第五章 接触 三
その時、突然校長室の扉がレールを軋ませる音を響かせながら開かれ、中から五十代後半の男性が顔を覗かせた。
「おお! お待ちしてましたよ、村上さん! 遅かったですねえ、さ、こちらにどうぞ」
いやに明るい声が廊下に響いて、いかにも親密そうに両手を広げてその男は出てきた。
そして村上の肩に手を回すと、背中を押すように校長室に招きいれようとしている。
神木は一瞬目が合ったその男に小さく頭を下げると、少年たちの横を通り過ぎる時に漆黒の瞳をした少年の腕を手の甲で軽く叩いた。
「いやあ、助かりました。機転を利かせていただいたこと感謝致します」
「いや、別に警察のためにやったんじゃないよ。警察が来たなんてこと、下手に生徒に流れたら私たちが困るんだよ。その辺、警察さんはどう思ってるの? こっちは対応が大変なんだから気を利かせてくださいよ! あんな、うちの生徒を尋問するようなことしてくれちゃって! これだからお役所は」
神木の言葉も虚しく、それを遮るように先程廊下まで出てきた教頭と思われる男が柔和そうだった顔を崩し、歪ませながら捲くし立てた。
神木も村上も返す言葉を持たず、ただ頭を下げて謝罪していると、椅子に座ったままでいた男が静かにそれを静止し、腰を上げた。
校長の藤巻と申します、と名乗ったその男は、少しきついが深めの森林系のオーデコロンを撒き散らしながら応接椅子に掛けるよう促すと、全く日の光の入らない暗く湿った部屋の中をゆっくりとした足取りで歩き、神木たちの前に座った。
全てを断ち切るような皮のソファの音に緊張した神木たちは、もう一度頭を下げると藤巻と名乗った校長の前に腰を下ろした。
それを見届けると、教頭は床を踏み鳴らしながら校長室の脇に作りつけられた給湯室に入っていき、乱暴に茶碗を引っ張り出す音を撒き散らしていた。
「早速ですが今朝、こちらに勤められている斉藤義彦さんが北公園内で他殺体で見つかった件はもうご存知ですか」
簡単な自己紹介を終えた後に突然切り出された神木の言葉に、校長は瞼の肉に隠れた目を目一杯見開くと手を膝の上で組み、一呼吸してから静かに首を横に振った。
先程まで茶碗やら何やらが激しくぶつかる音を響かせていた教頭も、まるでゼンマイが外された玩具のようにその動きを止め、息を潜めている気配を神木は感じていた。
「警察の方がやって来るってことは、斉藤先生は何か事件に巻き込まれたのでしょうか」
校長はもともとの性格からなのか、顔は驚きの表情で満たされていたが特に感情を荒立てることもなく、一音一音その意味を確かめるように紡ぐ。
校長が言い終わるのと同時に一瞬出来た沈黙を逃すまいと、教頭が慣れない手付きで人数分のお茶を盆の上に乗せて運んできた。
被害者の状況説明を始めようとしていた村上はタイミングを失い、不本意な様子で教頭の震える手の上に乗せられた盆の上のお茶を配る手伝いをしようと腰を屈める。
だがまだ爆発しそこなった不発弾を腹に溜めこんだような顔で鼻から勢いよく息を吐き出した教頭に、村上は思わず身体を引いて、まるで無理やりスイッチが切られたかのようにそのまま座っていた椅子に落ちた。
「何ですか、我々を疑っていると。ねえ、そういう訳ですか? あなた達、突然来て失礼なんじゃないの?! ねえ!」
ようやくお茶を配り終えた教頭が村上の様子に動じることもなく、空いた盆を乱雑に自分の脇に置くと目を真っ赤にさせながら突拍子もないことを口走り始めた。
神木は今にも飛び掛っていきそうな村上を右手で自然に牽制すると、教頭の癖なのだろう、震える手で激しく爪を爪で擦り続ける様と静かに項垂れていく校長の様に困ったなという風に頭を振り、首を掻くと「いやあ」と大きくため息を吐いた。
「違います、違います。我々はそういうつもりでやって来たのではありません。今日、こちらに伺ったのはですね、斉藤義彦さんの最近の様子を教えて頂きたかっただけなんですよ」
「まあ、申し訳ありませんが今朝方、御二人がどうされていたのかは後々聞かせて頂くことにはなると思いますが、ご理解頂けると幸いです」
今度はタイミングを逃さないように、村上は神木が言い終わるのと同時に続けた。
村上の重く、掠れた声が湿った部屋と同調してそこら中に張り付き、壁をドロドロと流れていくような気がして、窓を開けたい衝動に駆られるのを神木は何とか耐える。
そしてまだ脇で、語尾と共にその眼光を教頭に向けた村上を止めると、憤慨した様子で冷めた茶を飲み干す教頭に頭を下げた。
「俗に言う、アリバイとかいうやつですか。はあ、本当にそんなことするんですなぁ」
まだ震えた声で教頭が何とか体裁を崩さぬように、何でもない様子で言う。
だがそれさえ相手に上手く思い込ませることが出来ない下手な演技に村上も少し躊躇したのか、出過ぎた真似を反省するように小さく俯いた。
「すみません、これも規則というもので。全く、お役所仕事にお付き合い頂くことになってしまい申し訳ありません」
校長は神木のどこか言い慣れた感のある台詞にいやいやと右手を振りながら身体を起こした。
衣擦れの音と体の重みが安物の皮のソファに擦れる音が、何故だかとても金属的な耳障りなものに聞こえて村上は分からないように顔を歪ませた。
「斉藤義彦さんは今朝四時半過ぎに北公園内で他殺体として発見されました。死因は胸をナイフのような鋭利なもので刺されたことによる失血死、と断定されています。事件として捜査中なんですが、争った形跡が少ないことから顔見知りだったという線が濃いんですな。なので、まずこちらで斉藤先生の近辺のことを教えて頂きたいわけです」
「どういったことを答えるのがいいですかな」
「いや、それはもう、いつもとは違う不審に感じられたことがあればそういったことや、そうでなくとも普段受けていた印象や交友関係など何でも結構です」
「ご自分の中で判断なさらず、これはおかしくない、と思われることでも何でも仰ってくださって結構ですので」
村上は先程とは打って変わって出来るだけ落ち着き、反省を垣間見せる調子でそう続けた。教頭も女が屈服したことに満足したのか、小さく鼻を鳴らすと腕を組みなおして考える素振りを見せた。
「楠木君ね、ちょっと今職員室に残ってる先生だけでいいから呼んできてくれる」
楠木と呼ばれた教頭は突然校長に肩を叩かれ、一瞬顔の筋肉を強張らせたが、すぐに立ち上がると校長室を出て行った。
村上は楠木が出て行くのを確認すると一度だけ背凭れに身体を預けそうになったが、すぐに戻した。
「ははは、すみませんな。彼はああ見えて熱い男なのですよ。若いお嬢さんには少々刺激が強すぎましたかな」
瞼の奥で小さく動いた目玉で村上を一瞥した校長は、笑うと案外太い色気のある声でそう言い、音を立てながら茶を啜った。
神木もそれに続いて茶を啜ると、その脇で村上が顔を上気させて居心地の悪そうな様子で身を捩るのを感じて、表情には出さずに少し笑った。
数分もしないうちに扉を軽快に叩く音が部屋に充満して、校長が返事をすると神木が思っていたよりも少ない教員たちが現れた。
「二年の先生たちは来年の履修のためのガイダンスを行ってるそうで、後30分くらいで終わるようなんですが、斉藤先生と同じ一年生を受け持ってる先生や非常勤の先生方は部活に出ているか、既に帰られてしまっているようでして」
楠木がそう校長の耳元で話をするのを聞きながら、神木は視界の端で教員を一人一人捉えていった。
ざっと見て八、九人だろうか。
校長が連れてこられた教員たちに事の顛末を話す間に、神木たちも立ち上がって警察手帳を提示し会釈をして見せた。
どよめきと緊張が廊下にまで漏れ出ないように、楠木はまだ入りきっていない教員たちを押し込めるように校長室内に入れるとしっかりと錠を下ろした。
その雰囲気に既に泣きそうになっている若い女性教員もいる。
どちらにせよ大した話は聞けないだろう、と思いながら神木は手帳を開いて大雑把に事件についての話を始めた。
結局ある程度の話を聞き終わった頃には既に午後三時を回っていた。
外は数時間前までには考えられなかった程天候が回復しており、神木と村上の瞼を眩しいだけであまり熱を感じさせない太陽光線が直撃した。
「あまり事件に関連するような話は聞けませんでしたね」
車に戻る途中、神木の脇に並んだ村上が皮ジャンパーのポケットに深く手を突っ込みながら言った。
神木はくたびれたコートの襟端を立てて首を窄めると「そんなのは予測内だ」と呟いた。
声を出すことさえ寒さが身体に染みるといったように渋い顔をしながら歩みを速める。
村上はそれはそうですけど、と何かブツブツと口籠りながら見えてきた車にキーを向け鍵を開けてエンジンを操作した。
数秒遅れて、車が意思を持って嘶いたかのように突然胴体を震わすと、神木は速めていた歩みを止めて二十メートル程も離れてしまった背後の村上を一度絞るように睨み、小さく舌打ちしてまた歩き出した。
神木は最近の遠くからエンジンを操作出来るものや、鍵を実際に回さずにワンプッシュで開けられるという機能があまり好きではないのだ。
驚きから腰が痛むらしい。村上は一瞬好きな女の子をつい苛めることしか出来ない男の子のような顔をしたが、すぐに神妙な表情に戻って自販機の方へ走り出した。
「生徒に話が聞ければなあ。教師の噂なんてガキらの専売特許だろう。何を守ってんだかも分かってないバカな教師たちに話し聞くより、生徒に話聞いたほうが何倍も仕事は進むぜ」
車に乗り込むと神木から乱暴な第一声が漏れた。
よほど寒かったのか、と思い村上は再び外で買ってきた缶コーヒーを神木に手渡すと、車が暖まるまで少し待つことにした。
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