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Flow
作:森カラ



第五章 接触 四


 燃料が切れるとその軋みを訴えるように騒ぎ出すこの不器用な男を村上は既に心得ていた。神木は黙って缶コーヒーを受け取ると、まだ立ったままのコートの襟に首を窄めて静かに口を付けた。

「まあ、そうでしょうけど実際難しいですよ、生徒さんに直接話を聞くのは。今日だってちょっと接触しただけであれだけ言われるんですから」
「そういやあ、お前随分あの教頭に目くじら立ててたじゃねえか」

 両手で缶コーヒーを包み込むように持ち、心持ち身体を小さくさせている神木を見て村上は「ほんとにらしくない」と苛立ちを覚えながら、そうですかとだけ相槌を打った。

「ああそうだよ、あんな激高した村上を見たのは久しぶりだったなあ。前にお前のそんなキレぶりを見たのは何の事件の時だったっけ?」
「いいじゃないですか、そんなこと。それより早く署長に報告しないと。車出しますよ」

 村上の慌て様など気にも留めない様子で神木はコーヒーを一気に飲み干すと、まだ「何だったっけなあ」などといいながら狭い天井を見上げていたが、いつにも増して乱暴なアクセルが踏まれるとさすがに黙って村上を見て息を呑んだ。

「神木さんこそ、廊下のあれ、何ですか。驚きましたよ、神木さんのあんな顔初めて見ましたからね。あの中に誰か知ってる子でもいたんですか?」

 やっと落ち着いてきたスピードに胸を撫で下ろし、ようやくシートベルトを締め終えると神木は苦笑した。
思わず、といった苦笑に自分でも驚きを覚えたが、村上の予想とは違ったのだろうか、落ち着きなくチラチラと自分の方を見ながら運転をする村上の間抜け面を見て神木は腹の力を抜いた。

洗い浚い話してしまった後だ、もうどうにでもなれ。
神木は諦めと蘇ってくる羞恥心から自棄になって口を開いた。

「あの暗い瞳をしたガキがいただろう」村上の返答を待たずに続ける。「あいつ、似てたんだよなぁ。俺のカミサン()ったガキにさぁ。背格好から話し方、目に生気が感じられないとこまでそっくり。そんでちょっと思い出してなあ」

 神木はそこまでいうと、何となく視界の端に映る村上に影が落ちたような気がして語尾を明るめに切り、「あー、着いたら起こしてくれ」といいながらシートに深く沈みこむと腕を組んで目を瞑った。

「せっかく忘れてたのに、どうしてまた思い出させるんですか」
「お前が聞いてきたことに答えただけだろうがよ、って、信号赤だろう! しっかりブレーキ踏んどけよ!」

 本気で気分を害してしまったのか、それともいつもの冗談の範疇でのことなのか、いまいち判断が付かずに村上の表情を確認しようと薄目を開いたと同時に、信号に睨みを利かせたまましっかりとハンドルを両手で握っているにも関わらず、フラフラと前進していく車に気付いていない村上の顔を見て、神木は全身が粟立つのを感じた。

歩行者よりも遅いぐらいの速度ではあったが、立体交差点の三分の一程度まで、紐で引っ張られる散歩中の犬のように無邪気に進む車に背後と前方からクラクションがこだましている。
神木は鐘の中に頭を突っ込んだような感覚に舌打ちすると、右手でハンドルを握る村上の手を握ってそのまま操作し、すぐさまハンドブレーキを引いて何度か村上の名を激しく呼んだ。

三度目の途中に車体の尻が反動で上がるほどオーバーにブレーキを踏んだ村上は、か細いが芯はある声で一言謝った。
そして見切り発車で出てきた右のセダンにつられるように弱弱しくアクセルを踏むと、五百メートル程進んで車を脇に止めた。

突然「馬鹿野郎!」という怒鳴り声と共に神木の腕が自分の首に入って軽く締められる痛みを感じると両手を挙げて思わず舌を出し、不謹慎だと思ったがどこか自分の中がスッキリとしたのに村上はそっと胸を撫で下ろした。

だが一方で、先程自分の感じたどうしようもなく恐ろしい既視感は何だったのだろう、と思う。
よく分からないものに一気に引き摺られるように(うづ)もれていくのに酷く恐怖を覚える。

小さく頭を振り、唇を強く結ぶと乾燥した唇の皮が勢いよく裂け、慎重に舐めると少し血の味がして村上はようやく我に返った。
その脇で神木は仕方ない、といった調子で頭をシートに預けると、太くて長いため息を思い切り吐いて「脅かすなよ」と呟いた。

「これ、パトカーじゃなくって良かったっすね」

 まだ少し強張った顔付きで笑う村上を一瞥すると、神木の中にバケツをひっくり返したように罪悪感が音を立てて雪崩れ込み、もう一度「バカヤロウ」と口にした。

「反省してますよ、ちゃんと反省文も書きます。危ない目に遭わせて申し訳ありませんでした」
村上は丁寧に頭を下げるとそのままの姿勢で、でも、と続けた。
「別に神木さんのいったことが原因じゃないですよ。ちょっと思うところがあって……自分の問題なんでちゃんと自分で解決しますから許して下さいね」

 村上はそういうと、今度はゆっくりと車を発進させた。タクシー運転手のするような負担の掛からない運転に、神木は「出来るんなら初めからそうしろよ」と胸の内で毒づいてみたが、村上の見たことのないほどの動揺ぶりに驚きを隠せずにいるのが本音だった。

村上の言っていることは本当だろう、と神木は思う。
こいつは俺の言ったことに動揺したわけじゃない、あの教頭と衝突した後から何か様子がおかしい。

神木は篭もった空気に頭重感を覚えてうっすらとウィンドウを開けた。
針が降っているのかと思わせるほど鋭く尖った空気が神木の衰えた皮膚にスピードを持って直撃してくる。

すぐに頭皮にも冷気を感じて何とも微妙な気分に陥った神木は、また深く座り込み瞼を落とした。
それを見ていたかのように村上が重い声を出す。

「だかららしくないって言ってんですよ。神木さんだってあの教頭に苛々したんでしょ? 神木さんならいきなり取っ組み合いの喧嘩おっぱじめるくらいするじゃないですか、特によく分からない理由でも。そうなったって私引きませんよ。擁護するかって言ったら絶対しませんけどね」

 バニラの匂いがする、と脳に直接リンクするように香ばしい香りを神木は感じた。
村上が喋る度に空気が掻き混ぜられて車内の芳香剤が漂うのだろう。
甘ったるいイレギュラーな香りの中でウトウトしていた神木は、村上の普段通りの抑揚のない毒舌に似た呟きを聞いて少し噴出した。

「お前、俺のことどんな目で見てるんだよ。失礼な奴だな」
「何とでも言って下さい。ですが思ったことを言ったまでです」

 神木はとうとう堪えきれずに噴出し、思わず飛ばしてしまった唾液の飛沫を袖口で拭った。

「ああ、そうだよ、村上。お前はそれでいいんだよ、そう在ってくれて安心した。
 それよりどうした、村上。何があった? 何か引っ掛かることがあるなら言ってみろ。俺だけがお前に秘密を打ち明けたなんて恥ずかしいだろう?」

 神木は正直、村上が自分の話を聞き少なからず悩み、同情か叱咤かは分からないが、それに対して何らかの感情を持ったことを嫌っていた。
今更ン十年前に欲しかった答えが欲しいとは思わない、誰かに軽く笑い飛ばして欲しかった、というオチか。

そんな事実に神木はようやく気付いた、いや、受け入れたというべきかも知れない。
神木は村上に事件の話をした時から感じていた、鉛を飲み込んだように重く気持ちの悪い感覚から一気に古い皮膚が綺麗に剥がされていったような晴れた気分に、己の弱さを認めざるを得なかった。

「恥ずかしいとかいわないで下さいよ。気持ち悪いなあ」

 村上はそれを聞いて鼻の下を人差し指の甲で擦るように何度か動かしながら、照れるように笑った。
気持ち悪いとは何だ、と苦虫を潰したような神木の顔にまたも転がるように笑いながら村上はいった。

「神木さんは格好付けすぎなんですよ。あれです、最近女子高生の使う“キモイ”というやつですよ」

 思わず調子に乗る村上をそろそろ本気で止めようかと体勢を整えたと同時に村上が先に口を開いた。

「心配してくれてありがとうございます。神木さんの心配貰えるなんて得しちゃったな。でも本当に大丈夫です。いいたくなったら無理やりにでも付き合って貰いますよ、今日の神木さんのようにね」

 村上は少女のするように悪戯っぽく笑うと少しだけスピードを上げた。








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