第六章 日向誠大 三
同日、午後五時。
家に帰ると、夕方のトップニュースに昼間に知った事件の続報を眉間に皴を寄せたアナウンサーが伝えていた。
僕はミネラルウォーターを冷蔵庫から取り出すと、母の居る居間でそれを聞いた。
「先程入ってきました、今朝北公園内で発見された遺体の身元が判明しました。遺体は東京都に住む斉藤義彦さん、32歳、区内の都立北高校の教員だったようです」
え、と思わず声と共に口から水が漏れる。
壊れた玩具のように繰り返される情報に思考がなかなかついていかない。
「ちょっと、これあんたんとこの学校の先生じゃないの」
母親が中途半端に上半身を起こすと、少し捻ってこちらを見上げた。
僕は生返事を返すと、口元を濡らしたままの水を拭うことも忘れて、呆然と立ちつくしたままテレビを眺めた。
「付近では以前から犬や猫などが殺される事件も多発して起こっており、警察は併せて捜査中としています」
「凶器は見つかっていないんでしょうか」
「はい、そういった情報は入ってきていないようですが、気になる情報は入ってきています」と女性アナウンサー。
待っていましたとばかりに男性のアナウンサーが用意していたフリップをこちら側に向けた。
僕は少し震える足を母親から隠すようにして座ると、そういえば誠大が昼間そんな噂があるということを言っていたな、などと思った。
「それでは事件を追っていきたいと思います。まず、遺体は今朝七時三十分頃、付近をジョギング中のAさんによって発見されます。遺体は死後一日が経過しており、北公園内の雑木林に遺棄されていたようです」
突然画面の端から綺麗な女性の手が伸び、全身を刃物で刺されているということでしたが――といいながらテープを捲る。
「なになに、遺体の額に数字の“一”とも読める傷があった、だって」
捲られたテープの下には赤字でそう書いてあり、母親がそれを間延びした声で音読した。
僕は母親のその好奇な態度に苛立ちを感じて黙ってテレビの音量を上げた。
「このマークについても不可解ですが、犬や猫を殺していた犯人もまだ捕まっていないということで、これは同じ犯人の犯行の可能性が強いと見ていいんでしょうか」
コメンテーターの一人がさも事件の解決に関わっているような素振りで専門家と名乗る男に問いかけた。
「うーん、そうですねえ、まあ以前にも神戸須磨で児童を殺害した少年がこうした経緯を辿っているというのも見過ごせない事実ではあります」
「はぁなるほど、では今回の事件の犯人の可能性の中には少年も含まれると」
「まぁ、警察の発表を待ってみないと何ともいえませんが、ない話ではないと思います」
ガリッと何かの崩れる音がして、そちらを振り向くと母親が持て余していた煎餅を口に含んでいた。
うるさいな、と嗜めようとするとそれを静止するかのように母が咀嚼しながら、
「怖い怖い、あんたも最近よくキレるからね、お母さんは怖いよ」
「誰もキレてなんかないだろ、母さんが余計なことばかり言うから腹が立つだけだ」
台所にあるポテトチップスを乱暴に鷲づかみ、二階へ通ずる扉に手をかけた。
すると母親はまるで事件のことなど忘れてしまったかのように顔を綻ばせてこちらを見上げた。
「ねえ、そうだ、またあの子連れてきてよ、何ていったっけ」
僕はあえて口に出さない、いや、出せない。
突如僕の目の前に提示された非日常な事件や、僕ら三人の間の微妙な変化にまだ上手く対応出来ずに、形のない緊張と不安だけが僕を支配しているからだ。
「ああ、そうよ、日向誠大君。あの子明るくて気が利くし、あんたと違って頭良さそうだし、お母さんあの子好きなのよ」
僕はドアを少し荒々しく開けると、お世辞をたくさんいわれたからだろ、といって二階に上がった。
背中の後ろの方で悪態をつきながらまた煎餅を齧る音が聞こえた。
僕はその音を受けながら退屈で平和な日常は実は心地良いものだったのだと初めて感じていた。
部屋に入るとまだ微かに緊張を保ったままの手でパソコンの電源を入れ、テレビを付けた。日の落ちて暗くなった部屋に放たれた明かりが余計に気持ちをざわつかせる。
テレビではどのチャンネルでも先程の事件についてたくさんの大人が好き放題いい合っていた。
僕は制服を脱いでいる間中その音を聞きながら、昼間携帯をかざして見せた時の向井の笑みを頭の隅に見つけた。
何故このタイミングでこんな事件が起こるんだろう、抱えきれない緊張にだんだん腹が立ってきた。
けれど何故だか音から耳を逸らせない。
この事件がどうも他人事ではない気がしてしまう。
僕の部屋に連続写真が流れていくように非日常な事件に興奮で頬を紅潮させる誠大や、わくわくしたような仕草をしてみせた向井が映し出されていった。
だからなのだろうか、何度も繰り返し流される「斉藤義彦」という名前が必要以上に僕の身体をビクつかせる。
斉藤義彦とはハッキリいってそんなに面識があるわけではない。
過去に一度授業をしてもらったことがあるだけだ。
色白で背はそれ程高くはなく、痩せ気味で少し短気な所がある男だった。
これだけ斉藤先生の姿かたちを覚えているのは僕にとってそのたった一回の授業がとてつもなく忘れがたい授業になったからだった。
その授業はいつもの担当の数学教師が風邪で休みを取っていたため、臨時の教師として斉藤先生が来て行われたものだった。
その授業中だった、向井が一瞬だが初めてあの酷い顔を見せたのは。
紛れもなく、斉藤義彦は向井を授業から追い出した唯一の教師だった。
ふと急に、強張った顔で僕の前から走り出して去って行った誠大が頭に浮かんだ。
そういえば誠大はあの足を引き摺った少年に会う前に僕に何をいいたかったのだろう。
早く誠大と連絡を取らなければ。
僕は何故だか急かされるようにそう思い、急いで制服のブレザーをハンガーにかけた。
突然絶妙なタイミングで机の上の携帯が狂ったように暴れ出した。
机を叩く音があまりに大きく、隅に追いやられた影が音の重なりで大きくなっていくような気がして急いでそれを手に取った。
携帯から光が漏れてメールが届いたことを教えている。
すぐに開封するとそこには誠大からのメッセージがあった。
さつきあつたかたあしけがのおとこむかいやつた
一瞬判読するのに手間取る。
普段は絵文字も使った見やすいメールを作る彼からは想像も付かないほどの文だった。
「さっき、会った、片足、怪我の男、向井、やった?」
ゆっくりと一つ一つ文字を追っていくと、先程左足を引きずっていた高校生の怪我の原因は向井だといっているのではと推測が立った。
僕は目をギュッと瞑ると、誠大が急にこんなメールを送ってきた背景を出来るだけ詳細に想像してみた。
慌てているような、コソコソと打っているかのようなこのメールはどことなく誠大の危機を連想させるものだった。
帰り際の慌てようからしてもよくない事に巻き込まれているのではないか、ということは容易に考えられた。
しかし今こうして自分に襲い掛かる不安は知らない何かに対してのものではなく、確実に向井を伴うものだった。
だからか、向井がやった、という事実に驚くというよりは、そういって貰ったことで僕の中で何かがしっくりといく感覚を与えてくれた。
僕は携帯をもう一度強く握り締めると落ち着いて文字を打ち込んでいった。
何かあったのか?
向井と一緒?
昼間の事件の続報が出たぞ。
殺されたのは数学の斉藤先生だったんだ。
誠大今どこにいるんだよ。
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