誰もが焦がれ、我が者にしたいと願う美しき蒼い宝石は、皆のものであると同時に、また誰のものでもない。壊すなど、神をも恐れぬ行為にほかならない。
広い会議室内に、スズキ平塚の淡々とした声が響き渡っていた。コの字型の机には白髪の重鎮が整然と並び、隣の席と小声で話し合ったりしている。彼のかたわらには、『地球緑地化計画』と題されたホワイトボードが黒々と書き込まれてある。優雅に動く長い指で、かれこれ一時間ほど今回のプロジェクトの説明をしていた。
スズキ平塚は完璧主義のエリートだ。過去に彼が提案したプロジェクトは、全て成功におさめている。どんな落ち度も彼には見あたらない。皆の信頼は強く、改めて賛同を尋ねるまでもなかった。そしてその通り、満場一致で会議は終わった。
片付けるスズキ平塚の側に上司がきて、期待しているよと肩を叩いた。こんなとるに足らないプロジェクトごときに無用な励ましだと思ったが、スズキ平塚はこれに笑顔で答えた。スズキ平塚と上司の一人娘は、このたびのプロジェクトの終了後に、婚約が決まっている。将来の父であり、自分が座るであろう席でもあるため、悪い顔はできないのだ。
颯爽と社を後にスズキ平塚が向かった先は『天災株式会社ドットコム』だ。スズキ平塚の担当営業マンである佑平タナカと会う約束をしていたのだ。
裕平タナカは彼より三つ年上で、お昼は愛妻弁当を持参し、記念日には決まって家族旅行と、実に家族思いだ。仕事も有能で、スズキ平塚が手がけるプロジェクトには欠かせない、良きパートナーでもある。
通された部屋で長い足を組んで待っていると、ほどなくして裕平タナカが目尻にしわを寄せて入ってきた。彼は、いかがでしたか、と早速会議の様子を尋ねてきた。スズキ平塚は黙って笑顔を見せる。裕平タナカは、おめでとうございます、と目尻のしわを一層深めた。
一通り打ち合わせが終わり席を立つスズキ平塚に、佑平タナカがファイルを片付けながら冗談まじりに言う。
「しかし『地球緑地化計画』というより『地球初期化計画』の方がぴったりなのでは?」
「上のお歴々は露骨な言葉を嫌いますからね。ま、言い回しは違ってても内容は同じですから。」
それより、とノブに手をかけながらスズキ平塚は続ける。
「何日くらいで地球人は絶滅します?」
裕平タナカは、愛想の良い笑顔でさらりと答えた。
「十日もあれば十分ですね。」
十日後、スズキ平塚はバイクで街から離れた丘の上に立つ展望台に向かった。人がちらほら存在するフロアを横切り、個室の展望室に入った。スズキ平塚は椅子に腰掛け、端末をピアノの鍵盤を叩くような優雅さで入力し、長い足を組んだ。空へと伸びる大きな望遠鏡が、指定の方位に向かってゆっくり移動し、彼と向かい合った大きな画面に映像が映し出された。青い海、緑の大地、多少動植物が減ってはいるが、人間が築いた都市は、どこもすっかり壊滅している。
マウスの操作によって画面に次々映し出される地球の映像をなにげに眺めていたスズキ平塚は、あり得ない映像に指を止めた。
猿でもない生き物が河原に座っている。
急いで顔の表情が分かるほど映像を拡大する。
人間の男だ。それも、数々の災害を生き抜くような、筋肉隆々な体型ではなく、中肉中背で頭髪が後退し、ぼろぼろのスーツに眼鏡をかけた、くたびれた感じの中年だ。欠伸なんぞこいて河原で釣り糸をたれている。よく見ると、河原には簡易のテントと、飯ごう炊飯グッズまである。河原に生活臭さえ感じる。
まさか、他にも生き残った人間がいるのではなかろうな。スズキ平塚に落ち度があってはならない。ましてやこんな単純なプロジェクトごときの失態は、プライドが許さない。
スズキ平塚は弾丸のごとく端末を打ち込み、画面にデータベースを表示させる。
『人間生存者、一人』
幸いというべきか、スズキ平塚がたまたま見つけた人間が、唯一の生存者であった。
スズキ平塚は息をつき、額の汗を拭った。一人なら造作なく消せるし、監視も容易だ。手早くすませて、誰にも知られなければ落ち度にはならないだろう。
ふとテントに目をやった。そこに布地で作られた表札が貼付けられてあった。『鈴木』と。
スズキ平塚から一連の話を聞いた裕平タナカは、そりゃ困りましたね、とちっとも困った様子もなく呟いた。彼にとってそれくらいは想定内なのだろう。
「まあ、生き残り保険の竜巻で問題ないでしょう。」
スズキ平塚は胸をなで下ろした。
それにしても、と裕平タナカは続ける。
「その男とスズキさんが同名とは、何か縁でもあるんですかね。」
人類の最後の一人と人類を滅ぼそうとする者が、皮肉にも同名とは、実に妙だ。もっとも、あの男の“鈴木”は姓の方だけれども。
とりあえず裕平タナカは、まかせて下さい、と拳を軽く胸で叩いて請け合った。
次の日、スズキ平塚の姿は昨日と同じ展望台にいた。保険の竜巻は夜のうちに行われ、既にあの鈴木もあの世へ旅立っているはずだ。とはいえ、完璧にプロジェクトを進めたいスズキ平塚は、確実な結果を得るために、再びあの男のいた場所を探した。
河原には、倒れた木々やどこからか飛んできた大きな岩が転がるだけで、鈴木もテントも見当たらない。スズキ平塚は溜飲を下ろした。念のためにデータベースで確実な数字を確認する。
『人間生存者、一人』
スズキ平塚は目を見開く。何回打ち直しても『人間生存者、一人』の文字は変わらない。
まさか、そんな!
生存者の特定ボタンを押すと、河原から数キロ離れた岩場に、くたびれた中年の姿が映し出された。拡大すると……。
鈴木だ!
前よりいくらかスーツはぼろぼろになり、眼鏡のレンズにもひびが走っているが、大きな傷もなく、ことのほか元気そうだ。背後の岩場の小さな洞穴には既に生活臭があり、入り口付近には誰も訪問するはずもないのに、やはり『鈴木』の表札が。
鈴木は膝を抱え、木の先端に刺した小さな昆虫を火にあぶっていた。これから楽しいお昼ご飯といったところか。
なんと強運な男なのだろう!大岩を運ぶほどの威力を見ても、保険の竜巻は決して小さくはない。救助する者も避難する場所も、あそこにはなかったはずだ。竜巻に飛ばされてきたにしても、眼鏡と服を破損させた程度で、鈴木はまったくぴんぴんしているではないか。
スズキ平塚はいらいらと足を揺すり、モールス信号を打つように人差し指を机に叩き続ける。頭の中では、どうやって鈴木を葬り去ろうか、蜘蛛の巣のごとく策を巡らす。スズキ平塚は、はたと思い至った。もしかするとあの男は竜巻の専門家で備えや対処が完璧とか、ああ見えてジャッキーなみに身軽とか、竜巻フェチとか。ならば竜巻以外の災害をあたえればいい。災害の種類はまだまだ沢山ある。たかだか一人の男ではないか。そうそう強運が味方するわけもあるまい。
スズキ平塚は展望台を出ると、すぐさま『天災株式会社ドットコム』へバイクを走らせた。
悶々と一晩をやり過ごすと、スズキ平塚は展望台の開館と同時に望遠室に滑り込んだ。
今回鈴木一人のために注文した災害は、地震だ。鈴木が寝起きしている岩場の洞穴は、地震が起これば崩れて入り口も塞がれるだろう。或は地割れで奈落へ落下しているかもしれない。そもそも高い位置の岩場に逃げ道などありはしない。いくら強運であろうと、助かる見込みはゼロに等しい。
やっと前へ進めるとはやる気分を抑えて、スズキ平塚はデータベースをアクセスする。
『人間生存者、一人』
「馬鹿な!」
静かな展望室に、スズキ平塚の怒鳴り声が木霊する。高まった感情のまま、壊す勢いで端末を叩いた。時折挟まった18禁映像が卑猥な声を上げたが、気にする余裕はない。
岩場が画面に表示された。住まいの洞穴は特定不能なほどに岩が崩れ、食事の場は隆起した岩と無数に引き裂かれた地面で、優雅にお食事など到底出来ない状態だった。こんな状態でよく生きてられるなと思うほど、岩場は惨憺たる有様だった。しかしそこに鈴木の姿はない。生存者の特定ボタンを押す。
鈴木だ!!
鈴木は数キロ離れた密林に移動していた。高い丈夫な木の上に、ぞんざいに木を組み合わせた小屋がある。小屋にはやはり『鈴木』の木製表札。
鈴木は小屋の窓に両肘を突き、のほほんと空を仰ぎ見ていた。スーツだった服は夏使用に破れ、眼鏡のレンズは片方が蜘蛛の巣じょうにひびが走っている。静電気を帯びたような頭髪は乱れ、のんきにハミングなんぞ口ずさんでいる。またもや大きな傷はない。
鈴木のあまりにのんきな姿に、スズキ平塚は怒りを通り越して感嘆した。なんという強運!なんというしぶとさだろう!だが、鈴木を見逃すわけにはいかない。生物は進化の生き物だ。プラナリアのように分裂して増える可能性だってあるのだ。
スズキ平塚はニヤリと笑みを浮かべる。
「面白い。俺と勝負をしようじゃないか、鈴木。」
展望台に通い、携帯電話を片手に裕平タナカと迅速に災害注文を依頼し、画面でリアルタイムな鈴木の逃げ惑う姿を観察。昼は売店ですませ、閉館ぎりぎりまで居続けてから社に寄って夜ご飯を食べ、明日の対策は家で立てる。それがスズキ平塚の日課となった。しかしさすが最後の一人だけあって、鈴木の強運は並大抵ではなかった。
雷を注文。ただ右往左往する鈴木の頭上に、たまたま通りかかった鳥に落雷。恥ずかしい悲鳴をあげる鈴木に落雷するも、幸運にも文明の名残の廃車に触れていたため、そちらに電流が流れて助かり、失敗。
洪水を注文。鈴木は意外に泳ぎが得意のようで、少女のような悲鳴をあげながら幸運にも流木をさけて(むしろ流木が鈴木を避けている?)すいすい泳いで助かり、失敗。何故か背泳だ。
火災を注文。激しく燃える森林で、鈴木は咳とくしゃみとえずきを繰り返しながら右往左往。足元に幸運にも穴があいており、落下。長いトンネルを滑り出てくると、火からかなり遠ざかった沼地に着地。底なし沼だったため、また恥ずかしい悲鳴をあげるも、幸運にも長い蔦が頭上に下がっていたのでこれにつかまって助かり、失敗。
日照りを注文。草木のない乾いた平地に行き倒れる鈴木の近くに、象の群れがやってきて水脈を掘り当てて助かり、失敗。おまけに怪我した子象を鈴木がスーツを引き裂いて手当してやり、感謝されて象の仲間に。以後豊かな森が見つかるまで、背に乗せて移動してくれ、水にも食料(草?)にも困らなかった。
寒波を注文。地球全土を猛吹雪が吹きすさび、半裸の鈴木の体温を容赦なく奪ってゆく。が、途中洞穴を発見し、奥へ進んでゆき落とし穴に落下。長いトンネルを滑り出てくると(デジャブだ)、古代文明の遺跡に着地。人知れず前人未到の偉業を成し遂げたと同時に、地底は温かく飲み水にも食料(虫?)にも困らず助かり、失敗。
失敗を繰り返すたびに、スズキ平塚は「神風の術〜。」とか「鈴木後ろ後ろ。」などとゲームにもにた感覚で、膝を叩いて声を立てて笑い、画面の鈴木に一喜一憂していた。楽しんでいる自分を妙に感じたが、どうしても笑わずにはいられなかった。
久々のデートでさえ気もそぞろ。鈴木は今頃なにをしているだろうかと、目の前の彼女よりも、鈴木のことをぼんやり考えるようになっていた。ある意味非常に危険だ。
「他の女の子のこと考えてたでしょ。」
彼女に聞かれて、まさか、とスズキ平塚は長い足を組みかえ、前髪をかきあげて軽く笑う。
「今の俺には、君以外の女の子なんて興味ないさ。」
その言葉に嘘偽りはない。女の子ではなく、中年のおっさんだけれども。
そんな日々が一ヶ月続いたある日、裕平タナカからある提案を持ちかけられた。アルマゲドンを使ってはどうだろう、と。
アルマゲドンは最終兵器ともいわれる、あらゆる災害の複合品だ。その中で生きていられる生物は皆無に等しい。けれどプロジェクトは地球の緑地化が大前提だ。地球の焦土では主旨に反する。
しかし裕平タナカはその辺りもちゃんと心得ていた。
「なに大丈夫です。種別の雌雄一対を別に移しますから。焦土後に植え直して、再生促進剤で増やせば、まあ七日あれば元の緑地によみがえります。」
「……一度、上司に相談してみます。」
アルマゲドンは高価だ。簡単に上司の了承は得られないと、スズキ平塚は考えていたが、上司はいやにあっさりこれを承認した。娘の未来の婿を、未来の出世頭を、そもそも無下に扱うわけがなかったのだ。
社で仕事をしながらも、家でくつろぎながらも、デートを重ねながらも、スズキ平塚の頭から鈴木が離れない。絶対に死んでいる。生きていられるわけがない。けどもしかしたら……。
いてもたってもいられなくなり、スズキ平塚は上着をはおると、展望台に向けて深夜の街をバイクで走らせた。ひっそり静まり返った展望台はとっくに閉館時間を過ぎており、入り口は固く閉ざされている。スズキ平塚は裏へ回り、監視小屋の扉を叩いた。小太りの警備員が顔を出すと、なんだスズキさんですか、と顔を和らげた。毎日通いとおしたせで、すっかり警備員と親しくなっていたのだ。
「展望を使わせてもらえないだろうか。」
スズキ平塚が頼むが、警備員はすぐに断った。
「そりゃ駄目だ。いくらスズキさんの頼みでも、規則を破るわけにゃいかねえさ。」
そうくるだろうと予測していたスズキ平塚は、とあるベンチの写真を警備員の前にひらつかせた。警備員は野獣の声を発すると、神を崇める仕草で写真に震える手を掲げる。警備員はベンチ写真の収集家だが、一枚だけ撮影禁止の幻のレインボウベンチだけが手に入れられないでいた。
「とあるプロジェクトに関わった際、感謝の印にと館長から貰ったものさ。こんな好機、滅多にあるものじゃないと思うが?。」
誰もいない暗いフロアを、借りた懐中電灯で照らしながら横切り、目的の展望室に身体を滑り込ませた。電源を入れて起動させ、地球の位置を入力。生唾を飲み込む思いで実行ボタンを押した。
砂嵐。
見られなかった。アルマゲドンの凄まじさが、電波を遮断させたのだ。
スズキ平塚は苦笑した。自分は一体何をしている?こんな真夜中に、鈴木という名の中年の男の安否を確かめようというのか。消すべく人間だというのに。
まばらな光が顔を照らし、耳障りな雑音を室内に響かせながら、スズキ平塚は砂嵐の画面を静かに見つめる。その向こうに確かに存在する鈴木の、のたうち逃げる姿を想像しながら。
七日後に映し出された映像は、スズキ平塚の想像通りだった。枯れた木々、乾いた砂地、黒く焦げた岩肌、乏しい色が広がる大地に存在するのは、それだけだ。生物らしき姿はどこにも見当たらない。ただ風だけが、ひっそりと死の大地を吹き抜けてゆくだけだ。それでもスズキ平塚は、数字を確認するために淡々と端末を打ち込む。
『人間生存者、一人』
「まさか……。」
食い入るように身を乗り出して、場所を特定する。中年の形悪い尻が映し出された。
鈴木だった。
乾いた平地が広がる土の上に、ほとんど全裸に近い状態で鈴木がうつ伏せになっている。かたわらの地面に書かれた『鈴木』の表札。材料がないため、家は諦めたようだ。
スズキ平塚は腹を抱えて笑い、勢いよく椅子に背を預けても尚、忍び笑った。
信じられない!アルマゲドンをかいくぐって助かっただと?全ての災害を併せ持った最終兵器だぞ?前代未聞も甚だしい。こんな強運、宇宙広しといえど、聞いたことがない。
しかし閉館間近の時刻になって、スズキ平塚は鈴木の異変にようやく気付いた。映し出されている映像はうつ伏せに寝る鈴木の姿だが、朝と寸分違わない状態だ。データベースでは『人間生存者、一人』と表示されているのだから、死んではいない。けれど文字とは別に、鈴木は死んだようにぴくりとも動かない。どんな災害が身に起ころうとも、その後はのほほんと空を眺めていたというのに。
スズキ平塚は自分でも信じられない行動をとった。上司から地球渡航許可を貰い、単身地球に降り立ったのだ。
夕刻を向かえて赤く染まった大地に、鈴木はいた。映像の姿のままうつ伏せで、軽くつぶった瞼を横に向けている。やはり身動き一つしない。レンズのない歪んだ眼鏡をかけ、頭は雷に打たれてパンチパーマになっているが、生で見る鈴木は、とても強運そうにも、数々の災害を生き延びた強者にも一層感じない。無害で穏やかな顔つきの、どこにでもいそうな中年男だ。
スズキ平塚は鈴木の側にかがみ込み、声をかけた。
「おい、生きてるか。」
鈴木の頬をつまみ上げ、日に焼けた尻を叩く。スズキ平塚の世界では、これが正しい意思確認の仕方だ。決して危なげなプレイではない。
鈴木がうっすらと目を開けた。やはり生きていた。けれど、つまみ上げた頬が異常に熱い。
鈴木はかすれた声で見上げた。
「……やっとお迎えがきたんですね……。貴方は……神様ですか……?」
「どうだろう。むしろ地球でいうところの悪魔に近いかも。でも、鈴木さんを迎えにきたわけではないのは確かだけれどね。」
鈴木は、そうですか、と自嘲気味に笑い、再び目を閉じた。
スズキ平塚は、鈴木を背負って数キロ先の岩場の洞窟へ運んだ。ハンカチを水筒の水に湿らせて、鈴木の額にのせてやる。水筒の水を鈴木の口元へ持っていって飲ませようとしたが、鈴木は顔の前に手をかざして、それをやんわり断った。
「放っておいて下さい……疲れたんです……。」
でも、と鈴木は続けて力なく苦笑する。
「ようやく、皆のところへいけます……。お願いですから、もう、わたしを助けないで下さい……神様。」
数々の災害をかいくぐり、最終兵器アルマゲドンからも生還した強運の男は、翌朝、風邪であっさり死んだ。けれどもその表情はとても安らかで、解放感に満ちていた。
両手で髪をつかみ立ちつくすスズキ平塚を、朝日が斜めに差した。胸にぽっかり穴が空いたような、意思が奥底に隠れたような、今まで感じたことのない感覚に戸惑う。まるで、熱いコイルで心を強く締めつけられるようだった。
プロジェクトの妨げになっていた鈴木はもういない。多少回り道をしたけれど、これで先へ進ませられる。地球の再生にさほど時間はかからないだろう。プロジェクトは成功に終わり、上司の娘と晴れて婚約。昇進の階段もまた一歩上るのだ。
喜んでいいはずだ。いいはずなのに、この虚無感はなんなんだろう……?
スズキ平塚は地球を離れ、死した魂がまず行く裁判所へ急ぎ向かった。一面を純白の綿毛の絨毯に覆われた裁判所の待合室に通されたスズキ平塚は、係にともなわれて入ってきた人物に反応してソファから立ち上がった。後退した髪の上に鈍く光るリングをのせた中年の男は、温和な顔に似合った丸い眼鏡を押し上げてわずかに首を傾げてから、軽く頭を下げた。
「はて、どこかでお会いしましたでしょうか?」
「ええ、鈴木さんの最後の瞳に。」
鈴木は思い出したようで、ああ、と白い歯を見せると、ビジネスマンらしく片手を差し伸べた。スズキ平塚は首を軽く振ってやんわり断る。今の鈴木の姿は、頭上に光るリングが映し出す幻影だと知っていたので。
スズキ平塚は軽く笑んでみせてから、向かいのソファを手で示した。鈴木を連れてきた係のものが部屋から出た。狭い室内にスズキと鈴木は向かい合い、沈黙する。束の間悩んでから、スズキ平塚が口を開いた。
「生き返りたいですか。」
鈴木は、いいえ、と即答する。
「誰もいないんですよ。家族も、友人も、同僚も、皆、もういないんです。それどころか、わたし以外に人は存在しない。そんな場所で生きていたって空しいだけです。」
スズキ平塚は膝の上の拳を強く握りしめる。
「あなたたちは死ねばまた生まれ変われるなどと思っているようだけれど、現実は違う。再び生命を与えられることはない。あなたたちの生は、死んでしまえば、それまでなんですよ。」
鈴木は自嘲気味に笑う。
「……寂しくて、空しくて、辛かった。けれど、大切な生命を自ら断つことはどうしても出来なかった。災害から生命を守らないのも卑怯に思われたので、精一杯生命を守ってきました。でも本当は、ずっと、死にたいと願いながら生き長らえてきました。」
「しかし。」
「たった一人生きていたって、わたしに意味などありはしない。」
誰にも曲げられない、強い目だった。
スズキ平塚はソファに背をあずけて苦笑した。滅ぼそうと思考し、生き返れと口が吐く。本当に自分はどうかしてしまった。けれど、きっと、これが正しく、自分に一番近い。
スズキ平塚は、ずっと疑問に思っていたことを口にする。
「必ず表札をかかげてましたよね。また、どうしてですか?」
ああ、と鈴木は照れくさそうに笑って頭をかく。
「『鈴木』はわたしの家族の名ですから、表札を見るたびに、家族から励ましをもらっているような気がしたので。」
本当にごく普通の、優しく親切そうなおじさんは、溢れるように家族のことを語りだした。
五時を知らせる時報が鳴った。帰り支度を済ませた中年の男は、仕事に追われて忙しく動き回る人々に軽く挨拶すると、タイムカードを通した。階段を下り自動ドアをぬけて表に出ると、ビジネス街の交差点には、帰る人々と、まだ仕事をし続ける人々が行き交っていた。信号が色を変えて人々の足を止めると、今度は種々様々な車が、当たり前のように排気ガスをまき散らして轟く。
慣れた騒音と汚臭が混合する直中で、中年の男は空を見上げた。雲一つない茜色の空が狭く広がり、多種多様な色合いの街並を暖色系に染め上げている。彼は目を細め、赤く染まった地平線に立つ神様に思いを馳せた。
別れ際の言葉が脳裏で苦笑する。
『俺にとって貴方の存在は、この世の中の唯一人ですよ。』
奇特な神様だったな、と彼は思う。信仰心のない者の願いを叶えるなんて、なんと心の広い方なのだろう、と。
信号が再び変わった。前に進む人々に合わせて、中年の男もまた歩き始める。表札の向こうに存在する家族に、ただいま、と言うために、今日ものんびり家路へと帰るのだった。
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