5月の庭
図書館にいる司書の岡田先生のことを、アキオを含めて生徒たちはみな嫌っていたと思います。いつもいばっていてガミガミと口うるさく、本来、人がどんな本を読もうが自由なはずなのに「あれを読め、これを読め」とか「そんな本はだめだから、本棚から外して捨ててしまおう」などと、もう腹が立つやら感じが悪いやら。
あれでは、あの年になるまでお嫁にいくことができなかったのも理解できる気がします。だけど本人は女性的魅力にあふれているつもりのようで、やたら真っ赤なスカート姿で新任の男の先生に話しかけたりするのは、見ていられない感じでした。
そんなある日のことです。放課後、アキオは掃除当番で、閲覧室の床掃除がすんだことを岡田先生の控え室まで報告に行かなくてはなりませんでした。だからドアをノックしたのですが、返事がないのです。アキオはそっとドアを開けました。先生はいないのかと思ったのですが、すぐに姿を見つけることができました。窓のそばにイスを置き、座ったまま昼寝をしているではありませんか。人に仕事をさせておいて、まったくいい気なものです。アキオは少し腹が立ってきました。
5月の日差しはさんさんと明るく、窓の外に広がる庭は太陽の光をまぶしく緑色にはね返しています。花々が咲き乱れ、花びらをゆっくりと揺らすそよ風がふき込み、開け放った窓のそばにいれば気持ちがいいに違いありません。アキオは階下で額に汗までかいていたのに。だけど先生の顔のそばをハチが飛んでいることに気がついたのは、このときのことでした。
あの黒い色はジガバチです。ミツバチなどと違って羽音を立てることはほとんどありません。だから先生は平気な顔で眠り続けることができるのでしょう。
ジガバチとは変わった名前だと思いませんか。このハチは他のハチのように群れは作らず、メスはただ一匹で小さな巣を作り、卵を産みます。巣といっても地面の中に掘った小さな穴に過ぎないのですが、他の昆虫の幼虫やイモムシを捕まえてきて、針で注射して麻酔をかけて眠らせ、この巣の中に引きずり込むのです。
そうしておいて卵を産むわけですが、卵からかえったジガバチの子供は、この眠っているイモムシをお弁当代わりに食べて成長します。残酷なようですが、それが自然というものだから仕方がありません。だからアキオも自然の気持ちになって、岡田先生のまわりを飛び回るジガバチの行動を見守ることにしました。
恐るべき真相に気がついたのはその瞬間のことでした。あのジガバチは少し怠け者だったのかもしれません。地面に穴を掘って巣を作るのが面倒で、いいタイミングで発見できた出来合いの穴をその代用品に使うことにしたのでしょう。ツバメなんかも、誰か別のツバメが作った去年の古い巣を再利用することがよくあるそうですから、それに似たことなのかもしれません。
よく太った大きなイモムシを、よっこらしょとばかりジガバチは運んでいました。本当に大きいので、ジガバチは6本の足でやっとやっとつかんでいる感じです。空を飛ぶのにも、まるでヘリコプターのプロペラのように羽根を忙しくフルパワーで動かしている感じです。
あのイモムシはキアゲハの幼虫でした。飼っていたことがあるのでアキオは知っていました。黄緑色の地に濃い色の縦すじが何本もあり、怒らせるとオレンジ色の角を突き出して、いやな匂いを放ちます。だけど今はジガバチに麻酔をかけられて眠り、ピクリともしません。
ジガバチはどうするつもりだろうと興味を持って眺めていたのですが、アキオの予想は外れていなかったようです。イモムシをかかえたまま、ジガバチは先生の口の中へと入っていくではありませんか。まず下唇にとまりましたが、先生は目を覚ましません。よいしょよいしょと力を出して、ジガバチはイモムシを奥へと引きずっていき始めました。そしてアキオからは見えなくなってしまいましたが、30秒もしないうちに再び姿を見せたのです。口の中にイモムシを置き、卵を産みつけたに違いありません。先生の歯にとまってしばらく休憩していましたが、やがて羽を動かし始め、どこかへ飛んでいってしまいました。
「うーん」と岡田先生が目を覚ます気配を見せたのは、このときのことでした。観察しているとわかりますが、人間とは一瞬で目を覚ましたりはしないものです。顔をしかめ首を動かし、ふうふう息を吐いたりして、それからやっとまぶたを動かすのです。このときも岡田先生はそうしましたが、目を開く直前にのどを動かし、ゴクンと無意識に何かを飲み込んだ様子だったのをもちろんアキオは見逃しませんでした。
「あら夏野君、掃除はすんだの?」岡田先生は言いました。
「はい先生」
アキオはとてもいい表情をしていたに違いありませんが、もちろん先生は理由に思い至らないようでした。それでも何か感じるところはあったようで、口を動かしかけましたが結局何もいわず、掃除の仕上がり具合を確認に行くためにイスから立ち上がったのでした。
だけどお話はこれではすまなかったのです。してやったりという思いでアキオはいい気分でいたのですが、恐怖は翌日訪れたのです。朝、登校してみると、岡田先生は病気で学校を休んでいるではありませんか。なんでもひどい苦痛をともなう症状に突如見舞われたとかで、それを聞かされたときにアキオが感じた罪悪感の大きさは、簡単に想像がつくと思います。もし彼が食べさせたイモムシのせいで病気になったのだとしたら。
その日、図書館は一日中閉じられていました。その翌日には当番を決めて他の先生たちが書庫の鍵を開け、本の貸し出し事務を代行するようになりました。そうです。岡田先生はまだ病気だったのです。どこかの病院に入院したらしいという噂まで生徒たちの耳に入ってきました。それだけではありません。岡田先生は緊急手術を受け、体内から何かを摘出したというではありませんか。もうアキオは真っ青になり、食事だってのどを通りませんでした。
だけど岡田先生は快方に向かいつつあるという知らせが数日後には届き、彼もほっと息をつくことができたのです。まだ数週間は退院できませんが、もう心配はないということでした。アキオの食欲も戻ってきて、学校へ行き、以前と同じように教室や運動場で活発にすごすことができるようになったのです。
さらに日がたち、明日には岡田先生も退院できるという日の昼休みのことでしたが、クラス担任の鈴木先生が現れて、「岡田先生が君に会いたいと言っているのだよ」と聞かされたときには、アキオがどれほど飛び上がって驚いたことか。ジガバチやキアゲハの幼虫のことなどもちろん誰にも話してはいなかったのです。今後も口が裂けたって話すわけにはいきません。だから鈴木先生が放課後、病院まで自動車で乗せていってくれると決まったときにも、「いやだ」とは言えなかったのです。
放課後がやってきました。少しでも時間をかけて、ゆっくり走ってくれるように願っていたのですが、自動車は何分もかからずに病院の前へ着いてしまったではありませんか。病院の建物は白い色をして、4階建てで、アキオの目にはとても大きく、まるでのしかかってくるかのように感じられたことは想像にかたくありません。岡田先生がこの中で待っているのです。できるだけゆっくりだらだらと歩きたかったけれど、鈴木先生がさっさと前を行くものだから、ついていかないわけにはいかず、あっという間に病室の前までつれてこられてしまいました。
鈴木先生がノックをし、「はい」と返事が聞こえました。間違いなく岡田先生の声です。すぐに走って逃げ出したくなりましたが、ドアを開けて鈴木先生が背中を押すものだから、アキオは入っていくしかありませんでした。
寝巻き姿でしたがベッドの上に体を起こし、岡田先生は待っていた様子です。だけどなんということでしょう。同じ岡田先生であることは間違いないのに、別人なのではないかとアキオは一瞬思ったほどでした。それほどの変わりようだったのです。病気をしたせいか少しやせていますが、それだけではなく、何歳か若返ったようにさえ見えるではありませんか。クシをかけた直後なのか、バサバサだった髪も今ではみずみずしく、顔の左右を額縁のようにバランスよく飾っています。
鼻の形だって変わってしまったように見えます。とがった細い鼻なのですが、以前のようないじわる魔法使いのようではなく、すっきりしたきれいな鼻筋が通っているのです。「あんた誰?」とアキオは本当にもう少しで口にしてしまいそうでした。
にっこり笑って礼を言い、少しの間アキオと二人だけにしてくれるようにと岡田先生は言いました。鈴木先生がその通りにしたことはいうまでもありません。ドアを開け、一人で廊下へ出て行ったのです。その背中を見送って振り返ると、自分は岡田先生と二人きりでいるのだということをアキオはいまさらのように感じないではいられませんでした。岡田先生は何の話をしようというのでしょう。
そばのイスに腰かけるように合図をし、岡田先生は話し始めました。
「先生はね、何年も前からある病気をずっと持っていたの。痛みや苦痛などはないのだけれど、この病気のせいでときどき、すうっと気が遠くなってしまうことがあるのね。そして座り込んでしまう。体の力が抜け、目も閉じてしまうから、はたから見ていると昼寝をしているように見えるかもしれないわ。でもそうじゃないの。目を閉じ、体を動かすことはできなくてもちゃんと起きていて、耳は聞こえるからまわりで起こっていることはみんなわかるのよ。
あの日も先生はその発作に襲われていたの。控え室のイスの上で動けなくなっていたわ。そこへ夏野君、掃除が終わったことをあなたが知らせにやってきたのね。眠っているように見えただろうけど、私はみんな気がついていたのよ。そして私の耳がハチの羽音を聞きつけたのもそのときのことだった。
夏野君は私を起こしたりせず、じっと見ていたわね。イモムシを抱えたままハチは私の口の中へと入り、ちょっと仕事をした」
「でも…」
「いいのよ。そんな顔をしなくても。私は怒っているのではないわ。むしろ感謝をしたいぐらいよ。もし興味があるのなら、あとでお医者さんのところへ行って、私の体から手術で摘出した寄生虫の標本を見せてもらうといいわ。ううん、やはりやめておいたほうがいいかも。見せてもらったとき、こんなものが自分の体内に何年もいたのかと私自身もぞっとしたもの。それぐらいグロテスクなものよ。
人間ののどの奥は入口よりも少し広くなっていてね。いくつもある足を使って、この寄生虫はまるで木の幹にとまるセミのようにして、じっとその場所にしがみついていたの。科学でもまだ未発見の新種だということで、お医者さんは大喜びをしているわ。論文を書いて、学会で大きく発表するんですって」
「本当にそんなものが先生の体の中にいたの?」
「もう何年も前からよ。でもあまりにも強く張り付いているものだから、手術をして取ることができなかったの。一生これと付き合っていくしかないとお医者さんたちからは言われていたから、もう私も半分自暴自棄でね。あなたたち生徒にはずいぶんつらく当たってきたと思うわ。ごめんなさい」
「でも、どうしてその寄生虫を取ることができたの?」
岡田先生は、顔をぱっと輝かせました。「この寄生虫の頭にはツノが一本生えていてね。丸く短く、まるでイモムシのような形で前方へ突き出しているの。憎らしいことに、このツノがのどの奥でうごめくのを、私はときどき感じることができたわ。
あのジガバチが私の口の奥へとイモムシを運び入れようとしたときにも、それが起こったのよ。寄生虫のツノがうねうねとうごめいたのね。それがジガバチを当惑させることになった。暗いのどの奥では、このツノとイモムシの区別がつきにくかったのでしょうね。『さっき確かに麻酔を注射したはずなのに、なぜまだこのイモムシは動くのだろう』とハチは思ったに違いない。だからおしりの先から針をもう一度取り出し、念のためにもう一回麻酔を打ったのよ」
「でもそれが本当はイモムシではなくて、寄生虫のツノだったんだね」アキオは思わず大きな声を出してしまいました。
そうです。だから岡田先生の体内にいた寄生虫は力を失い、のどの奥にしがみつくことができなくなり、無事に手術で取り出すことができたわけでした。アキオのちょっとしたイタズラが、思いがけず人ひとりの人生を救ったわけです。退院して、岡田先生はもちろん図書館へと戻ってきましたが、打って変わって別人のようなので、生徒たちから嫌われるようなことは二度とありませんでした。
(終)
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