第五章 接触 五
神木は何もいわずに、また胸の前で腕を組んで目を瞑るふりをして、オーディオ機器に映りこんだ村上の運転中の顔を覗き見た。
馬鹿だ、こいつは。神木は思う。
お前に何かあってそれが分からないはずがないだろう。心配なんだよ、俺は。
だが神木は何もいわずに今度は本当に闇を作ると静かに話し始めた。
「あいつらはさぁ、同じ瞳をしてるんだよ」
村上は始め、神木が何を言っているのか分からず、相槌もせずその続きを待ったが一向に話される気配はなかった。
そして何度目かの停止で冷たい風がパッタリとその存在を隠すと同時に、神木がようやくねっとりとした声で車内を一杯にさせる。
「今は少年犯罪も増えて俺ら大人たちは自分たちの責任を誤魔化すようにガキは何考えてるか分からない、なんて零し回ってるけどよ。あいつらもヌクヌクと温室で育ちながら言葉を知らずに、自分を表現出来ない苛立ちなんかを結局処理出来ずに、それがさも当たり前でしょう? 可哀想でしょう? てな具合で皆同じ瞳をしてこっちを見てくる」
村上は咄嗟に先程廊下で会った漆黒の瞳の少年を含む、三人の「何を考えているのか分からなかった」少年のことを思い浮かべた。
それに何かが焦げついたみたいに黒い影が霞んでいるように感じたが、結局それが何か分からずに、またゆっくりとアクセルに置いた足に力を籠める。
ブーツの先が悴んで酷く痛んだ。開けられた窓から入る風のせいで左の耳だけが冷やされて、自分のものでない感覚と一方で熱風に沸いたような頭の重さに翻弄されつつ、神木の言葉をもう一度反芻しては署に着いたらブーツを脱ごう、と考えている。
「何が言いたいんだろうなあ、あいつらは。いつも何をあんなに物欲しそうな瞳で大人を睨んでんだ」
神木はそこまでいい終えると座席を後ろまで目一杯引いて足を伸ばし、両手を頭の後ろに組んで辛うじて凝り固まった身体ごと伸ばした。
村上は神木にどこか吹っ切れた後のような清々しさを感じ、何度か隣に目を遣る。
そんな神木を見ていると、何か自分の悩みさえ受け止めて貰えたような無条件の安心感に満たされ、霧が蔓延して何も見えなくなった自分の視界に出口を見つけたような気にさえなった。
「何だ、神木さん。もう十分抜け出しちゃってんじゃないですか。見えてなかったんですか? 出口」
村上は口から滑るように出てくる言葉にそのまま任せ、優しく語り掛けるように神木に伝えた。
神木は数分微動だにせずに口を半開きにしたまま何やら考えつつ瞬きを繰り返していたが、やがて見慣れた道に車が入り込むと、相槌にも似たため息をゆっくりと吐いた。
「そうか。お前に俺はそう、見えるのか」
伸びたせいではだけたコートの前を直して神木は続ける。
「……俺はあの事件を許せていない、それは一生変わらないことだろう。被害者にとって許すことと受け入れることは似て非なるものだ」
村上が頷く。
やはり神木の鼻腔をバニラの香りが擽る。
それをもう一度深く吸い込むように呼吸をすると続けた。
「だから俺にはまだ見えない。何も許せてはいなんだ、受け入れられたかどうかさえ定かじゃない。俺の答えが、俺にはまだ見えない。だけど俺は、きっとそのどちらもいらねえんだ。たぶん、笑い飛ばして欲しかったんだ、誰かに」
村上は冷めたコーヒーを口に含むと乾いた喉が潤され、熱くなっていた体内に温い液体が入っていくのを心地良いと感じながら神木のその続きを待つ。
「お前の言った、何が欲しいんだ、って言葉をさっきからずっと考えていた。俺は果たして何を追ってきたのだろうか、とも考えた。今までそう考えることは結局失ったものはもう蘇らない、ということに気がつくだけだった。そしてそのうちそれは何かに牙を剥いて傷つけようと暴れ出す」
神木は今まで妻の死や加害者の少年のことを考え、答えを出そうとする度に自分を含む全ての世界を憎んだことを思い出した。
そして気付かなかったのだ、と思った。許そうとすることがいつのまにか自己を補完し、痛みから自らを守ろうと乗り越えるべき問題を摺りかえていたことに気付けなかったのだ。
「だけど同じ所を回って、もう一度振り出しに戻ってきても結局、楽しい時には楽しいし、辛い時には辛い。なに馬鹿なことを言ってるんだ、このオヤジは、と思うか? でもどんな時でも腹は減るし、眠くなるんだ。それはさ、俺はもう既に自分の人生を歩き始めていたってことだろう」
「すいません、全然いってる意味が分かりません」
「分からなくていいんだよ。分かってたまるか」
「何ですか、それ」
村上は呆れたように笑う。
神木はそれをすぐ側で感じながら理恵の甲高い笑い声を思い出していた。
「許せなかったんだ、自分だけが自分の人生を歩むことを。だけどそれがきっと一番俺の望んでいたことで、一番出口に近くて難解な試練だったんだ」
いや、俺には結局自分を許すことしか残されていなかったんだ、とも思う。
全ての終焉は自分が前進することにあるのだ、きっと。
ならば歩かなければならない。
神木はもう一度胸の内で復唱する。
ならば進まなければならない。
「だから俺はきっとお前に笑い飛ばして欲しかったんだよ、まだガキであるお前に。そうして気付いた」
神木が付け加えるように「お前のお蔭でな」といったのが聞こえたような気がしたが、村上は敢えて何も聞こえなかったふりをして少し音を立てて缶を置くと、今まで何となく隠し気味にしていたえくぼが頬の上で大きな穴を作って踊っているのを感じて、また小さく微笑した。
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