残酷な表現が少々あります。
そういったものが苦手な方はご注意くださいませ。
第四章 回顧 二
男が深夜になって家に帰るとそこに女の姿はなく、真っ暗でぽかんとしたブラックホールのような空間だけが取り残されたようにあるだけだった。
男は両手に掻いた嫌な汗をズボンに擦り付けて拭くと、転がるように受話器を取った。
少し震える手で女の携帯番号を押すと背後で生き物のように激しく携帯が机を叩いた。
「そうだ、電磁波が気になるとか言ってたな、なら実家かな」
男は薄ら笑いを浮かべながらもう一度受話器を上げた。
だが突然それを投げ捨てるように床に叩き付けた。
「そんなことあるわけがないだろう、あいつの両親はもうどっちも死んでるんだ。帰るところなど他にあるわけがない」
男は頭を抱えながらそう言うとその場にしゃがみこんだ。
そしてゆっくりとした動作で受話器を静かに戻すと大きなため息をついた。
右手でなぞるように左手の結婚指輪を触る。
何度かそうしているうちに男は突然自分の携帯電話を取り出し、電話をかけ始めた。
二度のコール音の後、割れるように震えた声が暗闇に響いた。
「三谷さんか、理恵がいないんです」
「おいおい、突然電話してきたと思ったら何言い出すんだ、大方喧嘩でもしたんだろうが」
不安を抑えられずにイラついた声を挙げる男とは対照的に、三谷と呼ばれた男は深く乾いた面倒臭そうな声を放つ。
「ない、ないからあんたに電話なんかしてるんだ」
男が物凄い剣幕で一蹴すると、三谷はようやく事の重大さを理解したのか沈黙を作った。
「悪かった。とにかく落ち着けよ。
もう日付も変わったか、理恵さん、今日は病院行ってたんだろ」
「はい、いつも必ず帰って来たらメールか電話をよこすんです。病院に一人で行かせるようにしてからはそうさせていたんですが、今日はない。その上〇時を回っても帰らないなんて初めてなんです。あいつここ以外に、帰るところなんてないんですよ」
男の声は最初にあった勢いを無くし、今にも消え入りそうなものに変わっていった。
「分かった、今そっちに行くから。取り合えずお前は片っ端から見当のつくところダメもとでも電話してみろ」
三谷は電話を切るとすぐさま男の家に向った。
三谷が男の家に着くと、男が居ても立ってもいられないといった様子で玄関前に立っていた。
とにかく落ち着いて家の中で話そうと一旦男を家の中に入れた。
男は少し震えており、いつもの自信と活力に満ち溢れた姿は見る影もなく、三谷は正直動揺を隠せないでいた。
「電話したのか」
三谷が注意深く声を闇に溶け込ませる。
「いない、どこにもいない。すんません、こんなこと初めてで。病院があの事件のすぐ側なもんで、つい」
三谷も「事件」と聞いて、思い出したかのように身体を強張らせた。
そうだったのか、という三谷の呟きにも似た相槌の後、玄関に立ち尽くした大きな男二人は空気の重さに押し潰されたような顔をしながら最悪のシナリオを何とかして頭から追い払おうとしていた。
「あの事件」とは彼らが今追っている通り魔事件のことだ。
幼女ばかりが狙われており、現時点で既に五人の被害者が出ている。
手口は単純で、白昼堂々小さなか弱き少女たちに声をかけては悪戯し、抵抗すれば切りつけると言った具合だ。
まだ死者は出ていないが、一番重度の被害者で全治三ヶ月の大怪我を負っている。
事件が明るみに出たのはまだ一週間程前のことだが、それ以前から現場付近の住民からペットや野良犬が殺されているという通報が警察に寄せられていた。
それは何か実験でも行っているかのように定期的でかつ計画性もあり、その回数が増すごとに残虐性も徐々に増していった。
ちょうど十匹目の動物が殺された翌日、最初の少女が襲われた。
悪戯された後に、皮膚のそこら中を試すように鋭利な刃物のようなもので切り裂かれ、公園内で気を失って倒れている所を近所の住人に発見された。
五人目の被害者に至っては、生きながら解剖にあったかのように卑劣で残忍な方法で身体全身をいたぶられており、体内からは加害者の体液とも思われるものも検出された。
しかしその証拠も虚しく、犯人像は捜査線上に上がっては消えを繰り返すだけだった。
何の有力情報さえ挙げられない警察を国民はやり場のない憤りと共に責め立てた。
犯人は殺人さえ犯さないものの、それと同等に最悪な形で放り出される少女たちの姿は犯人の姿を想像させるには余りにもリアリティーが強く、勝手な犯人像は意図しない所で一人歩きを始めていた。
だが当の少女たちは犯人の特徴を聞いても揃って口を割ろうとしなかった。
何を聞いても皆頑なに身体を強張らせ口を噤んでしまう。
そうして犯人の特徴も掴めないまま被害者だけが増えていき、警察もお手上げ状態で付近の住民に繰り返し聞き込みをするしか出来ないでいたのだった。
「でも犯人はこれまでに殺人を犯してもいないし、被害者となっているのは幼女ばかりだ。とにかく良いほうに考えよう、俺たちがここで頭を抱えて心配ばかりしていても仕方ないだろう。どうする、捜索願を出すか」
男は少し俯くと、今度はそれとはっきりと分かるように首を縦に振った。
少年はまるで人形遊びをするように女の髪を丁寧に梳かし始めた。
まだ女の意識は戻らない。注意深く呼吸を確かめなければ生きているのか分からぬほど深く眠りに落ちている。
少年はままごと用の小さな櫛を床に置くと、手を大きく広げ、成熟したその女のしなやかな髪を何度も繰り返し指の間に滑り込ませては梳いた。
そして時折その髪を指の間に挟みこみ、力一杯握り締めては逆方向に引く。
その度に女の皮膚は突っ張られ、眠り姫のように美しい顔も少年の意のままに変えられていった。
女は少年の自室である七畳の和室に寝かされており、両手両足は後ろ手に一つに組まされロープで巻かれ、口には猿轡を噛まされ、全ての自由を奪われていた。
少年は女を無理やりには起こさず、女の紺色の網目の粗いセーターのボタンを外し始めた。
手は少し震えているが、指先の動きはしっかりしており、それは軽快に解き放たれていく。
畳の上には横一線に几帳面に刃物やカメラが並べられていた。
その全てがよく磨かれているが、真新しさはない。
北西に向いた少年の部屋はまだ正午を過ぎて間もないせいか暗く湿っており、澱んだ空気が少年の持ち物をより一層不気味なものにさせていた。
「女の身体なんて……女の身体なんて……ああ、汚い、臭い……」
少年は何度か呪文を唱えるように呟くと、目の前に露になった妊婦特有の張った乳を包む真新しい下着を裁ちきり鋏でその中心を切り、汚いものの処理をするかのように切り取った下着を鋏で摘み上げて、傍らに用意しておいた黒いゴミ袋に乱暴に投げ入れた。
時折何かに反射してギラリと光る鋏は見るからに硬く、冷たそうで、少年は何度か女の弾力性のある乳房を数回それで叩いた。
小さく破裂するように皮膚が叩かれる音は、外を走る自転車の金属音と似ていて、何故かピタリと重なった。
少年の生み出そうとしているこの非現実的な世界がそれを契機にして、まるで外の世界と何の境界も持たなくなっていくようにそれは重なった。
ニュースも新聞もまだこの女を取り上げることはなかった。
どうやらこの目の前にいる女は、ある一定の者にしか姿を消したことを知られていないのだろう。
少年は一呼吸、かび臭い息を吐くと、その持っていた鈍色の鋏の柄のほうで思い切り女の頬を殴った。
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