第六章 日向誠大 四
出来るだけ携帯のバイブ音が目立たないようにポケットに突っ込んだ手でそれを強く握り締めると、サイドボタンを親指で探ってすぐに押した。
一瞬部屋の中に昆虫の羽ばたく音にも似た振動が漏れ、それは不自然に途切れたが、目の前にある二台のパソコンが火を噴くようにファンを回しているせいで思ったよりも明らかな認識をもたらさなかったように日向は思った。
「今、何かいった?」
向井が何かを感じ取ったのか、だが首を動かすこともなく言葉だけを放つ。
感情が何かに抑え込まれたかのように響くそれは、カーテンの隙間から漏れる強い西日の光にどこか似ている、と日向は思った。
「いや、メールが来ただけ。迷惑メール。何か最近多いんだよな、出会い系とか。どっから漏れてるんだか、俺の個人情報」
手馴れたものだ。
もう上ずった声にもならないし、後ろめたい気持ちも見え隠れしない。
龍之介に嘘をつくときは出来るだけ本当のことを織り交ぜるといい。
さて、いつから俺はこんな知識を得たんだっけ。
日向は小さくため息にも似た嘲笑を自分に浴びせた。
今度はそれと分かるように携帯の電源を切る。
それと重なるように向井はふうんとだけいった。
日向は忙しなく走り回るファンの音を聞きながら向井に目をやった。
自分で切ったのだろうか、襟足が不揃いに雑然と切られていて言葉を無くす。
金がないのだろうか、確か一昨年、まだ中三の冬頃、父親の会社が倒産したといっていたな。そんなことを思いながら、改めてパソコンの前で熱心にキーボードを叩く向井の少し痩せて肩甲骨の浮き出た背中を眺めた。
天井に付けられた極普通の蛍光灯色の弱弱しい電気が、ほんの時折だが居眠りをするかのように付いたり消えたりする。
その度に向井の着ているよれよれの白いトレーナーがうねうねと影を作り、まるで背中から蛇に似た何かが蠢いて出てくるようなものを見た気になり、日向は静かに目を逸らした。
この部屋にたった一つ許された窓はカーテンが閉まっている上から大きな金属ラックが陣取っており、そこには二台目のパソコンが置かれているため、それが開かれた所を見たことがない。
一日中どこか饐えた臭いのするこの部屋で、パソコンの無機質で明るすぎる真っ白な光がこの部屋にとっての太陽光だった。
部屋を照らすそれはカーテンの隙間から出たがる西日を無視し、微かに熱を持って二人を照らしている。
だが日向はこの部屋の閉ざされた窓からいつか太陽が差し込んで、部屋中が透き通ったエネルギー光線でいっぱいになるのを見たいと常々思っていた。
けれどその時は来ないだろう、と日向は思う。ここはパソコンの生きる部屋だ。
俺ら人間はさしずめ使用人といった所か。
ここで「彼ら」にとって外の光が必要なことは絶対にない。
日向が向井の家に着いたのは、井川倖と一悶着している最中にメールで呼び出されてから一時間近くも経った後だった。
ついさっきまで強かった西日も急に元気をなくし、群青色の空に手を引かれるように取って変わられようとしている。
気を抜くと気持ちの悪い、黒い感情が蘇ってしまう気がして日向は慎重に呼吸を繰り返していた。
井川倖との付き合いはまだ二年程だが、あんなにも激しく口答えされたのは日向にとって初めてのことだった。
いざされてみると自分がいかに井川のことを目下に見ているのかを思い知らされ、またうんざりする。
今まで意図的に見ないようにしていた気持ちは地震のように突然やってきて自分を揺さぶり、築き上げたものを無情にも壊して去っていく。
だが築き上げてきた友情が欠陥住宅のように手抜きだったことを自分でも気付いていたからか、純粋な怒りさえただの開き直りになってしまう。
それがまた怒りを暴発させ、いいたいことをいって黙り込んだ井川が目の裏に浮かび上がっては殴り倒したい気持ちでいっぱいになった。
「……で。何だっけ? 会ったんだっけ? 坂下に」
向井がやはり日向を見ることもなくいった。
いつのまにか軽快にリズムを刻んでいたブラインドタッチがパタリと鳴り止んでおり、日向は何となく息苦しくなって肩で息をした。
「ああ、そう、会ったよ。龍に会えなかったことを残念がってるみたいだった」
先程坂下に睨みをきかされ「お前もせいぜい気をつけろ」といわれたことを反芻しながら平然と嘘をついた。
もう一度深く呼吸をしてみる。
ファンに絡まってこだまするように向井の引き笑いが部屋に充満している。
この男といる時、いつからこんなに酸素が薄くなった気がし始めたのだろう。
日向は胸の奥底で少し嘯いてみた、だがそれは杞憂である。
日向には分かっていた。
明らかに均衡がおかしくなったのはつい四ヶ月前、後期の始まった頃からだ。
「足怪我してたって? あいつ確かラグビー部だっただろ? 致命傷にならないといいけどなぁ」
日向の話などほとんど聞いていないかのようなそぶりで爪などを気にしながら、間延びした声で向井がいった。
全く無関係を臭わせた向井の態度に、つい興奮した日向は口を挟んだ。
「それ本心なんだろうな」
向井は覗き込むように見据えた日向の方に向き直り神妙な面持ちになると誠大、と日向の名前を何かに刻み込むようにいった。
「当たり前だろう」
事務的な回転椅子の上で器用に胡坐をかくと続ける。
「お前はどうもあの時のことを未だに気にしすぎるな。確かにあれはガキだった俺が半分はお前のためにやったことだが、後の半分は自分のためにやったことだし、お前が責任を感じる必要なんてどこにもないんだよ」
分かってるし、そういうことじゃねえんだよ、といいかけた日向を遮り龍之介はいった。
「だから今回も俺がやったのか、と聞きたいんだろう? なら逆に聞いてやるよ。お前はあいつの足をやったのは俺だと聞きたいのか?」
「そうじゃないよ、そういう意味でいったんじゃない」
電流の通ったかのような野太い視線を向けながら、日向は坂下の足をやったのはやはり向井だろうとどうしようもなく確信してしまった。
向井が何かをいうたびにその確信は強くなり、いつか感じたときのように心がビキビキと音を立てて揺れるのがわかった。
「じゃあ坂下がお前に何かいったりでもしたのか」
「いや、坂下も何もいってないさ。あいつはニヤニヤしながら通り過ぎていっただけ」
まるで尋問にあってるみたいだ、と思いながら日向はとうとう向井より先に視線を反らしてしまった。
直後、向井から発せられる空気がブレたような気配がして鼓動が少し早まるのを感じた。
「じゃあいちいち絡むなよ。最近のお前はよく分からん。慎重に生きてるように思えばその場の楽しさのためだけに、ただヘラヘラ何にも考えずに笑ってるだけだったりする。かと思えば俺にまで変な干渉してくるし」
「それが悪いのか?」
不自然なほど冷静な声と嘲笑を含んだ音の揺れが、耳の中にねっとりと流れ込んで止まる。
日向は思っていたよりも疲れを感じて、呟くように言葉を吐いて壁に背をもたれた。
座っているベッドが軋んで耳障りな音をあげる。
まるで痛みを訴えているかのようなその音が日向に予期せぬ一抹の悪意を芽生えさせたが何とか見てみぬふりをした。
「悪いだなんて誰もいってないよ。ただどうしてそんなに時間を無駄に生きていられるのか不思議でならないだけだ。お前だけは違うと思っていたから」
「別に無駄に生きてるつもりはねえよ。俺は龍と違ってコミュニケーションを大事にするタイプなんでね」
「だからいつも井川といるわけ?」
馬鹿にしたようないい方だ。
龍は最近富みに井川倖の事を気にする。
確かに二人は自分がいないと積極的に話をすることはないし、第一初見から合わないのが見て取れる。
日向は今日の昼間、わざと向井と井川を二人きりにしてその光景を盗み見ていた自分を思い出しながら思った。
「倖とは話が合うんだよ。考えてることとかさ、興味のあることとか」
「あんな受身で生きてる奴と話があうようになったなんて誠大ヤバイんじゃないの? 俺にはいえよ。ここには俺以外誰もいないんだぜ? 本当のことをいえよ」
何いってんのかわからねえ、と足を投げ出し、音を荒げることで話題を変えようと試みる。だが胸の動悸と過呼吸のような息苦しさが治らない。
向井の下らないはずの戯言がまるで胸のどこかとリンクしたかのように痺れているのを日向はただ黙って感じていた。
そのうち今度は軽快なスクロール音がカラカラと間抜けな音を奏で始めた。
だが日向にはそのぜんまいを巻くような音が自分の喉奥から言葉を引っ張り出されるような錯覚にしかならなかった。
そうだ、と日向は音に連れて行かれそうになっている本心の尻尾を無理やり掴んで引っ張った。
俺は倖のことが疎ましいのだ。
あんなに吟味を繰り返して選んだ奴なのにどうしてそう皆自分勝手なんだ!
力任せに引っ張り上げたそれは思いの外薄っぺらい子供の泣き言のようなものだった。
日向は思わず脱力し、だが「いいや違う」と向井に分からないように小さく頭を振って落ち着きを取り戻す。
悪い奴ではないし、話が合うのは本当のことなのだ。
常に他人に何とかしてもらおうと決定権や責任を放棄していることは気に入らないが、それだって差し支えない程度のことだ。そうだろう?
それよりも俺はやらなきゃいけないことがある。
何とか熱くなっていた頭を抑え、当初の、ここへ来た時の気持ちに戻るように気を取り直す。
「この歳になって陰口かよ? 生憎俺は倖はいい奴だと思ってるし、特別何の感情もない。お前にいわなきゃいけないことなんて何一つないよ……らしくねえな、龍。お前ほんと変わったよ」
止んでいたキーボードを叩く音がまた急に鳴り出して苛々する。
だが、自分が一体何に一番腹を立てているのかよく分からなくなっているというのが本音だった。
別れ際にした井川との口喧嘩がまた日向の脳裏を掠める。
大きく息を吸い込み、肩を上げたところで画面に釘付けになったままの向井が突然「あーあ」と声を荒げた。
「井川もいたんでしょ、そこに。じゃああいつも坂下の足のこと何か勘違いしちゃたんじゃないの? 嫌だなあ」
「別に、倖はそんなに気にしてないよ、たぶん」
やはり先程倖に送ったメールには龍之介は気付いていないらしい、と日向は思った。
そして今日何度目かの嘘に今度は少々躊躇いを覚えながら、今頃倖は自分の送ったメールに混乱しているだろう、そして自分をひどく必要としているはずだ、と想像をなぞった。
これでいい。
一人納得するように目を瞑ると、向井の座っている椅子が摩擦音をあげて何となくこちらを向いた気がしたが、敢えて確かめるのはやめて思考を止めた。
だがそんな日向の頭の上を向井の声が掠る。
「あいつが気にしないわけないだろう? 今日だって見ただろ? ちょっと大学変えたくらいであの顔だよ。何で誠大があいつのことをあんなに可愛がってるのかやっぱり分からないね。お前が変わったんだ」
「いつと比べての話だよ。そりゃ知り合った頃からもう五年は経ってんだから、そりゃ変わるだろうよ」
「井川もいってたよ」
突然の予測していなかった切り替えしに日向は少したじろいだ。
身を捩ることで身体に起きたおかしな緊張の凝りを解そうとしたが、それはあっさりと失敗に終わった。
「お前の態度は信じられないって。自分の前でお前の態度が変わるのが許せないらしいぜ?」
右の八重歯だけが変に尖った向井の顔は卑しい表情になると途端に目立つようになる。
普段ならチャームポイントの一つでもあるといえるだろうそれは、今や日向に寒気しかもたらさなかった。
「悪いけど信じられない。あいつが本当にそんなこといったのかよ」
「信じないのはお前の勝手だけど、今日井川と二人になった時聞いたらそういってたんだよ。面白いものを聞かせて貰った」
手先や足先が冷たくなっていき、自分は怒っているのだと気付いたのはそう遅くなかった。日向は頭にくるとまず先に血の気が引いていく体質なのだ。
自棄になって何か罵倒してやりたい気持ちもあるが、新鮮な血液が脳に送られていないのか、息を深く吸い込むだけで頭がクラクラとして脱力するしかなかった。
圧力のかかったぼんやりした音の中に、再びキーボードを叩かれる音を見つけた。
本当に倖はそんなことをいったのだろうか。
日向はもう一度向井のいった言葉を頭の中で繰り返してみた。
そのうち疎ましいでは済まされないほどひどく井川を憎らしく思っている自分に正面からぶつかって、とうとう認めざるを得なくなった。
言葉が本当だったのかなどどうでもいい、今日の喧嘩の時だってそうだ!
日向は熱くなり、湧き出る感情をまるで抑えられずに握り拳を腿に打ち付けた。
あいつは何か勘違いしてるんじゃないのか。
お前のことを捨てるも拾うも俺の一存だということが分からないのか!
そう叫びだしそうになるが、奥歯を強く噛み締めることで何とか叫んだことにした。
だが噛み合わせが悪かったのか、身体がビクつく痛みにふと我に返った日向は気味の悪い感覚が全身を取り巻くのを覚えた。
それはまるで壁中がこちらににじり寄りながら自分をジッと凝視している感覚だった。
日向は思わず向井を確認する。
だが向井は依然としてパソコンと対峙したままだ。
だが日向には確実に向井が自分を見ている気がしてならなかった。
例え向井が自分を見ていずとも、絶対に自分を見つめているといい張れる自信があるほどだった。
背中に一筋汗が流れると、それを皮切りにして冷汗が不気味なほど無秩序に粟立つのを感じた。
だが、どんなに焦ろうとまだ絶えず鳴り響いているカタカタという機械音が日向に油断をもたらし、明らかな動揺ぶりを晒した結果は変わらなかった。
それは日向が築き上げてきたものを一網打尽にしてしまう破壊力を持っていた。
日向にはどうしても守り通さねばならないことが一つだけあった。
それは向井に自分が井川倖を疎ましく思っているという事実を気づかれる訳にはいかない、ということだ。
自分がどんなに井川に対して憎しみを抱いたとしても、向井の前ではそれを見せる訳にはいかなかった。
それをすることは日向の三年越しの構想が音を立てて崩れ、取り返しの付かないことになるのが目に見えているといえた。
まるで落として粉々に割れてしまった花瓶を片付ける際に思わず指を怪我してしまうように、傷口にガラスが入り込んでいくような恐怖と痛みが既に日向を襲っていた。
「何か忙しそうだけど、ちょっとこっち来てみなよ」
向井に声を掛けられて手繰り寄せていた糸がぷっつりと途絶えた。
ようやく我に返り顔を上げると向井がこちらを見ずにだらしなく手招きしている。
日向は激しく頭を振るとベッドから降り、フラフラと向井の方に足を向けた。
WEB拍手
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