鏡の中の女王
1
ロールというのは男の子の名前です。自分がお母さんの本当の子ではないということを、なぜかロールは小さなころから知っていました。そしてあるとき質問してみたのです。
お母さんが答えるには、赤ちゃんを生み、それは本当にかわいらしい女の子だったのですが、あまりにも愛らしすぎたせいか生後二ヵ月たったある夜、何者かの手でさらわれてしまったのだということでした。現場はロールが今も住んでいるこの家の内部で、暑いので風通しのよい屋根裏部屋に寝かせておいたのですが、気がつくと赤ちゃんはいなくなっていたのです。
状況から考えて、とても人間にできる誘拐ではありませんでした。町の人々の意見も聞いて、きっと妖精の仕業だろうということになりました。昔話にあるとおり、妖精が美しい赤ん坊をさらい、代わりに別の醜い赤ん坊を残していくのはそう珍しいことではなかったのです。替え子というやつで、昔からよくあったことなのです。その替え子というのがロールだったのでした。
ただ昔話と異なるのは、ロールは醜い不細工な子供では決してなかったということです。ロールは愛らしく、誰からも好まれる男の子でした。
そのせいなのかどうなのか、自分の赤ちゃんを失って腹を立てて、お母さんはロールを窓からほうり出したり、火のついた暖炉の中に放り込んだりはしなかったのです。そのまま自分の子供として育ててくれました。しかしロールもなんとなくわかっていたことですが、お母さんが自分を育ててくれているのは慈悲でも何でもなく、「いつかグレースと出会えたときに、再び取り替えて自分の手に取り戻すことができるように」という理由からだったのかもしれません。要するにロールは、グレースを取り戻すために必要な『引換券』だったのです。だけどそのことも、ロールの人生を不幸にはしませんでした。それなりに愛し、お母さんはロールをかわいがってくれたのです。
2
その日ロールは、朝から鼻水がズルズルとたくさん出てきて、どうしようもありませんでした。どうやっても止まってくれず、冗談でもなんでもなく大量なのでお母さんもあきれ、「今日は学校を休んで、一日おとなしくしていなさい」と命じるほどだったのです。
だからロールは一人で自分の部屋にこもっていたのですが、鼻水はとどまるところを知らず、もう3枚目のハンカチがびっしょりになっていました。本当の話、自分の頭の内部にはどんなにか巨大な鼻水タンクが存在し、そこにはどれだけ大量の鼻水がたくわえられているのだろうとそら恐ろしく感じられるほどだったのです。
いったい何がどうなっているのだろうと、ロールは鼻の穴の中をのぞき見ることにしました。だからハンカチを使ってできるだけふき取った後、押し付けるようにして鏡に近寄り、鼻の穴をうんと押し広げようとしたのです。鼻水タンクの中でキラキラ輝いている水面が見えるとでも思ったのかもしれません。でももちろんそんなものは見えず、ただスプーン一杯分の鼻水が、再びポタンと足の上にたれてきただけでした。
ロールは「ひいっ」と声を上げましたが、彼を驚かせたのはたれてきた鼻水ではありません。ガラスを突き抜けるようにして鏡の中から誰かの手が突然現れ、ロールの鼻をつかもうとしたからです。それがとても強い力なので、ロールは痛みさえ感じるほどでした。だけど鼻水のおかげでその手がすべり、彼も一度は逃れることができたのです。
しかし手はあきらめません。指をはじいてピュッピュッと鼻水をぬぐい、今度は鼻の穴の中へ指をねじ込もうとするではありませんか。これにはロールもどうすることもできませんでした。悲鳴を上げながら、鏡の内部へと引っ張り込まれるしかなかったのです。
鏡の内部を通り抜けるというのは、とても不思議な経験でした。あれはガラスの精たちなのかもしれませんが、水銀でできていて本物の布のようにやわらかい服を着た小人たちが、同じように銀色をした帽子をかぶり、ヤリを持って列を作って行進している姿がちらりと目に入ったような気がしたのです。だけどそれは本当に一瞬のことで、ロールはすぐに何もわからなくなってしまいました。
3
どうやら気を失っていたようでしたが、ロールが目を覚ましたのは見たこともない部屋の中でした。やわらかなソファーの上にあおむけに寝かされ、天井を見上げていることに気がついたのです。
古めかしいけれど、きれいに整えられた部屋です。大きな窓が開かれて明るく、外には庭園が広がっている様子ですが、一方の壁には縦横が2メートルもある鏡があり、景色がそれに反射していました。もしかしたらこの鏡を通してつれてこられたのかもしれませんでしたが、ロールはまだそのことに思い至ってはいませんでした。
「あんたは誰?」ロールが最初に口にした言葉はこれでした。「なぜ手を洗ってるの?」
部屋の中には二人の女がいました。後になってわかったことですが、ここは女王の居間で、女王とその侍女だったのです。水の入った洗面器をテーブルの上に置き、その中に女王の手を入れて侍女が洗ってやっているところでした。女王が顔を上げました。
「おまえの鼻水を洗い流しているのだよ」
ロールが急いで自分の鼻に手を当てたのはいうまでもありません。だけど、もうすっかり乾いています。
「鼻水止めの呪文をかけてやったからさ。あれはとてもよくきく」再び女王が言いました。
「あんたは誰?」
合図をして、女王は洗面器と侍女を下がらせました。そしていかにもくつろいだふうにそばへ来て座るので、ロールも体を起こすことにしました。
「ここは『春の女王の国』といってな、私がその女王なのだよ。名はグリーンという」
「グリーンさん?」その名は、彼女にはとてもふさわしく思えました。なぜって、本当にキャベツの葉のような色の髪をしていたのです。
「グリーン様か陛下と呼ばれるほうが、私は好きだな」
「でもなぜ僕をここへ呼んだの?」
「そのことよな」春の女王は、そばのテーブルの上に置いてあった赤いヒモをひょいと取り上げました。長さは数十センチというところですが、一ヶ所を結んで輪のようにしてあります。
「それで何をするの?」
手を伸ばして触れて春の女王はロールの手のひらを上へ向けさせ、指を少し広げさせるではありませんか。
「あやとりをして遊んでいたのだが、もう一つ手が必要になったのだよ。だからおまえを呼んだのさ」
「たったそれだけのために?」
「たったではない。人を呼ぶのに十分な理由さ。あとでうまいものを食わせてやるから、文句を言わずに付き合うのだ。さあ始めるぞ」
そうやって二人のあやとり遊びが始まったのでした。ロールを相手に選ぶという春の女王の判断は、間違ってはいなかったのかもしれません。ロールのお母さんは体が弱く、ずっと家の中にいることが多かったのです。そのお母さんを退屈させないために、ロールも居間で一緒に過ごす時間が長かったのです。そのときによく遊ぶのがあやとりだったので、お母さんに教えられ、知らない間にロールはめきめきと上達していったのでした。
それがどこの国であれ、女王陛下などロールは本物を目にするのは初めてでした。物語の本などから得た知識で、女王というものはみな白雪姫の継母のように意地悪で残酷な女に違いないと思い込んでいたので、言葉づかいや振る舞いに十分気をつけていたのはいうまでもありません。でも春の女王もあやとりは上手で、ロールは楽しい時間をすごすことができました。春の女王の言うとおり呪文の効き目はめざましく、彼はもう鼻水に悩まされることもなかったのです。
知らない間に何時間かが過ぎていたようです。遊びがすんでおいしい食事が出され、食べ終わるころにはロールは大きく口を開いてあくびをし、もう眠くて眠くてたまらなくなってしまいました。だから春の女王が侍女を呼び、寝室へ案内されると、ロールは何の疑問も感じることなくベッドにもぐりこみ、目を閉じてしまったのです。
そのままぐっすりと眠り込んでしまったのですが、かといって朝まで目を覚ますことがなかったわけではありません。真夜中に訪問者があり、その気配に気づいて目を開くことになったのです。
4
ロールの枕元には小さなテーブルがあり、訪問者はその上にちょこんと乗っていました。だからそれほど大きな体をしていたわけではありません。少しばかり身じろぎをしてわざと音を立て、ロールの目覚めを誘ったのだと思われました。目を開き、暗い中ですがロールは見上げたのです。カーテンのすきまから月の光がさし込み、相手の姿を照らし出していました。
ロールが目を丸くしたのは想像にかたくありません。曲がった足のつめ、曲がったクチバシ、曲がった首をしたハゲタカがそこにいたのです。たった一羽ですが、大きさはその胴体をロールが両手でやっとかかえることができるほどもあり、丸い目玉をぎょろりと開いて見下ろしているではありませんか。
ハゲタカがなぜこんな場所にいるのか、なぜ自分を見つめているのか、ロールには見当もつきませんでした。声を出すことも、もちろんベッドから起き上がることもできないまま、見つめあっているしかなかったのです。だけど不意にハゲタカが体を動かしました。かがんで首を伸ばし、めくれかかっていた毛布のはしをくわえ、ロールの体にかけなおしてくれたのです。ほんの小さな声でですが、ロールの口からは思わず「ありがとう」という言葉がもれてしまいました。
「どういたしまして」
その言葉を聞いてロールは目を丸くしてしまったのですが、なんとこのハゲタカはメスだったのです。勇気を出して手を伸ばし、ロールはおなかの毛をほんの少しくすぐってみました。もちろんクチバシでつつき返したりせず、ハゲタカはおとなしくしています。気持ちよさそうに目まで細めているではありませんか。
風を入れるために窓を少し開けたまま眠ってしまったことをロールは思い出しました。春の女王の国は一年中暖かく、春の日がずっと続くのですが、平野を渡ってくる風は夜でも暖かく、時には少し暑く感じられるほどだったのです。
「あんたは誰?」ロールは言いました。
「誰でもいいではありませんか」にっこりと微笑んで、ハゲタカは答えました。「このお城の上空を飛んでいたら、あなたの姿が目に付いたのです。だからもっとよく見ようと降りてきたのですよ」
そういえばロールの部屋は城の塔のてっぺん近く、とても高いところにありました。顔を向けて窓の外に広がる夜空を眺めていたのをやめ、ロールは「ふうん」とハゲタカを振り返りました。彼女はまだ微笑んで見つめているようです、こうやって、ロールはこのハゲタカと友達になりました。
5
朝になると、もちろん女王の侍女がロールを迎えに来てくれました。翼を羽ばたかせ、ハゲタカはその少し前にさっと姿を消していましたが、春の女王には自分のことを内緒にしていてほしそうな顔をしているような気がしたので、ロールも話さないでおくことにしました。
春の女王は朝食の間で待っていました。食事を始めようとすると女王は、この世界に存在するもう一つの国について話し始めたのです。「おまえは知らぬことであろうが、その国の名は『冬の女王の国』というのだよ」
「じゃあ、冬の女王というのがいるの?」
「もちろん」春の女王はうなずきました。「だが私たちは戦争をしているのだ」
「あんたと冬の女王が?」
冬の女王と自分の関係について、春の女王はもう少し詳しく話してくれました。初めて耳にすることばかりで、興味津々でロールが目を丸くしたのはいうまでもありません。
朝食をすませた後、ロールは一人で城の中を探検してみることにしました。城壁と堀に囲まれた丸い形の城で、大きさは野球場二つ分ぐらいだから、それほど巨大とはいえないかもしれません。だけど兵たちが何百といて、ヨロイや剣の手入れなどをしていますから、春の女王が言ったとおり、冬の女王と戦争をしているというのは間違いないことでしょう。
城壁のてっぺんに上がってわかったことですが、城の外には町が広がっています。町の直径は数キロというところかもしれません。その外には小麦畑があり、春の女王の町にふさわしく青々と葉がしげり、風が吹くと波のように揺れるのを見ることができました。
兵たちに混じって昼食は城内の広い食堂ですませ、午後は城門をぬけて町の中を見物に行きました。夕方になっておなかをすかせ、ロールは春の女王のところへ戻ってきたのです。昨日と同じ部屋の中で、春の女王とともに温かくおいしい食事が待っていました。
そうやってロールは春の女王の城での生活に慣れていったのですが、同時に、毎晩寝室を訪れるハゲタカとも親しくなってゆきました。ある夜、ハゲタカが奇妙なことを口にし始めたのです。
6
「あなたは今日は町へ行ったのでしょう? 広場の中央で作られている大きな木馬に気がつきましたか?」とハゲタカは言ったのです。
「もちろん気がついたよ。もうだいぶ出来上がってるね」自分で体に毛布をかけながら、ロールは答えました。「ものすごく大きいよね」
それは本当にロールが言うとおりだったのです。木馬なのだからもちろん木でできていて、本物の馬そっくりの形をしているのですが、小山のようと言いますか、高さも長さも3階建ての家ほどもあるのです。歩くことはできませんが、足の先には大きな車輪がつけてあり、地面の上を転がしてゆくことができるようになっています。
「あれは春の女王から冬の女王への贈り物なのですよ」ハゲタカはロールの表情をゆっくりとのぞき込みました。
「どうして?」
「あの二人の女王はもう何年も長く戦い続けているのです。でもまだ勝負がつきません。まったく互角で、つく気配もないのです。だから春の女王は、もう戦争はやめて平和になろうと呼びかけているのですよ」
「そのためのプレゼントなの?」
「ええ」
「でも冬の女王って、正体は怪物なんだってね」
「春の女王がそう言ったのですか?」
「うん。冬の女王の家来はトナカイたちで、それを支配している冬の女王も、人間の姿をしているけれど本当は人間じゃないんだってさ」
「確かに冬の女王の正体は人間ではないかもしれません」
「あんたは会ったことがあるの?」
「ええまあ。あなたは会ってみたくはありませんか?」
「でも春の女王の敵なんだよ」
「春の女王はあの木馬をプレゼントするのですよ。冬の女王は受け取るに違いありません。そうすれば平和になって、戦争も終わります。冬の女王もきっとあなたを歓迎してくれることでしょう」
「そう思う?」指を伸ばし、ロールはハゲタカの羽根の先に少し触れてみました。
「もちろん」クチバシの先で、ハゲタカはロールの指をやさしくくすぐり返します。「もちろんそう思います」
7
春の女王にもハゲタカにも黙っていましたが、いつの間にかロールの心の中では、冬の女王への興味が大きく成長していったのです。冬の女王とはどんな城に住んでいるのだろう。どうやってトナカイの軍団をたばね、命令を聞かせ、支配しているのだろう。それに何よりも、冬の女王とはどんな女なのでしょう。
冬の女王の姿については、春の女王もハゲタカもなぜか詳しくは聞かせてくれませんでした。ロールは町の人々や兵たちにも質問してみたのですが、やはり誰も詳しくは教えてくれません。冬の女王の城はこの町から何十キロも荒野を横切っていった先にあるのですが、町の人々の中にはそこまで行った経験のある人など一人もいなかったのです。だから町の人々の知っていることは、すべて噂で聞いた又聞きでしかなかったのです。もちろん冬の女王の姿など誰も見ていなくても不思議はありません。
ならば兵たちはどうかというと、これもあまりあてにはなりませんでした。兵たちも冬の女王の城は遠くから見たことがあるだけにすぎず、中へ足を踏み入れたことがある者もなく、冬の女王の姿だって、遠くからシルエットで見たことがあるという程度でしかなかったのです。
もちろん春の女王は、冬の女王に直接会ったことがあるに違いありませんでした。春の女王と会話して、その言葉のはしばしから探り出すことができたのは、二人の女王は何かのことで口論をし、それがきっかけでこの戦争が始まったのだということだけでした。口論の内容などそれ以上詳しいことを質問しようとするだけで春の女王は決まって機嫌が悪くなり、だからロールは口を閉じているしかなかったのです。
昼間の間に広場を歩き回って、ロールは噂話を聞き集めることにしました。木馬を見物する人々も多く、特に子供らは何十人と集まってまわりで遊んでいるので、ロールがそこにいても怪しまれる心配はありませんでした。そして一日が終わり、もちろんこの夜もハゲタカが彼の寝室を訪れたのです。
「今日、広場で話を聞いたよ」ロールは話しかけました。
「何をです?」
「あの木馬はもう完成していて、明日の朝早く出発するんだってね。夜明けと同時に町を出て、丸一日かかって、その次の日の夜明けごろに冬の女王の城の前に着く予定なんだって」
「そのことは私も聞いています。とうとう戦争が終わるのですね。どうです? 一度冬の女王に会ってみたいとは思いませんか?」
「そんなことができるの?」
「もちろんです。あなたはただ、あの木馬に乗り込めばよいのです。あとは兵たちが運んでくれるでしょう」
「どうやって乗り込むの?」
「木馬には大きな頭があるでしょう? あれは物置小屋ほどのサイズがあって、内部は空洞になっているのです。あの中に入れば、誰にも見つかる心配はないでしょう」
「だけどそんなこと無理だよ」
「どうしてです?」
「木馬のまわりには人がいっぱいいたもん。とても近づけないよ」
「そうですね。とても無理かもしれませんね」
話すのをやめ、ロールは目を閉じました。またいつものようにクチバシでくわえて、ハゲタカが毛布をかけてくれたことはいうまでもありません。
8
珍しいことですが、ロールは夜明けごろ目を覚ましてしまいました。普段なら侍女が起こしに来てくれるまでグウグウ寝ているのですが、この日は違ったのです。だけどその理由ははっきりしていました。体全体が突然ガクンと大きく揺すぶられ、そのショックのせいだったのです。
驚いて大きく目を開き、ロールは見回しました。そして自分がいるのが城の寝室ではないことに気がついて、もう一度びっくりしたのです。彼がいるのはやわらかいベッドではなく、木でできた固い床の上で、クッションも何もなく、その上に直接横たわっているのです。頭の真上には天井がありますが、まわりの壁や床と同じように木材のままで、ペンキも塗っていなくて、木の節や木目がむき出しになっているではありませんか。
彼はとても小さな部屋の中にいたのです。部屋全体がもう一度ガクンと揺れたので、思いがけずハゲタカに体をぶつけてしまうことになりました。すぐそばにいたのに、このときまで気がつかなかったのです。「ここはどこ?」ロールの声が半分裏返っていたのも仕方がないと思います。
クチバシの両端をつりあげるようにしてにっこりと笑い、ハゲタカは言いました。「あなたは今、木馬の頭の内側にいるのですよ」
明かりなどないから部屋の中は暗いのですが、壁には2ヶ所だけ大きな穴があけてありました。丸い形をして、左右の壁に一つずつあります。毛布をはねのけ、ロールがあわててそこから顔を突き出したのはいうまでもありません。するとどうでしょう。なんと外には荒野が広がっているではありませんか。町のまわりの畑地帯などとっくに越えてしまっているのでしょう。見渡す限り岩がごろごろし、割れた石のカケラと元気のない雑草がその間を埋めています。樹木もときどきは見ることができますが、やはりいじけたようなヒョロリとした形です。
道と呼べるものなのか、木馬はガタガタした地面の上をゆっくりと引っ張られています。前方には馬が10頭ばかりつながれ、足を踏ん張って力を出しています。あやつる男たちも同じほどの数いますが、馬たちの隣に立ち、「しいっ」とか「はいっ」などとときおり声をかけています。そういう光景をロールは高いところから見下ろしているのでした。彼が頭を突き出しているのが木馬の目の穴だったことはいうまでもありません。
クチバシの先でそっと耳に触れられ、ロールは頭を引っ込めました。確かにずっと頭を突き出していれば、下にいる男たちにいつ見つかってしまうかもわかりません。冬の女王の城に着くまで、ロールは穴から顔を着き出すことは二度としませんでしたが、木馬のまわりに一人の兵の姿もないことにはすでに気づいていました。いるのは馬をあやつる男たちばかりなのです。町の広場にあれほどたくさんいた兵たちはどこへ行ってしまったのだろうという気がしました。
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木馬は、とうとう冬の女王の城へと着いたようでした。ガタガタという揺れが収まったからわかったのですが、毛布にくるまって眠っていたロールは目を覚ましたのです。翼を広げ、おおいかぶさるように暖めてくれていたハゲタカも目を覚ましました。「ついたよ」とロールはささやきます。
「そのようですね」
ロールは穴からそっと顔を突き出してみました。木馬は荒地の中央にいます。引いてきた馬たちはすでに切り離され、男たちと一緒にもう背中を見せているではありませんか。来たばかりの道を戻っていこうとしているのです。出発してから丸一日がたって夜が明け始めたところで、アクビをしかけましたが空気の冷たさに気づいて、ロールは体をブルッと震わせました。だけどすぐに、彼は大きく目を見開くことになりました。朝の光が冬の女王の城を照らし出し始めていたのです。
高い城壁があり、門はまだ閉じていますが、そのすぐ目の前に木馬は置かれているのです。これがプレゼントであることは誰の目にもすぐにわかるに違いありません。
冬の女王の城とは、何に似た形をしているといえばいいのでしょう。よいたとえをなかなか思いつきませんが、西洋の騎士がかぶるカブトのようというのが一番近く、わかりやすいかもしれません。のちにこの城で暮らすようになったとき、ロールはよくまわりの荒地を散歩したのですが、少し離れた場所から見ると本当に巨人がひょいと脱いで、休憩をするために地面に置いたカブトのようだなあと何回も思ったものでした。
馬と男たちが遠ざかり、視野の外へと消えてしまうと、木馬のまわりは本当に静かになってしまいました。耳をすませてももう何の音も聞こえません。城の中も同じようで、そろそろ住人たちが起き出してきそうなものですが、まだ何の気配も感じることはできませんでした。
だから城門が突然開いたとき、ロールは飛び上がるほど驚いたのです。だけどハゲタカが頬にそっと触れてくれたので落ち着きを取り戻し、壁の穴に近寄って様子を眺め続けることができるようになりました。
門を開いたのは数人の若い娘たちでした。みな真っ白なドレスを身につけているので、夜明けの薄明かりの中でもはっきりと見ることができます。だけどロールは奇妙なことに気がつきました。娘たちの一人が手に弓を持っているのです。かなり長く大型で、いかにも威力のありそうなものです。もちろん矢がつがえてあるのですが、その根元にはロープが結び付けてあります。だから娘が矢を射ると、後ろに引きずられながらロープは宙を飛ぶことになりました。
矢は、ロールがいる場所の少し上のあたりに命中しました。びっくりしてロールは顔を引っ込めましたが、振り向くと窓の中央をロープがダラリとたれさがる形になっていることに気がつきました。さんざめき、娘たちがくすくす笑っている声が耳に届きます。何か仕掛けがしてあったらしく、ロープはするすると動き始めるではありませんか。そっと顔を突き出すと、娘たちがロープをつかんで引いているのだとわかりました。それだけでなく、ロープの先には縄ばしごが結び付けてあるではありませんか。すぐに縄ばしごは、ロールのすぐそばにまで届けられました。
バタバタと羽音が聞こえ、思いがけずハゲタカが飛び立ちました。穴から外へと飛び出して、縄ばしごの先をクチバシにくわえました。そのまま木馬の耳へと、さっと縄ばしごを引っかけるのが見えました。この巨大な木馬の耳です。とても分厚く頑丈に作られています。少々何があっても、折れたり壊れたりする心配はないでしょう。これで縄ばしごが、ロールのいる場所から地面までしっかりと降ろされたわけでした。
ハゲタカにうながされ、ロールはそれを降りていったのです。すぐに地面に足を届かせることができました。娘たちが歓迎してくれたことはいうまでもありません。そのまま城の中へと案内され、物珍しさと期待とで、ハゲタカの姿がいつの間にか見えなくなっていることにだって、ロールは気がついてはいませんでした。
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侍女に案内されながら暗く細い廊下を通り、長い階段をいくつも登り、曲がり角や踊り場で何回も向きを変えて、ロールはとうとう冬の女王の部屋へとつれてこられました。寒い地方なので窓は小さく、部屋の中はいささか薄暗いのですが、女王の肌の色はその中でもはっきりと見ることができます。あれはまるで、コンビーフの脂身のような白さではありませんか。ロールを女王の前に残し、侍女はすでに姿を消していました。だからロールは、部屋の中に冬の女王と二人きりだったのです。
イスに座っていても、冬の女王の背の高さはよくわかりました。ウサギのように赤い色をした瞳で彼を見つめ、水色の髪の上には王冠が乗っていますが、材質は氷でできているに違いありません。彼女が頭を動かすと、光を反射して冬の朝のツララのようにきらきらと輝くのです。
だけどだけど…、みなさんの夢を壊して申しわけないのですが、冬の女王とはあまり美人ではなかったのです。一目見て、ロールもそれは認めなくてはなりませんでした。両目が顔の内側に寄り過ぎていて、なんだかバランスが悪いのです。がっかりした表情を隠すのにロールは少し苦労しましたが、冬の女王はお見通しだったかもしれません。『もっと近くへ来い』とでもいうように、冬の女王が身振りをしたことにロールは気がつきました。だからその通りにしたのです。彼女の目の前に立つことになりました。
玉座が床よりも少し高い場所に作られているせいもありますが、ロールは相手を見上げることになりました。彼女の体が大きく動き、突然腕が伸びてきて手首をつかまれたときには、ロールがどれほど驚いたことか。冬の女王は彼をグイと自分のそばへと引き寄せたのです。
そして冬の女王が何をしたと思います? なんとロールにキスをしたのです。生まれて初めて唇に受けるキスにびっくりして、暴れてロールが逃げ出そうとしたのは無理もないかもしれません。でも冬の女王の力はとても強く、あっという間に背中にまで腕を回されてしまいました。女王の声が聞こえます。
「母から受ける口づけは嫌いか?」
「えっ?」
呆然と見つめ返すと、冬の女王はやっと腕の力をゆるめてくれました。強いものではないけれど痛みから解放され、ロールは自分の腕をこすっています。彼は不意に気がつきました。「あんたの声には聞き覚えがあるよ」
「もちろん」冬の女王はにっこり笑います。
まったくその通りで、彼女の声はあのハゲタカとまったく同じだったのです。ということは春の女王の城で毎晩彼を訪れたのも、木馬の中でずっと一緒にいたのもこの冬の女王だったということになります。彼女が変身した姿だったのです。
「でも冬の女王さま…」ロールは言いかけました。
「そうではなく、私のことはお母さんとお呼び」
「ママ?」
「そう、それでいい」冬の女王はもう一度にっこりしました。「それはそうと窓のそばへ行くがいい。面白いものを見せよう」そう言って女王は玉座から立ち上がるではありませんか。手を引かれ、ロールも窓に近寄ることになりました。
窓の外には城壁と中庭があるのですが、木馬の姿ももちろん見えていました。まだ城の内部には引き入れられていなかったのです。なぜだろうと不思議に思いましたが、別のことに気がついて、ロールは目を丸くしかけました。木馬にはさっきと変わった様子は何も見られません。ただ荒地の地面に置かれているだけです。でもいつの間にかあの白いドレスの侍女たちが、その下に油をまいているではありませんか。まるでたき火の準備でもするように、木馬の足元をぬらして丸く広くです。
「あれは何をしているの?」ロールは冬の女王を振り返りました。
「ごらん」冬の女王が指さします。それが合図だったのかもしれません。手にしていたロウソクを投げ、侍女の一人が油に火をつけたのです。あっという間に燃え上がり、木馬は炎に包まれることになりました。
炎の音はゴウゴウとすさまじく、どんな音もかき消してしまうほどです。だけどその中でも、誰かが内側から木馬の壁をどんどんとたたく音はロールの耳にも届きました。脱出路を求めて強く、でも絶望的にたたいているのです。どうやら侍女たちは事前に目ざとく見つけて、木馬の出口を何かの方法でふさいでしまっていたに違いありません。
あなたもすでにおわかりだったでしょうが、木馬の胴体の内部には武装した兵たちが何十人もひそんでいたのです。木馬が冬の女王の城内に引き入れられるやいなや飛び出し、誰でも彼でも皆殺しにするつもりでいたのです。だけどその計画も失敗に終わってしまいました。春の女王が送り込もうとした兵たちは、木馬の内部で生きたまま焼かれてみな死んだのです。
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木馬はそのまま焼け落ちてしまいましたが、敵を倒す冬の女王の手際のよさに、ロールも感心しないではいられませんでした。それだけではありません。こうやって、この城で暮らすロールの日々が始まったのです。女王の部屋は城の塔の高い場所にあったのですが、そのすぐ隣に彼の部屋があつらえられました。この城には男はロール一人しかおらず、冬の女王といい白いドレスの侍女たちといい、とにかく女ばかりだったのです。冬の女王と同じように、ロールも彼女たちから世話をしてもらえるようになりました。
城の1階には大きな部屋がいくつもあり、そこにはトナカイたちが群れをなして住んでいました。トナカイとはもちろんシカの一種ですが、クリスマスの夜にサンタクロースの乗ったソリを引いている絵は、あなたも見たことがあるだろうと思います。だけど冬の女王はサンタクロースではないし、城のトナカイたちも赤い鼻をしていたり、首輪に鈴をつけてチリンチリンとかわいらしい音を立てていたりはしません。ここのトナカイたちはみなヨロイを着て、武装していたのです。
ヨロイは鉄でできていて分厚く、トナカイの体をすっぽりとおおって、重さは何百キロもあったに違いありません。鼻や角、ひざやひづめなどの部分には鋭い刃が取り付けられ、触れるものをすべて切り刻んでしまいます。こんなトナカイを見たらサンタクロースはどういう感想を漏らすことでしょう。
こうやってロールは冬の女王の元で暮らすようになったわけですが、だからといって春の女王も黙っているわけではありませんでした。数日後、兵を引き連れて馬に乗り、とうとうみずから乗り込んできたのです。これにはロールも驚いてしまいましたが、春の女王は本気だったようです。ある朝早く、気がつくと城門の前にいて、「ロールを返せ」と大きな声を張り上げていたのです。
寝巻き姿のままロールが冬の女王の部屋へ駆け込むのとほとんど同時に、侍女たちが姿を見せました。そして口を開いたのです。
侍女たちが言うには、なんと春の女王と家来たちは、城の前でキャンプを張り始めているというではありませんか。ロールがあわてて窓に駆け寄ると、春の女王が滞在するためのものでしょう。大きなテントを支える長い柱が地面に二本、まるで電信柱のように高く垂直に立てられようとしているのを目にすることができました。ロールが着替えて、冬の女王とともに朝食を終えるころには、春の女王のキャンプもすっかり完成していました。女王のための大きなテントの他に、家来たちの少し小さなテントや、寒い土地だからきっと燃料にするのでしょう。用意周到に運ばれてきたマキの山まで見えるではありませんか。
こうなってしまっては、冬の女王も相手を無視ばかりしているわけにはいかなくなりました。城門を開き、ドレスの上に分厚いコートを着て、トナカイにまたがって外に出たのです。このトナカイがいつものようにヨロイで身を固めていたことはいうまでもありません。サビを防ぐために黒く塗られていますが、磨かれた刃だけはまるで電車の線路のように冷たく光っています。ゆっくりとですがそういう巨大な鉄の塊が動くところは、まるで戦車のようではありませんか。
城門を出ても、トナカイは遠くまで歩く必要があったわけではありません。春の女王のキャンプは本当に目の前にあるのです。冬の女王と一緒に、ロールはトナカイの背中に乗せてもらっていました。本当に大きなトナカイなので、地面がとても遠くに感じられます。はじめは少し怖かったけれど、すぐに慣れてきました。
冬の女王のトナカイは立ち止まり、まわりは同じようにトナカイに乗った侍女たちが取り巻いています。侍女というだけでなく、彼女たちは護衛としての役目もかねているに違いありません。五分ほど待たされ、とうとう春の女王がテントの外へと出てきました。ひどく寒がりなのかもしれません。分厚く毛皮を着込み、頬をピンク色に染めています。
「ここにテントを張るのはまさか有料で、おまえはその代金を取りにきたというのではあるまいな」春の女王が口を開きました。
「おまえこそ、腹の中に虫のわいた木馬を贈ってしまったことへの謝罪をしにやってきたのではなかろう?」冬の女王も黙ってはいません。
頬をふくらませ、春の女王は黙ってしまいました。彼女のまわりも武装した兵たちが取り巻いています。ロールが乗っているトナカイがブルルルと鼻を鳴らしました。
「それで、どうやって勝負をつけようというのだ?」冬の女王が言いました。「これまでどおり戦争を続けるのか?」
「そんなまどろっこしいことはしておれぬ」春の女王は今にもかみつきそうな表情を浮かべました。「今日ここで、今すぐこの瞬間に勝負をつけようぞ」
「どうやって?」と冬の女王は応じましたが、それはロールが頭の中で感じていた疑問とまったく同じでした。そして春の女王の答えはこうだったのです。
「家来の中で最も強く、かつ信頼できる戦士を一人差し出せ。私もひとり差し出す。この二人が戦い、おまえの戦士が勝てばおまえの勝ち。私の戦士が勝てば私の勝ちだ。勝った者がロールを手に入れるのだ。それで戦争は終わりになる。以後、いっさい文句も泣き言も恨みっこもなしという条件でな」
何秒間か考えていましたが、冬の女王は言いました。「私はそれでかまわぬが、おまえも本当にいいのか?」
「もちろん」春の女王が大きく胸を張ったのはいうまでもありません。
「では決まりだ。おまえの戦士はどこにいる?」
得意げな顔で振り返り、春の女王はテントに向かって合図を送るではありませんか。入口をおおっている布がさっと持ち上げられ、戦士が姿を見せるのには3秒とかかりませんでした。だけどなんということでしょう。その姿に、春の女王の家来たちでさえ浮き足立ち、居心地悪げに足踏みをしたことをロールは見逃しませんでした。もちろんそれは冬の女王の陣営でも同じことで、侍女たちは表情をくもらせ、トナカイたちでさえ不安そうに首を振るほどだったのです。
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これほど凶暴な見かけをした人間を、ロールは一度も見たことがありませんでした。人間というよりも、まるでクマかゴリラのようではありませんか。あるいはヨロイを着てカブトをかぶったオオカミというべきかもしれません。もちろん二本の足で立ち、手には剣と盾を持っているのです。だけどカブトとヨロイの隙間から見える背中だって、毛で真っ黒なのです。筋肉が発達して手足は木のこぶのように太く、剣をつかんでいるこぶしも、まるでカブほどの直径があるではありませんか。名はオラクルというのだと言い放ったときの春の女王ときたら、いかに得意満面であったことか。
足を広げて立ち、オラクルは数回、剣をブンブンと振り回して見せました。まるで細い木の枝ででもあるかのように軽々としていて、空気を切る音があたりに鋭く響いたのはいうまでもありません。冬の女王の家来たちは、みな怖気づいてしまったようです。春の女王はうれしそうに笑っています。「それでオラクルの相手は誰がしてくれるのかな?」
振り回すのをやめてオラクルが剣を降ろすと、もうチリンとも音がせず、城門のまわりはまったく静かになってしまいました。振り返って、ロールは冬の女王を見上げました。トナカイの背中の上ではロールが前で、冬の女王がその後ろに座っていたのです。
冬の女王ののどが動き、声が聞こえました。でもロールが不思議に思ったのは、その声がいつもとまったく同じで、おびえている様子でも、かすれてもいなかったことです。きりりとよく通り、冬の女王の声はあたりに響きました。
「私の戦士は、ほれここにおる」
あっと気がついたときには、ロールは冬の女王の手でえりくびをつかまれていました。そのまま持ち上げられて下へと降ろされ、地面に足が着くのを感じることになりました。わけがわからなくてキョロキョロしていたのはいうまでもありません。
「なんだと?」顔色を変えたのは春の女王だけではありませんでした。春の女王の家来たちも冬の女王の侍女たちも、オラクルでさえもそうだったのです。分厚い眉毛の下にうずもれかけた小さな目玉をパチクリさせているのです。だけどそこに、冬の女王の声がさらに響きました。
「ロールに武器を持たせい。戦いの用意をさせよ」
繰り返す必要はないかもしれませんが、ロールはただの男の子なのです。背が伸びたりヒゲが生えたり、のどぼとけが出っ張ったりし始めるのはまだまだ何年も先のことです。冬の女王は、そのロールをオラクルと戦わせようというのでした。
「何を言っておる?」春の女王の疑問は当然だと思います。冬の女王が答えます。
「ロールこそが、私が最も信頼する者だ。『最も信頼できる家来を出せ』とおまえは言ったではないか。だから私はロールを差し出すのだ。おまえに何の不満がある?」
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冬の女王は本気だったようです。侍女たちを呼び集め、すぐにロールに戦いのしたくをさせ始めたのです。だけどロールの小さな体には、合うはずのヨロイもカブトも、片手で持ち上げることができる盾だって存在するはずはありませんでした。やむなく侍女たちは台所へ走り、ゆで卵を作るのに使う小さなナベをカブトの代わりに、ナベのフタを盾に、暖炉の前にある金網を取り外してきて、ヨロイの代用として体にくくりつけることにしたのです。でも武器だけはどうしても見つけることができなかったので、ロールの右手には短剣が握られることになりました。その様子を眺めていた春の女王がどういう表情で鼻を鳴らしたかは、簡単に想像がつくと思います。
「冬の女王よ、おまえはその子に料理でもさせるつもりか? その短剣でパンでも切ろうというのか?」
それに対しては、「見かけだけでバカにするものではないぞ。この子の戦いぶりをまず見るがいい」というのが冬の女王の返事でしたが、耳にして納得できたものは一人もいなかったことでしょう。オラクルでさえ、困ったような表情をして春の女王を振り返ったではありませんか。
でももう始まってしまったものは仕方がありません。1分後にはロールは、たった一人でオラクルの前に立ち、ぶるぶると震えていました。二人のまわりは、二人の女王と家来たちが丸く円を描いて取り囲んでいます。冬の女王をのぞいて、どの顔もみな不安そうです。
簡単に想像がつくでしょうが、ロールとオラクルが剣を打ち合わせるなど土台不可能なことです。すぐに短剣を捨て、悲鳴を上げてロールは逃げ回り始めるしかありませんでした。オラクルもじっとしているわけにはいきません。まるで気のない様子ですが、ふりであれ格好だけであれ、とにかくロールを追うしかないのです。
そうやって二人のぐるぐるまわりが何分間か続きました。これほど無意味な決闘は、世界が誕生して以来初めてだったかもしれません。だけど何にだって終わりがあります。この決闘も、一瞬であっけない幕切れを見せたのです。
目ざとい人々は、走りながらオラクルが何度も春の女王に向けて視線を走らせ、彼女が気を変えてくれるか、何かの合図でも送ってくれるのを待っているかのようだということに気がついていました。そしてまったくその通りだったのです。苦虫でもかみつぶしたようだった春の女王があきらめたような表情に変わり、わずかにコクンと首を縦に振った瞬間にそれが起こったのです。春の女王のうなずきはほんのかすかでしたが、結果は派手でした。ここの地面は平らで、足に引っかかりそうな石など小石ですら見当たりはしないのに、オラクルが突然転んだのです。
ドスン、ガシャンとヨロイが大きな音を立てました。どういうことなのか剣や盾までが手を離れ、地面に転がっているではありませんか。一体何が起こったのか、見ている人々にもわけがわからなかったに違いありません。しかもそれっきり、オラクルは起き上がりもしないのです。目まで閉じてしまい、その顔つきはまるで気を失いでもしたかのようです。もちろんときどきはちらちらと目を開いて春の女王の顔色をうかがい、こういう行動でよいのか、彼女が腹を立てていないか探りを入れてはいましたが。
だけどそれも納得できたのでしょう。とうとうオラクルは目を閉じたままになり、手足を力なくだらんと伸ばしてしまったのです。どう見たって気を失っているとしか思えません。もちろんそういうふりをしているというだけのことで、こんなことでだまされる人は一人もいなかったでしょうが。
すでに異変に気づき、ロールも立ち止まって振り返っていました。「何がどうなってるの?」とでも言いたそうな表情です。すぐにロールの勝利が宣言されたのはいうまでもありません。侍女たちが駆け寄り、ロールを城の中へと連れ戻る用意を始めました。春の女王もなぜか異議を唱えません。機嫌悪そうにテントの中へと帰っていきましたが、口は開かなかったのです。
ついにはオラクルも目を開き、起き上がりましたが、なんだか照れくさそうな顔をしているではありませんか。仲間たちのところへ戻っても、みな居心地わるそうです。オラクルがわざと負けるふりをしたのは明らかだったからです。でもオラクルのような戦士が、子供を相手に本気が出せるわけがありません。それはみんなわかっていました。
だけど本人はよくわかっておらず、ロールには冬の女王が説明してやらなくてはなりませんでした。城に連れ帰って楽な服装に着替えさせ、冬の女王はロールをひざの上に座らせてやっていました。ついさっきまでは侍女たちもいたのですが、温かいお茶をテーブルの上に置くとすぐに部屋から下がらせました。だからロールは、部屋の中に冬の女王と二人きりだったのです。
「でも僕を戦わせるなんてひどいよ」ロールは口をとがらせています。
「なぜ?」
「だって怖くて怖くて、もう死ぬかと思ったもん」
「それでおまえは死んだか?」にっこりとニヤリの中間のような不思議な笑いを冬の女王は浮かべることができました。奇妙なことですが、ロールの目にもそれはとても魅力的にうつったのです。
「でも…」
「おまえは死ななかった。そうであろう?」
「うん」ロールは首を縦に振るしかありませんでした。
「殺すどころか、春の女王にはおまえを傷つけることさえできない。そんなことは考えることすらできない。だからオラクルは石ころも何もないのにつまずいて、気を失ったふりをしなくてはならなかったのだよ。春の女王もそれを黙認するしかない。そのことを見越して、私はおまえを戦わせたのだ」
「だけど」
「まあお聞き。決闘は正しく行われ、おまえが正式に勝利した。春の女王は戦争に負けたのさ。春の女王であろうが誰であろうが、もはや文句をつけることはできない。ロール、おまえは本当に私の子供になったのだよ」
そのことについては、ロールは不満には思いませんでした。いささかぶっきらぼうな性格のようですが、冬の女王はいつも優しくしてくれたのです。もちろんここには、砂糖やチョコレートのかかったお菓子を売っている店も、おもちゃ屋さんもありません。にぎやかな音楽を聞かせてくれる楽団も、お芝居を見せてくれる劇場だって存在しないのです。だけどそんなことは気になりませんでした。やさしく親切であったとはいえ、実の娘を取り戻すための引換券として自分を家に置いてくれたお母さんと、ロールを自分のものとするために隣国と戦争までしてくれる冬の女王のどちらを選ぶかときかれれば、誰だって同じ返事をするだろうと思います。
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戦争が終わってしまうと、冬の女王の城の生活はとても静かなものになりました。日に一度、冬の女王と一緒にトナカイに乗って領地の見回りに出かける以外は、ロールは荒地に出て一人で遊ぶか、冬の女王と一緒に居間で過ごすようになったのです。だけどその居間の中で、ちょっとした出来事がありました。
ここにはたくさんの本があり、本棚から勝手に引っ張り出しては、ロールは冬の女王のひざの上へと持っていきました。するとページを開き、冬の女王は読み聞かせてくれるのです。
同じことは春の女王の城でもしてもらえたものでしたが、春の女王の国の書物に書かれている物語は明るく楽しく、いかにもおとぎばなし風で、悪魔や怪獣も登場するけれど最後にはすべて倒され、平和になってハッピーエンドを迎えるのでした。
だけど冬の女王の国の書物は違います。それがロールをよりわくわくさせたのですが、物語はみな陰惨で、じっとりと湿っていて、ハッピーエンドなどめったにお目にかかれません。善人はみなドラゴンに食われるか、飢え死にするかし、やさしく親切な王は滅び、飛び切りの悪王ばかりが生き残るのです。その展開のあまりの遠慮のなさに、ロールはいつも目を丸くしたものでした。すると冬の女王が説明してくれたのです。
「この国の歴史とは、このように血なまぐさく、いやなことばかりが起こったのだよ」
「じゃあ春の女王の国では?」とロールが疑問を口にしたのは当然かもしれません。
冬の女王は鼻の先でフンと笑うではありませんか。「あの国の歴史は、自分に都合のよいようにみな春の女王が書き換えてしまったのだよ。真実などほとんど含まれてはいない」
「ふうん」
このときロールは冬の女王のひざの上に座っていました。そうやって、イスのひじ置きの上に置いた本を一緒に読んでいたのです。春の女王の部屋ほど大きなものではないけれど、この部屋の壁にも鏡がかけてありました。偶然ですが、自分の姿がそこに映っていることにロールは気がついたのです。彼はしばらく自分を眺めていました。
鏡の中には冬の女王も同じように映っていました。だけどロールはひどく驚いたのです。鏡の中の彼も、もちろんドレスを着た女のひざの上に座っているのですが、それが冬の女王の姿ではないのです。まったく見慣れない顔をした別の女ではありませんか。
びっくりして、ロールが見つめなおしたのはいうまでもありません。だけど見間違いではありませんでした。鏡の中の自分は、確かに見たこともない女のひざの上にいるのです。顔を上げ、ロールは急いで振り返りました。鏡越しでなく、冬の女王の顔を直接見ようとしたのです。するとどうでしょう。
そこにいるのは、見慣れた冬の女王ではありませんか。背が高く肌も白いけれど、不細工な女性です。目は大きいのですがどこか不釣合いで顔の中に溶け込んでおらず、不自然に浮き上がったような印象です。鼻はダンゴ鼻で、顔の中央をドンと占領しています。唇の形だって、目にした人すべてが憧れをいだくといったものではないでしょう。
もう一度、ロールは鏡の中に視線を戻さないではいられませんでした。鏡に映っているのは本当にまったく違う姿だったのです。何といえばいいのでしょう。まだそれほど長い人生を送ってはいないといっても、これほどきれいな女性をロールは一度も見たことがありませんでした。肌が白いところと、目が大きいところは同じです。でも瞳の輝きは宝石のようであり、顔の左右の最もバランスのよい位置に開き、まぶたのカーブなどはまるで引きしぼられた弓のようではありませんか。人の心を射抜くというのではありませんが、見た人をはっと思わせるには十分でしょう。
「おまえも気がついたのだね」冬の女王の声が聞こえました。ロールの背後から聞こえたので、彼女本人が発したのは間違いありません。同時に鏡の中のあの女の唇も動いたのです。あれも冬の女王であることは疑いありません。
「鏡に映ると、あんたの姿はどうしてそんなふうに変わってしまうの?」鏡の中へ向かって、ロールは話しかけました。もう鏡から視線を離すことができなかったのです。彼女の姿はそれほど美しく、魅力的でした。
指を伸ばし、冬の女王はロールの髪をそっとなで始めました。「おまえはどっちの私を自分の母としたいのだね?」
「決まっているよ」と答えてから、ロールははっとした表情をしました。あまり本当のことを口にしてしまうと、冬の女王が気を悪くするかもしれなかったからです。だけどそんなことはありませんでした。なんと冬の女王はクスクスと笑い始めたのです。「それはまあ、誰でもそう思うことだろうね」
部屋の外、城の裏側あたりから突然ドスンガタンと大きな音が聞こえてきたのは、そのときのことでした。どこか下階に違いなく、台所の近くだったのかもしれませんが、壁や廊下に反射してここまで聞こえてくるのだから、相当大きな音に違いありません。冬の女王とともに、ロールは顔を上げることになりました。
「あれは何の音?」
ドアが開き、侍女が飛び込んできました。物音はさらに大きくなり始めています。戸棚でもひっくり返したのか、物が倒れるバタンという音まで今度は混じっているではありませんか。侍女の報告はロールをひどく驚かせました。なんとくせ者が城内に侵入し、暴れまわっているというのです。
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「どんなくせ者なの?」というのが、ロールが最初に口にした言葉でした。お話に聞いたり本で読んだりしたありとあらゆるスパイや忍者などの姿が、この瞬間の彼の頭の中を走り回っていたのはいうまでもありません。だけど侍女の返事はこうでした。
「くせ者なのは確かですが、どんな姿をしているのかはわからないのです。風のように透明で、何も見えないのですから」
この答えはロールの好奇心をかえって刺激してしまったようです。振り返ると冬の女王と目が合いました。すでにロールも気がついていたのですが。冬の女王にしろ春の女王にしろ、この世界の女王様はおとぎ話とは違ってあまりおしとやかではなく、みずから戦って国を守ろうとする人々でした。だからこのときも、ひざの上からロールを降ろして立ち上がり、冬の女王は部屋を出ていったのです。好奇心ではちきれそうになりながら、ロールがついていったのはもちろんです。
下の階からは、くせ者が暴れて物を壊す音と侍女たちが振るう剣や盾の音、彼女たちの叫びが聞こえてきます。この城には階段が二つあり、くせ者は裏の階段あたりで騒ぎを起こしているようでした。冬の女王と一緒に、ロールは表の階段を下りてゆきました。
すぐに一階につくことができました。気をきかせて、侍女たちがトナカイを用意して待っているのが目に入ります。寒くないようにコートを着せかけられ、サイの革でできた分厚い帽子を頭に乗せると振り返り、えりくびをつかんでポンと放り投げるようにして、冬の女王がロールをトナカイの背中に乗せてくれました。トナカイはヨロイや武器をすでに身につけ終えています。続いて冬の女王もヒラリとまたがり、ロールを腕の中に抱くようにして、用意が整ったわけでした。
体の向きを変え、電話帳のように分厚いひづめで床を踏みしめ、トナカイは庭へと出ていったのです。振り返ると、同じように身支度をしてトナカイに乗った三人の侍女の姿を見ることができました。
カチンカチンと剣を打ち合う音が近づいてくるにつれて、ロールはわくわくする気持ちを抑えるのが難しくなってきました。奇妙に聞こえるかもしれませんが、怖さなどほとんど感じていなかったのです。本当にお母さんと呼んでよいのかはまだわかりませんでしたが、冬の女王のそばにいるかぎり、彼はいつも安心していることができました。だけど侍女たちの考えは違っていたようです。トナカイの足を急がせてそばへやってきて、一人が口を開きました。
「女王様、王子様は別の場所に避難させておいたほうがよいのではありますまいか?」
それを耳にして、思わず首をすくめたくなるくすぐったさをロールは感じることになりました。王子様というのはもちろん彼のことだからです。
「私はそうは思わぬ」冬の女王は答えました。「東の城壁の渡り橋のネジを抜き、足を乗せるとすぐに橋が落ちるようにしておけ。くせ者をそこへおびき出す」
よく意味がわからないらしく、侍女は表情をくもらせました。「おびき寄せるエサには何をお使いになります?」
にやりと笑い、「エサはここにおる」と冬の女王がロールを指さしたのはいうまでもありません。
ところが作戦はうまくいかなかったのです。何一つ見逃すまいと目をまん丸に開いていたのですが、ロールはすぐにがっかりしてしまいました。城の裏手では確かに戦いが進行中でした。数人の侍女の腕から振り下ろされる剣をたくみによけ、姿の見えないくせ者は反撃を続けています。奴も剣を手にしているらしく、侍女を地面へ倒れこませたり、中にはケガを負っている侍女もいます。くせ者は盾も用いているに違いなく、侍女から剣を受けるたびに、あざやかな火花が空中に散るのです。だけどその姿が目に見えないことに変わりはありません。魔法なのか何かの呪文を用いているのか、透明な体をしていなくてもかなり手ごわい相手であることはたしかです。
けれど足音を聞いているとわかりますが、くせ者は一人しかいないということも事実なのです。剣を持った侍女たちはまだまだ城中から殺到してくるのです。多勢に無勢であることは否定できないし、そこへトナカイに乗って冬の女王までが姿を見せたのです。ここはいったん引き下がる気になるのは自然なことでしょう。
タタタと足音が聞こえ、くせ者が駆け出すのが感じられました。侍女たちを突き飛ばして裏庭を横切り、かん木の茂みを飛び越え、そのときだけは枝の折れる音と葉の動きで察知することができたのですが、木々の間を抜けるとそのあとはどこへ行ったのか、まったくわからなくなってしまいました。冬の女王と侍女たちは敵を見失ってしまったのです。
「ふう」ロールの口からはため息がもれてしまいました。それが、くせ者がいなくなってほっとしたせいなのか、冬の女王の活躍を見ることができなくてがっかりしたからなのかは本人にもわかりませんでした。
その日の夕食のときには、話題は当然あのくせ者のことになりました。シチューをかき回して皿の中のジャガイモを押しつぶしながら、ロールが口を開きます。「あいつはどこへ行っちゃったんだろうね。もう城壁の外へ逃げたと思う?」
「そうとは限らない」冬の女王が答えました。「まだ城内にいるのかもしれないぞ」
「ふうん」
でもそれは意外に気のない返事だったので、冬の女王は顔を上げることになりました。そしてクスリと笑ったのです。いかにも心を奪われた様子で、ロールはまた鏡に目を向けているではありませんか。鏡に映っている彼女の姿を見つめているのです。
またかという気がしましたが、冬の女王は腹を立てないことにしました。最初は春の女王に張り合って始めたことだったとはいえ、はれて自分のものとした後、彼女もロールに愛情を感じ始めていたのです。鏡に映る姿とはいえそのロールからうやまわれるのは、決して悪い気持ちではなかったのです。
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いつもは朝までぐっすり眠ることができるのですが、なぜかロールは真夜中に目を覚ましてしまいました。この世界には時計がないのでよくわからないのですが、地平線には明るくなる気配すら見えないので、太陽が昇るのはまだまだ何時間も先のことに違いありません。
毛布をはねのけ、不満そうな顔で起き上がり、ロールが最初に何をしたと思います? なんと鼻をひくひくさせ始めたのです。そしてその鼻に寄せることになったしわの深さから、かいでいるのがあまりうるわしい匂いではないらしいことがうかがえるではありませんか。続いてロールは顔をしかめました。彼はタバコの匂いが大嫌いだったのです。
だけどすぐに、彼の顔つきは不思議そうな表情へと変わることになりました。この城にタバコを吸う人なんて一人でもいたっけ?
いくら頭をしぼっても思い当たりませんでした。そしてとうとうロールは、そんな人はこの城には一人もいないという結論に達したのです。本当に一度も見たことがなかったのです。ではこの匂いはどこからやってくるのでしょう。
ベッドからはい出し、音を立てないようにそっと窓を開けて頭を突き出すと、タバコの匂いはさらに強くなりました。空には真ん丸な月が白く浮かんでいます。暗闇に目が慣れ、様子がわかるようになってきました。彼の部屋の窓は塔の頂上近くに開いているので、下へ目を向けると中庭を見下ろすことができます。雲も風もない夜です。その中庭の一角から薄く煙が立ち昇り、彼の窓まで達していることがわかったのです。
だけど奇妙なことがあります。身を乗り出すようにして目をこらしつづけたのですが、煙の出所はわかっても、ロールは喫煙者の姿を見ることができなかったのです。塔といっても何十メートルも高さがあるわけではありません。月の光がまっすぐに落ち、喫煙者がいるはずのあたりを照らしてはいるのですが、そこには誰の姿もないのです。見えるのは、ただ何もない空間から立ちのぼってくる煙だけなのでなんだか薄気味悪く、ロールは思わずゾクリとしないではいられませんでした。
だけど次の瞬間、ロールの顔は明るく輝きました。音を立てないように窓から頭を引っ込め、忍び足で歩き始めます。向かった先が冬の女王の部屋だったことはいうまでもありません。二分後にはロールと並んで、冬の女王も同じ窓から中庭を見下ろすことになりました。
「僕が行ってみてこようか?」ロールはささやきました。
「おまえはここにおいで。私が行ってこよう」
歩き始め、冬の女王は廊下へと出ていったのです。気配を聞きつけて侍女たちも起き出し、そのうちの数人を連れて、冬の女王は階段にさしかかりました。らせん階段といって、この階段は丸く、ネジのようにぐるぐると回りながら降りてゆく形になっています。底のやわらかい靴をはき、足音はもちろん忍ばせていました。女王の右手に侍女がそっと剣を握らせていたのはいうまでもありません。
女王たちは中庭までやってくることができました。侍女たちは少し呼吸が速くなっているようですが、冬の女王にはそんなところは見られません。やはり女王ということかもしれません。
タバコの匂いは相変わらず立ち込めています。物音は何一つ聞こえません。喫煙者がいるとおぼしき場所へ向かって、冬の女王と侍女たちが忍び寄るのを、ロールは塔の上から見守っていました。指をぎゅっと握り締め、興奮のあまり手のひらに汗までかいています。くせ者を捕まえたら、どうやって正体をあばいてやろう。もうロールはそんなことを考え始めていました。いくら透明な相手でも、体中にペンキで色を塗れば何かが見えてくるに違いありません。
冬の女王と侍女たちがどうやってくせ者をとらえるつもりでいるのかということも、ロールをわくわくさせていました。油断しているすきに剣を突きつけて動けなくさせ、ナワでしばり上げるか、あるいは背後からいきなりぶん殴って、気を失わせてしまうか。冬の女王の性格から見れば、後者のほうがありそうなことだという気がしてくるではありませんか。
だけどロールの期待は裏切られることになりました。彼は冬の女王の活躍を見ることができなかったのです。喫煙者がいるはずの場所まで近寄った冬の女王が真実に気づき、振り返って侍女たちと顔を見合わせ、しかし一瞬後にはその意味に思い至り、自分のいる塔の窓へと顔を向けるのを見ることができただけでした。その後のことは何もわからなくなってしまいました。見えない腕が彼を背後から突然捕まえ、万力のように強い力で頭をつかまれ、何か大きな袋のようなものの中へとむりやり押し込まれてしまったのです。
匂いと感触から、分厚い布袋であるらしいことはわかりましたが、ロールに感じることができたのはそれが最後だったのです。袋を閉じ、わざとではないのでしょうがくせ者は背中にかつごうとして、ベッドの角に大きくぶつけてしまったのです。それがちょうど後頭部だったからたまりません。ロールは気を失い、何もわからなくなってしまいました。
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ちょうど中庭では、腹を立てて冬の女王がじたんだ踏んでいたのは想像にかたくありません。呪文のせいで透明になり、姿を見えなくしている喫煙者どころか、ただタバコを詰めて火をつけたキセルが一本、小石と小石の間に隠すように置かれているだけだったからです。そしてドスンガタンという物音と、すぐにかき消されてしまいましたが、塔の上からロールの悲鳴が聞こえてきたのでした。冬の女王はすべてをさとったわけです。
だけどロールは何も知らず、ただ皮袋の中で気を失っていました。といっても、くせ者に苦労がなかったわけではありません。呪文の効果なのか、くせ者の背中にかつがれると、ロールを入れた皮袋も透明になってしまいました。もう誰の目にも見ることはできません。しかし殺到してくる侍女たちをかわして、ここから逃走しなくてはならないのです。
「鏡を壊せ。城内にあるすべての鏡を割ってしまえ」冬の女王の声があたりに響きましたが、もちろんすべての侍女の耳に届くわけではありません。でも忠実な侍女たちは伝言を繰り返し、仲間たちに伝えていったのです。
「城内のすべての鏡を壊せ」
「すべての鏡を割ってしまえ」
その言葉はくせ者の耳にも聞こえていました。透明なので見えはしませんが、もし見ることができたなら、さっと顔色を変えるのがわかったことでしょう。やってくるときもそうだったのですが、帰り道も同じルートをたどるつもりでいたのです。鏡の向こう側では春の女王が待ち構えていて、冬の女王の城から自分の城へ、腕をつかんで彼を一瞬で連れ戻す計画だったのです。
くせ者は…、いえいえ、みなさんも見当がついているでしょうから、もうオラクルと呼ぶことにしますが、あせりを感じ始めました。ロールを捕まえることはできました。しかし春の女王の城まで安全に逃げおおせないと、誘拐が成功したとはいえないのです。タバコの仕掛けはもちろん彼がしたことでしたし、透明な姿を生かして寝室に忍び込んだのはよいものの、ロールに悲鳴を上げられてしまったのは大失敗だったのです。
おまけに冬の女王は、鏡を使う魔術にすでに気がついているではありませんか。城内の鏡をすべて粉々に壊されてしまっては、彼は春の女王の城へ帰ることができなくなります。さすがの春の女王も、小さな鏡の破片では彼とロールを運ぶことができないのです。
城中のありとあらゆる鏡があっという間に壊されてしまったわけですが、ただ一つだけ残された鏡がありました。女王の居間の壁にかけてあった一枚です。これだけは冬の女王の指示で壊されずにおかれたのです。人の全身を映すことができる大きさがあり、侍女たちの手でつねに磨かれ、明るく輝きながら部屋の中の風景を反射しています。この鏡を用いて、冬の女王はある作戦を考えていました。
すぐに塔へ戻り、侍女にはイスを持ってこさせ、冬の女王はこの鏡の前に座って待つことにしたのです。侍女たちはあたりから遠ざけられていました。オラクルがどこにいるのかは見当もつきませんでした。だけどロールをかついで何十キロもの荒野を歩いてゆくとは思えません。まだ城内にいて、息をひそめて様子をうかがっていることでしょう。そして隙を見て、この鏡の中へ飛び込もうとするに違いありません。冬の女王はそれを待つつもりでいたのです。いつでも使うことができるようにでしょう。彼女のひざの上には、さやに入った長い剣が置かれているではありませんか。
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長く苦しい我慢くらべになりました。冬の女王は食事も鏡の前ですませたのです。普段どおりの生活をするようにと侍女たちは命じられていましたが、それが簡単でないことはすぐに想像がつくと思います。侍女たちは神経をとがらせ、いつも以上に敏感になり、ほんの小さな物音にも驚き、飛び上がって振り向くようになっていました。
城内はそういう状態だったのですが、それもいつまでも続くわけではありませんでした。丸一日が過ぎ、翌日の夜が明け、再び朝がやってきたときのことです。チューチューというネズミの小さな鳴き声に、冬の女王は顔を上げたのでした。
不審に思い、鳴き声が聞こえてくる方向へと冬の女王は顔を向けました。するとどうでしょう。部屋のすみに、小さくかわいらしいネズミの姿を見つけたのです。しっぽを入れても大きさは10センチほどしかないので、赤ちゃんネズミといったほうがいいかもしれません。プックリと丸く、背中はおまんじゅうのように高く盛り上がっています。誰だって手にとってかわいがってみたくなる姿に違いありません。
だから冬の女王もそうしたのです。かがんでネズミをつまみあげました。剣は床に置かれ、鏡のことでさえ一瞬忘れ去られることになりました。もちろんこれは、オラクルが仕掛けたワナだったのです。冬の女王が動物好きであることをよく知っている春の女王が、ひそかに持たせておいたのです。使い方ももちろんオラクルに授けていました。そしてそれがうまくいったのです。冬の女王が子ネズミと遊んでいる間にオラクルはゆうゆうと部屋を横切り、鏡の中へと入ることができたのでした。
鏡の向こう側では、もちろん春の女王が待ち構えていました。腕を伸ばし、オラクルの手首をつかんで、自分のもとへと力いっぱい引き寄せたのです。だから一瞬後には、オラクルは春の女王の城へと帰りつくことができていました。最初の日につれてこられたとき、ロールがソファーの上で目を覚ましたあの居間です。春の女王の前で、さっそくオラクルはひざまずきました。「ご苦労であったな」と春の女王が声をかけたのはいうまでもありません。
「恐縮にございます」オラクルは頭を下げましたが、誇らしそうな表情を浮かべています。
「それでロールはどこにおる?」
「この袋の中にございます」と差し出そうとして、オラクルは表情を変えることになりました。肩から降ろすと皮袋がえらく軽いことに気がついたのです。
「どうした? その袋にはどうしてそのように大きな穴が開いておる?」
「なんですと?」
春の女王とオラクルは呆然と顔を見合わせました。いつどこで裂けたのか、知らぬ間に縫い目がほどけて、穴の大きさはオラクルでさえ腕を通すことができるほどではありませんか。ロールの小さな体なら、するりと簡単に通り抜けてしまうに違いありません。
「愚か者め。一体どこで落としてきたのだ?」春の女王がオラクルをにらみつけたのはもちろんです。
「わかりません。しかし冬の女王の居間でポケットからネズミを取り出そうとしたときにはちゃんといたことを覚えております。確かにロールは袋の中におりました」
「するとおまえは、あの子を鏡の中に落としてきたというのか?」
その意味に気がつき、オラクルと春の女王は再び顔を見合わせてしまいましたが、その後はどちらの口からも、どんな言葉も出てきませんでした。
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そっと額にキスをされるの感じ、ロールは目を開こうとしていました。どうやらオラクルの手で皮袋の中に放り込まれて以来、ずっと気を失っていたようです。
だけど目を開く前に、ロールはあることに気がつきました。なぜかとても気分が楽しく、幸福なのです。このように体が横になっているのでなければすぐさま踊りだすか、そうでなくても両手を高く上げてバンザイを叫んだかもしれません。彼はそのくらい幸せな気持ちでいたのです。
それがなぜなのかは、自分でもよくわかりませんでした。でも目を開きさえすればすぐに明らかになり、納得できるであろうという感じもあったのです。だからロールはいそいそとまぶたを開いたのでした。
彼の額にキスをしていたのは、一人の女でした。キスを終え、唇を離して体を起こそうとしているのです。ロールは思わず、あっと声を上げてしまいました。彼女の顔には見覚えがあったからです。いえ、見覚えどころではありません。鏡の中に何度も見つめ、憧れをいだいた姿だったからです。冬の女王が鏡の前に立つとき、いつも見ることができた姿です。鏡に映るときの冬の女王のまったく別の姿。それがもう鏡越しではなく、今は本当にロールの目の前にあるのでした。顔を輝かせ、手を伸ばしてロールが触れてみたことはいうまでもありません。でも肩に触れてすぐ、女の人の体に触れるなど失礼なことだと気がつき、手を引っ込めようとしたのです。だけど彼女は微笑み、口を開いたではありませんか。
「実のお母さんに触れるのに、いったい何の遠慮をする必要があるのです?」
「僕のお母さん?」
鏡の女王はクスリと笑いました。「人間の世界で育ててくれたお母さん、あなたのことをあんなにほしがっていた春の女王と冬の女王、そして私と、あなたには4人もお母さんがいるのですね」
声を合わせてロールも笑い始めました。そして自分がいる場所を見回す余裕が出てきたのです。彼はある部屋の中にいたのですが、立ち上がって窓に近寄り、外を眺めてみようという気になりました。立ち上がって歩き始めると、もちろん鏡の女王もついてきてくれました。
窓のさんにもたれかかり、二人は並んで外を眺めることになりました。
ロールは再び、あっと息をのんでしまいました。春の女王や冬の女王と一緒にいる間に、城の中で暮らすということには彼も慣れていきつつあったのです。でもこの城は春の女王や冬の女王の城とも、これまで絵や写真で見たことのあるどの城とも違っていたのです。
大きな城ではありませんでした。むしろおもちゃのように小さく、かわいらしく、塔や城壁がなければ、家か屋敷とでも呼びたくなるほどかもしれません。だけど鉛筆のように屋根のとがった塔が二つちゃんと存在し、敵の侵入に備えて城門はがっしりと作られ、城壁の上にはところどころ見張りの兵の姿まで見ることができるのです。これが城であることは間違いありません。
だけどロールを驚かせたのは、そんなことではありませんでした。岩や大地ではなく、なんとこの城は巨大なカメの背中の上に建てられていたのです。
体の大きさは何百メートルもあり、もちろん生きているカメですが、といっても池や小川にいるものに似た形を思い浮かべてはいけません。この城が立っているのはあんなとがった山型ではなく、もっと平らでなだらかなこうらの上だったからです。
小川にいるカメの足の先には、とがったつめや水かきがあり、指も人と同じような形をしています。だけどこの城を乗せているカメの足には指などありません。まるでボートのオールのような形で、もっと泳ぎに適しているのです。これは海ガメに違いありません。
鏡の女王からすぐに教えてもらえたことですが、足をゆったりと動かしながらこのカメが泳いでいるのが『鏡の海』と呼ばれる場所だったのです。上を向いても水面が見えるわけではなく、下を向いても海底があるわけではないのですが、ここが海と呼ばれる理由はロールにもなんとなくわかるような気がしました。まわりの何もかもが薄緑色がかって見えるのですが、遠くへ目を向ければ向けるほどそれがどんどん濃く暗くなり、最後は黒とほとんど変わらない色となって闇の中へと消えてしまうのです。青色と緑色という違いはありますが、地球の海の中にいる魚たちが目にしている光景も、これとよく似ているに違いありません。
だけど海そっくりといっても、ロールは息苦しさを感じたりはしません。ここを満たしているのは水ではないからです。なんといいますか、この緑色がかっているものが鏡の内部の世界そのものだからです。
それを不思議に感じるのでしたら、お母さんかお姉さんの鏡台のところへ行き、手を切ったりケガをしたりしないように注意しながら、鏡の断面の部分をそっとのぞき込んでごらんなさい。私がいっている意味が納得できることでしょう。地球の海は青いけれど、鏡の海は緑色。これが鏡の世界の色なのです。
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こうやって一度は姿を消したのですが、ロールが再び自分の城に現れたとき、春の女王がひどく驚いたのも当然かもしれません。真夜中の出来事だったのですが、明かりを消され、誰もいないはずの女王の居間の中にバリンという大きな音が突然響いたのです。
大きな音なので、城中に聞こえたに違いありません。もちろん家来たちがすぐに集まってきました。寝巻きを着たままでしたが、春の女王まで起き出してきたほどです。そして、床に散らばったガラスのカケラの間にロールの姿を見つけたときの驚きといったら。
少しぼんやりした表情で、ロールは床に立っています。でもケガはしていない様子です。「ロール」と声をかけると気がつき、にっこりと微笑んだのです。
「おおロール」思わず抱き寄せて、春の女王が自分の部屋へと連れ戻ったのはもちろんです。温かい飲み物を飲ませ、頬に色が戻ってきたところで、春の女王は質問を始めました。
「おまえは今まで、一体どこにいたのだね?」
「もちろん鏡の中だよ。オラクルが僕を落っことしていったんだもん」
部屋の中には心配顔の家来たちも姿を見せており、そこにはオラクルも含まれていたのですが、思わず振り返ってにらみつける春の女王と目が合ってしまい、オラクルが決まり悪そうな顔をしたのはいうまでもありません。
「ロール、鏡の中でおまえは何をしていたのだい? あれからもう1週間もたっているのだよ」春の女王は続けました。
「僕はカメの背中の上にいたんだよ」
「カメ?」
「こうらの上にお城があってね。でも誰も住んでいなくて無人だった」
「なぜ?」
「知らないよ。昔はたくさんの人が住んでいたみたいだけど、今はすっかり空っぽになって、何の気配もなかった」
「住んでいた連中はどうなった?」春の女王の顔色がさっと変わる様子を想像するのは、難しいことではないと思います。
「知らない。本当に何の手がかりもなかった。カメは口をきかないしね。城の台所に残っていた食べ物を僕は食べていたんだけど、だんだん残り少なくなってきてね。何かないかとこうらの上を歩いていたら足を滑らせて、海に落ちちゃった。そうしたら…」
「私の居間に落ちてきたというのか?」
「うん」
「ふうむ、不思議なことではあるな。だがまあよい。おまえが戻ってきたのであれば」
「あれから冬の女王はどうなったの?」
春の女王は、鼻からフンと息を吐き出しました。「あんなやつのことなど知らぬわ。相変わらず荒野の真ん中で、トナカイどもと一緒に風に吹かれておるのだろうよ。それはそうとおまえ、ちょっとこちらへおいで」
なぜか春の女王は手招きをするではありませんか。もちろん言われるまま、ロールはそばへ行きました。「どうしたの?」
「おまえの言うことはよくわからぬ。鏡の城が空っぽの無人になっていたというのがな。だから、おばばのところへ相談しにいったほうがよさそうだ」ロールの手を引き、春の女王はもう歩き始めています。
「おばばって?」
ロールと春の女王はぐるぐると回りながら、城のらせん階段を降りてゆきました。
「この国に古くからいる魔法使いさ。おまえの話がどうも気になるのでな」
「どうして? 鏡の城には以前は誰が住んでいたの?」
「鏡の女王といってな。だが説明は後回しだ。とにかくおばばのところへ急ごう」
春の女王の城の裏手は湖に面していました。波は静かですが深さはあまりなく、大嵐でもない限り船が通れなくなるようなことはありません。小さなヨットを持ち、春の女王はいつもここに浮かべているのでした。
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小さな船なので、ほんの二人か三人しか乗ることができません。だけど春の女王は船をあやつるのが上手だし、波だってないのです。しかも目的地の島は遠くなく、今も月光の下に輝いて見えているのでした。
山も丘もないぺったんこの島で、数軒の家があるのですが小さな建物なので、さすがにここからでは見ることができません。その中の一軒に、春の女王のいうおばばが住んでいるのでした。
名前は聞いていても、ロールも会ったことはありませんでした。年は百何十歳なのか顔はしわだらけで、背が低くまるでサルのような見かけの人だそうです。でもロールには関心はありませんでした。おばばと顔を合わせることなど必要なかったし、計画にも含まれていなかったのです。
ボートはゆっくりと岸を離れてゆきました。湖の上を渡るそよ風が帆をやわらかくふくらませています。船尾に腰かけ、ロールはかじを取ることになりました。春の女王は立ったまま帆をあつかっていますが、手つきはしっかりしています。ロールも少し感心しないではいられませんでした。
「あんたは船を動かすのがうまいんだね」
「少しは自信がある」春の女王は答えました。「娘時代からの趣味だ。いくら教えられてもとうとう泳げるようにはならなかったが、船をあやつることは別だ」
「あの島は遠いの?」ロールは指さします。
「いや、何分もかからぬ。それはそうと、私にはまだ気になることがある」
「なんなの?」
「おまえ自身のことさ。自分では気がついていなくても、おまえには何者かの手で呪文がかけられているのかもしれない」
「どうやって?」ロールが目を丸くしたのはいうまでもありません。
「呪文をかけた後、かけられたことどころか、その魔法使いに出会ったことすら忘れさせてしまうそういう呪文があるのだよ。おまえはそれをかけられているのかもしれない。鏡の海で無人の城を見かけたという話も、そのまま信用するわけにはいかぬ」
「だったらどうするの?」
「いま少し思いついたことがあるから試してみよう。これを用いれば、おまえに呪文がかけられているかどうかを知ることができよう」
帆から手を離し、春の女王はロールのそばへとやってきました。かじから手を離し、ロールも向かい合うことにしました。
「私が今から唱えるこの呪文は、おまえにどのような呪文がかけられているとしても、一瞬で取り除くことができる。それがどんな種類のどんなに強い呪文であってもだ。大したものであろう?」
「うん」
「ではいくぞ」
「いいよ」ロールはにっこりと答えました。そして春の女王は長い呪文を唱え始めたのです。
でも春の女王は、歌うように大きな声でろうろうと唱えたのではありません。そんな必要はなく、呪文とは口の中でただブツブツとつぶやくことができればいいのです。大げさな身振りも振り回す棒切れも関係ありません。
そうやって春の女王が唱え終わったとき、いったい何が起こったと思います? 春の女王は本当に優れた呪文家でした。一級の魔法使いだったといってもよいでしょう。その彼女が唱えた呪文ですから、一瞬の遅れもなく圧倒的な効果を発揮することになったのは当然かもしれません。
ロールについて、春の女王の予想は当たっていたのです。彼には確かに呪文がかけられていました。それは春の女王が自分でかけたものだったのですが、きれいに忘れていたのです。あなたはおぼえているでしょうか。この世界へ最初につれてこられた日、ロールは鼻水がたくさん出てどうしようもなかったのです。彼自身も、自分の頭の内部には巨大な鼻水タンクが存在するのに違いないと本気で思えてくるほどだったのです。それを春の女王が呪文をかけて止めてくれました。だく流のごとき鼻水の流れをその呪文が強力にせき止めていたのです。
そういった事情をすっかり忘れ、その呪文を春の女王は自分でといてしまったのです。次にどういうことが起こるかは、簡単に想像がつくではありませんか。
呪文でせき止められていた間にも、ロールの頭の内部では鼻水が続々と生産され、たくわえられていました。鼻水タンクはとっくに限界を超え、今にもはちきれそうにパンパンにふくれあがっていたのです。そこで呪文が消え、すべてが開放されてしまったのだからたまりません。ロールの鼻の穴からは、まるでナイアガラの滝のように大量の鼻水が流れ出すことになりました。
もともととても小さなボートでしかありませんでした。鼻水は船内をいっきに満たし、船べりだってあっという間に越えてしまいました。そうなるともう沈没するしかありません。湖に飲み込まれ、木の葉のようにひらひらと舞いながら、ボートは水の底へと落ちていったのでした。
どうすることもできず、春の女王とロールは湖へと放り出されてしまいました。冷たく暗い水の中です。春の女王は泳ぐことができません。あっという間におぼれ、死んでしまったのです。
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もちろんロールも水中に放り出されてしまったのですが、とっさにポケットに手を入れ、小さな鏡に指先を触れさせようとしていました。鏡の女王が持たせてくれたものです。指を触れさせると不思議な魔力がすぐさま働き始め、彼はいつでも鏡の城へと戻ることができるのです。
だけど結局、ロールはポケットの中の鏡に指を触れる必要はありませんでした。その前にまったく別のものが彼を水中から助け上げてくれたのです。
ざぁっと水音が聞こえ、大きな背中が突然波をかき分けたのでした。白く泡が立ち、気がつくとロールはその上にすくい上げられているではありませんか。すぐに波の上に顔を出すことができたのですが、不意のことでもちろんキョトンとしていました。だけど見回し、意味に気がつくことができたのです。水をかき分けたのは一匹のクジラで、彼はその体の上にいたのです。
もちろん助け上げて乗せてくれたのでしょう。クジラの背中とは家の屋根のように広く、張りのある手触りはまるでゴムのようにざらざらしています。押さえるとわずかにへこみますが、ぶよぶよとはしていません。おしりをつけてペタンと座り、おもしろいのでロールはしばらくこすったり、なでたりしていました。
「あまり触るな。くすぐったくて、おまえを水に落としてしまうかもしれぬぞ」と冬の女王の声が聞こえたのはいうまでもありません。これはもちろん冬の女王が変身した姿だったのです。以前ハゲタカにも変身したことがあったのをロールは思い出さないではいられませんでした。
「あんたは春の女王の城をずっと見張っていたの?」ロールは口を開きました。返事をする代わりに、背中の穴から強く息を吹き出して、クジラは答えてくれました。
月の光の下で、ロールはもう一度クジラの体を眺めました。種類はなんというのか知りませんが、白みがかった青い色をしています。背中には呼吸をするための穴が二つ、人の鼻の穴と同じように並んで開いています。ロールは思わず手を突っ込んでみたいような気持ちになりましたが、やめておきました。長い長い体なので、振り返ると尾びれが驚くほど遠くにあることがわかります。ロールを背中に乗せ、優雅に泳ぎ続けるのでした。
岸に着くと、トナカイを連れた侍女たちが待ち構えていました。ロールは陸に上げられ、クジラはもちろん冬の女王の姿に戻ります。そしてトナカイは歩き始め、翌日の太陽が空の真上まで昇るころには、ロールは冬の女王の城へと連れ戻されていたのです。
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冬の女王の城の様子は、以前とまったく変わっていませんでした。ロールの部屋だってそのまま残されていたのです。冬の女王の親切さや態度も変わりませんでしたが、ロールの気持ちだけは変化していました。もはや彼は、冬の女王のそばで無邪気に遊んでいる子供ではなかったのです。慎重に隠してはいましたが、冬の女王はもう彼の敵なのです。
冬の女王の暮らしや習慣について、ロールはよく知っていました。そしてチャンスを待っていたのですが、数日のうちにとうとうめぐってきたのです。
その日も冬の女王はロールをひざに乗せ、本を読んでくれていました。だけどロールは少し前から気づいていたのです。冬の女王はどことなく眠そうで、事実ページをめくりながら、何度か目を閉じて舟をこぎ始めそうになっているではありませんか。だからロールも何秒間かわざと黙り、冬の女王が先を続けてくれなくても催促したりせず、おとなしくしていたのです。
指先から力が抜け、コトンと頭を落として冬の女王が眠り込んでしまうには何秒もかかりませんでした。だけど念のため体を動かさず、声も出さず、ロールは見守っていました。そして冬の女王が深く眠り込んでしまったことが納得できてから、そろりそろりと体を動かし始めたのです。
冬の女王のひざを離れ、立ち上がって、ロールは壁の鏡へと近づいてゆきました。そこにはもちろん冬の女王の姿が写っています。でもロールが以前から知っている通り、不細工な冬の女王とはまったく違う『鏡の女王』の姿なのです。
ソファーの上で冬の女王は居眠りをしているのですから、鏡の中の女性もまったく同じドレスを着て、同じソファーの上で目を閉じています。だけどそれもロールが近寄り、鏡の表面にそっと触れるまでのことでしかありませんでした。ガラスの冷たさをロールが指先に感じるのと同時に、鏡の女王は目を開いたではありませんか。そしてひざの上に置かれていた本をそばのテーブルに乗せ、立ち上がろうとしたのです。
振り返って、ロールは冬の女王の様子を確かめようとしました。鏡の中とは違い、冬の女王は目を閉じてじっと動きません。やはりぐっすり眠っているのでしょう。
ほんの小さくですが足音が聞こえたような気がしたので再び振り向くと、スカートのすそをちょっと持ち上げながら、鏡の内側から部屋の中へ向かって、鏡の女王が一歩を踏み出そうとするところでした。それはまるで、ガラスのない窓を通ってひょいと入ってくるかのような自然なしぐさに見えました。もしかしたら鏡の世界の人々というのは、私たちの目を盗んでは、こちらの世界にときどき足を踏み入れているのかもしれません。見つかる前にさっとうまく帰ってしまうから、私たちが知らないだけなのかもしれません。
あっという間に鏡を完全に抜け出し、鏡の女王は部屋の中の人になっていました。そばへ行き、軽く腕に触れてロールは話しかけました。「お母さん、大丈夫? うまくやれる?」
「もちろんですよ」鏡の女王は微笑みました。その手の中に短剣が握られていることにはロールも気がついていました。
鏡の女王と並んで、ロールも冬の女王へと近寄ってゆくことになりました。寝息が聞こえ、相変わらず冬の女王は身動きもしません。でもそれも、ロールと冬の女王があと少しのところへ近寄るまでのことでしかありませんでした。突然両目を大きく開き、冬の女王が顔を上げたのです。
あまりのことで、ロールは声を上げることだってできませんでした。大きな音を立てて本を床に落とし、冬の女王はすっと立ち上がります。そしてその手には、なんと剣が握られているではありませんか。
目を丸くし、続いてロールの顔は青ざめてしまいました。ロールの行動を予想して冬の女王が準備をしていることなどまったく気がついていなかったのです。しかも冬の女王の持つ剣は、鏡の女王が持つものより3倍は長さがあるではありませんか。
冬の女王はにやりと笑っています。こうして向かい合うと、二人の女王はほとんど同じぐらいの背の高さだとわかります。おまけにどちらも同じドレスを着ているのです。顔以外はまったく見分けがつかないといっていいほどではありませんか。
どうしていいのかわからなくてオロオロしているロールの目の前で、二人の女王の戦いが始まったのでした。そっと表情を探りましたが、鏡の女王の顔つきは自信に満ちています。自分が簡単に負けてしまうとは思っていないに違いありません。冬の女王が長い剣を持ち上げ、まず相手を左右になぎ払おうとしました。短剣の刃先をチンと触れさせながら鏡の女王がとっさに後ずさり、うまくよけたのはいうまでもありません。二つの刃が触れ合うときに散った火花は、ロールの目にはとてもまぶしく感じられました。
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「ロールや、起きなさい。そんなところで眠るとカゼをひきますよ」
体を起こし、ロールは目をこすりました。木陰と草の葉の匂いが鼻をくすぐることに気がつきます。見回すとここは庭のすみで、ニレの木の根元にいるのでした。そばにはお城や小さなボート、ヨロイを来た騎士やトナカイのおもちゃが散らばっています。ついさっきまでそれらで遊んでいたのですが、いつの間にか眠り込んでいたようです。それを見かねてお母さんが声をかけたのでした。
「おやまあ鼻水がすごいこと」お母さんは思わず声を上げました。ハンカチを取り出してかがみ、彼の鼻の下をぬぐってくれたのはもちろんです。
「ごらんなさい」まだ笑いながら、お母さんは指さしました。「眠っている間に、あきれるほどたくさん出たものだわ。池になっているもの」
お母さんの言うことは本当でした。ロールも目を丸くしてしまうほどだったのです。うつ伏せになっていた彼の顔の真下だったのでしょうが、直径15センチほどの水たまりがあるではありませんか。
「ああ奥様、ここにいらっしゃいましたか」メイドの声が聞こえたので、ロールとお母さんは顔を上げることになりました。長いスカートの前をつまんで庭を横切りながら、メイドはこちらへやって来ようとしています。
「どうしたの?」
「奥様大変です。すぐ屋根裏部屋へいらしてください」
もちろんお母さんとロールは着いていきました。階段を上がりながら、メイドは説明を続けています。「古着をしまいに、私は一人で屋根裏部屋へと上がっていったんです」
「そうだったわね」
「すると奥様、なんとあの鏡が…」
「グレースがどうかしたの?」お母さんの顔色が変わるのは、ロールには少し意外な眺めでした。だから思わず口をはさまないではいられなかったのです。後ろからちょんちょんとお母さんのスカートを引っ張りました。
「お母さん、グレースって、いなくなったあの女の子のことじゃないの?」
きょとんとした顔をして、お母さんだけでなくメイドまでが階段の途中で立ち止まってしまいました。
「なんですって?」
「だってお母さん、お母さんの本当の子供はグレースで、あるとき妖精に盗まれてしまったんでしょう? その代わりに置かれていたのが僕だったんでしょう?」
思わずメイドと顔を見合わせていましたが、お母さんはとうとう笑い始めたではありませんか。「おまえはいったい何のことを言っているのです? グレースなんて子はお母さんは知りませんよ。お母さんが生んだのはおまえだけ。ええ、このおなかを痛めて生んだのです」
「その通りですよ」メイドも首を振りました。「奥様にはお子様はほかに一人もいらっしゃいません」
このメイドは、ロールが生まれる何年も前からこの家で働いている人です。ウソをつくはずはないし、その表情も本当に真剣でした。
「ふうん」とロールは納得するしかありませんでした。三人は再び階段を歩き始めます。
「なぜかは知らないけれどね、ロール」お母さんが言いました。「百年以上も前からわが家には古い古い鏡が伝わっていて、今も屋根裏部屋に保管してあるのですよ。お母さんの母や祖母も、そのまた母や祖母もその鏡のことをなぜかグレースと呼んできたわ」
「私も、先々代の奥様がそうお呼びになるのを聞きました」メイドも言いました。
「へえ」ロールは鼻の頭をこすりました。
「それであなた、グレースがどうかしたの?」お母さんはメイドに尋ねます。
「それが大変なのですよ。たった今気がついたのです。ご自分の目でごらんになってくださいまし」
屋根裏とはそんなに広い部屋ではありません。家の屋根にあわせて、天井は三角にとがった形をしています。明りとりの窓があって、太陽の光が差し込んでいます。物置代わりなので昔の釣具や狩りの道具、古い衣装の詰まった大きな木箱、床に積み上げられた本などのような、今は使っていない道具類がしまってあるのですが、その中にロールは、自分の古いゆりかごの姿も見つけることができました。
鏡もそれらの間にあり、倒れないように壁に立てかけて置かれていました。卵のようなだ円形で、目の前に立てばロールの全身を映すことができるほどの大きさがあります。
「ほら奥様」とメイドは指さしますが、ロールには意味がわかりませんでした。古いけれどただの鏡に過ぎないからです。何がおかしいのか、どう変化しているのかさっぱりわかりません。でもお母さんは違いました。「まあ」と言ったきり、口に手を当てて、目を丸くしているのです。
「どうしたの?」メイドとお母さんを、ロールは交互に見上げるしかありませんでした。
「まったく影もないわね」お母さんが口を開きます。
「はい奥様」メイドは手を伸ばし、まるで縦に二分するような形で、鏡の中央あたりに指先を走らせました。「つい昨日まで、ここより右側はびっしりと緑色のカビが、左側は白いカビがおおっておりました。まるで二色に塗り分けた国旗のような眺めでしたわ。ええ、確かに昨日まではそうでした」
「昨日ではないけれど私も確かに見たわ。あんなにひどかったカビが、どうして突然消えてしまったのかしら」お母さんも鏡の表面に顔を近づけて眺めています。「本当にきれい。まったく何の跡も残っていないわ。まさかあなた、私たちを驚かすために、こっそり磨いたというのではないわよね?」
「とんでもありません、奥様。あのカビは鏡の内側に生えておりました。ガラスの上からいくらこすっても、取り除くことはできませんでした」
「そうだったわね。家具職人に見せて、『ガラスとメッキの間に生えているから、これはもうだめだ』と言われたことを思い出したわ。だからここに片付けてしまったのよ」
お母さんとメイドはさかんに首をかしげています。一歩後ろに下がって聞いていましたが、思わず頬に浮かんでくる微笑を、ロールはどうしてもおさえることができませんでした。もちろん彼には、この出来事の意味がわかっていたのです。
緑色のカビが消えたのは、ロールがボートを沈めて、春の女王をおぼれさせてしまったからに違いありません。ハチやアリと同じようにカビにも女王がいて、それを失うとどんなに強いカビでも一瞬で滅びてしまうものなのかもしれません。
そして白いカビのことです。冬の女王と鏡の女王との戦いを、ロールは最後まで見届けることができませんでした。だけどどちらが勝利したのかは、もう明らかではありませんか。鏡の女王は冬の女王を倒すことができたのでしょう。だからこの鏡の表面からは、白いカビも姿を消してしまったのでしょう。
以前の美しさを取り戻したこの鏡を階下へと降ろし、居間か玄関の広間のどちらへ飾ろうかと、お母さんとメイドは相談を始めています。それは耳に入っていましたが、ロールにはあまり関心のないことでした。鏡の中で出会った三人の女王のことを彼は考えはじめていたのです。あの三人の名前のことです。
「私の名はグリーンというのだ」と春の女王は言っていたではありませんか。冬の女王の名をきくのを忘れていたことにロールは気がつきましたが、きっとホワイトといったことでしょう。
そしてロールは、鏡の女王の名も知りませんでした。これもきくのを忘れていたのです。だけど彼は残念には思いませんでした。鏡の女王の名は、きっとグレースといったに違いありません。
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