第六章 日向誠大 二
バスの形が小さくなると、僕らはどちらが言うともなく帰路についた。そして今に至る。
先程から耳が痛くなるほどの静寂が僕らを包んでいる。
だが先にそれを切り裂いたのは誠大の方だった。
「大学のこと、何か、いってなかったみたいで、悪い」
途切れ途切れの発音がいつもの誠大の優しさを滲ませていて、僕から自然と笑みが零れた。だがそれはもう今までのように無条件に百パーセント信じられるものではなかった。
誠大はそれ以降何もいわずに歩を進めていたが、急にいつもより歩幅を狭くすると、
「いや、本当はいいづらかっただけなんだ、ごめん」
腐った海からの潮風が僕らの妙な空気を瞬時に錆付かせ、残酷だが優しく身動きを奪っていく。
何だかいつもと立場が逆になったような気がして申し訳なさも感じる。
何を言っていいか分からずとりあえず、うん、とだけ答えた。
無言が続き、あんまり適当だったかと思い何とか言葉を続けようとするが、きっと出てくる言葉は誠大を疑うものや責めるものになるような気がして思考を止めて口を噤んだ。
「何かいえよ。お前俺に黙ってられてムカついたんだろ?! 何でいつもそうやって誰かが何とかしてくれるって甘えていられるんだよ!」
急に誠大が溢れ出る感情をまるで抑えられないといった感じで放出しだした。
変わっていく彼の姿に僕の信じるべきものは簡単に隠され、見えなくなった。
スイッチを切り替えたように人格が変わり、顔を歪め僕を責める彼の姿をどこか一歩引いた気持ちで見た。
すると途端に胸が痛くなり、同時に僕の中でも弾けるものがあった。
「何だよ、それ。僕は甘えてなんかないよ!」
僕は反論した、が、自分でも甘ったれだという自覚があるのを見破られたくなくてすぐに続けた。
「大体どうして誠大が怒るんだよッ!」
誠大は眉間に皴を寄せ、唇を強く結んだと思うと急に身体を僕から背けた。
そして諦めたような声で小さくもういいよ、というのが聞こえた。
自分の中がドクンと大きな音を立てて揺れるのが分かった。
通い慣れたこの道の緑も、踏み慣れたコンクリートの凸凹も風化していくように音を立てて足元を流れていく。
知らない世界に呆然と立ち尽くす僕は、頭で考えるよりも先に喉も腹も突き破るようにして出て来た、言葉のその生々しい姿態を曝け出した。
「よくないだろ! どう考えたって僕が不利なんだ!」
勢い任せで出た言葉に僕は思わず拳を口にあてた。
自分が何を言っているのか分からない、という恐怖は波打ち際に佇んでいる時のように孤独で曖昧な感じがした。
誠大は僕の激高に驚いたのか立ち止まって振り返ると、だんだん怒りの方が勝ってきたのか大きく息を吸い込み、どういう意味だ、と僕を罵った。
誠大の怒鳴り声は一瞬理性を取り戻しかけた僕に理不尽な怒りをぶつけられているという感覚を植え付け、ますます奈落の底に追いやり始める。
だが誠大は僕が何もいいそうにないことを確認すると目線を落とし、意気地なしめ、と呟いた。
意気地なし? 一度ゆっくり復唱してみる。
それはまだ実体を見せずに、僕の舌先にふにゃふにゃしたその身体を弄ばれている。
だが言葉が形になって脳に突き刺さった途端、首から上が自分のものでなくなったみたいに熱くなるのが分かった。
「意気地なしってどういう意味だよ! だって僕はお前と向井のことを何一つとして知らないんだ。もうお前たちが分からないんだよッ!」
興奮は僕の四肢を羽交い絞めにし、全身を怒りで満たしていく。
しかし怒りがある程度まで達するとだんだん虚しさが滑るように迫ってきて、涙が出そうになった。
全くコントロール不能になった自分の世界から、一つずつ大切だったものが弾けるようにプチンプチンと消えていくような気がする。
誠大は俄然眉を顰めてしかめ面をしていたが、そこには明らかに動揺が見えた。
しかし決して僕の告白に驚いたのではなく、それとは別の所で焦っているような感じがする。
そんな彼を見て自分は何かを見落としているのではないだろうか、と思い始めた。
興奮で狭くなった視界に頼ることを止め、一度深く、強く瞼を閉じた。
僕はそこで出来るだけ見知った彼を思い浮かべるようにして、ゆっくりと自分の気持ちを確かめながら口を開いた。
「だから何もいえないんだ、誠大が自分から話してくれるまで待っていたかったんだよ。それを意気地なしって言うならそうかも知れない」
誠大は少し顔を歪め、まるで泣き出しそうな顔でこちらを見ると何かをいおうとしたのか口を開けた。
直後、一瞬にして凍りついたかのように全身を強張らせた。
彼の乾いた瞳の先を見ると何人かの違う高校の生徒がこちらに向かって歩いて来ていた。
その中の少年の一人は左足を少し引き摺っている。
誠大に知り合いかと尋ねようと振り返るよりも先に、僕の左腕は前触れもなく強い力で引っ張られた。
今までにはなかった訳の分からぬ振り回し方に思わず「誠大」と大声で叫ぶと、目の前の彼が小さく舌打ちするのが聞こえた気がした。
「おい、お前日向か? 日向誠大だろ」
突然すぐ後ろから声がして、振り返るとそこにはもう先程の足を引き摺った少年がいた。
誠大はまるで汚いものを捨てるように僕の腕を放すと「坂下」と一言呟いた。
坂下と呼ばれたその少年は噴出すように笑うと、一緒にいた友人に先に行くように告げて改めて誠大を見つめた。
坂下は身長が百八十センチメートルはあるように見え、体格が良く、ずっしりと身体についた筋肉が全てのものを威嚇しているように感じる。
何でここに、と誠大が口籠るのを途中で遮るように坂下は、こっちで練習試合があったんだと静かにいった。
そして僕を冷めた目でチラリと見ると急に真面目な面持ちで、
「もうアイツとはつるんでないのかよ」
誠大は目線を下に落とすと僕の胸を左手で突き放すように押し、いや、と一言言った。
坂下は軽く相槌を打つと、突然俯き加減の誠大の顔の目の前に少し不自由な左足を持ち上げ、見ろよと囁いた。
誠大はそれに軽く目を向けるとすぐに逸らしてしまった。
その光景は初めて向井が誠大と僕の前にやってきた時を思い出させた。
その時誠大が向井の前で後ろめたいことを隠すような、怖がる素振りを見せるのを初めて目の当たりにし、ひどく怯えたのを忘れられずに覚えている。
誠大は今またそんな感情を僕に植え付けた。けれど僕には彼が何故こんなにも挙動不審になったりするのか分からず、またぞんざいな扱いに少しイラついていた。
「アイツはほんとに怖い男だよ、お前もせいぜい気をつけるんだな」
少年はどしりと地面を揺らすような音を立てて足を下ろすと誠大の顔に近づいてそういった。
「いつの話、それ」
誠大が急に顔を上げると語尾を強めて言った。
「最近」
既に僕たちの横を通り過ぎようとしていた少年はこちらを見ることもなくいった。
少年の足を引き摺る規則的な音が次第に膨張して耳の中をぐるぐる回りだす。
僕は指先の冷たくなった手を黙ったままの誠大に伸ばして強く掴み、何かいってやろうと無理やりこちらを向かせた。
だが彼の瞳の上に乗っていた色が余りにも暗く淋しいもので、僕は彼の手や肩を掴んだまま終には動けなくなってしまった。
だが突然、静寂を破るように携帯電話の着信音が鳴り響いた。
周りのコンクリートに跳ね返って反響するそれは、まるでホラー映画のように気味悪い。
誠大は気だるそうにブレザーのポケットから携帯を取り出し、窓を確認すると、あ、と小さく声を漏らした。
そして突然おまけのような言い草で謝ると、彼の家とは逆の方向に駆けだして行ってしまった。
残された僕はただ、彼の姿がだんだん小さくなっていくのを黙って見ているしかなかった。
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