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亡霊葬稿ダイホーン だれが変温の哺乳類を操っているのか/コリカンチャとカト●チャはインカに違うのか 作者:烏田かあ

第六章『管理の裏側』

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③母親について

 単純な醒ヶ井小春ですが、意外と複雑な家庭環境で育っています。
 ちなみに片故辺かたこべ学園の名前は、地下墓地を指す「カタコンベ」に由来します。
 佳世に片故辺かたこべを選ばせたことは、小春にとって勲章だった。
 実際、小春の行動は様々な苦痛から佳世を守った。佳世の尻はまだ誰にも揉まれていない。体育の時間、キャッチボールのパートナーに困った経験も皆無だ。
 余計な心配をする必要のなくなった阿久津のおばさんも、一人娘を小春に預けた後は家事に鼻歌に全力投入している。仮に鉄道網へ娘を出征しゅっせいさせていたら、心労のあまり丈夫ではない身体を壊していたかも知れない。

 そう、奴に指摘される前の小春には、皆を悲しみから守った充足感が漲っていた。自分の行動を疑ったことなんて一度もなかった。

 だが佳世は片故辺かたこべに連れて来られて、本当に幸せだったのだろうか?

 都立に進学していたほうが、志望大学に受かる確率が高かったのは事実だ。古今の言葉を総動員し、小春が自己弁護しようとも、統計は変えられない。
 外国の企業が運営する片故辺かたこべは、学力より個性を重視している。進学校のような特別講習は少ない。積極的に手をげるも、机を枕にするも、生徒の自由だ。
 片故辺かたこべに入学した佳世は、ほぼ自習だけで大学を目指さなければいけなくなった。本当なら暗記と筆記に集中させられた時間を、必要な知識の取捨しゅしゃ選択にかなければいけなくなった。誰かが余計な口出しをしなければ、する必要のなかった苦労だ。

 再考してみれば、小春が問題視していたのは、多少の努力で解決出来る物事ばかりだ。
 電車で通えない?
 最初こそ路線図に翻弄されただろうが、本質的には優秀な頭脳を持つ佳世だ。本気になれば、一ヶ月も経たずに学校への道程みちのりを憶えただろう。
 要領さえ掴んでしまえば、乗り換えなんて簡単だ。今頃はきっと、東京の外にまで行動範囲を広げていただろう。
 新しい友達が出来ない?
 なぜ言い切れる。
 小春の知っている佳世が、阿久津佳世の全貌ではない。新天地には節穴ふしあなの小春に見抜けなかった価値を看破する、目利めききがいたかも知れない。一人友達を作って自信を付ければ、後は順調に親交を広げていけたはずだ。

 どうして幸せになったなどと決め付けた。
 一つずつ根拠を掘り下げてみれば、明白ではないか。
 佳世は幸せになったのではない。
 単に嫌な思いをしなかっただけだ。
 片故辺かたこべでの日々は、目先の安穏に過ぎない。
 一歩間違えれば、未来の佳世には、独りで高校に行くことなどとは比較にならない苦難が降り掛かる。
 大学に受かる確率は間違いなく下がった。そして受験に失敗した時、打ちひしがれた経験のない佳世が、精神を壊さない保証はどこにもない。痛みを味わわないよう、過保護に培養されてきた心は、きっと簡単に砕けてしまう。

 心ない言葉、辛い体験、胸を切り刻まれた瞬間には悲鳴を上げる。
 でも痛さを知らなければ、二度と繰り返さないと思えない。免疫も出来ない。心から血を流した経験のない人間は、他人の苦しみも判らないだろう。
 人は傷に叩かれて鍛えられていく――。
 それが真理だからこそ、「かわいい子には旅をさせよ」が二一世紀まで生き残っているのだ。

 子供会のキャンプの際、小春は生けすで立ち尽くす佳世に、自分の捕まえた魚を渡した。
 本当にそれしか方法はなかったのか?
 いや、必ず捕まえられると声援を送ったり、横に付いてコツを伝授したりと、幾らでも手立てはあった。しゃしゃり出て漫然と成果を与えるより、ずっといい手立てが。
 何十分、何時間掛かってもいい。ああでもない、こうでもないと二人で試行錯誤していれば、それは笑って語れる思い出になったはずだ。

 自分の手で得た昼食は、満腹とは別の満足感を佳世の身体に広げただろう。
 飛沫しぶきを浴びてもいい。転んでもいい。挑み続ければ最後には得られる――。
 あの時知っていれば、大混雑の食堂程度で二の足を踏むことはなかったはずだ。
 最後まで魚が捕れなかったとしても、空っぽのままだったのは胃だけ。佳世の胸はきっと、雪辱を誓う意気込みで満たされた。

 認める悔しさを感じる余地もない。
 何もかも、梅宮改の指摘通りだ。
 小春は佳世を信じていなかった。
 努力したところで魚を捕まえられるわけがないと佳世を底値に見積もり、一番楽で、怠慢で、不幸せにする道へ走ったのが何よりの根拠だ。
 問題に直面する度、他人の力で乗り越えてきた佳世は、ずから困難を解決する気合も向上心も知らない。勇気を振り絞り、新天地の高校へ踏み出そうとした一歩も、小春がねじ伏せてしまった。

 同姓にさえ萎縮し、母親と小春としか喋れない。
 一人旅の範囲も未だに町内が限界で、小春の添乗てんじょうがなければ隣の区にも行けない。
 自分がいなくなったら、佳世はどうなる?
 絶対離れない? カラオケでは得意げに切った啖呵たんかも、冷静に考えれば高校生のする反論ではない。
 世間には決意と無関係に引き裂かれる事例も多々ある。阿久津のおばさんが再婚し、遠い場所に引っ越すことになるかも知れない。不慮の事故で小春が命を落とすかも知れない。残りの人生、半世紀以上も佳世の隣にいられる保証はどこにもないのだ。

 佳世がご飯を炊くことさえ出来なくても、このご時世、沖ノ鳥島(おきのとりしま)にでも移住しない限りコンビニがある。レジを打ってもらうだけなら、店員と会話を交わす必要もない。阿久津家の財産をもってすれば、佳世独り食べて行くことくらいは楽々出来る。
 でも、それだけ。
 社会に出て好きな仕事に就くことも、憧れの場所へ旅行することも、結婚し、家族を持つことも佳世には出来ない。ただ三六五日、コンビニの弁当が占拠する食卓から、皆がありふれた幸福を得ていく様子を傍観する。それは単に死んではいないだけだ。

 独りで食卓に座る佳世を予見してしまった今、小春には断言出来る。
 佳世に明るい未来はない。
 梅宮改に御高説ごこうせつたまわり、ようやく現実が見えるようになった? いや、少なくとも中学へ入学する頃には確信していた。佳世は自分に頼るのが当たり前になっていると。
 その上で――そう、現状のままでは取り返しの付かないことになるかも知れないと理解した上で、小春は佳世を誘導してきたのだ。自分の助けなしには生きていけないように。

 そこまでして、なぜ佳世に強くなられてはいけなかったのか? 自分に投げ掛けた瞬間、小春の脳裏に浮かんだのは沼のように濁った曇天どんてんだった。
 九年後の現在よりずっと傷の少ないドアを開いたのは、旅行用のボストンバッグをげた女。
 激しい風雨の中へ出て行こうとしているのに、その足取りは刑期を終えた囚人のように軽い。振り返り、玄関に立ち尽くす娘を見ることは、結局一度もなかった。

 佳世が引っ越してくる一年前、小春の母親は家を出た。
 その姿を捜す小春に、おばあちゃんと父親は「旅行してるんだよ」と言い聞かせた。
 おみやげ、なにかなあ!
 小春は歓声を上げながら、ソファの上を跳ね回ってみせる。おばあちゃんと父親は安堵の息を吐き、無邪気な子供に憐れみの目を向けた。
 本当は見ていた。
「旅行」の前日まで色の見本市だったタンスが、今日は無地の空気を詰め込んでいる。鏡台の前は更地。口紅、乳液、コットンと未来都市のように並んでいた化粧品が、一つ残らず立ち退いている。お出掛けを予感させる甘い匂いを嗅ぎ取ろうとしても、物置のような埃っぽさが鼻をムズムズさせるばかりだった。

 母親が消えた五日後、郵便屋さんが渡してくれた封筒には、漢字だらけの書類が入っていた。
 まだ難しい漢字が読めなかった小春は、小学校入学以来、本棚の肥やしだった辞書を引っ張りだし、解読に着手する。うつらうつらしながら日付が変わるまで頑張ると、ノートに並べたひらがなが教えてくれた。母親はもう二度と帰って来ない。
 八歳の少女の翻訳に誤りはなかった。
 あの書類に父親が判を押して以来、小春は母親と会っていない。「旅行先」からの手紙や電話も一度としてなかった。

 離婚の理由は母親の浮気。父親が何度も家に連れて来ていた部下と、禁断の恋に落ちた。井戸端会議を盗み聞きしたところによれば、元々おばあちゃんと折り合いがよくなかったらしい。
 スーパーへ行くだけで、歌舞伎役者のように顔面を白塗りする女だった。女子高生ばりのミニスカを見て、PTAのお母さん方が眉をひそめていたのを小春はよく憶えている。
 それでも、まさか漢字も満足に読めない年頃の娘より、男を選ぶとは……。
 小春は呆れるより先に感心してしまう。
 子供を産んで八年も経つのに、あの女は女のままだったらしい。
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