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  作品集3 作者:雨宮雨彦
兵の帰還
 向井小五郎といえば、軍に関係のない一般の人でも聞いたことのある名前でしょう。陸軍が誇る狙撃兵であり、与えられた勲章の数は片手ではとてもききません。しかし先日ついに戦死してしまい、遺体が帰国することになったという記事が新聞に出ましたね。

 小五郎の子供時代は、少しばかり謎に包まれています。まだ3歳にもならないころですが大雨が町を襲い、洪水となり、茶色い濁流が小五郎の家を住人もろとも押し流してしまったことがあるのです。でも小五郎を除いて、家族はみなすぐに救出されました。祖父母、両親、兄弟姉妹たちですが、ただ一人小五郎の姿だけはどこにも見つけることができませんでした。何度も捜索が行われましたが、それでも発見できなかったのです。

 数日後、ある目撃者が名乗り出て、小五郎の運命については疑問の余地なしと考えられるようになりました。濁流にのまれ、放水路をとおって下水の入口近くへと流されていく姿が見られていたのです。小五郎の生存は絶望的と考えられるようになりました。死亡が正式に宣告され、ある寺の境内に墓が建てられるにいたったのです。

 ところが話が大きく転回したのは3ヵ月後のことでした。なんと小五郎は元気でおり、無事な姿で発見されたではありませんか。ケガもなく体に傷もなく、栄養状態も決して悪くはありませんでした。ある場所で下水工事の最中だったのですが、古い下水管を新しいものと交換しようと持ち上げたとき、その中で座っている姿が見つかったのです。気楽そうにあぐらをかいており、工事関係者を見てニコニコと笑っていたそうです。

 小五郎がただちに家族の元へ送り返されたのはいうまでもありません。医師による健康診断が行われましたが、本当になんの異常も栄養不良も認められなかったのです。真っ暗な地下で小五郎は、誰の手で世話をされ、食べ物を与えられていたのでしょう。みなが不思議に思い、家族の者はもちろん質問しました。でも小五郎は笑っているばかりで、何も答えないのです。

 少しばかり早熟な子供だったこともあって、3ヶ月のブランクがあっても、彼の言葉の発達には特に遅れは見られませんでした。そのまま5歳になって幼稚園に入り、小学校に進み、中学へ行き、そのころ戦争が始まって、狙撃兵になったのです。その後の経歴はあなたもご存知の通りです。

 小五郎は戦死し、ひつぎを乗せた船が東京港に入港しようとしたときのことです。彼の帰国に敬意を表してたくさんの人々が桟橋に詰めかけたことは想像にかたくありません。しかし彼を迎えたのは人々ばかりではありませんでした。港を少し外れて、軍の管制区域なので一般の人々が立ち入ることのできない場所があるのですが、そこに小さな黒い影が何百と見えることに桟橋の人々は気がついたのです。

 それがなんとドブネズミたちで、小さな体を横一列に並べ、器用なのはみな後ろ足で立ち上がっていることでした。しかもまるで礼をつくすかのように一匹の例外もなく、そのしっぽを体の後ろにピンと長くまっすぐに伸ばしているではありませんか。ネズミたちは小五郎のひつぎを乗せた軍艦を見つめています。

 この光景が見られたのは、たった数分間のことに過ぎませんでした。岸壁に横付けされ、軍艦がいかりを下ろし始めるとドブネズミたちはさっと身をひるがえらせ、猫ほどのサイズのものから、夜店で売っているハツカネズミほどの大きさしかない子ネズミまでがいっせいに走り始め、あっという間に岸壁の排水溝の中へと姿を消してしまいました。まるで号令をかけている指揮官でもいるかのようなテキパキと統制の取れた動きではありました。そういった光景を目にし、桟橋の人々は「やはりそうであったか」と口々に語り合いながら、家路に着いたことでした。
(終)


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