エピローグ 三
向井龍之介と書かれたプレートのある部屋をノックし、神木が中を覗くと、ちょうど向井がベッドから立ち上がろうとしている所だった。
彼の左手には、自身の腕に繋がれた点滴を吊るすバーが握られている。
部屋は個室で、向井の他には誰もいなかった。
中は、小さな冷蔵庫とベッド脇に置かれた作り付けの棚がある以外は質素な造りになっていて、大部屋とそう変わりはない。
むしろ、この小さな病人にとっては、この中途半端に広く殺風景な病室は、気を使うことなく快適というよりも、空虚さを増すばかりの牢獄のように神木には思えた。
クリーム色のカーテンは開け放たれており、窓からは病院内の中庭が見渡せるようになっている。
草木の緑や日光を感じられるのは、まだ救いか。
神木は思いながら、紺色の寝巻きを身に着けた向井に視線を戻した。
「起きていいのか」
後ろ手で引き戸を閉めながら問う。
向井は神木を一瞥すると、小さく咳払いをし、「トイレくらいなら」と呟いた。
前開きの寝巻きから覗く向井の右鎖骨周辺には包帯が巻かれており、立とうと力んだ拍子に歪んだ顔から、まだ相当の痛みが彼を支配しているのだと分かる。
「手伝うか?」
「黙れよ」
ベッドに近づいて言った神木に、拗ねたような調子で答えた向井は、諦めたのか、前屈みになっていた身体の力を緩め、再びベッドの端に腰を下ろした。
神木も何か腰掛けるものはないかと再び病室に視線を巡らし、ある物を目にした。
それは部屋に常備されているパイプ椅子に掛けられた、女性物と分かるパープルのストールだった。
そういえば、彼の母親が毎日見舞いに来ていると誰かが言っていたな、と神木は記憶を呼び戻す。
確かによく見てみれば、部屋の隅の方に置かれた小さなテーブルには、申し訳程度だが、鮮やかな色をした花が花瓶に活けられたりもしている。
いつか見た古寺と一緒にいたあの母親・小枝子が、献身的に息子に付き添う様を想像して、神木は向井に悟られぬようそっと胸を撫で下ろした。
この土地を離れるにあたり、神木にとって唯一心残りだったのが、この向井龍之介だった。
村上に頼むにしても限界はある。
家族でもない他人が、彼の側を片時も離れずにいられるはずはないのだ。
しかし、古寺を慕っていた小枝子が、今更龍之介という現実を直視するとは思い難かった。
更に、龍之介は事件を起こし、その事件そのものが元夫の殺害に直結している。
――あの母親では持つまい。今に龍之介を投げ出すだろう。
そう神木は踏んでいた。
果たして、突然現実に放り出された向井が自分の犯した罪を認め、背負い、一人きりで償いを果たせるだろうか。
こうした危惧は、新たな人生に挑もうとする神木を深く迷わせていた。
しかしそれも杞憂に変わった。
どうやら小枝子は、この寂しい病室に龍之介を一人置き去りにすることなく、共に罪を見つめる覚悟をしたのかもしれない。
「古寺やお母さんとは上手くやれているのか」
「まあ」
神木がパイプ椅子に腰掛けるのを見ながら続ける。
「古寺さんはたまにキレだすけど、何かと世話してくれますよ」
「そうか。まあ、古寺は狡猾な男だが、根はそんなに悪い奴でもないぞ。仲良くしてあげてやってくれ」
「警察、辞めたんだって?」
神木が落ち着くのを見るや否や、向井は真っ直ぐ神木を見据えながら言った。
思わず「早いな」と呟いた神木は、人差し指で鼻の頭を擦ると、僅かにはにかみ首肯した。
「あいつらは、知ってるの?」
いや、と首を振り、神木は上目遣いに向井を見つめ返し、
「だから、日向くんと井川くんのこと、頼んだぞ」
向井は神木の真摯な瞳に何か言おうと手に力を込めたが、すぐに緩めて、
「まあ、頑張ってみる」
「俺も頑張るよ。これから俺は、別の土地で百姓さ」
「百姓? 農業でもするの?」
神木がニヤリと笑うと向井は目を逸らし、照れを隠すように言った。
「うん、なんかいいかもね、それ。生きてるって感じ」
「だろう? まあ無事に出てこられたら、手伝わせてやってもいいぞ」
「考えておくよ」
しばらく沈黙が彼らの間をたゆたっていた。
だが向井は落ち着いており、何よりも以前心臓を殴った、あの醒めた目をもうしていないということに、神木は心から安堵している。
その黒々とした目は不安定に揺れることなく、視線の先に続く道を真っ直ぐ見据えているようだった。
過去に日向誠大を取り戻そうと目を瞑り、がむしゃらに走ってきた道をも改めて見ているのかもしれない、と神木は思う。
やがて向井は俯いたまま、静かに訥々と言葉を紡ぎ始めた。
「あんたを一目見たとき、何となくこうなることは分かってたように思うんだ。止めてくれって、思ってたかもしれない」
「あの北高の、職員室前でのときか」
神木が言うと、向井は小さく首肯した。
あの日、向井の醒めきった目を前にしたあの瞬間、神木の中に斉藤義彦殺害現場で感じた違和感がより現実感を増し、そしてまた神木を一気に二十年前に引き戻させたのだった。
神木はたった数日前のこととはいえ、既に胸の内に懐かしさが広がっていくのを感じていた。
もちろん神木の中に向井の起こした犯罪を許容する気持ちはなかったが、彼のお蔭で自分に起こった全ての事件の収束を見ることが出来たという、感謝の念を持っているのも事実だったからだ。
だが、向井はあの時、自分に救いを求めていたのかという事実に、神木は「龍之介をちゃんと救えただろうか」という不安を覚えた。
だが向井はそれを見透かしたように、
「大丈夫。あんたは俺を解ってくれた。ちゃんと、俺に向かって手を伸ばしてくれたよ。感謝してる」
向井はまた表情を隠すように首を捻った。
神木が「そうか」と一言だけ言うと、別れの時間が差し迫っていることを察したかのように喋り始めた。
「斉藤を殺したとき、興奮もしたけど、思っていたほどの高揚はなかった。それよりもずっと、これでいいんだって思い込もうとしていたような気がする。誠大を取り戻したいだけなのに、親父を殺したときも、近づいているようでむしろ離れていっているような、そんな漠然とした不安がいつもあった」
「斉藤義彦を殺したのは何でなんだ」
「理由なんてないよ。ただタイミングが合っただけ」
向井は淡々と言いスリッパを脱ぐと、ベッドの上に胡坐を掻き、自分の手に視線を落とした。
「あの日。十日の夜もこんな夜空だった。斉藤はね、神木さん。たぶん自分が誰に殺されたか、分からないまま死んでいったはずなんだ。刺したとき俺は、俺たちの上に圧し掛かってくる悪を倒したような、そんな気分に浸っていた。これで俺は力を得た、と、これでまた誠大は少しずつ俺のところに戻ってきてくれるかもって、そう思ったはずなのに。闇は深くなった。俺は、集中力が足りないのだと思った。ゲームに集中すると周りの音が聞こえなくなるように、もっと集中しなければ、とそう思った。だけど、だんだん気付き始める。言い聞かせて集中しなければいけないことが俺にあったのか? 集中して、目を逸らそうとしているものはなんだ? 一目瞭然だった。それは孤独だ。危険の中に足を踏み入れるたび、誠大が戻ってくるどころか、俺はどんどん独りきりになる。分かってたんだよ、本当は」
向井は、最後は自分に言い聞かせるように神木の方は見ず、病室の窓から見える小さな夜空を見ながら呟いた。
神木は向井の背中を、腕を組みながら見つめ、
「誰しもがどこか孤独だ。いつも孤独と戦っている。程度が違う、とお前は言うかも知れないが、日向くんも井川くんも根本はお前と同じだ。しかし、だから頑張れという気は毛頭ない。だが、龍之介。ゲームは一人きりより、みんなでやった方が楽しいんじゃないのか? もちろん殺人を犯せって言ってるんじゃないぞ」
「分かってるよ」
「みんな現実というゲームみたいにアホらしくて、だけど難解な世界の中を孤独の中、闘ってる。道がわからなくなれば、助け合えばいい。お前は仲間を手に入れた。孤独の淋しさが緩和されれば、お前の視界はもっと晴れるだろう」
「寂しくなんかはないっつーの」
「お前は今、“一回休み”なだけだ。大丈夫、すぐに追いつくさ」
「ゲームって、すごろくかよ。古いって」
向井は神木を茶化すように言い、そして再び夜空に視線を移した。
神木も腰を上げ、窓の方へ移動し、同じ夜空を見上げる。
ふと振り向いた拍子に見えた向井の表情は、憑き物の落ちたような優しげなものに変わっていた。
しかし、それはまだ生まれたての赤ん坊のようなもので、ひどく危ういものだ。
何かの拍子に、すぐにでも歪み、再び醒めきらせた眼光を振り撒く、狂気の面持ちに変わるともいえる。
神木は向井の視界を奪うように、彼の目の前に立ち、視線の高さを合わせると、
「パンクしそうになったら、いつでも電話して来い」
背広の内ポケットに入れていた、自身の携帯電話の番号が書かれた紙を向井に握らせ、
「とことん相手になってやるから。お前がかえって逃げ出したくなるくらい」
向井はしばらく手に無理矢理掴まされた紙切れを見ていたが、やがて「分かった」と言って寝巻きについた胸ポケットにそれを仕舞った。
そろそろ行くよ、と言う神木の方は見ずに、左手だけ挙げてみせると、向井はベッドに横たわってしまった。
神木は苦笑しながら病室を後にすると、非常灯の明かりだけが灯る、ひんやりとした廊下をキュッキュッと靴を鳴らしながら、出口へと向かった。
外は冷え込みを増し、神木は押入れから引っ張り出して着てきた厚手のコートの襟を立て、首を窄めながら駐輪場へと急いだ。
等間隔に並んだ植木の側を通りながら、今すぐここを離れるという選択が、本当に間違っていないのかを考える。
間違っていないと声高に宣言できる確信は、神木の中にはなかった。
本音を言えば、まだ彼らと共に居て、村上を側で支えながら、向井の行く末を側で見、一緒に闘ってやりたいという気持ちは強く残っている。
だが、側にいることだけが正解ではないとも思う。
生きていれば、いつだって彼らの力になれると信じているからだ。
そして何よりも、目に映る醒めきった目をした少年たちは、決して彼らだけではないという事実が神木の背を押している。
もちろん全ての少年少女を救えるなどと、おこがましい感情を持っているのではなく、だが神木は生きている限り、目に映る、出来るだけ多くの子供に差し伸べられる手を持ちたいと考えていた。
恥ずかしくない自分の生き様を彼らに見せ続けるためにも、温かなここに留まっていてはいけない。
神木は再び駐輪場に停めていた原付に跨り、夜空を見上げた。
無数の星が瞬き、漆黒の闇を僅かに群青色に照らしている。
いつ止まるとも知れない不安定なエンジン音は、まるで「また、明日な」と別れを言い合う子供たちの声のように、無邪気に無人の道路の上を滑っていた。
「また、明日な」
神木が一人、エンジン音に乗せてぼそりと呟く。
唇が寒さでピリピリと痛み、言葉を吐くたび真っ白な息が闇に溶け、煙のように流れていく。
神木は自分の身体の中に感じるエネルギーの熱の熱さに驚きながら夜空を仰いだ。
そして一度笑みを漏らすと、アクセルを強めて一気に坂を駆け降りた。
(了)
これで完結とさせて頂きたく思います。
もし最後まで読んでくださった方がいらっしゃいましたら、本当に本当にありがとうございました!
また、拍手を下さった方、メッセを下さった方、評価、コメントをしてくださった方には、本当に支えられ、とても救われておりました。
本当にありがとうございました!
内容だけでなく、途中だらけて書かない日々が続いたりと随分自由にやってきてしまいましたが、何とかこうして完結させることができ、ホッとしております。
また、書き続けることで、これまで判然としなかった欠点や目指すところなども、ハッキリしてきたように思います。
それでは。
この話に参加してくださった方々へ感謝を込めて。
本当にありがとうございましたー!
WEB拍手
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