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  Flow 作者:森カラ
第五章 接触 二
 一月十日、火曜日。午後一時、北上高校前。
 グラウンドには部活をしている生徒たちが疎らにいるだけで、ほとんど雑然としていた。

今日はこの辺じゃどこの学校も始業式ということで、生徒は皆半ドンで帰宅させられる。
今にも降り出してきそうな雲が、隙間なく植えられた木々の緑を反射して青緑色に染まっているような重たい世界を作っている。
厚い雲に吸い込まれていく、四方八方から飛んでくる子供の声の方に神木は一瞬だけ目をやった。

「大昔の思い出でも思い出してるんですか? 背中が疲れてますよ」

 村上は寒さからか、肩を竦めて鼻水を啜りながら神木の後頭部に向ってダルそうにいった。
神木は僅かに後ろを振り向くと、いつもより一回りも小さく見える村上の震える身体を見て嘲笑する。
村上は決して大柄とは言えない神木の横に小走りで追いつくと、また小さくすんと洟を啜った。

「お前はたぶん今とさほど変わらないガサツな女子高生だっただろう? 図星か」

 神木との距離との間に生まれていた暖かさに全く別の考え事をしていた村上は焦ったように「失礼ですよ」とだけ答えて、詰まった洟をまた苦しそうに鳴らすと口で大きく息を吐いた。神木は思っていた反応と微妙に違った村上を目だけを動かして一瞥すると、落ち着きなく焦点を合わせようと揺れる目玉を捉えた。

喉まで出掛かった探究心を何とか飲み込み、神木は彼女に聞こえないように小さく舌打ちし歩みを早めた。
村上の足音が弱まり、少し差がついたのを感じながら、久しぶりに自分が他人を知りたがっているという現実を持て余しているのを神木はまだ対岸で感じていた。

 一般入り口が見えてくると村上が歩みを速めて窺うように身を屈めて入っていき、すぐ側にある事務室に声を掛けた。
彼女の変わらない張りのあるドスリとした声は冷え切って固まった壁や空気を震わせ、神木に緊張感を芽生えさせた。

神木はこうした、仕事に慣れてもいつまでも萎むことのない彼女の作り出す針のような尖った空気が気に入っていた。

 神木は村上を背にしながら事務室の向いにある職員と来賓用の靴箱の前で、履き潰されて幾筋もの皴の出来た黒い革靴を脱いだ。
その後ろでは受付で何やらしかめ面で事務作業をしていた中年の女性が、恐ろしいほど真っ直ぐで黒い髪の毛を掻きあげながら村上を睨むように一瞥すると、体重をかけた歩き方で二人の方に向ってきている。

村上は動じることなくスーツの胸ポケットに手を滑り込ませると警察手帳を掲げて、視線は逸らさぬまま会釈して見せた。
受付の女性はまだ揺れている黒髪を軽く耳にかけると口を半開きにしたままその延長線上で会釈を返し、後ろを振り返ってそこの責任者と思われる男を手招きした。

村上は手帳を握ったまま、その女性の切り揃えられた襟足を興味なさそうに見つめている。
奥から少し慌てた様子で腰を低くした、まだ若い男がネクタイを締め直しつつ小走りでこちらに寄ってきた。
村上はもう一度小さく頭を下げると警察手帳を男の前に提示し、校長と話をさせて欲しいと掛け合った。

まだ四十代に届くか届かないかほどのその男は、額に浮き出た脂汗を綺麗にアイロンのかけられた地味なハンカチで押し付けるように拭いながら、先程の受付の女性に親指を耳に、小指を口元にあてた電話を示すジェスチャーをし、小動物のような動きで村上の方に向き直ると愛想笑いをしながら首元を掻いた。
村上は丁寧にすみませんと一言謝ると、温度を持たない瞳でその一連の様子をただ眺めていた。

 一方、神木はその間、ずっと奥まで続く長い廊下を見ていた。
そして妻の命を「高校生」に奪われた時、確かに自分が全ての高校生を憎み、高校生という生き物から連想される全てに裏切られたような気持ちになり、だがそれが自分が正面から「一人の人間」と向き合っていなかったことが生んだ悪の結果だったということを思い出した。

時折見えた犯人の少年の狡猾さや幼さはどうしても神木に「一人の人間」としての扱いを忘れさせたのだ。
それは神木に自分のこれから戦うべき相手を見失わせた、とも言い換えられた。

たった一瞬でさえ、失ったものの大きさをその加害者に投げつけて逃げ隠れ、同情を得ようとすることも許されないのか、と思った日々が高校に浮遊する独特でノスタルジックな気配に拍車をかけられ、まるではち切れそうな袋に穴が開けられたかのように勢いよく流れ出してくる。

神木は手をポケットに突っ込んで煙草を探し当てたが、背中の方でうっすら聞こえる男の声に舌打ちし、もう片方のポケットから無機質なタブレットケースを取り出した。
そしてその中に入っていた白い錠剤を乱暴に一粒そのまま口に放り込むと、口を閉じて鼻から大きく息を吸い込み吐き出した。

いつもは耳障りな錠剤がケースに当たる音が、冷たく硬い空気を張り詰めたこの風景に非常によく似合うな、と神木はぼんやりと考えた。
舌にねっとりと苦い粉の塊が貼りつくような気がして、軽く咳払いをする。

歯の隙間に入り込んで溶け残った薬の粒を舌で舐め取る。
その内ギラギラとした原色で染められた記憶が角を無くし、形を保っていられなくなるように音もなく崩れて灰色になっていくのを、神木は廊下に立ち尽くしたまま静かに追っていた。

「神木さん、確認取れました。校長室は職員室の隣、二階にあるそうです。そこの突き当たりにある階段で行けます」

 村上はコートを腕から抜きながら廊下の先を指差すと、先程までお互いの間にあった微妙な空気など最初からなかったかのように神木を正面から見据えて一人歩き出した。
神木はゆっくりその方向を見やると、事務室からポカンとした面持ちで見ていた若い男に頭の後ろを撫でながら会釈をすると村上の後を追った。

 二階はまだ一階よりも明るく、人の作ったぼんやりとした暖かさも残っていた。
神木は冷えて軋みだした腰を何度か摩りながら階段を昇り終えると、両手を腰にあてて反り返った。

さすがに静まりかえった雰囲気に躊躇したのか、村上が小声で「ありましたよ」と囁く。
神木は体勢を直すのと同時に、絞り出すような声で相槌を打つと右手を軽く上げた。

 来賓用のスリッパが、せっかく作り出された緊張感を嘲笑うかのように間抜けな音を発している。
だが何時しかそれに不規則な摩擦音が加わり、徐々に増え、キュッキュッと廊下を踏みしめる音が近づいてくるのを察知すると、村上も神木も反射的に腹を固くし、どちらがいうでもなく歩みを止めた。

 二人の視線の先に現れたのは三人の男子生徒だった。
村上は思い出したように顔を上げると自分が今職員室の前にいることを確認し、納得がいったような顔で彼らの為に道を空けた。

だが神木は不自然な様子で、廊下のど真ん中に根を生やしたかのように微動だにしない。
村上は狼狽しながら神木の元に駆け寄り、肘を突いて袖を引っ張りながら端に寄るよう促した。

だが村上はその三人組の少年の一人がこちらに気付き、不信感を顕わにした顔付きでチラチラと見るのに目を遣ると下手な愛想笑いだったが、出来るだけ暖かみを演出するように会釈して見せた。

「職員室に用事か何かですか? 何なら人呼びますけど」

 少年の一人が訝しそうな表情で制服のズボンのポケットに手を突っ込んだまま聞いてきた。その隣にいる少年は村上を通り越して、まだ廊下の真ん中で立ち往生している神木を全く感情の読み取れない目をして見ている。

村上はその少年の放つ深い、漆黒の瞳に一瞬躊躇したが出来るだけ自然に見えるよう、全身の神経を使って丁寧に視線を外した。
二拍ほど遅れてもう一人の少年が目の前にいる二人の少年に追いついたのを確認すると、村上は普段よりワントーン高い声で笑った。

「わざわざありがとう。でも大丈夫よ」

 そういって少年たちの顔を見回そうとするが、先程の漆黒の瞳の少年の眼差しの対象がいつの間にか自分自身に向けられていることに気付いて慌てて付け加えた。

「ああ、怪しく見えるのは分かるけど怪しい者ではありません。ちゃんと下の事務室に通して貰っているから心配しなくていいわよ」

「いや、別に心配はしてませんけど。もしお姉さんたちが不審者だったら、このご時世にうちの学校の警備甘すぎだなぁ、と思ったんで」

 初めに声を掛けてきた少年の少し緩んだ表情に村上も穏やかな笑顔を作りながら適当に相槌を打つも、まだ高鳴っている心臓の鼓動に少し苛立ち、後れてやってきた少年がどこかまごついた様子でその中に加わろうとしているのを視界の端で捉えた。

「あなたたちこそ職員室に用事だったのでしょう? 邪魔しちゃってごめんなさいね」

 もうこの少年たちに関わらない方がいい、事件はまだ被害者の名前まで公になっていないはずだ。
村上はそう思考を巡らせると、早々に踵を返して、まだ立ち尽くしたままの神木の腕を目一杯引っ張った。

「警察の人でしょ? 今朝起きた事件のことで来たの?」

 神木の重たい身体をようやく廊下の端に避けたと同時に村上の背中に感情の振れが感じられない抑揚のない声がぶつかる。
少年の声が必要以上に硬く、大きく聞こえ、村上はつい動作を止めてしまった。

だがそれをフォローするように耳元で衣擦れの音が響いて、静脈のくっきりと浮き出た見慣れた浅黒い手が村上の肩に置かれた。
村上が声を出すよりも先に低い声で喉を鳴らすように笑うと、神木は少年の前に出た。

「面白いことを言うなぁ、少年。でも違うよ」

 神木はオールバックにしていた髪の毛が崩れ、額に落ちてきたのを右手で撫で付けるようにかき上げるとニヤリと口元を歪ませた。
村上は神木の肩越しに一つも動じることなく、会った時と寸分も違わない表情で神木を見据える漆黒の瞳の少年と、いやに強張った顔で狼狽する、初めは威勢の良かった少年を交互に見た。

「生きてきて警察の人に間違われたのは初めてだよ、なあ村上君」

 神木はわざとらしく口元を拳で隠すようにして笑うと首だけを動かして村上を見遣った。
村上は恐ろしいほどの空気の層の圧力を感じ、そこに神木という刑事の放つ重さを思い出し、ハッキリとした声で返事し頷いた。

「おかしいなあ。僕は人の職業当てるの得意なんですよ、ねえ誠大」

 誠大と呼ばれた少年は動揺を隠しきれない様子で口籠りながら同意を示した。
村上は誠大と呼ばれた少年から初めに感じた、自信からくるような余裕を見つけることが困難になっているのを見逃さなかった。

「私は校長先生の友達なんですよ。で、こっちの女性はここの卒業生。久々に遊びに来たんです。惜しかったね」

「そ、そうだったんですか! ごめんなさい、つい俺たち変に疑っちゃって! 校長室はそこですよ。じゃ、あ、俺たちこれで失礼します! ほら、龍」

 誠大と呼ばれた少年が隣にいた漆黒の瞳の少年の肩に無理やり腕を回すと、神木の出した雰囲気に怯えたのか、少し震えた声でそういい、今度は自分たちが道を譲ろうと端に引っ張り出した。
そしてその後ろにいた、先程から二人の顔色ばかり窺いオドオドしている少年がやはり何をしていいか分からない、といった様子でただその後ろをついていくのを村上は目で追った。


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