エレベーター
ひどく嫌な夢を見て目が覚めた。
残業中、デスクに向かったままついうとうとしてしまったらしい。
内容を思い出せないが、相当ひどい夢だったらしく全身に汗をかいていた。
回りを見回すともう誰もいない。同僚達は皆帰った後だった。時計は真夜中近くなっている。
だれか起こしてくれてもいいのに。薄情なやつらだ。
でもそれも当然かもしれないと思い直した。
この忙しい中、回りを見る余裕なんて誰があるだろうか。俺にだって無い。
いったいいつまでこんな状態が続くのだろう?
知らず知らずまの内に、大きなため息が出てしまう。
もう何日もこうやってずっとデスクに向かっている気がする。
疲れているんだな。きっと。
しばらくぼんやりとやりかけの仕事をながめていたが、なにも頭に入ってこない。
今日はもう限界なのかもしれない。これ以上は。
未処理の書類を見ないように横に押しのけると帰る準備を始めた。
朝食の席で、最近気になる記事でもあるのか、妻に質問された。
よほど真剣な表情で新聞を読んでいたらしかった。自分では気をつけていたつもりなのだが。
今日もあの日のことは記事になっていなかった。
見落としてはいないはずだ。
安心した方がいいのか、心配した方がいいのか……。
結局大きな事件にならずに処理されてしまったに違いない。そうに違いない。
そう思って忘れてしまいたいのだが、なかなか自分を安心させることはできなかった。
エレベーターホールはなんだかやけに暗かった。
節電なのだろうか、実際動いているエレベーターも今は6台ある内の1台だけのようだ。
下向きのボタンを押す。表示灯が反応し昇ってくるのがやけにゆっくりで、ほんの少しイラッときた。
このところやけに神経質になっている。ささいなことでもかんに障る。
やっと着いたと思った表示灯が、このフロアを通り越してさらに上の階へと昇って行くのを見ながら舌打ちがでた。
他にまだ残っているやつがいたのか。
普段の倍ぐらいの時間をかけてゆっくり昇って止まり、そして降りてくる表示灯を眺めながら、理不尽な苛立ちが募っていく。
駄目だ。イライラしては。
視線を表示灯から剥がすと、エレベーター横に設置された鏡の中の自分と目が合った。
等身大の姿見の中には、疲れきった中年の男が映っている。
くたびれ果て、洗っても消えない油ジミに全身を覆われている男。
見慣れている顔のはずなのに、一瞬それが自分だとはどうして思えなかった。
『―――チン』
開いたエレベーターには予想に反し誰も乗っていなかった。
あれっ、と思うと同時にホッとした。
知らない人間と狭い箱の中で気詰まりな時間を過ごすのは、例えそれが短い間でも、疲れ切った状態では本当に嫌なものだ。
1階のボタンを押そうとして手を伸ばすと、ボタンは既に光っていた。
さっき昇っていった人が押してくれたのだろうか?
ゆっくりとドアが閉まり、音も無くエレベーターは動き出した。
せっかく帰れるというのに、明日のことを考えるとあまり気分は良くなかった。
また大きなため息が出た。
あともう5.6時間後には、家を出てまたこのエレベーターを今度は昇ってこなくてはならない。
そこそこ名の通った大学から一流どころの会社に就職し、適齢期に結婚して今は子供もいる。
東京の端っことはいえ一応都内にマンションを購入し、今年は会社で役職も上がった。
その上家族全員五体満足で、妻と母との折り合いも良い。
これ以上いったい何を望むんだ?
これが普通の、いや、普通以上の幸福な人生のはずだ。それは間違い無い。
でもどうしてだ?
なのになんで俺はこんなに疲れてボロボロになっている?
どうして出口のない暗い迷路を進んでいるような気分になる?
だめだ、変な事を考えるな。
理性のささやきがいつものように自分を抑えた。
わかってる。しかしそうやって自分を保つことにも、もううんざりだ。
誰かなんとかしてくれないか?
毎日毎日同じ事の繰り返しで、自分がどんどん擦り減っていくような気がばかりがする。
なにもかもから逃げ出したい。でもできない。
自分がこの幸せなはずの生活を捨てる事も、ここから逃げ出す事も出来ないのは自分が一番良く知っていた。
八方ふさがりだ。
「……もう駄目だ。いっそのこと死んでしまいたい」
疲れているときに不意に出てくる愚にも着かない口癖を、このときもぽつりと漏らしてしまった。
『----ブン』
鈍い音がした。
足元が一瞬ふわっとなり、床がぐらぐらと何秒か揺れた。
その後やけに低い音が箱の中に響いて、そして止まった。
なにが起こったんだと思う暇も無く、蛍光燈が消え、非常灯に切り替わった。
思わず床に四つんばいになった。自分の置かれた状況がしばらく理解できなかった。
エレベーターが止まった?
本当に?
落ち着け、とりあえず落ち着くんだ。
頭や背中から汗が一気に噴き出してきた。手が汗ばむのをズボンで何度何度も拭いた。
とにかく落ち着くんだ。落ちたわけじゃない、止まっているだけなんだけなんだから。
こんな時は、……そうだ、非常ボタンだ。
やっとその事に気が付いて、ドア横のスペースに目をやった。
箱の中はやや暗くなっていたが、はっきりと赤いボタンが見えた。
近寄ってボタンを押そうとしたとき、非常ボタン上のスピーカーから声がした。
「エレベーター管理会社です。大丈夫ですか?」
「閉じ込められたんです。助けて下さい」
「落ち着いてください。大丈夫です。いまそちらに係員が向かっています」
「どうなってるんですか? 」
「今の地震で耐震装置が働いたようです。大丈夫です。すぐ復旧しますから」
「どれくらいかかるんですか? 」
「申し訳ないですが、係員が到着次第復旧しますから、15分から20分くらい我慢して下さい」
「早くして下さい、お願いします」
「わかってます、こちらも頑張ってます。
不安を煽るような事はいいたくないのですが、他のエレベーターでもトラブルが有ったようで。
ちょっと私はここから離れますが、安心して下さい。ボタンの上の方にカメラがあるでしょう?
それでそちらのことをばっちり見てますから。
一旦離れますが、5分ほどしたら戻ります。
それまではお二人とも落ちついて、待っていて下さい」
とりあえず外と連絡が付いた事で、安心して、少し気が抜けていたのだろう。
彼の言った妙なことに一分間くらいはまったく気が付かなかった。
係員はなんて言っていた?
それまでは、お二人とも、落ち着いて待っていて下さいだって?
回りをぐるっと見回して見た。狭い箱の中を。
もちろん自分以外の人間などいるはずも無い。
どういう意味だろうか? 何かを見間違えたのか?
なにかカメラに影でも映ったのだろうか?
そのとき、以前同じフロアの女性社員が言っていた噂を思い出した。
このビルに幽霊がでるという噂を。
「このビル出るんですよ〜〜。
何がって、もちろん幽霊にきまってるじゃないですか。
昔このビルのエレベーターに閉じ込められたまま死んだ人がいるんだってことですよ。
えっ、そんな大きな事故ならニュースになってる?
それがね、事故は事故なんだけど、エレベーターが落ちたわけじゃないんですよ。
止まってすぐエレベーター会社の人が来て、開けてくれたらしいんだけど、
中でね、心臓麻痺起こしていたんだって。
もともと心臓が弱かったってことらしいけど。
でも、その人、すごい顔して死んでいたってことですよ〜〜。
ホントですよ〜〜。
ここの守衛さんに内緒で聞いたんだから」
ぶるっと身震いがした。
まさかね。
係員が見間違えただけだ。
でも何を?
もし自分が見えているのに他人からは見えていないという事になれば、それはちょっと驚くかもしれない。
でも、自分には見えていないのにそこにいると言われたらいったいどう反応したらいいのだろうか?
気にすることはない。
いつもの自分なら幽霊なんて鼻にも引っかけないだろうに、疲れているせいに違いない。
なんだか妙に尻が座らない思いがした。
とにかくもう一度係員と話してみればいい。
彼に確認して、ここには自分一人しかいないとわかればそれでいいのだから。
もしかしたらタチの悪いのイタズラということだってある
そう思って非常ボタンを押したが、反応がない。
何度か押してみるも同じだった。ウンろもスンとも言わない。
まったく、なにやっているんだ、こっちは閉じ込められているんだぞ。
苛立ちと不安が怒りに変わってくる。
5分で戻るといったくせに何分待たせるんだ。
時計を確認しようと左腕を見たが、腕時計をし忘れていた。
慌ててポケットを探ってみたが、携帯電話も会社に忘れてきたみたいだ。
いや、それ以前に鞄を会社に置き忘れていたことにそのときはじめて気が付いた。
信じられない。
どんなに疲れていたからって、あれを忘れるなんて。しかもこんな状況で。
パニックを起こしそうになるのを必死で押さえつけた。
焦っては駄目だ。冷静に対処するんだ。冷静に。
冷静に、冷静に対処しなければならない。
俺は心を落ち着かせようと努力をしていた。いつものように。
はなからあの女とは遊びのつもりだった。それは相手の女もわかっていると思っていた。
自分は最初から、結婚している事は明らかにしていたし、その点で女を騙したつもりもない。
なのにどこをどう間違えたのか……。
引きのタイミングが遅かったのかも知れない。不用意に発した言葉に隙があったのかもしれない。
頻繁に、時間帯をと問わずに来るようになったメール。
返事が遅れると、こちらが何時何処にいようとかまわず直接電話してくるようにもなった。
おいしい思いに、引き際を間違えたのは、確かに自分のミスかもしれない。
だけどもそれは反則だ。ルールを逸脱している。
俺はなんどか女に注意した。慎重に言葉を選んで。
しかし既に女は聞く耳を失っているようだった。
出会った頃魅力的に思えた聡明さはずるがしこさに、積極的なところはずうずうしさに変わっていた。
しかしなんとか出来るとは思っていた。
ここまで自分は致命的なミスは犯していないのだから。
そしてあの日。
あの日は自分にとっての挽回のチャンスの日だったに違いない。
何度思い返してみてもそうとしか思えない。
あの日、俺はなにもしなかった。なにもしないことで全てが上手くいくはずだった。
なにもかも女が勝手にやった事で、それだけは間違いなく本当のことなのだから。
通常の電源が繋がっていないのか、空調も切れたようだった。なんとなく息苦しくなってくる。
ネクタイを大きく緩め、ジャケットを脱いだ。
何もすることがないまま、ただ時間が過ぎるのを待つのは本当につらい。
そういう時は得てして時間が長く感じられてしまう。
それは事実だろう。
しかし、絶対にあれから遅くとも10分以上は経っているはずだ。時計がなくてもそれくらいはわかる。
落ち着け、落ち着けと呪文のように繰り返しながら、相変わらず何の手応えも感じられない非常ボタンを、俺は押しつづけていた。
そして一旦諦めかけて床に座り込んだとき、突然またスピーカーから声がした。
「……どうしました? 大丈夫……ですか? 」
「なにかさっきより声の通りが悪いんですが」
「……装置の調子が悪いみたいですが、心配しないで下さい。
……もう係員は下についてます。……」
「ほんとうですか? 」
「……はい。……女性が……2人……閉じ込められている現場は
……優先的に回す事になっているんで……」
「……もう一回、言って下さい」
「……すいません。良く聞こえないんですが。
……ああ、泣かなくても大丈夫ですよ。お嬢さん。
お二人とももう少しの辛抱ですから……」
「もしもし、もしもし」
プッと不快な音をたてて通信が切れた。
慌ててまたボタンを押したが、もう雑音すら聞こえなかった。
まさか、壊れたのか?
泣かなくても大丈夫ですよ。お嬢さん?
ここには女なんていない。
泣いてるやつもいない。
俺以外にはだれもいない。
他のエレベーターと間違えられているのだろうか?
しかしこのビルで動いているのはこのエレベーターだけだったはず。
汗がじっとりと背中に落ちてきた。額にも。冷房が切れているせいだ。
なのに身体の芯は冷えていた。手足の先も冷たくなっている気がする。
それに気が付くと身体がぶるぶる震えてきた。
いかん、落ち着け、落ち着くんだ。なにかのまちがいだ。係員は何かを勘違いしているに決まっている。
いや、違う。今はそんなこと考えるんじゃない。そんなことよりも気を静めるんだ。今はそれだけ考えろ。
俺は目を閉じ意識を集中した。同じリズムで呼吸をすることに専念し始めた。
あの日女は部屋の中で死んでいた。
いや、横たわった女の身体には一切触れなかったから、本当のところ完全に死んでいたかどうかはわからない。
しかし、その真っ青な顔、テーブルに残された薬、そしてノートに書かれた遺書らしきもの。
何が起きたかは一目瞭然だった。
女の部屋に入ったのはあの日が初めての事だった。
前々から鍵だけは渡されていたが、深入りしない方がいいと判断して、これまで使ったことはなかった。
夕方の電話以後、呼び出しにも出ずメールも返してこない女のことがさすがに心配になり、俺は初めてこの部屋を訪れた。
とにかく救急車を呼ばなくては。
サイドテーブルに置かれた電話に手を伸ばしたとき、頭の中で別の声がした。
やめろ、指紋が付くぞ。
その声に反応して、俺は伸ばした腕を止めた。改めてテーブルに広げられたノートを読んでみた。
『罪を重ねる事に疲れました。元のキレイな命に戻るため、全てを清算するため私はいきます。申し訳有りません』
短いが、端的。十分に遺書としての役割を果たしており、そしてなにより重要なことは、俺の事がまったく書かれていない、という点だ。
俺は部屋の中を見回しながら考えを巡らせた。
俺と女の関係を知るものはいない。その点だけは本当に注意してきた。
ここへ来たのもはじめてで、自分の痕跡はなにも無い。
身に着けていた物やプレゼントを渡した覚えもない。写真も無い。残っているものといえば……・。
俺は女がお守りのように握っていた携帯電話に目を向けた。
これさえ始末できればなんとかなるかもしれない。
俺は決心すると、ハンカチを片手に注意しながら女の手から携帯電話を取り上げた。
死後硬直のようなものはまだ起こっていないようだった。
捨てたりしたら逆に怪しまれる。
少し考えた末、キッチンのシンク横に片づけられていたガラス製のボールに水をはり、携帯を沈めた。
これでいい。
女は全てを清算したのだから、携帯のメモリーが無くなっても怪しまれないだろう、そう思った。
着信履歴は残っているだろうが、俺は女との連絡には女が用意してくれた携帯電話を使っていた。アドレスや番号から自分と繋がる心配は無い。メールの文章が消えてくれれば十分だった。
これ以上はなにもしなくていい。
女は勝手に自殺したんだから。俺が殺したわけじゃないんだから。
俺はなにもしていない。俺はなにもしないだけだ。
女は勝手に自殺をした。ただそれだけだ。
そんな馬鹿なことがあるはずが無い。幽霊だなんて。そんな馬鹿なこと。
でも、この逃げ場の無い狭い箱の中に一人閉じ込められていると、ものすごい勢いで現実感が失われて行く。
荒唐無稽な話でも受け入れてしまいそうになる。
変なことを考えるな。落ち着け。ここには俺しかいないんだから。ここには俺しか……。
呪文のように、独り言を繰り返しながら、何度も何度も箱の内部を隅から隅まで目で追った。
いるはずがない。誰もいるはずがない。誰も……。
ぎくりとした。
それまで箱の中でさまよっていた視線が箱の四隅の一角に吸いつけられた。
そこにはなにか白い靄のようなものがあった。
あれはなんだ?
あの隅の白いものはなんだ。あんなもんあったか?
靄はだんだんと濃くなり、輪郭を作り始めている。
俺は馬鹿みたいに口を開けたまま、その白い影を凝視し続けていた。
それは人のように見える。エレベーターの隅にうずくまるようにしてる白い服を着た人影。
あれは……女だ。
白い服を着た女だ。
気が付くと、女のすすり泣くような声がエレベーター内に微かに響いていた。
『……クスン……・クスン……』
あの日の夕方も女は電話口で泣いていた。
嘘つきだと何度もののしられた。
それこそ嘘だ。俺は嘘なんかついてない。
死んでやる、とも言っていた。
じゃあ死ねよと、心の中では毒づいたが、もちろん言えるはずも無い。
これ以上女を刺激するわけにはいかない。
俺はハズレをひいてしまったことを改めて自覚した。こんなことになるなんて。
なにもかも女がやり始めた事であって俺には関係ない。
女が勝手にやっただけだ。確かに多少いい思いはさせてもらったかもしれないが、それとこれとは話が違う。
女と一緒に地獄への道行きになるつもりは毛頭無かった。
なんとかなだめようとしたところで会議の呼び出しがかかった。
その場は後で電話すると言って電話を無理に切るしかなかった。
女の泣き声が耳の奥にしばらくしがみついていた。
白い影は段々と濃くなっていく。もはや輪郭だけでなく立体的な陰影までくっきりとわかる。
いつからいたんだ? 係員はあれを見ていたのか?
混乱した頭にさっきエレベーターに乗る前の光景が浮かんできた。
このエレベーターは一旦上に上がってその後、降りてきた。
何階まで昇った?
もしかして。……もしかしてあの女が勤めてた会社のフロアじゃなかったか?
あの女が大金を横領して見つかりそうになっていた会社のあるフロアじゃなかったか?
女との最初の出会いも夜遅くのエレベーターの中だった。
急に気分が悪くなり薬を飲もうとしたところ、薬の入った鞄を会社に忘れてきた事に気がついた。
取りに戻らなければ、そう思いながら、その場にしゃがみこんだ。
声も出せなかった。
そのときたまたま乗り合わせた女が声をかけてきたのだ、大丈夫ですかと。
女も残業の多い仕事らしく、以後も何度かエレベーターに乗りあわせる内、いつのまにか親しく声を交わすようになった。
そして、その内に、特にこれといった衝動も無く、俺は女と関係を持った。
当初はいつもの浮気のつもりだった。
しかし関係を続ける内に徐々に女の方の態度が変化してきた。
女は急激に俺にのめりこんでくるように思えた。
女が俺に惚れている事実に最初は気分が良かった。
食事もホテルも女が用意し、女が支払いをしてくれた。
願っても無い話だったが、今から考えればそれは全部罠だった。
冷静に考えれば、女の収入ですべてを賄えていたはずはない。
なにか特別な方法で、なにか良くない方法で収入を得ているに違いなかった。
正直、俺は薄々そのことには気付いていた。けれども豪勢な食事やプレゼントに、引き際を誤った。
女があれほどまでに捨て鉢になっていることがわからなかった。女が道連れを探していたことが。
あの日の電話の最後の最後で、女は俺と知り合うずっと前から、会社の金を横領していたことを告白してきた。
しばらくの間必死で自分を抑えていたが、もう駄目だった。
落ち着こうとしたが無理だった。
はっきり見える女の影。うるさいくらいの泣き声。
気づけば俺はエレベーターの扉を思いっきり叩きながら叫んでいた。
出してくれ! ここからだしてくれ! 頼む!
頭の一部では、そんな自分を押さえようと、必死になってい自分もいた。
だめだ。興奮するな。そんなに興奮したら。駄目だ。
今は薬が無いんだから。
でも無理だった。もう抑え切れなかった。
出してくれ! 出してくれ! ここから出してくれえ!
俺はドアの隙間に指をこじ入れようと必死になっていた。
そんなことできる訳が無いのに。
指先から血が流れ出した。しかしそんなことにかまっている余裕は無い。
また血まみれの手でドアを壁を力の限り叩いた。
出してくれ! 出してくれ! ここから出してくれえ!
ドアに壁に血の跡がにじんでいくが、手の痛みはまったく感じなかった。
自制の声をふりきって、手の骨が折れんばかりにエレベーターの扉を叩き続けて、叫びつづける俺。
無駄だとは知りつつそれを抑えようとする俺。
その葛藤がどれくらい続いただろうか?
かすかに、扉の向こうに人の気配を感じた。
……救助が、来たんだ。
俺はより一層力を込めて、扉を叩きながら、大声を上げた。
『…………』
聞こえた。確かに聞こえた。救助が、救助が来たんだ。きっと。
わずかな希望に、それまで二つに分かれていた俺の思考と行動が一致した。
これで助かった。これで外に出られる。助かった。
そう思った次の瞬間だった。
――――!
電気のような痛みが身体の左半身を駆け抜けた。
心臓が痛い。
恐れていた発作が起こった。
耐え難い苦痛の時間が始まる。
思わずその場にうずくまった。
薬を、薬を、取ってきてくれ、頼む。誰か。
だが痛みが通り過ぎていくのを待つしかない。じっと耐えるしかない。誰もここにはいないんだから。
だけど。だけど。だれか、だれか助けて。だれか。
身を硬くして苦痛に耐えながら、俺は満足に見えないはずの目で助けを探した。
狭まっていく視界の中で、白いものが俺に向かって近づいてくるのがわかった。
あの白い影が急に箱の隅から立ち上がって、俺に向かってゆっくり近づいてこようとしている。
それまでじっとうずくまりまったく動く気配もなかったのに。
来るな! 俺のせいじゃない。俺はなにもやっていない。
お前が勝手にやったんじゃないか。
俺を道連れにするんじゃない。俺には守るものがあるんだ。
助けてくれ!
床に倒れ込んだまま、ろくに動かない身体で、俺は芋虫のように狭い箱の中を這いずりまわった。
来るな! 来ないでくれ。頼む……。
せめて近づく影を追い払おうと腕に力を込めたときだった。
―――――!!
再度、心臓にずっしりとした重い衝撃が走る。
これまで感じたことのない大きな痛みが、俺の胸の中ではちきれんばかりに膨れ上がった。
もう、うめき声も出せない。指一本動かせない。
だれか、だれか。たすけて。おねがいだ。
目の前が白く濁ってくる。耳の中で虫の大群が暴れ始めた。
だれか……。だれか……。
もうなにも見えない。しかし誰かが俺の顔を覗き込んでいるような気がした。
女だ。あの女だ。
たすけてくれ、おれがわるかった。おれがわるかった。
いや、違う。俺は悪くない。全部お前のやったことじゃないか。
俺のせいじゃない。
俺はなにもやってない。そうだろ?
白い影が俺の顔を見つめているのがわかる。
俺もせめて影の正体を見極めようと見えない目を凝らした。
でもその顔をはっきりと見る前に、なにもかも全てが痛みの中で白く消えていった。
『ホントにあの時は、恐かった。
残業なんてするもんじゃないね。だっていきなりだよ。
エレベーターが止まって、暗くなって、そしたら係員がエレベーターの中に人が2人いるとか言い出して。
あたし一人しかいなかったのにだよ。
……まあ、それは係員の見間違えかもしれないんだけど。
あと、その内に誰かが歩き回るような靴音が聞こえたり、壁をドンドン叩く音がするし。
男のうめき声みたいなのも聞こえるしさ。
……まあ、それも救助の人かも知れないんだけどさ。
でも、最初からおかしいと思ってたんだ。あのエレベーター。
あたしが押してない階で途中一回止まったし。
助かってみればばかばかしいんだけど。あのときは駄目。
マジ恐かった。ホント泣いちゃったんだから。
泣かないで下さいって係員の人にあやされちゃった。
ははは。
……でもたしか、あのエレベーターだよね。
ほら、前にうちの会社で何千万も横領してた女の人。
あの殺されかけた女の人の黒幕だった男が死んだとかいうエレベーター。
あたし全然、霊感とか無い方だけど、本当に出たのかな?
出るって聞いてたけど、本当に出るのは反則だよね』
『本当ですよ。監視カメラには男と女の二人が映ってました。
そりゃ見間違いとかいわれたら絶対にそうじゃないとは言い切れないですが……。
ふざけてなんかないですよ。
緊急時にそんな不謹慎なことするわけないでしょう。
だいたいあのビルで動いている箱は一基だけだったし、見間違うはずもないんですけどねえ。
……うーん。確かに中には女性一人しかいませんでしたけど。
えっ、ビデオですか?弱ったなあ。もう重ね取りしちゃったんですよ。すいません。
……ああ、そうですよ。良くご存知ですね。
何年か前にエレベーターの中に閉じ込められて心臓麻痺で亡くなった男はいますよ。
でもあれは病死でしたからねえ。
エレベーターの、ウチの責任とばかりもいえないんですけどねえ。
それにここだけの話、あの男、死んで当然の悪党でしたよ。
なんと、愛人の女に会社の金を横領させて、何億円も巻き上げて。
挙げ句の果てに、ばれそうになったからって、自殺に見せかけて女を殺そうとしたって言うじゃないですか。
男が死んだ後、殺されかけて生き残った女の方が自白してわかったんですけどね。
助かった女の方はちょっと可哀相だったかな。
男の言うがままに、大金を貢いだって話でしたよ。
だから女の方は軽い罪で済んだんですよね。たしか。
悪いことは出来ないもんですよねえ。
こういうのを天網恢恢祖にして漏らさずっていうんですかねえ」
ひどく嫌な夢を見て目が覚めた。
残業中、デスクに向かったままついうとうとしてしまったらしい。
内容を思い出せないが、相当ひどい夢だったらしく全身に汗をかいていた。
いったいいつまでこんな状態が続くのだろう。もう何日もこうやってずっとデスクに向かっている気がする。
疲れているんだ。きっと。
以前ある賞に投稿しましたが、結果はもちろんだめでした。
よかったら感想をお願いします。