困った時の猫だのみ
商店街の片隅に、その喫茶店はひっそりとあります。
ちょっとだけレトロな感じのする外装。通りに面した大きめに取られた出窓には、陽射しを和らげるレースのカーテン。
けれども一歩中に入ると、何だかログハウスの中のような内装で、外見とのギャップに少し驚く人もいます。
そんな店の名前は『Wild Cat』。コーヒーの美味しい、小さなお店です。
店主は山根弘一(やまね/こういち)さん。年は今年で三十九歳です。
店の名前は弘一さんの子供の頃からのあだ名、『やまねこ』が元になっているとか、いないとか。
五年前までは奥さんの木綿子さんと一緒に切り盛りしていましたが、木綿子さんが事故で突然亡くなってしまってからは、弘一さんが一人でお店を開いています。
お店の外装を木綿子さんが、内装を弘一さんが担当した為、『Wild Cat』は外と中がちぐはぐになってしまいましたが、今ではそれがこのお店の特徴になっています。
すごく流行っているとは言い難いですが、それでも毎日のようにやって来る常連さんもいますし、毎日ではなくても買い物帰りの主婦や学生などもやって来てくれるので、何とかやって行けています。
そんなごくありふれた喫茶店ですが、一つだけ奇妙な事がありました。
と言うのも、このお店には時折、やたらと深刻そうな顔をしたお客さんがふらりとやって来て、必ず出窓に面したテーブル席に着き、ため息をつくのです。
そして、しばらくそこにいると── あら不思議。彼等はそれまでの様子が嘘のように、晴れ晴れとした顔になって帰って行くのでした。
一体、彼等に何が起こったと言うのでしょう?
── そして今日も、そんなお客さんが『Wild Cat』のドアをくぐりました。
+ + +
カラカラ…カラン♪
軽やかなドアベルの音に、洗い物をしていた弘一さんは入り口の方へと顔を向けました。
見た所、二十代後半。
背広もネクタイもきっちりと身に着けた、いかにもサラリーマンといった感じの男の人です。
「いらっしゃいませ!」
少しずれかけた眼鏡を直しつつ、弘一さんは笑顔で挨拶をしましたが、お客さんは心ここに在らずと言った雰囲気です。
何処か思いつめたような表情で、まるで操られるかのように出窓のテーブル席に向かうのを見て、弘一さんは手早くお盆に水を入れたグラスを載せ、メニューを抱えるとその席に向かいました。
まずは水、次にメニューをテーブルの上に置こうとすると、お客さんはメニューを見もしないで、ぼそりと『…コーヒー』と注文してきます。
やはりな、と予想通りの行動に心の中で苦笑しながら、弘一さんは何も言わずにメニューを持ってキッチンへと戻りました。
たまにあの席に思いつめたような顔でやって来るお客さんは、いつもこんな感じなのです。
コーヒーと一言で言われても、『Wild Cat』にはいろんな種類のコーヒーのメニューがあります。
アメリカンにオリジナルブレンド、カプチーノ、カフェ・オ・レ、アイスコーヒー── 豆の種類までこだわると更に増えます。
けれど弘一さんは、確認は取らずにコーヒーの準備をすると、ぎりぎりの薄さのアメリカンコーヒーを淹れました。
それに、小さめのクッキーを二枚ほどつけて。これは近所のパン屋さんから個人的に貰ったものです。
あの席に深刻な顔をして座るお客さんは、大抵思い悩んでいて味などわからなくなっているのですが、そんな彼等の胃に優しいようにコーヒーを薄めのアメリカンにして、疲れている時は甘いものが恋しくなるから、と何か甘いものをつけるのは、弘一さんなりの心遣いでした。
実際、今日のお客さんはいかにも胃が痛そうな顔をしています。
一体何があったというのでしょう。
弘一さんは少し心配になりましたが、いつものようにコーヒーを置くとそっとしておきました。
ふんわりと湯気に乗って、コーヒーの独特の香りが漂います。
その時、それが合図だったようにして、小さな変化が起こりました。
お客さんが座っている席のすぐ横、通りに面した出窓に、今まで置物のように微動だにせず寝そべっていた二匹の猫が、むくりと起き上がったのです。
一匹は真っ白、もう一匹は真っ黒。どちらも瞳が綺麗な金色をしています。
お客さんは二匹の様子にまったく気付いた様子もなく、折角のコーヒーにも口を付けずにため息をつくばかり。
二匹はまるで人間がするように顔を一度見合わせると、最初に黒猫の方がピクピクとひげを動かし、それに応えるように白猫がぱちくりと瞬きをしました。
そして──。
にゃーん。
白猫が可愛らしい声で一声鳴きました。
その鳴き声でようやくそこに猫がいた事に気づいたお客さんが、驚いたように二匹に目を向けると、今度は黒猫が口を開きました。
ニャー。
こちらはちょっぴり唸るような鳴き声です。
…その鳴き声を聞いた瞬間。
「── そうだ!!」
目を見開いて、それまで元気のなかったお客さんが、ガタンと音を立てて椅子から腰を上げました。
そして慌しく手荷物を持つと、お会計もそこそこにバタバタと通りへと飛び出していきました。
テーブルの上には、手付かずのままのアメリカンコーヒーとクッキー。
けれど弘一さんは、ほっとしたような顔でお客さんを見送るのでした。
+ + +
「勿体無いなあ」
弘一さんがテーブルを片付けていると、横からそんな声が聞こえてきました。声の調子だと、十代の少年のような声です。
「折角弘一が淹れてくれたのに、一口も飲まないとは失礼だ」
「いいんだよ、ショウ」
不機嫌そうな声に、弘一さんは気を悪くした様子も見せずに答えます。その目は出窓にいる猫の片割れ── 黒猫に向けられていました。
「あのお客さんも、きっと次に来る事があれば、今度はちゃんと寛いで行ってくれるだろうからね」
「そうか。弘一がいいのならいい」
ショウと呼ばれた黒猫は、弘一さんの答えにはっきりと相槌を打ちました。── 人の言葉を話しているのです。
「大丈夫よ。あの人、またきっと来るわ」
今度は十代の少女のような声が、弘一さんの言葉に請合いました。
「そうかい? フク」
「ええ」
弘一さんの言葉に、こくりと頷いたのは白い猫。長い尻尾がぱたりと揺れました。
こちらも人の言葉が話せるようです。
弘一さんはそんな二匹にまったく驚く様子もなく、にこにこと笑顔を浮かべています。
フクと呼ばれた白猫は、パタパタと尻尾を揺らすと、まるで予言するようにはっきりと言い切りました。
「きっと来るわ。── いつものようにね」
+ + +
翌日、フクの予言通りに再びあのお客さんがやって来ました。
今日は昨日とは別人のようなとても明るい表情です。
弘一さんの「いらっしゃいませ」にも、はっきりと「こんにちは」と答え、出窓のテーブル席ではなくカウンター席に座りました。
水とメニューが出て来ると、今度はちゃんとメニューを開いて、しばらく考えた後で『オリジナルブレンド』を注文しました。
コーヒーが出来るまでの間、今日も出窓で置物のように寝ている二匹を眺めていましたが、コーヒーが出て来ると、それが切っ掛けのように口を開きました。
「あの猫…ここで飼っているんですか?」
「ええ、本当は店に出すべきではないと思うんですが…あそこがお気に入りみたいで」
苦笑しつつ弘一さんが答えると、お客さんはしばらくもじもじとしていましたが、やがて決心したようにかばんに手を入れると、そこから白いビニール袋に入ったものを取り出しました。
「あの、良かったら…その……これを、あの猫達に」
それはいろんな種類の猫缶でした。
「どれが好きかわからなかったので、適当に買ったんですが……」
「それはそれは……。でもこれは受け取れませんよ。頂く理由がありませんし」
猫缶も決して安いものではありません。
弘一さんは恐縮して断ろうとしましたが、お客さんも引き下がりません。
「いえ! 是非受け取って下さい。あの…これはお礼なんです」
「お礼?」
少し白々しいかなと思いつつ、弘一さんは何も知らない振りをしました。ここで何もかもお見通しだなんて、とてもではないですが言えません。
お客さんはそんな弘一さんに、真面目な顔をして説明を始めました。
「はい…、変な話と思われるかもしれませんが……。実は昨日もこちらに来たんです」
「ええ、覚えていますよ」
「僕は会社の重要な書類を置き忘れてしまって、本当に落ち込んでいたんです。何処に置いてきてしまったのか、まったく思い出せなくて。かと言って、会社にも戻れないし。それで気分でも落ち着けようとこのお店に入ったんですが……」
そこで言葉を一度切り、お客さんは出窓に寝そべる二匹に目を向けました。
「あの猫達が鳴いた時、思い出したんですよ。偶然だと言われたらそれまでですけど、まるで閃くみたいにふっ、と」
「それで…書類は?」
「見つかりました。途中で立ち寄った公園の、ベンチの後ろに落ちていたんです。あのままだったらどうなっていた事か」
だからお礼なんです、と繰り返して、お客さんは弘一さんの手に猫缶の入った袋を押し付けます。
弘一さんは何だかとても申し訳ない気持ちになりましたが、ちらりと目を向けた出窓の所で、二匹が『もらっとけ』と言わんばかりの目を向けている事に気づき、小さくため息をつくと袋を受け取りました。
「わかりました。でも貰うだけじゃあんまりですから、今日はお会計はいいですよ」
「そんな!」
とんでもない、と首を振るお客さんに、弘一さんはにっこりと笑いました。
「その代わり、今日はちゃんと飲んで行って下さいね」
+ + +
弘一さんの淹れたコーヒーを堪能して、お客さんは帰って行きました。
早速貰った猫缶を手に弘一さんが二匹の所へ行くと、むくりと二匹が身を起こしました。
「ほら、言った通りだったでしょう?」
自慢するようなフクの言葉に、弘一さんはやれやれと肩を竦めました。
確かに言った通りだったけれども、こんな『お礼』までついて来るなんて思ってもいなかったのです。
「何だか悪い事をした気がするなあ」
「弘一が気にする事はないだろ? 相手の一方的な心遣いなんだから」
ケロッとした口調でショウが言うと、そうよそうよとフクも同調しました。
「これであの人の運もさらに上昇するわ」
「…そういうもんなのかい」
「そうよ。弘一はわたし達が何か忘れたの?」
くるっと丸い目を悪戯っぽく回してのフクの言葉に、弘一さんはいや、と答えました。
忘れられるはずがありません。彼等は猫の姿をしていますが、その実態は猫などではないのですから。
「おれ達が厄を祓ってやったんだから、礼をするのは当然だよなあ」
「ねえ」
二匹は顔を合わせて、パタパタと上機嫌に尻尾を揺らします。何だかなあ、と弘一さんは思いました。
仕草はどう見ても猫なのに、彼等はこれでいわゆる『神様』と呼ばれる存在なのです。
厄を祓い、福を招く── 正真正銘の『招き猫』。
「きゃっとふーどは近所の猫どもにでもあげるといい」
偉そうにショウが言います。と言うのも、彼等の主食は『キャットフード』ではないからです。
「おれ達はあの人間の厄で十分満腹だから」
「美味しかったわね」
そしてまたパタパタと尻尾を揺らし。
やっぱり、あのお客さんには申し訳ない事をしたなあ、と弘一さんはこっそりため息をつくのでした。
商店街の片隅に、その喫茶店はひっそりとあります。
店の名前は『Wild Cat』。
そこは美味しいコーヒーを淹れるマスターと、二匹の小さな福の神がいるところ。
これはHPのキリ番をゲットして下さった方のリクエストにお応えして書いた「猫と喫茶店」というテーマで書いた話です。
これは特に悩みもせず、さくっと書く内容が決まりました。
「猫と喫茶店」という組み合わせで浮かんだのが『招き猫』で、じゃあこれが生きていたらどうだろう(-▽-*)…という、実に単純な発想から出来た話なのですが。
別の意味で捻くれているとも言います(何故そこで『招き猫』なんだ……)
二匹の猫の名前、『ショウ』『フク』を合わせると『招福』になるのはご想像のとおりでございます。
…宗像のネーミングセンスの悪さは今に始まった事では……うふふ。
童話風なのも何となく自然に決まっていました。
書いてても和みましたねえ、これは(笑)
読んで下さった方々も和んで下さると良いのですが。