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  Flow 作者:森カラ
第一章 向井龍之介 二
 向井が誠大にこうして突拍子もなく漠然とした問いを投げかけてくるのは、これが初めてのことではなかった。
しかし向井が僕の前でもこうして突飛な問いをボソリと呟くようになったのは、本当につい最近のことだった。

そして何より戸惑いを覚えるのは、誠大が向井の発する問いに対する多くの答えを誤魔化していたことだった。
初めはそんな誠大を見るのが初めてだったからか、ひどく動揺することがあった。

なぜなら誠大はいつだって僕の代弁者的な存在でいたからだ。
同等に楽しく、たくさんの話をしていても、結局僕はいつも彼の発言や考え方に圧倒されてばかりで敵わなかった。

しかし、最近僕の目に映る誠大は違う。
向井の問いに対して、明らかに動揺することがしばしばあるのだ。
そんな姿を目の当たりにすると、いつも誠大と喋っている時の自分の姿を鏡に映して見せられているような気分にさえさせられた。

「ふむ」

 まるでポテトに話しかけるかのように、ポテトからジッと目を逸らさずに向井は呟いた。
そうしていたのも束の間、突然そのポテトは誠大の口元に現れ、その脂ぎった表面を擦り付けていた。

「あーん」

 向井は全く表情を変えず、冷たい目をしたまま誠大をからかいだした。
頬杖をつき、いかにも誠大で暇を持て余しているかのようなその姿を、僕は直視出来ずに助けを求めるように誠大を見た。

だが誠大は依然として油で汚れた口元を、ほんの僅かだが小さく震わせているように見えた。僕はその瞬間、背中を誰かに乾いた舌先でなぞられた様なおぞましい感覚に囚われ、咄嗟に背中を擦るように乱暴に掻くと、彼らの前に割って入った。

動くと先ほどまで背中に張り付いていたシャツが剥がれて、ひんやりとした空気につい身を捩りそうになる。
そこで初めて汗を掻いていたのだということに気付かされた。

「まぁまぁまぁ、誠大もいつもみたいにノレばいいのに。向井ってほんと面白い奴だなぁ」

 不自然な動揺を悟られないように、咄嗟に二人を交互に見ながら中立的な立場を取る。
僕はいつもこういう場面でどういう態度を取ったら言いのか分からず、愛想笑いをしてしまう。

そんな自分から見ても気持ちの悪い態度を取った僕を、向井は余り顔を動かさないまま一瞥し、眩しいくらいにっこりと笑った。
僕は一瞬その笑顔にちっとも暖かさを感じられずゾッとしたが、顔に出さないように注意深く筋肉を動かしエヘヘと笑顔を返した。

誠大の方に目をやると、何も言わずにコーラを勢いよく喉に流し込んでいる。
時折炭酸に咽る彼は、まるで焦りを隠しているように見えた。

そんな誠大を見て、夏休み直前のある日、三人で秋葉原を徘徊していた時に、何食わぬ顔でまだレジを通していないパソコンの増設用メモリを誠大のブレザーのポケットに入れた向井を思い出した(でもその後同じものをレジできちんと買っていた)。
そんな非日常的な一面を見せ付けられてからどうも不安になり、一度誠大に向井はどういう奴なのかと聞こうと思っていた。

しかし計ったようなタイミングで、

「向井は昔からよく俺をからかう時があんだよ。まあ本人が”本当に俺をからかっている”のかは分からないけどね」

 とまるでそれ以上は聞かないでくれとも言わんばかりの台詞を吐かれてしまったのだった。

 誠大はその後も、どこか向井の話題を避けているような態度を取っているように見えた。
だから僕もそれ以来彼のことを知りたがるのは止めた。

気にならないと言ったら嘘になるが、誠大の態度は僕に、彼についてあまり深く考えたり深追いしたりすることはやめておこうと思わせたのだ。
だが僕の中ではどうしても忘れられない事件があった。
まだ向井と知り合って間もない頃、それは突然僕に降りかかった。

 向井は、下校途中に歩道の縁を歩いていた僕を何の前触れもなく左手で押したことがあった。
僕は案の定バランスを崩し、車道に身を乗り出してしまった。
一瞬自分に何が起こったのか分からず、頭の中が真っ白になった。

「また、向井は何をしてんだよッ!」

 頭の片隅で誠大の声が聞こえたと思うと、僕の右手はもの凄い勢いで引っ張られ、ハッとしてその右手の先を見た時に初めて僕は誠大によって歩道に戻されたことを知った。
一息つくよりも先にふと顔を上げると、すぐ真横を三トントラックが時速六十キロもあろうかというスピードで通り過ぎた。

巻き起こされた風圧は一瞬世界をぐにゃりと曲げて全ての音を包みこみ、目の前から色を奪い、僕を投げるように暗闇へと追いやった。
飛ばされた僕は呆然としたまま闇の中に立ち尽くし、僕の右手を握っているはずの誠大の体温さえ感じられず、全ての感情をどこかに忘れてきてしまったかのように何も考えられなくなった。

しかしトラックの起こす風の音とエンジンの轟音は「起こるかもしれなかった現実」を僕の頭の中に無理矢理押し込み、併発された偏頭痛が失われたはずの色をチカチカと点滅させ始めた。
そして改めて自分は殺されそうになったのかも知れない、と思った。

「おい、お前唇真っ青だぞ、大丈夫か? 向井、あんまコイツでふざけんのやめろって」

 僕の世界の外で、誠大が向井を詰る声が水中で泡が弾ける音みたいに聞こえてくる。
勝手に震える唇を止めることは出来なかったが、至って冷静であるつもりだった。

もし僕にとって向井が「普通の友達」であれば、笑って「ワリィワリィ」なんて言いながら済んでしまうことなのかもしれない、そんなことを考えていた。
でもどのように考えようと、やはり向井は決して僕の「普通の友達」ではなかった。

計算し尽くされたようなタイミングが余計に僕の中に恐怖心を植えつける。
徐々に戻り始めた感覚の中に誠大の体温を見つけた時、ふとこんな時必ず出会った誠大の癖を思い出した。

 二度、肩に回した腕に力を籠める。
 誰かを安心させたい時、彼はよくこうした。

そして必ずその後で相手の目を見つめ、「楽勝だろ」と言って笑った。
そんなクサイ台詞でも誠大が言うと何故か許せてしまい、その笑顔を見ると力が湧くような気さえした。
僕はいつからかそんな彼の癖を勝手に自慢にしていたほどだった。

 しかしその日は違った。
そのゴタゴタの後、彼は一度も僕の目を見ることも笑うこともなかった。

まるで僕と向井の間に境界線を引くように、延々と彼らにしか分からない話をし始めた。
僕は精一杯その場の雰囲気に溶け込もうと、引きつる笑顔で笑っていたのを思い出す。
誠大と向井の関係に対して大きく疑問を抱くようになったのはこれからだったと言っていい。

 冷静に思い返せば、こういったことは以前から割と頻繁に起こっていた。
しかし命の危険まで感じたのはこの一件が初めてだった。

他の出来事は友人同士によくある「ちょっかい」程度のものだったように思う。
しかし僕を車道に突き落として以来、向井が僕に対してちょっかいを出すことはパタリとなくなった。

その分、僕の見る限り誠大をからかうことが多くなったように感じた。
向井はいつも何の前兆もなく思いもよらないことをする。

けれど特に楽しんでやっているわけではなさそうだった。
なぜなら、いつもその顔は無表情だからだ。

そのため、向井が僕や誠大との関係に何を求めているのかさっぱり分からないでいた。
どこかに属することもなく、かといって特別ハブられているわけでもない。

顔だって身なりだって悪いわけではないし、一部では人気さえあると聞く。
普段クラスの中にいる向井像を描けば、何ら変わったことのない「普通」の存在であるはずなのに、やはり僕はこうした彼の突発的行動の意図が全く分からなかった。
ただ、壊れた人形のようで怖いというのが僕の本音だ。


「バカ、やめろよ」

 再びポテトを口元に擦り付けられた誠大はそう言いながら今度は慣れた手つきでそれを払うと、テーブルの上に備え付けられた数少ない紙ナプキンを大げさに抜き取り、口元を強く拭った。
向井は数秒頬杖をついたまま、払われたポテトを持った手をうな垂れて誠大を見ていたが、やがて気が変わったのかポテトを捨てるようにトレーの上に落とすと付属の紙ナプキンを一枚だけ取り、指を拭いた。

「平和だな」

 少しの間の後、向井がそう呟くのが聞こえた。
僕はどう答えていいのか分からず、俯いていた顔を少し上げて誠大を見た。

誠大は照り焼きバーガーを口に頬張りながら目玉だけ動かし、向井を盗み見るように見るとギョッとした顔をした。
驚いた僕もすぐに視線を向井に向ける。

 直後、脳天に衝撃を受けたかのように全身が硬直した。
彼の顔が「平和」という言葉を発するには到底似つかわしくない顔つきで外を眺めていたからだ。

向井は最近たまにこういう顔をしている時がある。
初めてそれを目の当たりにした時にも随分驚かされた。

余りに強烈な顔だったからか、確かその時は教師の反感を買い授業を追い出されている。
その顔をする時の向井の視界には、僕には見えない何かが見えているようにさえ感じられる。

空中をギリリと睨み、微動だにしない彼はひどく不気味で、そこに激しい憎悪のようなものを感じるのだ。
僕はそんな心の内の全く読めなくなった向井と行動を共にするのに、最近ひどく疲れ始めていた。

「どうしたんだよ」

 誠大が少し面倒臭そうに、けれど若干気を使いながら問いかけた。
だが向井はそんな誠大の相槌のような問いに対して特に何も言わなかった。

誠大は場の雰囲気を明るいものに戻そうとするかのように独り言だったのかよ、とおどけて言った。
だが彼の顔を見ると、注意しなければ分からないほどであったが、苛々しているように見えた。

 それから僕と誠大は無心でハンバーガーを食べ続けた。
向井は何事もなかったかのように立ち上がると、もう一杯コーヒーを頼みに行った。
誠大はそれを見届けると一瞬背もたれに仰け反り、ふうと大きく溜息をついた。

「今日のアイツ、軽く電波入ってんな」

 横目で僕を見る彼は力なく微笑んだ。
今に始まったことじゃないよ、と言おうと思ったが止めた。
代わりに、何か疲れてるんじゃないのと適当に相槌を打ち、向井の方へ視線を向けた。

 レジでコーヒーを待つ彼を見ながら溜息を何度か繰り返している誠大も、だんだんと冷静さを取り戻してきたようだった。

「本当は……さ、心配なんだ、俺。アイツが」
 視線を誠大に戻すと彼は心配そうな瞳をして向井を見つめていた。
「ガラじゃねぇけど」

 どうして、と聞こうとした僕を静止するかのように、誠大は無邪気な顔をして歯切れの良い少し大きな声で笑った。
その不自然さに疑問を感じて顔を上げると向井がカウンターでコーヒーを受け取っている所だった。
誠大は姿勢を正すと持っていたハンバーガーを無理やり口に押し込んだ。

 白い湯気を撒き散らしながら戻ってきた向井は、一口も口をつけないままコーヒーをテーブルに置くとまた在らぬ方向を見つめだした。
それから十分くらい過ぎて、こう言った。

「ムカつくぐらい平和だ」


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