬が紅潮するのが自分でも分かった。
外気に当てられ、氷のように冷たくなった頬が融解していくようにじんわりと熱くなっていくのをどうしようも出来ずに、深くお辞儀をすることで何とか誤魔化した。

「おはようございます、朝早くからすみません」
 目線だけを上げて確認した僕の目に、訝しげな様子で首を傾げる彼女が見えた。

「僕は北高で龍之介君と仲良くさせてもらってる者なんですが」
ここまでいっても僕を見る彼女の不思議そうな表情は変わらず、内心不安にはち切れそうになりながら続けた。
「龍之介君はご在宅でしょうか」

 ゆっくりと顔を上げると、彼女は固く組んでいた手を解き胸の前で手を叩くと急に笑顔になって
「龍ちゃん、龍ちゃんのお友達なの? あなた遊びに来てくれたのね」

 彼女はそういい僕の元へ走り寄ってくると、僕らの間を隔てていた重い鉄格子を案外素早く開けた。
僕はその勢いに気圧されつつも何とか頷いた。

「龍ちゃんがお友達をこっちに寄越すなんて初めてのことよ! ああ、嬉しいわ。よく来てくれたわね」

 彼女はこちらが躊躇する間も与えず僕の両手を取って握り締めると、きついエキゾチックな香水を霧雨の中に撒き散らしながらぶんぶんと上下に振って見せた。
僕はされるがまま、気になった一言について追求した。

「あの、こっちに寄越すって、どういうことですか? 龍之介君はいらっしゃらないんですか?」

 向井の母親は僕の手を握り締めていたことも忘れてしまったかのように力なくその手を落とすと、羽織っていたカーディガンの裾を手持ち無沙汰に弄りながら言葉を詰まらせた。
僕は彼女の気まずそうな顔を見ながら、向井とこの母親との関係はあまり良好ではないのかもしれないと思った。

「ごめんなさいね、龍ちゃん、ここにはいないの。ここからすぐの所に別の部屋を借りていてね、夜なんかは勉強に集中したいからなんて言ってあっちに入りびたりなのよ。
 でも龍ちゃんにも訪ねてきてくれるお友達がいたってことが私とっても嬉しかったの、これは本当よ」

 向井の母親は急にしどろもどろな調子で、まるで弁解を施すようによく口を動かした。
霧雨がますます勢いを増し、目の前の彼女のボリュームのあった髪をしんなりとさせ始めていて、僕はそちらの方が何よりも申し訳なくなってきた。
風で雨に濡れた髪が頬に張り付くと、彼女の顔は初めに見た時よりも十は老けて見える気がしたからだ。

 向井が今ここにいないということは予測の範囲内だった。
この豪邸に加え、他にも部屋を持っているということに対しては驚きを隠せなかったが、ここの他にもアジトを持っている向井がそこへ誠大を呼びつけていることを想像すると途端に血が沸き、気分が悪くなった。

「そうですか。あの、じゃあもし差し支えなければその龍之介君がいるという部屋の住所を教えては頂けないでしょうか」

 僕は何となく目の前の彼女から目を離しながらそういうと、視界が突然真っ白になるのを受け入れなければならなくなった。
飛び上がる心臓と共に勢いよく顔を上げると、そこには逞しい身体つきの浅黒い色をした男が立ち塞がり、僕に一枚の紙片を差し出していた。

カウントを叫びながら、霧雨に濡れてゆっくりと原型をなくしていくその紙に試されているのではないのかという感覚に押し込まれる。
その目の前の男は先程カーテンを開けてこちらを見つめていた男に相違なかった。

男の盛り上がった筋肉と日に焼けた身体に張り付く長袖の薄いシャツが、僕をどんどん小さくしていく。
向けられた一枚の紙を取る動作さえ取れない僕を全く気にしない様子で向井の母親が女の声を上げた。

「タッくん! それじゃ寒いよう。ちゃんと着てこなくちゃ駄目じゃない!」

 彼女は大げさな身振りで驚くと、タッくんと呼ばれたその男の晒された腕や肩を何かを塗りたくるようにして撫で回した。
僕はその瞬間を見計らって目の前に出されていた紙片を引き抜いた。



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