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  Flow 作者:森カラ

6月30日:斉藤先生が殺された日をうっかり間違えていたみたいだったので修正しました。
第五章 接触 一
 車に乗り込むと車内はまだ少し暖かく、冷やされていた皮膚が解きほぐされていくのと同時に神木の高鳴っていた気分も徐々に落ち着いていった。
また、先程買った缶コーヒーの匂いも鼻腔に広がり、日常を取り戻すのに一役買っていた。

 神木が自分の妻の事件のことを第三者に話すのは初めてだった。
誰かに話せばその分、自分に返ってくるものが大きすぎるという気がしていた。

だからもう既に過去のことと意識の闇に無理やり放り込んだままにしていた。
だがそれはサザンカの香りによってあっけなく覆された。

 俺は何が欲しいのだろう、俺は何を求めているんだろう、と神木は思う。
 先程の村上とのやり取りや、彼女から発される言葉一つ一つを神木はゆっくりと思い返していた。

「職場」という居場所で、村上との平凡で退屈な喧騒を繰り返す毎に自分はもうあの「事件」を乗り越えられたのだと錯覚していた。
変わりない日常が社会的自分を作り上げ、やはり自分は変わったのだと思わせたのだ。

 だが、本当は違う。
 俺はあの日、理恵の面影など一つも残っていないただのガラクタの山のような遺体を前に、ゆっくりと現実を無くしていった自分と何一つ変わっていやしない。
赤い世界の中で、ただあの時と同じ、自分を置いて流れる景色を対岸から眺めていただけだ。

 何故話してしまったりしたんだろう、と今日何度目かの問いを神木はまた自分自身に浴びせた。
話せば話すほど、自分が一体どうしたいと思っているのかますます分からなくなっていく。
神木の指からは、そんな苛立ちから無意識に弄ったせいで皮が捲れて血の出たささくれが痛々しそうに主張を続けている。

「奥さんもきっと出口で待ってますよ。いい加減楽になってもいい頃ですよ」

 村上はそう言いながらダッシュボードの中を乱暴に探ると、皺くちゃになったいつのものとも知れぬ絆創膏を出してきて掌で癖を伸ばした。
そして徐にシートを剥がすと、神木のささくれの剥けた指にそれを貼ろうと触れた。

その瞬間、神木の指が不器用に揺れて身体ごと村上から遠ざかった。
村上は咄嗟の出来事に暫く胸の前で絆創膏を広げたままぽかんとしていたが、すぐに気をとりなすと静かに絆創膏を丸めて握り締めた。

「何してほしいんですか、私に。どうして、話してくれたんですか」

 村上は呟くようにそう言うとサイドブレーキを落とし、ギアをドライブに入れた。
神木は身体を伝わる心地よい車の振動に身を任せながら、ただ何故こいつに話をしたのだろうか、ということだけを考えていた。

 気まずい雰囲気の中、コーヒーの味に舌が慣れると神木は煙草に火を付けた。
その脇でやはり以前より「コーヒーには煙草」と豪語していた、今は自称禁煙中の村上が冷ややかな目線でこちらを凝視している。

神木は口惜しそうに吸いかけの煙草を口元から離し見つめると、一思いに揉み消した。
その一連を村上は楽しそうに笑いながら「バカですね」と言ってのけた。

神木はまだ曖昧な気持ちのままふと窓の外の景色に目をやると、冬の曇り空はまだ厚くて、あの日天に召されるために焼かれていく理恵から立ち上る煙を神木に遠慮もなく思い出させた。

 雑踏の中の信号で車が止まると、昼休憩の為に外に出てきた会社員やOLの姿で車に許された視界は一杯になった。

「さっきの話は忘れてくれ。事件に集中したい。それが無理ならやっぱり俺は降りるよ」

 神木はそんな繰り返しの中、息を吐き出すのと同じくらい自然に言った。村上ももうそれが初めから用意されていたと思わせるほど素早く単調に「忘れます」とだけ言った。
 また信号が変わって、車はゆっくりとだが確実に前進を始める。


 第一発見者、青木琢磨の証言は特に目立つことのない、ありふれたものだった。
 日曜日以外の毎朝欠かさずしているというジョギングの最中に遺体を発見したようだ。

遺体は雑木林の中で暗く、非常に見えにくい所にあったが偶然にも被害者の着けていた時計が反射した一瞬の光を見逃さなかった。
一度目は不審に思い、辺りも暗く見え辛いことによる恐怖心も沸き、ジョギングの足を緩めずに通り過ぎたようだが、再び折り返して帰る途中に空自体が明るくなってきたこともあり、雑木林の中に足を踏み入れたらしい。
その時躓いて転倒したらしく、今も額や腕に痛々しい打撲と切り傷の痕が残っている。

 彼によって発見された時、被害者はもう死んでいたようだ。
呼び掛けにも反応せず、呼吸音もなかったことから青木はその足ですぐさま公園を出て一一〇番通報した。

 検死の結果、死因は心臓を刺されたことによる失血と呼吸障害によるものと判断された。
心臓の他にも肺や右下腹部など数箇所に及ぶ刺し傷があり、致命傷というほどのものではないものの、どれも深い傷であることは確かだった。
凶器は見つかっておらず、死体の反応、損傷からいって死後一日を経過しているとのことで、衣服の乱れも確認されたことから少々の争いがあったと見られた。

 しかし遺体には一点、奇妙な点が残った。
分かりにくいが、よく見ると額に数字の「一」と見える傷が残されていたのだ。

刺し傷以外には皮膚に損傷が見られなかったことと、慎重に傷を付けたものと見られた為、それは犯人によって意図的に付けられたものだといえた。
だがそれは気をつけてみなければ見逃してしまうほどの小さな傷で、争いの途中に付いてしまった傷といっても通るくらいのものだった。

 被害者は北区北上に住む斉藤義彦、三十三歳男性であり、北区内にある私立北上高校で数学を教えていた。

 初動捜査のため、神木と村上は一度北上署に戻ってから改めて聞き込みをするために、被害者斉藤義彦の勤めていた北上高校に向っていた。
村上は着ていたままの黒く、短めの皮のジャケットの襟を立てて気合を入れると同時に、署長に肩を叩かれた神木が自分の隣で一瞬だけ難色を示すのを見逃さなかった。


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