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亡霊葬稿ダイホーン だれが変温の哺乳類を操っているのか/コリカンチャとカト●チャはインカに違うのか 作者:烏田かあ

第九章『深まる闇』

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②サイコ

「どうしたらいいんだあ~」
 中間テストの時と同じ発言をしながら、小春は片故辺かたこべの校門を潜る。
 青白い月に見下ろされた校舎は、監獄のように重苦しい威圧感を漂わせていた。燦然さんぜんと輝く太陽とは明るさも差し方も違う陰気な光が、クモの巣状の亀裂をやけに強調している。
 薄い暗闇を溜めた窓からぼんやり漏れている緑色は、非常灯だろうか。弱々しく発光するクラゲが、命の乏しい海底を漂っているような情景を眺めていると、見飽きているはずの四階建てについ大袈裟な印象を抱いてしまう。この暗闇は生命を拒絶している。

 課題のプリントを忘れた程度なら迷わず拒まれるが、今日はそうも言ってられない。
 巌流島がんりゅうじまの熊谷先生で自分を奮い立たせた小春は、恐る恐る鉄筋とコンクリの塊に近付いていく。日中より高い感じのする敷居をまたぐと、暗闇の貯水池と化した昇降口が待ち構えていた。
 踊り場、
 廊下、
 下駄箱の陰――。
 曇りの日でも光が差していた場所に、獰猛そうな闇が潜んでいる。校庭に立つ創立者の銅像は、深い影を使って隈取くまどりを施していた。普段は雑草を見守るカカシが、今晩は監獄を見張るガーゴイルのようだ。
 朝練の掛け声、つま先と床を接吻せっぷんさせ、上履きをフィットさせる音――。
 耳を澄ましても、お馴染みのBGMは聞こえてこない。杓子定規しゃくしじょうぎに左右する大時計の振り子だけが、動物園と揶揄やゆされているはずの昇降口に効果音を提供している。

 打ちっ放しのコンクリが漂わせる冷気は、北風を浴びせ掛け、体温を吹き飛ばす野外とは違う。足の裏にへばり付かれ、体温を吸い取られていく感覚は、乾いた手で氷に触れた時に近い。
 息を吐く度に白い煙が広がり、黒一色だった視界をモノクロに塗り替える。ハイソックスと膝の境目から震えが這い上がると、太ももを鳥肌が埋め尽くした。

 間抜けに垂れてきた鼻水をすすっていると、身体が自動的に下駄箱の前へ進む。
 毎朝の通過儀礼通り右からローファーを脱ぎ、左から上履きを履くと、小春は一階の奥にある職員室目指して駆け出した。少しでも真っ暗闇に囲まれている時間を減らしたい一心で、目の前を掻き分けるように大きく腕を振る。三〇分前に食べたみそ汁が胃壁に打ち付けると、たぷたぷと締まりのない水音が鳴った。

 職員用のトイレに差し掛かると、職員室の戸がか細い灯りを漏らしているのが目に入る。
 蛍光灯にしては明らかに暗い。
 部屋の照明を消し、テレビだけをけた感じだ。
 やはり、熊谷先生はもう帰ってしまったのだろうか?
 だが電気がいている以上、無人だとも言い切れない。
 いてほしいが帰っていてくれ――。
 相反する祈りを捧げながら引いてみると、滑りの悪い戸がカタカタと開いていく。最後に帰宅する教師が鍵を掛けていく決まりだから、まだ誰か残っているらしい。

 限界を超えた怒りのせいで冷たく笑う熊谷先生が、落第生の写真をハサミで切り刻んでいる――。
 そんな胆をフリーズドライする光景が、この先で実演されているかも知れない……。
 ちょっとしたサイコホラーが頭を過ぎった途端、小春の足は背後を踏み、戸と距離を取る。かと言ってこのまま下駄箱に亡命しても、明日開催されるホラーの冠詞が「スプラッタ」になるだけだ。憤怒の咆哮と共に投擲とうてきされる三角定規は、小春の首と胴体を容易たやすく離れ離れにするだろう。

「し、失礼しま~す」
 小春はひとまず半分戸を開け、そろ~っと職員室を覗き込んでみる。
 煙のようにけた暗闇が、規則正しく並んだスチール製の机を霞ませている。
 戸から漏れ出ていた光の正体は、机上のパソコン。アクリル製のネームプレートに映った光が、波紋のように青白く揺らめいている。
「失礼しまぁす。熊谷先生、いますかぁ。いなければ、そのまま退職してくださぁい……」
 とりあえず三角定規が飛んで来ないことを確認し、小春は職員室へ入る。限界まで平身低頭した姿は、我ながら原人まで先祖返りしたかのようだ。

 とと……。

 微細に鼓膜を揺すったのは、小さく足踏みするような音。
 弱い横揺れが窓枠を震わせ、微風がスカートの裾をさする。
 ついに獲物を目前にした熊谷先生が、武者震いでも始めたのだろうか。
 いよいよ生爪の一枚でも剥がれるか!?
 未曾有みぞうの拷問に背筋が凍り付き、カラカラに乾いた喉が息を呑む。瞬間、強烈な臭いが肺に流れ込み、入れ替わりに止めどない咳が溢れた。

 芳香剤?

 生徒から没収した化粧品?

 いや、真夏のボットン便所に似た臭い。

 強烈なアンモニア臭だ。

 排水口でも壊れて、下水から悪臭が逆流しているのだろうか?
 たまららず鼻をつまむと、小春は忍び足のそのまた先端を着き、熊谷先生の机に歩み寄っていく。
 一歩……、
 二歩……、
 三歩目。
 予期せぬ段差につま先が引っ掛かり、小春の身体を傾かせた。
 熊谷先生への感情とは無関係に頭が上下し、胴体が前後に振れる。腕を乱回転させ、何とかバランスを取ると、小春は咄嗟とっさに窓へ手を着いた。

 一体、何につまずいた?
 小春は息を整えながら考えてみるが、見当も付かない。
 職員室の間取りを思い返してみても、ロッカーや段ボールが置かれているわけでもない。引き出しでも出ていたのだろうか? いや、つま先にぶつかったそれはもっと柔らかかった。
 疑問に終止符を打つべく、小春はスマホのライトをけ、問題の場所を照らしてみる。

 円状の光が暴き立てたのは、ベンチ大の肉塊。

 無数に群れ集った何かが、ぞわぞわと蠢いている。
 サーモンピンクの体表は、体毛のないネコ「スフィンクス」に瓜二つだ。

 急に照らされたことに反応したのか、セーターの編み目を広げるように肉塊の一部が開く。
 隙間から現れたのは人間、それも土日以外必ず見掛ける顔だった。
「熊谷せん……」
 悲鳴を発しそうになった小春は、慌てて口を塞ぎ、声を喉に押し返す。
 無根拠な信仰を、他人はわらうかも知れない。だが小春には危惧があった。名前を口にした瞬間、夢や見間違いかも知れない目前の光景に、現実と言うお墨付きを与えてしまうのではないか。
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