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  作品集3 作者:雨宮雨彦
女王の首飾り
 アンナはヘンリーとは同い年で、幼なじみでもあったが、古道具屋の店先に並んでいたヨロイを見た瞬間に、彼女の心の中で何かに火がついてしまったようだった。

 二人の家はどちらも村はずれにあり、学校までは距離があったので、毎日馬に乗って登校していた。だからヘンリーは、アンナの馬の背に二人で乗ることにすっかり慣れてしまっていた。ちょうど村の通りにさしかかったところだったが、古道具屋の前を通り過ぎようとして小さな悲鳴をあげてアンナは馬を止め、ヘンリーにたづなを押し付けて、ひらりと飛び降りてしまったのだ。馬が足ぶみをしたので、ヘンリーはたづなを引いて落ち着かせた。アンナは店の中へ入っていった。そして薄暗い店内に飾ってあったヨロイを、これ以上はないほど熱心に眺め始めたのだ。

 それはまったく古道具屋に置かれるにふさわしいものだった。あまりにも古びて、さびてくすんで、ほとんど真っ黒に見える。それでも上半身を包む胴着や左右のコテ、カブトと一通りはそろっている。アンナはなかなか店から出てこなかった。しびれを切らし、ヘンリーも馬から飛び降りた。店内をのぞきこむと、ヨロイを眺めながらアンナはほれぼれとした表情を浮かべている。「アンナ」ヘンリーは声をかけた。「早く帰ろうよ。おなかがすいちゃったよ」

「ごめんごめん」とうとうアンナが店から出てきた。店の主人に何かを手渡すのがちらりと見えたから、きっと手付金だったのだろう。

 翌朝ヘンリーは、あのヨロイを買い取ったという話をアンナから聞かされた。昨日あのあと、貯金箱の中身をすべて持ってもう一度店に戻り、買い取ったのだそうだ。昨夜は夜遅くまで磨いていたのだそうで、彼女は少し眠そうな顔をしていた。その日は行きも帰りも、ヘンリーは馬の上でヨロイの話を聞かされることになった。「大きなものではないけれど、胸のところに鋭い穴が開いているのよ。前の持ち主はきっと、心臓をヤリで一突きにされたのだと思うわ」

「そんなものを買って楽しい?」ヘンリーは言った。

「私、あのヨロイを自分で身につけるつもりなのよ」

「穴が開いてるのに?」

「鍛冶屋さんで直してもらうわ。もうその約束も取り付けたもの」

 その言葉どおり、馬の背に乗せてアンナがヨロイを鍛冶屋へ運んでいく姿は、ヘンリーの家の窓からも見ることができた。アンナが言うには穴はすぐにふさがれ、見てもわからないほどきれいになったということだった。

 こうやってアンナはヨロイに夢中だったのだが、その間ヘンリーは、自分の中である不安が大きくなっていくのを感じないではいられなかった。それについては誰にも話さなかったが、数日後ついに現実となって目の前に現れた。学期の最後の日で、明日からは夏休みに入るという朝のことだったが、馬の上でアンナが宣言したのだ。「私、明日の朝早く家出をするの」

「どうして?」

「本当の家出じゃないのよ。十日間ぐらい冒険の旅に出ようと思うの」

「冒険?」

「だって」アンナは笑った。「私は騎士だもの」

「どうして?」

「ヨロイを着た騎士なんだから、悪いやつをやっつけたり、怪物を退治したり、塔に閉じ込められたお姫様を助け出したりするのよ」

 ヘンリーはため息をついた。これは本物に違いなかった。ここまで思い込んでしまっては、もういくら言ってもアンナは聞かないだろう。「それで?」ヘンリーは見つめ返した。

「だから君も、私の従者としてついてくるのよ」

「僕が?」

「当たり前よ。騎士には従者がつきものだわ」

 ヘンリーは再びため息をついたが、アンナは気がつきもしなかった。ポケットから手紙を二通取り出してヘンリーに見せた。封をして、ちゃんと切手も張ってあるものだ。宛名はそれぞれ、アンナとヘンリーの家になっている。「それをどうするの?」ヘンリーは目を丸くした。

「私と君の両親にあてて、『十日ほど旅行に出ますが心配しないでください』と書いたのよ。今からポストに入れるわ。明日の昼前には届くはずよ。誰も私たちのことは心配しないわ」

 ヘンリーは三回目のため息をついた。アンナは何もかも準備をすませているわけだった。郵便ポストの前で馬を止め、アンナが二つの手紙を投げ入れるのをヘンリーは眺めていた。もうどんな行動を起こす気力も残っていなかった。

 翌日の夜明け前、ヘンリーは自分の家の前で待っていた。荷物を入れたカバンも準備して、足元に置いてあった。すぐ隣にある家の門が開いて、足音を立てないように馬を引きながら、アンナが姿を現した。門を閉め、ヘンリーのそばへやってきた。「やあ、わが従者よ。時間通りであるな」アンナは太い声を出した。

 もちろんアンナは、あのヨロイを身につけていた。朝日を受けてきらきら輝いている。元は小柄な人物が身につけていたもののようだが、それでもアンナの身体には大きすぎた。本来なら笑い出すべき眺めなのだろうが、ヘンリーはそんな気にはならなかった。アンナはひらりと馬にまたがり、手をつかんで、ヘンリーも馬上へ引っ張りあげた。アンナが腰に剣をさしていることに気がつき、ヘンリーは口を開いた。「その剣はどうしたの?」

「自分で作ったのよ」アンナは持ち上げてみせた。言われてみればいかにも手作り風で、柄は木でできている。きれいな色のヒモをまきつけて、飾りにしてある。

「刃はどうしたの?」

 アンナはさやから引き抜いてみせた。「ただの木の棒よ。銀色に塗ってあるだけ」

 そうやってヘンリーたちは村を離れていった。人目の多い街道を避け、山へ向かった。木も森もない岩だらけの山だが、「あっちのほうがいかにも冒険が待っていそうじゃないの」とアンナが言ったのだ。ヘンリーはと言えば、もうそろそろ両親が起き出して、自分がいないことを発見しているころだろうと思えて気が重かった。だがアンナは何も感じていない様子で、目の前に開けてゆく景色に見とれ、ほおを紅潮させていた。馬は急な坂道をゆっくりと登っていった。「もうすぐ砂丘が見えてくるはずよ」とアンナが言った。

「砂丘って?」

「砂浜みたいに砂がいっぱいあるところよ。小さな砂漠のようなものね。この先の高原はそうなっているのよ。その砂丘を横切って、山脈の向こうがわへ抜けましょう」

「それからどうするの?」

「南へ曲がって、海沿いにぐるっと回って村へ帰りましょう。ちょうど十日間ぐらいの旅になるわ」

「その道筋のことも手紙に書いたの?」

「どの道を通って、どこの町に泊まるつもりか、簡単な予定表は書いておいたわ。心配することはないのよ。お父さんたちは怒らないと思うわ。学校が始まってから、みんなに自慢ができて楽しいじゃないの」

 アンナは相変わらずお気楽だった。ゆっくりと揺れながら馬は登り続け、砂におおわれた大地が前方に見えてきた。「砂丘だわ」

 ヘンリーは伸び上がって眺めた。確かにアンナの言うとおりだった。馬の足元が砂に変わり、ひづめがもぐりこむようになった。

「少し歩きましょうよ」アンナが馬から飛び降りたのでヘンリーも同じようにし、二人は並んで歩き始めた。そろそろ太陽が高くなり、じりじりと照らし始めている。砂丘は海の波のようにデコボコして、山と谷がいくつも連なっている。岩山はもう背後に見えなくなっていた。

「ねえ、道に迷ったりしない?」ヘンリーはアンナを振り返った。

 方位磁石を取り出し、アンナはにっこりした。「大丈夫よ。北へ向かってまっすぐ行けばいいだけだから」

 砂丘はずっと続いた。一時間歩いても景色はまったく変わらなかった。空腹になってきたので食べ物を出して歩きながら食べ、馬に少し水をやった。ポケットから取り出した地図に目を落とし、アンナが口を開いた。「これで砂丘の大体半分まで来たのだと思うわ」

 暑さと砂でいいかげんうんざりしていたので、ここまでと同じ距離をまだ進まなくてはならないのかと思い、文句を言いたくなって、ヘンリーは口を開きかけた。異変が起こったのは、そのときのことだった。

 足元の砂が突然動いたので、ヘンリーはもう少しで転んでしまいそうになった。あわててアンナの手をつかもうとしたが届かなかった。それでも何とか転ばずにすんだが、アンナと馬も同じ目にあっていることに気がついた。アンナが悲鳴を上げ、馬がいなないた。このときには、ヘンリーはひざまで砂にうずまってしまっていた。アンナと馬の足も同じように沈んでいきつつある。たづなをたぐり寄せ、アンナは馬の首にしがみついたが、何の意味もなかった。少しの間は踏ん張ることができただろうが、時間の問題でしかなかった。

 もうヘンリーは胸までうずまり、悲鳴を上げ続けていたが、すぐに首まで砂に包まれ、あっと思ったときには目の前が真っ暗になってしまっていた。身体全体を砂に囲まれ、足の下には何もなく、ただ落ちていく感覚だけがあった。だが息苦しさはなく、どこかへ運ばれていこうとしているのだということだけを感じていた。目的地がどこなのかは、もちろんわからなかった。ただ砂と一緒に落下を続けた。長い時間ではなかったに違いないが、ヘンリーはそのまま気を失ってしまった。



 目が覚めたとき、ヘンリーは平らな砂の上に寝かされていた。空は見えているがあたりは薄暗く、もう夕方なのだろうかという気がした。一人でぽつんと寝かされ、少し離れたところでは火がたかれ、たき火のようだった。それを数人が取り囲んでいるが、炎がきらめくせいで顔かたちまではわからない。不思議な感じがしたのは、それが子供ではないふうなのに、みな背がとても低く見えることだった。首を横に向けたまま、ヘンリーは見つめ続けた。彼らの話し声が聞こえてくる。

「なあ、そこのパンをもう一つとってくれよ」

「あいよ」

 どうやら食事をしているようだ。しかしヘンリーは突然気がついた。彼らの背が低く見えるのは錯覚ではなく、本当にそうらしいのだ。大人なのにみなヘンリーと同じぐらいの身長の男女だ。女はすその長い古めかしい服装をしている。男たちの服装も同じように古めかしいが、みなヒゲを長く伸ばしている。小さな瞳が、ときどき炎をぎらぎらと反射する。彼らの一人がヘンリーに気づき、ちょんちょんと仲間の肩をつついた。「おい、あいつが目を覚ましたぜ」

 一人が立ち上がり、ヘンリーのほうへゆっくりと歩いてくるのが見えた。背が低いのによく太った男だが、歩き方はきびきびしている。ヘンリーの目の前にやってきてかがみ、口を開いた。「起き上がることができるか? ケガはしていないか?」

「うん」ヘンリーは身体を起こした。肩に手をそえて、男は手助けをしてくれた。

「名はなんという?」

「ヘンリー」

「ヘンリー、おまえはずいぶんと長い距離を落ちてきたのだぞ」

「どこから?」ヘンリーは思わず上を見上げたが、もうすっかり日が暮れ、真っ暗な夜の空が広がっているのが見えるだけだ。

「もちろん上の世界からさ」

「ここはどこ?」

 男はかすかに笑った。「下の世界さ」

「下の世界?」

「あの砂時計が」男はヘンリーの背後を指さした。「おまえを上の世界から運んできたのだ。流れ落ちる砂と一緒にな」

 振り返り、ヘンリーは思わず小さな悲鳴を上げた。彼の背後には巨大な砂の山があったのだ。本当に大きなもので、高さがいくらあるのか見当もつかない。空高くそびえ立ち、完全な円錐形をしている。大地に向かってすそはなだらかに広がり、その頂上へ向かって、空のどこかから砂が落ち続けているのだが、上空がどうなっているのかは暗すぎて見ることができない。だが砂は細い滝のようになって、休むことも途切れることもなく流れ落ち続けているのだ。もちろん砂丘で見たのと同じ白い砂で、完全に乾いてサラサラしている。

「あれは砂時計なの?」ヘンリーは男を振り返った。

「そうさ。オレの名はスピン。おまえを見つけることができて運が良かった。でなければ、こんな荒地の真ん中ではおまえは数日と生きられなかっただろう」

 ヘンリーはまわりを見回した。巨大な砂山を除いては、本当に何もない場所だ。目の届く限り、岩だらけのゴツゴツした荒地が続いている。「あんたは何者なの?」ヘンリーはスピンを振り返った。スピンは、たき火の向こうに止めてある馬車を指さした。

「オレたちは旅の商人さ。首都へ向かって旅をしているところだ」

「首都?」

「下の世界で一番大きな町さ。あと三日たてば、おまえもその眼で見ることになる」

 翌朝、馬車に乗せられてヘンリーは砂山の前を離れた。六頭の馬が引く大きな馬車で、ときどき振り返って後ろを眺めたが、いくら進んでも砂山は遠くなるどころか、小さくなる気配もなかった。それぐらい巨大なものだったのだ。上空には滝のような砂の流れが太陽の光を受けてきらめきながらずっと続き、雲の裂け目を通って青い空のかなたに見えなくなっていた。

 スピンが言ったとおり、首都には三日で着くことができた。途中で二回野宿をしたが、三日目の朝には首都の大門に達することができたのだ。スピンは、この世界のことをいろいろと話してくれた。下の世界全体が一つの王国であり、ジュディスという女王が治めていること。何世紀も続いている歴史のある国で、ジュディスの城は首都の中央にあり、とがった塔の姿をここからも見ることができた。

 馬車を止め、大門が開くのを待っている間、スピンが指さして教えてくれた。大門のわきには石でできた大きな像が飾られていたのだが、「あれがジュディス様の像だ」とスピンは言ったのだ。このときヘンリーは、初めてジュディスの姿を目にした。

 馬車は首都の中へと入っていった。ここまで来ると、いくら振り返っても砂時計はもう見えなかった。首都といっても、木造の小さな家が昆虫の卵のように何千かかたまっているだけのものに過ぎず、とても感心するようなものではなかった。人通りの多い細い道を馬車はゆっくりと進み、頭を突き出して、ヘンリーはずっとキョロキョロしていた。

「あれがジュディス様のお城だ」とスピンが言った。小さな屋根が並んでいる向こうに、大門からも見えた大きな建物が一つだけぽつんととがった屋根を突き出している。通りに面して布類を扱う大きな店があり、馬車はそこに立ち寄り、運んできた荷物を降ろしはじめた。この馬車は何百キロもの荒地を越えて、遠い町から布地を運んできたのだ。筒状に巻いてあり、床の上にそれこそ何十も積み上げられたが、スピンが一つほどいて見せてくれたのだが、まっさらでとても美しい絹だった。

 荷降ろしがすみ、ヘンリーたちは宿屋へ向かった。金が入ったのでみな上機嫌で、ヘンリーもつられてニコニコ笑っていた。馬車と馬を預け、まず食事に出かけることになった。だが奇妙なことが起こった。宿屋の前に馬車を止め、地面に飛び降りたとき、建物の影から何人かの男たちが突然バラバラと飛び出してきて、ヘンリーたちはあっという間に取り囲まれてしまったのだ。

 突然のことでヘンリーだけでなく、スピンたちもひどく驚いた顔をしていたが、革でできたヨロイやカブトの様子から見て、兵士だということはすぐにわかった。いかにも隊長とその部下たちという感じで、偉そうな長い棒を手に持ってヒゲもじゃの男がまず前に出て、口を開いた。「砂時計のそばでおまえたちが拾ったというのはこの子供か?」

「そうだが」つばを飲み込み、スピンはそう答えるしかなかった。

「ふん。こいつか」隊長は鼻を鳴らし、ヘンリーをじろじろ眺めた。

「何の用だ? なぜこの子のことを知っている?」

「上の世界から落ちてきた子供をおまえたちが拾い上げたことは、もう町中の噂になっている。おまえたちの馬車は飛びきり足が遅いと見える」

「それで?」

「その噂がジュディス様のお耳にも届いてな、お城へつれてこいとおおせだ。上の世界から来た者に一度会ってみたいとおっしゃってな」

「ジュディス様が?」

「そうだ」

「しかし…」

 だが隊長はもう何も言わずにヘンリーの腕をつかみ、そばに待たせておいた馬の背に乗せようとした。不安そうな顔で、ヘンリーはスピンを振り返るしかなかった。だがスピンの表情から、兵隊には逆らっても無駄なのだということだけは感じ取ることができた。ヘンリーをクラの上に落ち着かせ、じろりと見上げて隊長は再び口を開いた。「オレの名はガガンボという。ジュディス様に仕えるガガンボ隊長だ」

 そうやってヘンリーは城へ連行されることになった。せっかく仲良くなったのに、スピンやその仲間たちの姿を見るのはこれが最後になった。城が近づいてくるにつれて、息苦しさが強くなってくるのをヘンリーは感じないではいられなかった。スピンから聞かされていたことから、ジュディスとは一種の魔女のような女で、五百年前からまったく年を取っていないということをヘンリーは知っていたのだ。顔にしわができることも老いぼれることも、跡継ぎを得ようとすることもなく、現在でもどんな老人の記憶の中にあるのと寸分変わらぬ姿をしているというのだ。

 そんな女王が自分を呼んでいるなど、思っただけでヘンリーはとても怖くなった。今すぐに逃げ出したかったがどうしようもなく、ただ馬の背に乗せられて引っ張っていかれるしかなかった。

 城は本当にもうすぐそこに見えていた。正面には門があり、怪物のように大きく口を開けている。中庭で馬から降ろされたが、そこで若い侍女が待っていて、兵たちの手からヘンリーを受け取った。見上げると目の前には屋根のとがった背の高い建物があり、入口が開いていた。侍女に連れられ、ヘンリーはその中へ入っていくしかなかった。廊下を歩き始めるとバタンと大きな音が聞こえ、振り返ると背後で入口の扉が閉められたところだった。

 3階まで上がり、居間のような広い部屋の中で女王はヘンリーを待っていた。廊下が突然終わり、気がつくとその部屋の中へ入っていくところだったのだが、侍女はヘンリーを女王の目の前まで連れていき、立ち止まらせた。深くお辞儀をし、自分は部屋から出ていった。音を立ててドアが閉まって、ヘンリーは女王と二人きりにされることになった。

 女王の姿は、町の入口で見たあの石像と本当に同じだった。五百年前に作られたという像だったが、まるで魔法でもかかっているかのように、この女には年をとった気配がまったく感じられなかった。髪に一本か二本白髪が混じるどころか、目のまわりに小じわさえないのだ。ゆで卵のようにつるりとした肌で、ヘンリーをまっすぐに見つめている。恐ろしくて、ヘンリーは口を開いていいのかさえわからなかった。だが突然女王が口を開いた。「砂時計に巻き込まれて上の世界から落ちてきたというのはおまえか?」

 ヘンリーは黙ってうなずいた。

「ふうむ」女王は少し感心した顔をした。「おかしなこともあるものだな」

「何が?」気がつくとヘンリーは、そんなことを口にしていた。女王はうれしそうに笑い、答えてくれた。

「私もそろそろ首飾りの秘密を誰かに打ち明けようと思っていたところさ。だが誰に打ち明けるべきかずっと迷っていた。ふさわしい相手を決めかねていたのだ。そこへおまえが落ちてきた。もしかするとこれは、打ち明けるのならおまえがもっともふさわしい相手であるということなのかもしれん」

「何を?」

「この首飾りのことさ」女王は自分の首のまわりを指さした。そこには太い銀色の針金のようなものがある。首飾りといえばそうなのだろう。

「それがどうかしたの?」

「まあ座れ」女王は、ふかふかとした大きなイスを指さした。ヘンリーをそこに座らせ、自分も同じように腰かけて、女王は話し続けた。「私の名がジュディスだというのは知っていよう?」

 ヘンリーがうなずくと、女王は続けた。「私が500年間、まったく変わらぬ姿で生き続けているということも知っておるか?」

「うん」

「この町の入口に立っている石像のことも知っていよう? 風雨を受け、500年の間にあの像はすっかり古びてしまったが、私の姿は寸分も変わっておらぬ」ジュディスは立ち上がり、自分の姿を見せた。

「わかるか?」ジュディスは笑った。

「うん」

「だがこれにはカラクリがあるのだよ」

「どんな?」

「見ているがいい」

 ジュディスは腕を伸ばし、自分の首飾りに触れた。手にとって首から抜き、そのまま外してしまったのだ。光を受け、首飾りがきらりと輝くのがまぶしかった。だがヘンリーを驚かせたのはそんなことではなかった。彼の目の前にいるのはもはやジュディスではなかったのだ。まったく別の見たこともない中年の女がいて、ヘンリーの顔を見てうれしそうに笑っているのだ。首飾りはこの女の手の中にある。だが断じてこれはジュディスではない。ヘンリーにはわけがわからなかった。まるで手品のように、一瞬でジュディスがこの女と入れ替わってしまったのだ。

「わかったかい?」女は歯を見せて笑った。だがヘンリーは首を横に振ることさえ思いつかなかった。

「ジュディスはどこへ行ったの?」

「ここにいるではないか」

「あんたのこと? ジュディスがあんたに変身したの?」

「違う」女は首を横に振った。「ジュディスとはこの首飾りのことなのだよ。この首飾りを身につけると、誰でもその姿がジュディスに変わるのさ。女王ジュディスとは代々、こうやって何十人もの人間が演じてきたのだよ。五百年以上にわたってな。それがジュディスの正体なんだ。私は二十五代目のジュディスだったのだよ」

「どうして?」

「知るもんかね。私は先代からこの首飾りを渡され、役目を引き継いだだけだ。もう三十年近くになる。だがそれも今日で終わりだ」

「なぜ?」

「今日で首飾りをおまえに譲り、私は引退するからさ」

「なぜ僕にくれるの?」

「さっきも言ったであろう? 三十年もやればもう十分だ」

「そうかなあ。僕だったら百年でもやり続けるだろうけどなあ」

「ならおやり。これはもうおまえの物だ」女は首飾りを手渡そうとした。少しためらったが、結局ヘンリーは受け取ってしまった。

「あんたは後悔しないの?」ヘンリーは女を見つめ返した。

「後悔も何も、私はもうジュディスに戻ることはできないのさ」

「どうして?」

「その首飾りはね。一度でも外したが最後、もう二度とジュディスの姿に戻ることはできないのだよ」

「どうして?」

「やってみせようか?」女はにやりと笑い、ヘンリーの手から首飾りをとった。そしてもう一度自分の首にかけたが、本当にそのとおりだった。女の姿はまったく変わらず、ジュディスには変化しなかったのだ。

「なぜそんなことになってるの?」ヘンリーは目を丸くした。

「なぜだろうねえ。だがとにかくこういうことなのさ。あんたも十分気をおつけ。一度外してしまったらそれまでだからね」再び首飾りを手渡しながら女は言った。

「うん」もう一度受け取ったが、それでも首飾りを首にかける勇気をヘンリーは見つけ出せないでいた。冷たくずっしりと重い手触りを感じながら何となくためらい、手の中でもて遊んでいたのだ。

「いいことを教えてやろう」

「なに?」ヘンリーは顔を上げた。

「おまえはあの砂時計を覚えているだろう?」

「うん」

「あんなに巨大でも時計は時計なのだから、時間を計るための道具さ。どこの誰がどういう目的で作ったのかは誰も知らないがね。あの砂時計は、すでに五百年以上も砂を落とし続けているのだよ」

「へえ」

「そうやって時間を計っているのさ。あの砂が落ちきったとき、何かが起こると言われているのだよ」

「何が起こるの?」

 女は笑った。「そこまでは誰も知らないさ。砂が落ちきるのはまだまだ何百年も先のことだ。それを見届けることができるのは、今生きている人間の中には一人もおるまいよ」

「そうだね」

「だが、砂が落ちきるときに何が起きるのかをその目で見る方法が一つだけある」

「どうするの?」

 ヘンリーが目を輝かせたので、女は満足そうに笑った。「おまえがジュディスになることさ。首飾りを外しさえしなければ、ジュディスの姿のまま500年でも600年でも生きることができるのだよ」

 なんとなくため息が出てくるのを感じながら首飾りをテーブルの上に置き、ヘンリーは窓に近寄って外を眺めた。この窓は見晴らしがよく、町の様子を眺めることができた。ヘンリーは女を振り返った。「ジュディスになれば、この町は僕の物になるの?」

「町だけじゃない。下の世界のすべてがおまえの物になる」

 ヘンリーはもう一度窓の方向をむいた。日が暮れかけて、町は何もかもが赤く染まって見えた。この世界でも夕焼けはこんな色をしているのだなという気がした。もう一度ため息をつき、ヘンリーは窓のふちにもたれかかった。ヘンリーの注意が別の方向をむく瞬間をじっと待っていたのだろう。女が背後からそっと近寄っていることには、ヘンリーはまったく気がついてはいなかった。

 あっと思ったときには、首飾りはヘンリーの首にかけられてしまっていた。意外な重さと金属の冷たさを感じたがそれも一瞬のことで、気がついたときにはぐいっと背が伸び、まるでキリンにでもなったかのように、さっきよりもずいぶん高い位置から町の風景を眺めることになった。上を向くと天井が近く感じられる。振り向くと女がニヤリと笑い、壁にかかっている大きな鏡を指さすところだった。ヘンリーは歩いていき、自分の姿を写してみた。

 思っていたよりもジュディスの背が高いことにもう一度びっくりした。慣れるまではバランスを取るのに気をつけなくてはならないかもしれない。いかにも女王らしくというべきなのか、ジュディスが着ているものは重く、これも慣れるのに時間がかかるかもしれなかった。特にかんむりは、小ぶりなものだが金属でできていて、髪にはピンで留めてあるのだが、その先が肌に触れているのが変な感じだった。だがこれも、そのうちになんでもなくなるのだろうという気がした。

「さあて」軽く手をたたき、女がうれしそうに笑った。「これで一仕事すんだわけだ」

 ヘンリーは振り返り、相手を見下ろした。女はいかにもまぶしそうに見上げている。「三十年間慣れ親しんだ姿だが、いざ別人となって目の前に立たれるとおかしな感じだねえ」

「そうかい?」

「そうさ、ジュディス様」女は歯を見せて笑った。「後生だから、私の最後の願いをきいてくれるかい?」

「何なりと」

「家来を呼んで、城の外まで私を丁重に案内させてくれるかい? この城の連中は私の顔など知らないからね。曲者と思われて、牢へ入れられたりしたくないのさ」

「わかった」ヘンリーは歩きはじめ、部屋の扉に手をかけようとした。

「それともう一つある」

 立ち止まり、ヘンリーは振り返った。「何か?」

「そこの引き出しを開けて」女は指さした。「金貨を十枚ばかりもらえないかね? 外で暮らしてゆくには必要だからね」

 ヘンリーは言われたとおりにし、女を城から送り出した。窓から見ていたのだが、門をくぐって外へ出ていくとき、女は何度か振り返って建物を見上げていたが、特に名残惜しく感じているようには見えなかった。すっかり暗くなった夜の町に女は姿を消してしまった。

 翌朝から、ヘンリーの新しい生活が始まった。平行して、城の中の探検もはじめた。ヘンリーがどの廊下を歩き、ドアを開けてどの部屋に立ち入っても、のぞき込んでも、誰も文句を言わなかった。よほどの用がない限り、話しかけられることもなかった。そういう探検の途中、中庭を横切ろうとしたときだったが、木の下に男が一人立って、のんびりとタバコを吸っていることに気がついた。もちろんヘンリーはそばへ歩いていった。

 革のカブトとヨロイを身につけた兵隊で、見覚えのある顔だと思ったらやはりガガンボだった。ヘンリーの姿に気づいて飛び上がり、背筋をピンと伸ばした。もう手遅れだったが、タバコをあわてて背中に隠した。ヘンリーは近寄りつづけ、とうとう目の前で立ち止まり、そのヒゲ面を見下ろしてやったのだ。ガガンボは石のように固まっている。ヘンリーは手を伸ばし、ヒゲの先をつまんでちょんちょんと引っ張ってやった。ガガンボは痛そうな顔をしたが、逆らわなかった。

「ふうむ。これは付けヒゲではなかったのか」

 だがガガンボは何も言わず、ただ目を白黒させていた。こうやってヘンリーは女王としての生活にだんだんと慣れていったが、ある夜、奇妙なことが起こった。もう真夜中で、ヘンリーは寝室でぼんやりしていた。なぜかまだ眠くはなく、ベッドに入る気にはならなかったのだ。窓の外は暗く、町の明かりはほとんどがすでに消されていた。だがそこに、かすかな物音が聞こえたような気がしたのだ。

 ヘンリーは耳をすませた。誰かが屋根の上を歩いているのだと気づくのには、長い時間はかからなかった。窓に近寄り、ヘンリーはそっとガラスを押し開けた。すうっと冷たい空気が入ってくる。中庭のどこかで虫が鳴き始めた。侵入者は屋根の上で息を潜めているようだ。何メートルと離れていないところにいるのだろう。数歩下がり、ヘンリーは待つことにした。

 だが何も起こらなかった。いらいらし始め、こちらから声をかけてやろうかと思ったほどだ。しかしその瞬間、黒い影がさっとテラスに降りてきて、やわらかなボールのように弾んで窓を乗り越え、部屋の中へ飛び込んできたのだ。しなやかな体つきをして動きはきびきびしているが、緊張もしているらしくて、どこかぎこちなくもある。見当違いの方向へ走り、足を止めてキョロキョロ見回した。ヘンリーは部屋のすみから眺めていた。侵入者は女だったが、身体を伸ばして気づき、にらみつけるようにしてヘンリーを見上げた。懐かしさを感じなかったといえばウソになる。それはアンナだったのだ。

「おまえがジュディスか?」アンナが口を開いた。その声もとても懐かしくて、ヘンリーは駆け寄って抱きつきたいような気がした。だが自分の姿のことを思い出して、やめておくことにした。ヘンリーがにっこりと微笑むのを見て、アンナは意外そうな顔をした。「なぜ笑う?」

「なぜでもよい。何の用か?」長イスの前へ歩いていきゆっくりと腰かけると、ドレスがかすかな音を立てるのが、ヘンリーは自分でも耳に快かった。

「ヘンリーを返してよ」とアンナが突然大きな声を出したとき、その名を聞くのはずいぶん久しぶりなような気がヘンリーはした。だが見つめ返し、こう口を開いただけだった。

「ヘンリーとは誰のことか?」

「私の友だちなの。砂時計に巻き込まれて、下の世界へ一緒に落ちてきたの。でも砂の流れの中で離れ離れになってしまった」

「それで?」

「下の世界へ落ちてきて、私は親切な町の人に助けてもらうことができた。それからヘンリーを探し回ったの。そのとき噂を聞いたわ。スピンという商人が拾い上げ、馬車に乗せてこの町へ連れてきたとわかった。でもジュディスの兵隊につかまって、ヘンリーはこの城へ連れてこられたのよ」

「だからおまえはここへきたのか?」

「ええ」

「そのヘンリーを、おまえはなぜそうまでして探す?」

 アンナの表情が変わった。険しい顔つきだったのが、感情に押された泣き出しそうなものになった。だがアンナはそれを何とか押さえ、口を開いた。「私が旅に誘ったのだもの。私に責任があるわ」

「なるほど」首を傾けながら、ヘンリーはアンナを眺めた。

「ヘンリーをどこへやったの?」

「まず座らぬか?」ヘンリーは長イスを指さした。だがそれは、言っても無駄なことのようだった。

「ヘンリーをどこへやったの? 早く言いなさい」

「そう怒鳴るな。家来たちが聞きつけたらどうする」

「どうなってもいい。ヘンリーはどこ?」

 ゆっくりと立ち上がり、ヘンリーはアンナに近寄った。アンナは警戒する様子はなかった。口を大きく開き、また何か叫ぶそぶりを見せたのだ。ヨロイを着ているから大したことはないだろうとヘンリーは思った。おそらくケガなどしないだろう。ヘンリーはアンナの腕をつかみ、強く引いた。身長の差は相当あるのだ。アンナの小さな身体は軽く動き、一、二メートル宙を飛び、そのまま頭から壁にぶつかっていった。大きな音がしたが、家来たちに気づかれることはなかったようだ。床の上に伸びたまま、アンナは動かなくなった。

 机やイスを動かし、ヘンリーは部屋の中央を広く開けた。そこには四角いじゅうたんが敷かれている。アンナの身体を横たえ、ヘンリーはくるくるとじゅうたんで巻いて包んだ。それを持ち上げ、肩の上にかついで歩き始めたのだ。

 廊下に出るとすぐにガガンボに出会った。今夜の見回り当番だったらしい。暗い中をランプを手に歩いていたのだが、ヘンリーに気づいて立ち止まった。しばらく間があったが、とうとうガガンボは勇気を奮い起こしたようだった。あのヒゲだらけの口を動かした。「ジュディス様、こんな夜中に何をなさっているのです? そこには何をお持ちなのです?」

「馬を二頭用意せよ。遠乗りに出かける」

「こんな時間にですか? そのじゅうたんは何です?」

「これは私のお気に入りでな。遠乗りの途中、どこかで休憩するときに敷こうと思うのだよ。早く用意をせよ」

 軽くにらみつけてやるだけで、ガガンボはきびすを返した。馬屋へ向けて階段を降りていく足音が聞こえた。別の階段を通り、ヘンリーは中庭に出ることにした。じゅうたんの中のアンナはピクリともしない。二分もたたないうちに、二頭の馬を引いたガガンボが姿を見せた。まだ不審そうな顔をしているが、何も言わなかった。

 一頭の背にじゅうたんを乗せ、ヘンリーはナワでしっかりとくくりつけた。変なものを積まれて馬は面食らっている様子だったが、おとなしくしていた。もう一頭にまたがり、じゅうたんを積んだ馬のたづなも引いて、ヘンリーは城を出ていった。何か言いたそうな顔をしていたが、やはりガガンボは最後まで口を開かなかった。ヘンリーの背後で城門が閉じられた。

 首都を抜け出し、荒地に差しかかったあたりで、じゅうたんの中からうめき声が聞こえてきた。始めは何を言っているのかわからなかったが、すぐにはっきりしたわめき声に変わった。「こら、私を今すぐここから出せ」

 ヘンリーは思わずにっこりしないではいられなかった。あれだけ元気があれば心配はないだろう。馬を止め、ナワをほどきにかかった。背の低い岩山に囲まれているばかりで、まわりには家どころか小屋一軒見えない場所だから、誰かに目撃される心配はないだろう。月が斜めに低く照らしている。

 じゅうたんの中から姿を現したアンナは、頭を激しく振って、汗で張りついた髪を吹き飛ばした。手足をぽきぽき鳴らしてヘンリーをにらみつけた。「どういうつもりなのよ」

「城から連れ出すときに、家来たちに見られたくなかったのでな」

「家来たち?」アンナはまわりを見回し、自分がいる場所に気がついた。「ここはどこ?」

「首都を少し離れた場所だ」

「私をどこへ連れて行こうというの?」

「砂時計のところへさ」

「何のために?」

「来ればわかる」空っぽのじゅうたんをくるくると丸め、ヘンリーは馬にまたがった。「おまえもついて来い。馬には乗れるのだろう?」

「バカにしないで」怒った声を出し、アンナがクラとたづなをつかんだのは言うまでもない。数日かかる旅になった。途中の村で何度か食べ物を買おうとしたのだが、ヘンリーの姿を見るとみなすぐに逃げ出してしまい、どうしようもなかった。だからヘンリーは村の外で待ち、アンナだけが店へ行くようになった。これでは宿に泊まることもできないから、夜はじゅうたんを敷いて野宿するしかなかった。

 白いドレスを着たヘンリーの姿は、遠くからでもよく目立つに違いなかった。始めのうちは他の旅人の姿もときどき見かけたのだが、二日目には一人も見なくなり、街道は空っぽになってしまった。ジュディスが街道を進んでいるという噂が流れ、みな別の道へルートを変えたようだった。旅の間アンナは口をきかず、黙って下を向いていた。ヘンリーはときどき話しかけたが、多くの返事を引き出すことはできなかった。そんなアンナも、たまには顔を上げて自分から口を開くことがあった。だが話題はいつも同じだった。

「本当にヘンリーのことは、あんたがきちんと面倒を見てくれるのね?」アンナは同じ質問を何度も繰り返した。そのたびにヘンリーは首を縦に振り、辛抱強く説明した。

「心配するな。私の城の中で楽しくやっているよ」

「ヘンリーは、ずっとお城の中で過ごすの?」

「ときどきは外出することもあるさ。供を連れて馬に乗り、街道を遠乗りしたりもする。休憩のときに使うじゅうたんを持ってな」

「その後はどうなるの? ヘンリーは一生あんたと一緒に過ごすの?」

「そうさ」ヘンリーはにっこりした。「ヘンリーは私の息子になったのだ。安心するがいい」

「でも…」

「心配するな。一国の女王がウソをつくと思うか?」

 日が暮れて休息するとき、アンナはヘンリーと同じようにじゅうたんの上に横になったのだが、彼女はなかなか寝付けず、真夜中に何度も目を覚まし、目を開いてじっと星空を見上げていることにヘンリーは気がついていた。砂の中でもがくような身振りをしながら、「ヘンリー、ヘンリー」と寝言を言うこともあった。

 三日目の夕方、ヘンリーたちは砂時計のふもとに着くことができた。以前と同じ姿で、空のかなたから降り注ぐ砂を受けながらそびえ立っていた。本当に巨大で、顔を真上に向けないと視野におさまりきらないほどだ。砂は常に崩れ続け、サラサラという音がかすかに聞こえてくる。ヘンリーが馬から降りると、アンナも同じようにした。

「ここで何をするの?」アンナは不安そうな声を出した。ヘンリーは馬たちのたづなをまとめて取り、そばに生えていた木にくくりつけたところだった。振り返り、アンナの手を取った。

「どうするの?」アンナはヘンリーを見上げている。

「こうするのさ」

 アンナの手を取ったまま、ヘンリーは砂山に向けて一歩踏み出した。引きずられるようにして、アンナもついてくる。ヘンリーの左足が砂に触れた。だがその足は、砂にめり込んでしまうことはなかったのだ。まるでエスカレーターのステップに乗ったときのように、そのまま砂の斜面にそって上へ進み始めたではないか。ヘンリーは右足も砂に乗せた。右足もまた同じように上へと進み始めた。ヘンリーの身体は、砂たちによって運び上げられようとしていた。

 小さな悲鳴を上げて、アンナがしがみついてきた。ヘンリーは抱き寄せ、小柄な身体をしっかりとつかんだ。アンナもヘンリーの腰に腕をまわし、しがみついてきた。そうやってヘンリーたちは、砂の力で頂上へと運ばれていった。「何が起こってるの?」アンナは震えていた。

「この国の女王というだけでなく、私は砂時計の管理人でもあるのだよ」

「管理人?」

「時計の途中に砂が詰まったりしないよう見回ることも仕事の一つなのだよ。ごらん。ここに何が刻まれているかわかるかい?」自分の首飾りを手に取り、ヘンリーはアンナに見せてやった。

「うん」アンナはうなずいた。「小さなかわいらしい砂時計の模様があるわ」

「そういうことなのさ」ヘンリーはにっこりして、アンナを見つめた。城で再会してから初めて、アンナも微笑み返してくれた。

 ヘンリーたちは斜面を登っていった。振り返ってももう馬たちの姿は小さすぎて見えず、荒野の中を行く街道も細い糸のようでしかない。その上空には白い巨大な電球のようにして、丸い月が光っている。「どこまで登っていくの?」アンナが言った。

「一番上までさ」

 もう砂の斜面は終わりかけていた。もうすぐ頂上で、空から滝のように降り注ぐ砂をそこで受け止めている。ヘンリーは指さした。「ごらん」

「頂上まで来たのね」

「いい子だから目をお閉じ。そうしないと砂が入ってくるよ。あそこからは砂の中を進むことになるからね」

「息はできるの?」

「砂の中を落ちてくるとき、おまえは息苦しさを感じたかい?」

 アンナは首を横に振った。ヘンリーたちは頂上に着き、とたんに全身を砂に包まれてしまったが不愉快な感覚ではなく、それどころか砂たちが歓迎し、喜んでくれているのだとまで感じることができた。こうやって、ゆりかごのように包まれながら進む砂中の旅が始まった。自分たちの女王であるヘンリーだけでなく、砂たちはアンナも優しく扱ってくれた。目を開くことはできなかったが、不安を感じずに二人は身を任せていることができた。サラサラという砂の音だけが聞こえている。

 だが安心していることができたのも、ほんの短い間のことでしかなかった。突然のことで二人はひどく驚いたが、どうすることもできなかった。予告も何もなく、動物の尾のようなものが砂を突き破って突然姿を現し、ヘンリーの右手に強くからみついたのだ。直径は人の腕の倍ほどもあり、冷たくやわらかく、ぬれたような表面をしている。強い力なので引きずり倒されそうになり、アンナが悲鳴をあげた。人間の力どころの強さではなく、逆らうことなど考えるだけ無駄だろう。あっという間にヘンリーは砂の外に引きずり出されることになった。砂たちはヘンリーを守ろうとしたが、それでもこの尾の力にはかなわなかった。

 自由になるほうの手で、ヘンリーはアンナを自分の身体から引きはがそうとした。アンナは一人で下の世界へ落ちてしまうことになるが、正体のわからないものの前に引きずり出されるよりは安全だろうと思えたのだ。だがアンナは言うことをきかず、ヘンリーの腕にしがみついてきた。だからアンナも一緒に砂の外へと引きずり出されることになった。

 しかし砂の中と同じようにここも真っ暗で、何一つ見ることができなかった。砂が流れる音だけは背後にまだ聞こえているが、あの尾のようなものは今ではヘンリーの腰に巻きつき、力任せに引っ張り続けている。転んでしまっていたが、アンナはヘンリーの腕にしがみついたまま、地面の上をずるずると引きずられている。空気のしっとりした感じと匂いから、土でできたトンネルの中にいることはわかるが、それ以上のことを知ることはできなかった。腕を引き寄せ、ヘンリーはアンナを立ち上がらせることができた。「ケガはないか?」

「うん、何が起こってるの?」

「私にもわからぬ。おまえだけでも下の世界へ戻らせようと思ったのだが」

「一緒に行くほうがいいわ。下の世界には知った人はいないもの。誰があなたを引っ張っているの?」

「何かの動物の尾だ。私の腰に強くまきついているのだよ。このまま引っ張っていかれるほかなさそうだ」

「何の動物なのかしら」

 アンナがそう言った瞬間、まわりが突然明るくなったので、ヘンリーは顔の前に手をかざさなくてはならなくなった。アンナも同じようにしていたが、それほどまぶしく感じられたのだ。それでも尾は、変わりなくヘンリーを引っ張り続けている。

 目を細めて見回すと、思ったとおり土のトンネルの中にいるとわかった。天井を含めてまわりはすべて茶色い土だが、透明なガラスかプラスティックのようなもので固められているから、ぼろぼろと崩れてくるようなことはない。引っ張っている者の正体に気がついて、アンナが「あっ」と小さな悲鳴を上げた。ヘンリーももう少しで声を上げてしまうところだった。なんと巨大なミミズだったのだ。バスの車体ほどの大きさがあり、身体を長く伸ばし、その尾の先がヘンリーの腰に巻きついているのだ。ホタルのようにぼんやりとではあるが、その体が青白く光っている。それがトンネルの中を照らしているのだった。

「ミミズだわ」とアンナが言った。それが聞こえたのかミミズはちらりと振り返ったが、歩く速度をゆるめはしなかった。ヘンリーの手を離れて駆け出し、アンナはミミズを追い越していった。ミミズの前に立ち、両腕を広げて歩みを止めさせた。

「どういうつもりだ?」ミミズの声が聞こえた。

「あんたこそどういうつもりよ」もちろんアンナは言い返した。「この人が誰か知ってるの? 下の世界の女王なのよ」

「知っているさ。だからこそ長老のもとへ連れて行こうとしているのだ」

「長老って?」

「それはおまえには関係ないことだ」アンナをよけ、ミミズは再び歩き始めようとした。アンナは両手でつかみ、おしとどめようとしたが、身体の大きさが違いすぎた。引きずられながら、またヘンリーは進み始めた。

「もう逆らわぬから、私の身体を放してくれないか」ヘンリーは背後から声をかけた。ミミズはちらりと振り返ったが、すぐに納得したようだった。力が抜け、尾はヘンリーの身体から離れていった。アンナが駆け戻ってきた。

「大丈夫?」

「ああ」ヘンリーはにっこりした。「いささか失礼なミミズだが、危害を加える気はなさそうだ」

 不満そうな顔をして、アンナは口を開きかけた。だがその前にミミズが言った。「失礼も何も、私はおまえを長老のもとへ連れて行くよう言い付かった使者に過ぎない」

 アンナは口をとがらせた。「失礼な口をきくニョロニョロの使者だわ」

 ミミズはそれには答えなかった。二人の前を行き、道案内を続けた。手をつなぎ、ヘンリーたちはついていくしかなかった。トンネルは長く続き、曲がり角や交差点が何度も現れたが、ミミズは同じペースで歩き続けた。

「足が疲れたわ」とアンナが言ったが、トンネルの向こうに広い大きな部屋が見えてきたのはそのときのことだった。アンナは口を閉じ、歩き続けた。ミミズに連れられて、ヘンリーたちは部屋の中へ入っていった。

「まるで野球場のようね」というのが、アンナが最初に述べた感想だった。部屋はそれぐらい広く、形も丸かったのだ。見上げると天井もドームのように丸く、伏せた茶碗の内側のような形をしている。二人は立ち止まり、口をぽかんと開けたまま、しばらくの間見上げていた。

 この部屋の中央に立ち、ミミズの長老が二人を待っていたのだ。だが長老といっても特に身体が大きいわけでも、いかにも老人らしく皮膚がしわだらけというのでもなかった。ここまで道案内してきたミミズと特に変わったところはなかったのだ。その長老のまわりを何匹もの同じようなミミズたちが取り囲んでいる。みんなそれぞれ身体からぼんやりした光を放っているから、部屋の中はとても明るかった。「遠いところを来てもらって申しわけない」長老が口を開いた。

「レディをこんなに歩かせるなんて、恥を知りなさい」アンナは元気が良かったが、長老にじろりとにらまれて、あわててヘンリーの後ろに隠れた。

「さっそくだが話したいことがある。長い話になるから、楽にしたまえ」長老は続けた。

 ヘンリーと一緒になってキョロキョロ見回し、アンナはまた口を開いた。「イスも何もないのね」

「ここにはミミズしかおらぬからな」長老が笑った。

 仕方なく、二人は地面に直接腰を降ろすことにした。すぐにアンナはヘンリーに寄りかかり、顔を向けて待っていると長老が話し始めた。「この地球にはどのくらいの数のセミがいるか知っておるかね?」

「セミ?」アンナは不思議そうな顔をした。「木にとまって、夏に大きな声で鳴くあの虫のこと?」

「そうさ。セミの雌は地面の中に卵を生み、かえった幼虫は木の根に取り付き、その栄養を吸収して成長する。幼虫はそうやって土の中で七年ばかり過ごすのさ」

「知らなかったわ」とまたアンナ。「すると木にとまって鳴いているセミはみんな七歳なのね」

「そういうことだ。毎年夏になると、地上では何百万匹ものセミが鳴いているであろう? すると土の中には、その七倍の数の幼虫が潜んでいるということになる」

「地球の内部はセミの幼虫だらけってことね」

 長老は微笑んだ。「それだけ多くの幼虫がいれば、とんでもない変わり者が一匹ぐらい混じっていても不思議はあるまい? 生まれて七年目の夏が来ても、ある一匹が地上へ出ることをがんとして拒んだのだ。それどころか、そいつはまったく逆の行動を取った」

「何をしたの?」

「地上へではなく、地下へ向かって降りていったのだ。強力な前足を使って穴を堀り、一人でどんどん深いところへと潜っていったのさ。そしてまわりから栄養を吸収し続けた。その名はセミ丸といったのだが、月日が流れ、セミ丸の存在は仲間のセミたちからもすっかり忘れ去られておった。だがセミ丸は、その後も地球の中心近くでずっと生き続けていた。長い年月の間に、その身体はどう変化していったと思うね?」

 ヘンリーとアンナは顔を見合わせた。「わからないわ」

「とてつもなく巨大になり、木の根だけでなく、まわりのありとあらゆるものから栄養を吸収することができるようになっておった」

「どういうことなの?」

「そのまま文字通りの意味さ。セミ丸は地上の海を走っている戦艦と同じぐらいの大きさになり、それでもまだまだ成長を続けていた。しかも、地球そのものから栄養を吸い取ることができるようにまでなっておった」

「へえ」

「感心しておる場合ではないぞ。戦艦と同じ大きさになったのが二百年前のことだ。今ではどのくらいの大きさがあるのか、さっぱり見当もつかん」

「セミ丸はまだ生きているの?」

 長老はうなずいた。「それは間違いない。セミ丸に養分を吸い取られ、地球はもはやガタガタで干からびかけておる。わしたちの大切なトンネルがいくつも破壊され、何ヵ所も通行不能になっておる。もう地球は、あちこちヒビの入った壊れかけの茶碗のようなものだ」

「地球は虫食いのリンゴみたいになっちゃっているのね」

「まあ、そのようなものだな」長老はかすかに笑った。

「だけど、それと私たちとどう関係があるの?」アンナは不思議そうな顔をした。長老はゆっくりとため息をついた。

「わからぬか? 地球が粉々に壊れてしまったら、地上にいる人間たちも無事ではすむまい?」

 意味に気がつき、アンナははっと息をのんだようだった。ヘンリーは口をはさむ気になった。「しかし、それはセミ丸にとっても同じことなのではないか? 地球がなくなってしまったら、セミ丸も生きてはおれまい?」

 長老は首を横に振った。「考えてごらん。そんなへそ曲がりが先のことなど気にすると思うかね? やつはまったく何も考えずに生きておるのじゃよ。それにだ、地球がなくなってしまっても、もしかしたらやつはもう平気なのかもしれない。今度こそ脱皮して巨大なセミとなり、他の星へ飛んでいけばよいと思っているのかもしれないではないか」

「まさか」アンナはあきれたような声を出した。

「だが、事実そうらしいのだよ」長老が言った。

「ジュディスはどう思う?」アンナはヘンリーを振り返った。

「事実なのかもしれないな」ヘンリーは答えた。「それで私にどうしろと?」

 数日間、二人はミミズたちと一緒に過ごした。小さな部屋をあてがわれ、そこで寝起きをしたのだ。ベッドはなかったが、乾いた木の根をやわらかくほぐしたものが一山置かれ、その上で眠った。長老の娘にリンゴ姫というのがいて、親切に世話をしてくれた。ミミズとしては少し小柄だったが、くすっと笑うときに首をわずかにかしげるのがかわいらしかった。二人とも気が合い、おしゃべりをして長い時間を過ごした。

 長老と毎日話し合い、少しずつプランができていった。だが大体の計画が固まったところで、アンナが不満そうに口をとがらせた。「だけどそもそも、なぜジュディスがそんなセミをやっつけに行かなくちゃならないの? 地球の中心へなんて、何が起こるかわからない危険な旅なのに。ミミズたちが自分で行けばいいじゃないの」

「そうはいくまいよ」頭を左右に振り、長老は笑った。「そういう旅だからこそ、何が起こるか予測がつかん。火のように熱い場所を通ることになるかもしれん。地下水の中を泳がなくてはならないかもしれん。わしたちにはとても無理だ」

「だからジュディスが行くっていうの? 私は気に入らないわ」

 ヘンリーはアンナを見つめた。「おまえが気に入ろうが入るまいが、私は行くつもりでいるよ」

「どうして?」アンナは目を丸くした。

「地球が壊れてしまっては、みんな困るだろう? 私には『下の世界』の安全を守る義務がある。砂時計が壊れてしまうのも困るではないか」

 そうやって何日かたち、ヘンリーが出発する日がやってきた。アンナはもちろん一緒に行くと言い張った。何時間も議論してやめさせようとしたが、彼女は頑固だった。結局ヘンリーが折れるしかなかった。

 ミミズたちは、地球の中心へ向かって降りていくための乗り物を用意していた。オウムガイの化石を作り変えたもので、内部はちょっとした部屋のように広く、二人でも楽に乗り込むことができる。この乗り物には丈夫な鎖が結び付けてあり、それを長く伸ばして、地下へ向かって開いた深い縦穴の中に降ろしていこうというわけだった。「まるで井戸で水をくむつるべみたいね」とアンナが言ったが、まったくそのとおりだった。

 鎖は巨大なウインチにつながり、何世紀前のものか知らないが、ひどく古めかしい形をしたエンジンの力で動かされるようになっていた。必要な荷物を積み込み、とうとう準備がすんだ。オウムガイはもう縦穴の真上につり下げられ、気楽そうにぶらぶらと揺れている。エンジンもうなりを上げている。縦穴は、地下鉄のトンネルと同じぐらいの直径がある。穴のへりに寄り、アンナはこわごわ見下ろした。「本当に井戸みたいな感じね。この穴はどこまでつながっているの?」

「正確なことは誰も知らないのだよ」長老が答えた。「どれだけ深いのかもわからん」

「セミ丸がいるところまで本当につながっているの?」

「それは確かだ。地球の中心へ降りていくときにセミ丸自身が掘った穴だから、やつがこの下のどこかにいるのは間違いない」

 手を取って、ヘンリーはアンナをオウムガイに乗り込ませてやった。続いて自分も乗り込もうとしたが、リンゴ姫が突然進み出て、ヘンリーの手にほおずりをしてくれた。「どうかご無事で」

 彼女のほおにそっと触れ返し、ヘンリーはアンナの隣に座った。長老が合図をし、エンジンの音が大きくなり、一度ガクンと揺れてから、オウムガイはゆっくりと動き始めた。

 縦穴の中に入ってしまうと、ミミズたちのお別れの声もすぐに聞こえなくなった。エンジンの音はまだしばらく聞こえていたが、それもゆっくり小さく遠くなっていった。鎖だけがときどきギギギと鳴った。オウムガイの中は薄暗く、明かりは小さなランプがあるきりだ。窓から顔を突き出し、ヘンリーは外の様子を眺めた。アンナも隣へやってきた。上を向いても、もうミミズの国は白い小さな点でしかなかった。縦穴はずっと同じ調子で続いている。下をのぞいてみたが、真っ暗なだけで何も見えなかった。

 変化のない長い道中になった。ときおりクサリが鳴るだけで、それ以外は本当に何も起きないのだ。おしゃべりにも疲れ、壁にもたれかかり、アンナはうとうとしかかっている。だがそういう退屈も、いつまでも続くものではないのかもしれなかった。予告も何もなく、突然オウムガイが大きく揺れたのだ。同時にどこか上のほうで、ドスンという物音が聞こえたような気がした。

「きゃあ」アンナが悲鳴を上げ、しがみついてきた。肩に触れてアンナを落ち着かせ、ヘンリーは窓に駆け寄った。そして窓の外から何かの目玉がこちらをのぞきこんでいることに気がついた。その目玉とまともに視線を合わせることになったのだ。

「あれは何?」アンナも気がつき声を上げたが、ヘンリーも息をのみ、身体を動かすことができなくなってしまった。それほどとんでもない代物だったのだ。とても大きな目玉で、スイカほどの直径がある。形はコロンと丸いが、瞳は猫のように縦に裂けている。緑色をして、なんとなく笑っているような雰囲気がある。だから見つめられるうちに、恐ろしいという気持ちはゆっくりと消えていき、アンナが口を開いた。「失礼なやつね。のぞき見をしているわ」

 窓に近寄り、身を乗り出して見上げ、ヘンリーは目玉の持ち主の正体を知ることができた。長さが二十メートルばかりあるヘビだったのだ。目と同じように緑色をしたウロコで身体全体がおおわれている。胴はドラム缶ほどの太さがあるが、しなやかでやわらかそうで、オウムガイをつり下げている鎖に巻きついて身体を支え、首だけをだらりと低くして窓からのぞきこんでいるわけだった。サイズが違う他は地上のヘビと同じようだったが、もう一点違っているのは、目が一つしかないことだった。顔の中央にあの大きな目玉が一つあるきりなのだ。ヘンリーと向かいあってうれしそうに笑い、やはり緑色をした舌をちらりと見せた。「口の中まで緑色なんだわ」ヘンリーと並んで、アンナも窓から身を乗り出した。

「こんな地の底へお客とは、珍しいこともあるもんだね」ヘビは目玉をぎょろりと動かした。

「口まできくわ」アンナはあきれた声を出した。

「オイラに言わせりゃ、あんたらこそ地上の生物のくせに口をききやがるってことになる」ヘビはもう一度笑った。「地下には、地上よりもずっと古い時代から生き物が住んでいるのだからね。オイラたちのほうがよっぽど先輩さ」

「ふん」

「ところでさ」ヘビは声の調子を変えた。「もしかして、あんたはジュディスかい?」

「なぜそう思う?」ヘンリーは口を開いた。

「地底に住んでいる者であんたのことを知らない者はいないさ。今日は地球の中心へお出かけかい? 何の用事があるのか質問したら、失礼に当たるかい?」

「セミ丸を退治しに行くのよ。邪魔するとあんたも退治しちゃうよ」腰にさしていた剣を抜き、アンナはヘビに向けてブンブン振り回した。

「ほう」ヘビは丸い目をもっと丸くした。「それは大ニュースだ」

 ヘンリーは言った。「あまり触れ回らないで欲しいな。セミ丸に気づかれて、警戒されたくない」

「触れ回ったりなんかしないさ。オイラだってセミ丸のことは気にしているよ。あいつのせいで、地球は本当にガタガタになってる。誰かがあいつを退治しなくちゃならない」

「協力してくれるの?」アンナは顔を輝かせた。

「どうかなあ。道案内ぐらいはできると思うが。オイラと出会えて、あんたたちは運がいいよ。崖崩れのせいで、この縦穴はもう少し先で行き止まりになっている。オイラがいないと、あんたたちはすごすご引き返すしかなかったはずさ」

「なんだって?」

「おやおや、そう言っているうちにもう終点だ」ヘビはちらりと前方を見たようだ。「揺れるから、どこかにつかまったほうがいいぜ」

 ヘビの言うことは本当だった。ドスンと大きな音がして、オウムガイは停止してしまったのだ。何かにぶつかったのに違いない。「ほら、オイラの言ったとおりだろ?」ヘビはパチンとウインクをした。

「どうなってるの?」アンナは身を乗り出し、下を眺めた。ヘンリーも同じようにしたが、砕けた岩が散らばり、まるでフタでもされたように穴がふさがってしまっているのが見えた。ドアを開け、アンナはぴょんと外に飛び出した。オウムガイの全重量が乗っているはずだが、足元はびくともしない。完全にうずまっているのだ。

「これからどうするね?」なんだか楽しそうな顔で、ヘビはヘンリーとアンナを交互に眺めた。

「あんたの名前はなんていうの?」首をかしげ、アンナはヘビを見つめ返した。ヘビはもう鎖に巻きつくのはやめ、今は岩の上に身体を横たえている。アンナは気軽に歩いていき、その胴にちょんと腰かけた。それを見てヘンリーは目を丸くしたし、ヘビも同じような表情だったが、怒っている様子はなかった。

「オイラはウロコ丸っていうのさ」

「私はアンナ」気楽そうにアンナは足をぶらぶらさせ始めた。

「それでアンナ、これからどうするね?」機嫌よさそうに、ウロコ丸は尾の先をちょろりと動かした。

「知らないわ。そういうことはジュディスが決めるのよ」

「ウロコ丸」ヘンリーは言った。「地球の中心へ降りていく道は、この縦穴以外にはないのかな?」

「他の道もなくはないよ。あんたたちがお好みかどうかは知らないが」

「どんな道なの?」アンナは身を乗り出した。

 誘うようにウロコ丸はくいと頭を動かした。「ついてこいよ。道案内してやる」

 オウムガイから取り出した荷物をそれぞれ持ち、ヘンリーたちはウロコ丸と一緒に歩き始めた。「あんたも少しぐらい持ちなさいよ」とアンナは言い、小さなカバンをウロコ丸の首にかけてしまった。ウロコ丸はあきれたような顔をしたが、何も言わずにヘンリーと顔を見合わせた。

 手近な岩の割れ目にひょいと頭を突っ込み、ウロコ丸がその中へあっという間に姿を消してしまうのは、まるで魔法のように見事な眺めだった。ヘンリーたちは立ち止まり、感心して見ていたが、もちろんすぐについていくことにした。ウロコ丸は尾の先端をちょうちんのように光らせていたので、それを頼りに進むことができた。

 岩の割れ目は思うほど狭くはなく、くねくね曲がりながらずっと伸びていた。足元はデコボコしているが、歩きにくくはなかった。少し広い場所に出るたびにウロコ丸は振り返り、ヘンリーたちがちゃんとついてきているか確かめていた。もう少し進むと割れ目はさらに広くなり、歩きやすくもなったので、ウロコ丸が話しかけてきた。「あんたたちは、どうやってセミ丸を退治するつもりでいるんだい?」

「これよ」ポケットに手を入れ、自慢そうに取り出して、アンナは小さなガラスびんを見せた。内部には黒い粉が入っているが、今はしっかりとフタがしてある。

「それはなんだい?」

「ミミズたちから渡されたの。何かのカビの胞子だそうよ。私たちはこれをセミ丸の身体に植えつけるのよ」

「胞子? カビの種みたいなものかい? それを植えつけると何が起こるんだい?」

 アンナは声を小さくした。「それは私たちも知らないのよ。百年ぐらい前にミミズ一族のある学者が作ったものらしいけど、セミ丸に植えつける方法がなかったから、使われずにしまわれていたの。だけどその学者ももう死んでしまって、これを植えつけると何がどうなるのか、今では誰も知らないのよ」

「へえ、それはちょっと楽しみだなあ」

 ヘンリーたちは歩き続け、やがて広い場所に出て、岩の割れ目は終わりになった。終わりというのは文字通りの意味で、床がなくなり、その先は深い穴がいっぱいに口を開けていたのだ。まるで垂直な井戸のような眺めだったが、学校の校舎だってすっぽり入ってしまいそうな直径がある。へりに立ち止まってのぞき込んだが、もちろん真っ暗なだけで何も見えなかった。どこまで続いているのか見当もつかず、セミ丸が開けていった穴よりもはるかに大きく、真下を向いてパイプのようにすとんと伸びているのだ。「これは何の穴なの?」アンナが言った。

 目玉をぐるりとめぐらせ、ウロコ丸はヘンリーたちを眺めた。「この穴は地球の中心まで一直線に達しているんだぜ」

「どうして?」

「大昔、地球がまだ溶岩のように熱くドロドロに溶けていたころ、中心部で巨大なガスの塊が発生し、それが地表まで一気に上昇したことがあったらしい。これはそのときにできた穴さ。だからさ、この穴に小石を落としたらどうなると思う?」

「地球の中心へ向かって落ちていくわ。当たり前じゃないの」アンナは鼻を鳴らした。

「そうだよな」ウロコ丸はうれしそうに笑った。「じゃあ、ちょっとやってみるぜ」

 尾の先で起用に小石をつまみ、ウロコ丸はひょいと放り投げた。もちろん石は穴の中を落ちていき、音もなくあっという間に見えなくなってしまった。ヘンリーとアンナが顔を見合わせていると、ウロコ丸が言った。「なかなかいいアイディアだろ? 地球の中心まで直行便だぜ。あんたたちも、今の石のようにまっすぐ落ちていけばいいんだ」

「バカ言わないで。ものすごいスピードがつくはずよ。ブレーキがないじゃないの」アンナは目をむいた。

「ブレーキは作ればいいさ」ウロコ丸はにやりと笑い、ヘンリーたちが手にしている荷物をあごの先で指さした。

 ヘンリーたちは準備に取りかかるしかなかった。ウロコ丸は尾を伸ばし、その先端を強く光らせ、電気スタンドのようにして手元を照らしてくれた。毛布を取り出し、丈夫なロープを結び付け、ヘンリーたちはパラシュートを作り始めたのだ。手を動かしながら、「こんな地の底で、なぜお裁縫なんかやらなくちゃならないのよ」とアンナはさかんにブツブツ言っていた。

 準備がすんだとき、ヘンリーたちはひどく奇妙な格好をしていたが、ウロコ丸は笑わなかった。面白そうに眺めてはいた。ヘンリーもアンナも、パラシュート代わりの毛布を手首と足首に結び付けていたのだ。背中には荷物も背負っていたから、きっと引越しの日のムササビのように見えたに違いない。とうとうウロコ丸が声を上げて笑い始めた。「うるさいわね。私たちは地球を救うために行くのよ」とアンナは大きな声を出した。

「えへん」ウロコ丸はせき払いをした。「ではそろそろ出発するかい?」

「だけどセミ丸を退治した後、私たちはどうやって地上へ帰ってくるの?」

「心配するな。オイラが迎えにいってやるよ。約束するよ」

「だけど…」

「大丈夫さ。さあ張り切って行ってこいよ」返事も聞かずに尾を動かし、ウロコ丸はヘンリーたちの背中をぽんと押したのだ。だから次の瞬間には、ヘンリーとアンナは穴の中央にほうり出されていた。もちろん足の下には何もない。地球の中心へ続く穴が真っ暗に口を開けている。しかも明かりは、それぞれが持っている小さなランプだけだ。

「やっほー」大きな声が聞こえたので顔を上げると、ヘンリーはアンナと目が合うことになった。見つめ返して、アンナは口を大きく開けて笑った。「すごいわ。滝の上から飛び込むときみたい」

 確かにアンナの言うとおりかもしれなかった。まわりの壁がとんでもないスピードで後ろへ飛び去っていくのだ。岩の割れ目やデコボコなど、すぐに見分けることもできなくなった。ヒトデのように手足をまっすぐに伸ばしたまま、ヘンリーたちは落下していった。

「こんな経験は、同級生の誰もしたことがないに違いないわ」アンナの弾んだ声がごうごうという風の音に混じって耳に届き、ヘンリーはちらりと上を見たが、ウロコ丸の姿などもうはるかかなただ。毛布はいっぱいに広がり、全力でブレーキをかけている。あるところまで行くと、まわりの壁もこれ以上速くなる気配はなくなった。重力とブレーキがうまくつりあい、速度が一定になったのだろう。

 ヘンリーは見回し続けたが、穴の大きさは長い間変わらなかった。だが不意に、穴が大きくなり始めているのではないかという気がしてきた。もう一度見回し、そうだと確信することができた。穴がろうとのように広くなりつつあるのだ。パラシュートの準備をしている間にウロコ丸が話してくれたことをヘンリーは思い出した。ずっと進むと穴は一気に広くなり、ホールのように丸い場所に出る。直径が何十キロもある広い空洞だ。そこが地球の中心であり、セミ丸はそこにいるのだ。

 ウロコ丸の言うことは本当だったのだろう。ある場所を過ぎるとまわりの壁が一瞬で消え、本当に何もなくなってしまった。縦穴を抜け出し、ヘンリーたちは巨大な空洞の中に出たのだ。「地球の中心だわ」アンナが声を上げた。「こんなになっているだなんて、思ってもみな…」

 アンナの声が途切れてしまったので、ヘンリーは顔を上げた。ある方向を向いて、アンナが大きく目を見開いていることに気がついた。その視線を追いかけ、アンナが見ているのが本人の右手首だとわかるのには時間はかからなかった。もちろんそこにはパラシュートのロープが結び付けてある。だが今、なんとその結び目がほどけていきつつあるのだ。「ジュディス、どうしよう」アンナは悲鳴を上げた。

 だが手が届くはずもなく、ヘンリーにもどうすることもできなかった。ロープがゆっくりとほどけていくのを見ていることしかできなかった。

「ジュディス」アンナがもう一度絶望的な声を上げた。同時にロープは完全にほどけてしまい、アンナの手首を離れていった。アンナはつかもうとしたが、間に合わなかった。パラシュートを半分はぎ取られる形になり、ブレーキの力が急速に弱まったアンナはヘンリーを追い越し、一気に前に出ることになった。

「アンナ!」

 ヘンリーから離れ、アンナは暗闇の中をどんどん遠ざかっていこうとしている。二人とも手を伸ばしたが、もちろん届くはずはなかった。悲鳴を上げながらアンナは見る見る遠く小さくなっていき、ランプの光だけは最後まで見えていたが、とうとうそれもわからなくなった。悲鳴もかぼそくなり、聞こえなくなってしまった。

 なんということだろうと思ったが、自分の体が風を切る音以外何ひとつ聞こえない暗闇の中、ヘンリーは降下を続けるしかなかった。アンナのことばかり心配しているわけにはいかなかったのだ。ここまで来たら、いつセミ丸と出くわしても不思議はない。ヘンリーは前方に目をこらしつづけた。

 黄色っぽい光の中に、まわりの風景が浮かび上がり始めていた。しかしそれも垂直な壁ばかりで、左右のかなり遠くにうっすらと影のように見えているだけだ。着陸するにはどうすればいいだろうとヘンリーは考えた。見回し、少し離れたところだったが、ドームのように丸い大きな岩が見えていることに気がついた。表面が平らで、着陸するにはよさそうに思えた。パラシュートの角度を調節し、その岩に向けてヘンリーは進路をとった。バランスを保ちながらブレーキも使い、うまく頂上に立つことができた。

 岩の表面はつるつるしていたが、足を滑らせてしまうほどではなかった。ロープをほどき、パラシュートを外して背伸びをして見回したが、本当にボールのように丸い岩の上だった。まるで地球儀の上にとまったハエになったような気分だ。

 アンナはどうなっただろうとヘンリーは思った。セミ丸を退治するだけでなく、アンナを探し出すという仕事まで増えてしまったわけだ。だが特に困難を感じていたわけではなかった。ウロコ丸は後で必ず迎えにいくと約束していた。二人の目で探せば、アンナはきっとすぐに見つけ出すことができるだろう。どこかの岩壁に衝突して気を失っているかもしれないが、ヨロイを着ているのだから、ケガまではしていないだろう。

 とりあえずセミ丸を探すことにしようと思ったが、足元の岩がぐらりと揺れたのは、そのときのことだった。とっさに何かにつかまろうとしたが、支えになる物は何もなく、ヘンリーはそのまま転んでしまった。だが足元はまだ揺れている。ヘンリーは岩から滑り落ちてしまいそうになった。だから手近な岩の割れ目に手を差し入れ、しっかりつかまらなくてはならなかった。そしてそのとき、これが本当は岩ではないことに気がついたのだ。

 岩と同じように固いが、何かまったく違う材質でできている。ツメの先でコンコンとたたいてみたが、やはり岩とは違う音がする。指先でそっとなでてみた。覚えのある手触りだという気がした。と同時に岩がもう一度大きく揺れ、今度はグルリと横倒しになりはじめたのだ。ヘンリーはもう一度両手でつかまらなくてはならなかった。だが失敗し、とうとうヘンリーは岩の上を滑り落ちていくことになった。

 気がついたときには長い棒のようなものの先につかまり、ヘンリーはだらりとぶら下がっていた。足の下には何もない。目の前に巨大な目玉があることに気がついた。だが巨大といってもウロコ丸の目玉どころの話ではなく、家ほどの大きさがあるのだ。それも一つではなく、四つか五つ目に入る。ヘンリーは、自分がセミ丸の目の前にいるのだとやっと気がついた。

 だがセミ丸は、ヘンリーの存在になどまったく気づいていない様子だった。小さすぎて目に入らないのだろう。ヘンリーは知らずにセミ丸の背中に着陸してしまったらしいが、振り落とされて、今はその触角の先にかろうじてつかまっているのだった。

 ランプの光が届く範囲など知れている。だからヘンリーには、セミ丸の顔の一部しか見ることができなかった。だが顔の一部だけでこの大きさがあるのだ。全体はどのくらいあるのだろうという気がした。戦艦の大きさなどとっくに越えてしまっているに違いない。今ではきっと、ちょっとした島ほどはあるのだろう。

 ぼんやりとだったが、セミ丸の背中が青白く輝き始めていることに気がついたのは、そのときのことだった。まるでホタルのように光を発しているのだ。背中の中央の平らな一部分だが、それでも町を一つ建設できるほどの広さがある。ポケットの中に手を入れてヘンリーは気がついた。ポケットの中は空っぽなのだ。胞子の入ったガラスびんはアンナが持っているのだということをやっと思い出した。

 触角の先にぶら下がったまま、ヘンリーは眺めていることしかできなかった。セミ丸の背中の輝きは、だんだんと強くなっていった。いかにも地底の生物らしい青白い光だが、それが雲を通して見る稲妻のようにまで強さを増し、地鳴りのような音が耳に届き、セミ丸の背中にヒビが入るのが見えたとき、ヘンリーがどれだけ驚きを感じたか想像するのは難しくはないだろう。あの分厚さの皮膚が裂けるときには、地震と同じような音がするということなのだろう。触角の先にいても、びりびりとした振動を感じ取ることができるほどだった。

 何が起こっているのだろうと、もちろんヘンリーは目をこらした。セミ丸の皮膚が裂けて、その下にあるものが姿を見せつつあるのだと突然気がついた。幼虫の背中が割れ、その裂け目がどんどん広がり、成虫の姿があらわになりつつあるのだ。つまりセミ丸は、脱皮して大人のセミになろうとしているのだ。

 数分後にはセミ丸の身体全体がぼんやりと光り始めていた。おかげで空洞の内部が明るく照らされるようになった。だがこの広い地中の空洞も、セミ丸にとっては狭すぎるに違いない。脱皮を終えて二枚の羽根を伸ばすと、もういくらも余裕はないだろう。地球はすでにガタガタになっているとミミズの長老は言っていた。セミ丸が頭突きの二、三回もやれば、地球は本当に壊れてしまうかもしれない。だがヘンリーにはどうすることもできなかった。触角の先につかまっているほかなかったのだ。セミ丸の大きさに比べれば、ヘンリーなどノミのようなものでしかなかった。

 セミ丸は脱皮を続け、もう身体の半分以上が外に出てしまっている。幼虫時代の古い皮膚をコートのように脱ぎ捨てつつあるのだ。両腕に力を込めて、ヘンリーは触角の上にはい上がることができた。触角といっても太さは大木ほどもあるので、その上に立つことだってできる。触角をたどって、ヘンリーはセミの本体へ向かって駆け下りていった。

 だがあの巨大な体なのだ。息を切らせてヘンリーがやっと頭の上にたどり着くころには、セミ丸はもう脱皮を終えてしまっていた。脱ぎ捨てたカラの上に立ち上がり、いかにもせいせいしたという様子で身体をまっすぐに伸ばしている。折りたたまれていたときの名残りで羽根はまだしわくちゃだが、そのうちにこれもまっすぐになるのだろう。きっとその上に立つと、地平線まで続く大平原のような眺めに違いない。

 ヘンリーは再び走り始めたが、セミ丸の体はまだやわらかく、一歩進むたびに足の下でグニャリとへこむ感じがする。ヘンリーには何かのあてがあったわけではない。ただ、すぐにヨロイのように硬くなってしまうであろう身体の前半分よりは、やわらかい腹がある後部へ行くほうが役に立つような気がしていただけだ。だがセミ丸はあまりにも巨大で、すっかり伸びきった羽根を動かし、飛び立つ気配を見せ始めたときにも、ヘンリーはまだやっと背中の中央あたりに達したところでしかなかった。セミ丸の身体が突然ぐらりと揺れたので、ヘンリーは転んでしまった。

 セミ丸がとうとう飛び立つ気になったのだと気づいて、ヘンリーはひどくあせりを感じた。頭突きの2、3回もやれば、地球など簡単にばらばらになってしまうだろう。もう猶予はなかった。だがどうしていいかわからず、絶望的な気分でまわりを見回すしかなかった。見上げると、アンナと一緒に落ちてきた穴が大きく口を開けているのが見えた。岩盤の天井に開いた巨大な穴だ。まるで大洋の大うずをさかさまに見上げているときのような気がする。そしてその瞬間、奇妙な思い付きがヘンリーの心を満たしたのだった。

 あまりにも奇妙なことなので、真実たりえるかどうか自信はなかった。もちろん立ち止まって考えている余裕などなかった。だが事態はヘンリーなど置いてけぼりにして、どんどん先へ進むつもりのようだった。見上げている黒い穴のはるかかなた、上空何キロも先にオレンジ色の小さな光が見えているような気がしたのだ。本当にそうなのかと思わず眺めなおしたが、やはりその通りで、「あーっ」というアンナの悲鳴とともにその光がどんどん大きくなってくるではないか。

 ヘンリーはよけるのが精一杯だった。まるで石ころのように落ちてきて、ヘンリーから一メートルも離れていない場所で、アンナはまだやわらかいセミ丸の背中に衝突した。激突と呼ぶほうがいいかもしれない。だがヨロイを着た体は大砲の弾のように硬かったのだろう。ベリンと音がして、アンナの身体がすっぽりと入ってしまうほどの大きな穴がセミ丸の背中の中央に開いたではないか。近寄っておそるおそるヘンリーがのぞき込むと、もちろんアンナと目が合うことになった。不満そうな声がすぐに聞こえたのは言うまでもない。「見てないで早く助けてよ」

 ヘンリーが手を伸ばすと頭を振りながらはい出してきたが、いかにも腹立たしそうにアンナは大きな声を出した。「私たちが飛び降りた大穴はね、ここを過ぎてもずっとずっと下まで続いているのよ。まっすぐに行って、地球の中心を通り過ぎているんだわ。ジュディスとはぐれた後、落下してものすごくスピードがついて、私は地球の中心を通り過ぎてかなり向こうまで行って、いったんは停止することができたのだけど、今度はすぐに逆向きの重力に引かれて、また戻ってきたのよ。まるで振り子みたいだったわ。地球の裏側まで行ってきたに違いないわよ」

 興奮して、アンナは早口に話している。口を閉じさせるには、ヘンリーも少し大きな声を出す必要があった。「アンナ!」

「だからあたしね…」

「アンナ」

「どうしたの?」まん丸な目で、アンナはヘンリーを見上げた。

「おまえは今、セミ丸の背中の上にいるのだよ」

「えっ?」

「胞子の入ったガラスびんはどこにある?」

「ここにあるわ」アンナはポケットに手を入れ、顔色を変えた。「あれ、ない」

 アンナがありとあらゆるポケットに手を入れ、だんだんと青ざめていく様子をあきれた顔をしながらヘンリーは眺めることになった。どうやらアンナは、どこかでビンをなくしてしまったようだった。

 ヘンリーはあきらめ、まわりを見回した。こうなっては何か別の方法を探すしかないが、突然またアンナの大きな声があたりに響いた。「あった」

 顔を輝かせ、アンナはある方向を指さしている。セミ丸の背中に自分が今作ったばかりの穴の底だ。のぞき込むと彼女の言う意味がわかった。穴の底にはあのビンがあり、衝突の衝撃でガラスにヒビが入り、中身が少しこぼれてしまっている。粉のように黒いあの胞子だが、スプーン一杯分ぐらいが外に出ているではないか。この次に起こったことはまるで早回しの映画のようで、本当に目にもとまらないほどだった。それほどすばやく、いろいろなことが立て続けに起こったのだ。

 アンナが開けた穴の内部では、ゆっくりとではあったが、出血が始まっていた。セミ丸は痛みなど感じてもいなかったのだろうが、昆虫独特の薄青い血液が、その穴をまるで池のように満たしつつあったのだ。やがてその血が胞子に触れ、水につけたスポンジのようにしっとりと湿らせるのが見えた。胞子はこの瞬間を百年以上待っていたのだろう。セミ丸は地球の養分を何世紀にもわたって吸い続けてきたのだ。その血液は栄養で満ち満ちていたに違いない。胞子は、白い糸のようなものを見る見る伸ばし始めたのだ。「あれは何?」アンナが声を上げた。

「さあ、見たこともないものだ」

 それは本当に白い糸のように見えた。胞子から出て、ひとりでにさっと伸びていくのだ。その数は何百本もあるだろう。それが互いに組み合わさりながら複雑に交差して網のようなものを作っていく様は、糸を吐きながらクモが巣を作っていくときのような眺めだったが、もちろんクモの姿などないのだ。

「気味が悪いわ」二人は思わず一歩下がった。そのとたんセミ丸が大きく体を動かしたので、二人とも転んでしまった。だがその間もあの白い糸のようなものはさかんに伸び続け、網は濃くなり、もうそろそろ穴からもはい出してきつつあった。立ち上がりながらアンナが言った。「あの白いのって、やっぱりカビなのよね?」

 だが観察している余裕などなかった。カビはついに穴を飛び出し、セミ丸の背中を白いじゅうたんのようにおおいながら、猛烈な勢いで四方へと広がり始めていたのだ。手をつなぎ、二人は走り始めるしかなかった。だが自分たちがセミ丸の頭の方向へむかって走っているのだと気がついたのは、かなり前進してからだった。丘のように盛り上がった場所を下っていきながら、そのむこうにセミ丸の巨大な目玉がいくつも見えてきたのだ。

「まさかあのカビも、ここまでは追いかけてこないわよね」立ち止まり、二人は振り返った。だがアンナの予想はまったく外れていた。カビは背中のほとんどをすでにおおいつくし、一部はもう首の付け根にまで到達していたのだ。

 白いカビは、セミ丸のしっぽがある方向へももちろん腕を伸ばしつつあった。離陸に備えてセミ丸はすでに羽根を忙しく動かし始めていたのだが、その付け根に達するとカビは羽根の動きをさまたげ、はばたきを一瞬ゆるめさせることになった。だがセミ丸も込める力を増したのだろう。すぐに羽根はまた同じように激しく動き始めた。しかしそれも、カビが羽根の付け根全体に取り付くまでのことでしかなかった。羽根は再びゆっくりと動きを止め、セミ丸は苦しそうに身体をよじったが、もう二度と羽根を動かすことはなかった。その間もまったく休みなく、カビはセミ丸の身体の上をどんどんおおっていったのだ。この戦いを、ヘンリーとアンナは口をぽかんと開けて眺めていた。自分たちの身にもトラブルが降りかかろうとしていることに先に気づいたのはアンナだった。「ねえ見て」アンナはおびえたようにキョロキョロした。

 やっとヘンリーも気がついた。二人はセミ丸の背中の上でカビにおおわれずにわずかに残った小島のようなところにいて、五十メートルも離れるともう雪の日の朝のようにすべてが白くおおわれてしまっているのだ。そしてカビの勢いには衰える気配などなく、今もじりじりと二人に向かって迫ってきつつあるのだ。「どうするの?」

「こっちだ」アンナの手を引き、まだ白くおおわれていない場所をたどって、ヘンリーは走り始めた。だがすぐに行き止まりになってしまった。そこはセミ丸の背中のはしで、地面が目の前で崖のようにぷつんと終わっているのだ。見下ろすと、その先には何もない。

「飛び降りるの?」アンナが言った。

「それしか手はあるまい?」

「私は嫌よ。それよりもあの触角に手が届けばいいのだけど」アンナは少し上を見上げている。視線を追いかけて、ヘンリーも気がついた。セミ丸の触角の長い先端が頭のあたりからずっと伸びてたれさがり、ほんのすぐそこまで来ているのだ。

 セミの触角とは見かけによらずやわらかく、かつ強いものだった。肩の上に乗せるとアンナは手を伸ばし、つかんで引き寄せることができた。アンナはよいしょと体を乗せ、まるでサルのようにヘンリーも両手でぶら下がることができた。二人の体重が乗ると触角はゆっくりと動き、自然に向きを変え始めた。適当なところまできたところで手を離し、ヘンリーたちはセミ丸の顔の上にうまく着地することができた。

 セミ丸の目玉は本当に大きく、半球形に盛り上がり、表面はガラスのようにつるつるとランプの光を反射している。だがもうセミ丸には何も見えてはいないのかもしれないとヘンリーは思った。怖がらせることになるかもしれないとアンナには指摘しなかったのだが、よく見るとやつの瞳の奥にまで白い糸の影を見ることができたのだ。

「カビもここまではこないわよね」首をすくめ、アンナはキョロキョロ見回している。ヘンリーも同じようにしたが、体の内側はともかく、セミ丸の体表にいるカビもここまでは届かないようだった。ほっと息をつき、アンナと一緒になってヘンリーも腰を降ろすことになった。

 何分もたってやっと「私たちはここでウロコ丸を待っていればいいのよね」とアンナが口を開いたが、二人がおとなしく座っていることができたのも、実はその瞬間まででしかなかった。さっきとは違う揺れ方だったが、突然再びセミ丸の体が激しく震えはじめたのだ。

「何が起こってるの?」悲鳴を上げ、アンナがしがみついてきたが、何がどうなっているのか見当がつかないのはヘンリーも同じだった。そしてその後、何が起こったと思う? ミミズたちはカビの胞子だと言っていたが、キノコとカビは親戚同士だなんて、ヘンリーもアンナもまったく知らなかったんだ。この間にもセミ丸の皮膚の下では、カビの白い糸が猛烈な勢いで繁殖を続けていたのだろう。セミ丸は何世紀にも渡って地球から養分を吸収していたのだから、さぞかし栄養があり、食べがいもあったことだろう。カビは急行列車のような勢いで成長し、あっという間にセミ丸の体の内部をすみずみまで占領してしまったに違いない。だがそれでも栄養はつきず、皮膚を突き破って外にまではみ出し、カビの糸はとんでもなく太く、ついには柱のようになってセミ丸の体を上へと持ち上げ始めたのだ。

 この柱は太く、樹木のように丸い断面をして、まるで頭の上にセミの死骸を乗せたキノコのような姿に見えたに違いない。直前に気づき、ヘンリーたちはセミ丸の皮膚の深いしわの中へとっさに飛び込むことができたから良かったが、そうでなければ、あっという間にぺちゃんこに押しつぶされてしまったに違いない。

 それでもすさまじい音と振動に襲われはした。成長するキノコの圧力で大地が押し破られる場に居合わせたのだから、それも不思議ではないだろう。砂ぼこりだけでなく、小石や石ころがヘンリーたちの頭上に降り注ぐことになった。一かかえもありそうな石までがときどき落ちてきたが、それにぶつかることがなかったのは幸運としか言いようがない。ずいぶんと長い時間に感じられたが、手足を縮め、ヘンリーたちは狭い隙間にノミのように小さくなっていた、大地震のときのようにセミ丸の体は揺れ続け、大地が引き裂かれる音が聞こえてくる。ありとあらゆる方向から砂や石が降り注いでくる。神経を張り詰めた状態があまりにも長く続き、アンナでなくても何かの拍子に気を失ってしまうのは不思議でもなんでもないではないか。

 実を言うとヘンリーもそうだったのだ。目を覚ましたのはきっと何時間も後だったに違いないし、見回して自分が地表にいることに気がついて、ひどく驚いたものだった。地表というのは正真正銘の地上という意味であり、ジュディスが治めている『下の世界』のことではない。それがわかったのは山の形に見覚えがあったからで、ヘンリーはなんと、村から山道を登っていった先にあるあの砂丘にいるのだった。何日か前、アンナと一緒に馬に乗って越えようとした砂丘だ。あの直後にヘンリーたちは砂に足を取られ、『下の世界』へと落ちていったのだ。

 砂丘の砂を大きく押し分けるようにして、セミ丸はその背中を地上にぐいと突き出しているのだった。それ自体が黒い岩山のような眺めだったが、ヘンリーはその頂上に乗っかっていたのだ。もちろんアンナも一緒で、ヘンリーの足元に倒れているが、ゆっくりとおなかが動いているから、ちゃんと呼吸をしていることがわかる。ただ気を失っているだけなのだろう。

 ヘンリーはもう一度まわりを見回した。眺め直しても山々の形は記憶の通りで、村のすぐ近くだというのは間違いない。日が暮れて何時間もたっているようで、空には星と月が光っている。その光のせいで、洗い立てのシーツのようにでこぼこしながら、砂丘は青白くどこまでも長く伸びているのだ。

「よかった。ご無事だったのですね」

 突然声が聞こえたので振り返ると、リンゴ姫の姿が目に入るではないか。上半身をすっと起こして立ち、にっこりとこちらを見つめているのだ。どう答えていいかわからず、ヘンリーは口をぽかんと開けていたが、いつの間に目を覚ましたのか、アンナも驚いた声を出した。「どうしてここにリンゴ姫がいるの? そもそも、ここってどこなの? セミ丸はどうなったの?」

「セミ丸は死にました」リンゴ姫は答えた。「あなたたちのお手柄です」

「ここはどこ?」おそるおそる首を突き出し、アンナはきょろきょろした。

「地上だよ」とヘンリーは答え、胞子が植えつけられたあと何が起こったのかを説明し始めた。はじめアンナはよくわかっていない顔をしていたが次第に表情が変わり、最後は笑顔になった。

「じゃあ私たち、地球を救うことができたのね。すごい冒険だわ。学校へ帰ってみんなに自慢できるわ」

「僕たちの話を誰かが信用してくれたらね」と思わずヘンリーは付け足さないではいられなかった。

「どうして?」

 リンゴ姫はヘンリーたちを見つめた。「やわらかな砂を突き破ったので、地上の人々はセミ丸がここに現れたことには気がついていないでしょう。一番近くの村でも、せいぜい小さな地震としか感じなかったことでしょう」

「じゃあ私、同級生のみんなをここまで連れてきて、セミ丸の姿を見せてやるわ。目の前で見れば誰だって信用するわよ」アンナは口をとがらせた。

「それでもジョージなんかは信じないだろうな」ヘンリーは言った。

「ああ、あのパン屋の息子ね」アンナはうなずいた。「あいつは2週間前から売れ残っているパンよりももっと頭が固いわ。だけどもしこのセミ丸を目の前に見れば…」アンナは顔色を変えた。「ちょっと待って。ジュディス、どうしてあんたが村のパン屋のせがれのことを知っているの?」

「どうしてって」ヘンリーは口を滑らせてしまった。「アンナも僕も、ずっと以前からジョージとは同じクラスにいるじゃないか。サンダース先生だって…」

「なんであんたが私の小学校の先生の名前まで知っているのよ」

 やっとヘンリーは自分の失敗に気がついたが、もちろんもう遅かった。くすりと笑う声が耳に入って、ヘンリーとアンナはリンゴ姫を振り返ることになった。「秘密をばらしてしまっても、もうよろしいのではありませんか」リンゴ姫は明るい声を出した。

「秘密って何よ?」両手を腰に当て、アンナは突然ヘンリーをにらみつけ始めた。

「ううん、なんでもないよ」背の高いジュディスの姿のまま、ヘンリーは思わず後ずさりをした。

「なんなのよ」

「本当にもうよろしいのではありませんか」またクスリと笑い、リンゴ姫はいつの間にかヘンリーの背後に回っていた。そして長い鼻を器用に使い、ヘンリーの首からあの首飾りを引き抜いてしまったのだ。あっと思ったときには遅かった。ヘンリーはもうジュディスではなく、元の男の子の姿に戻ってしまっていた。

「あっ」ヘンリーと同時に、だがヘンリーよりもはるかに大きな声をアンナが上げていた。この後アンナがどれだけ腹を立て、それをなだめるのにヘンリーとリンゴ姫がどれだけ骨を折ったか、想像するのは難しくはないだろう。ヘンリーは髪を引っ張られ、2、3ヵ所引っかかれた。リンゴ姫まで八つ当たりをされ、体中に砂をかけられた。

「まあまあ、もう良いではありませんか」リンゴ姫は言った。

「よくはないわよ。私がヘンリーのことをどれだけ心配して、あちこち探し回ったことか」最後にヘンリーの背中をドンと思いっきりけっ飛ばして、ようやくアンナも気がすんだようだった。

「でもそれって何なの?」アンナの関心は、リンゴ姫が鼻先にぶら下げている首飾りにすでに移っているようだった。アンナが背伸びをするので、よく見えるようにリンゴ姫は少しかがんでやった。

「とてもきれいな首飾りだわ」とアンナ。

「この首飾りを身につけると、誰でもその姿がジュディスに変わるのですよ」リンゴ姫は言った。

「どうして?」

「それは誰にもわかりません」リンゴ姫は首を横に振った。「でも『下の世界』では、何百年もそうやって女王を決めてきたのです。この首飾りさえあれば、誰だってジュディスになることができます」

「たとえそれが、どんないたずら小僧であってもね」アンナが横目でにらむのであわてて目をそらし、ヘンリーは知らん顔をした。

「だけどリンゴ姫」アンナは表情を変えた。「どうしてあんたがここにいるの?」

「はい」リンゴ姫はうなずいた。「胞子が植えつけられ、カビが成長してセミ丸の体を地上へ向かって押し上げ始めたとき、もちろんミミズの国でもその振動を感じることができました。だから父に命じられ、私が様子を見にきたのです」

「へえ」

「これでセミ丸は退治され、一仕事すませることができました。でも次に、これをどうするかが問題ですね」小さくため息をつき、リンゴ姫は首飾りをかすかに振って見せた。

「ふん」アンナが鼻を鳴らした。「またヘンリーが首にぶら下げて、お偉い女王様になってお城へ戻ればいいわ」

「それは不可能なんだよ、アンナ」ヘンリーが事情を説明すると、アンナはまん丸な目をもっと丸くした。

「へえ、じゃあどうするの? そうだわ」アンナは突然顔を輝かせた。「ヘンリーにできたのなら、私にだってできるはずよ。私がジュディスになっちゃおうか」

 ヘンリーはどう答えていいかわからなかった。だがリンゴ姫は静かにこう言った。「それはあまりお勧めできません」

「どうして?」ヘンリーたちは振り返った。

「ほら、夜が明けますよ」とがった鼻を向け、リンゴ姫が教えてくれた。確かにその通りで、空が明るく変わり、山々のへりが金色に光り始めている。黒かった空は青みがかり、星や星座もうっすらと姿を消しかけている。

「朝になったのね」アンナが言った。

「ここは岩山の影ですから、村ではもう少し前から明るくなっていたことでしょう。冒険の旅に出発したあの日、あなたたちが村を離れたのは何時ごろのことでした?」

「夜が明けるのと同時くらいよ」アンナが答えた。「どうして?」

「ならば、お二人の姿がもうすぐあのあたりに見えてくるはずですね」

「何ですって?」ヘンリーとアンナは、リンゴ姫がしめしているあたりを見つめた。ここからは少し距離があり、砂丘のはしのあたりだ。村から山道を登ってきて、砂の上に最初に足を踏み入れる場所だ。

「どういうことなんだい?」ヘンリーは見つめたが、リンゴ姫は微笑むだけだった。

「もう少し待ちましょう。そうすればわかります」

 だからヘンリーたちは待ち続けた。セミ丸の背中から降りて小さな砂の丘を越え、もう少し見えやすい場所まで移動したのだ。リンゴ姫の言うとおり、馬に乗ったヘンリーとアンナが遠く小さく姿を現したのはそのときのことだった。まだ目をこらさなくてはならないほど距離があるが、馬の毛の茶色と、朝日をはね返すヨロイの輝きは見間違いようがない。あれは確かにあの朝のヘンリーとアンナだ。「何がどうなってるの?」アンナは不思議そうな声を出したが、ヘンリーもまったく同じ気持ちだった。

「ミミズの国へやってくる直前に」リンゴ姫が口を開いた。「あなた方は砂時計をさかのぼったでしょう?」

「あの大きな砂の山ね」

「砂時計も時計の一種なのですよ。それをさかのぼったのだから、時間が少しぐらい巻き戻ってしまっても不思議はないでしょう?」

「何ですって?」アンナは大きな声を出したが、リンゴ姫は微笑んで見つめ返した。

「本当のことなのですよ。あなた方は今、村を出て冒険の旅に出発したあの朝にまで時間を戻ってきているのです」

 アンナだけでなく、ヘンリーもぽかんとした顔をしているのをリンゴ姫は楽しそうに眺めていた。三人ともしばらくの間黙って、遠くにいるあの二人の様子を眺めていたが、やがてアンナが口を開いた。「彼ら…あそこの二人はこれから砂の流れに巻き込まれて、『下の世界』へ落ちていくというの?」

「そうらしいね」ヘンリーはうなずいた。

「じゃあすぐに助けないと。今すぐ教えてやらないといけないわ」

 歩き出そうとしたアンナを、リンゴ姫が長いしっぽを使って押しとどめた。「だめですよ」

「どうして?」

「あの二人にはこれから砂に巻き込まれて、『下の世界』へ行ってもらわなくてはなりません。そうでないとセミ丸を退治することができないのです」

 アンナは振り返り、セミ丸の黒い体を見上げていたが、少したってヘンリーたちのほうを見た。「わかったわ。地球を救うためにはそうならないといけないのね」

 遠くにいるもう一人の自分に向かってアンナは目を走らせた。「でもかわいそう。あのアンナはこれから、あのつらい思いを経験するんだわ」

 どう言っていいかわからず、ヘンリーとリンゴ姫は黙っていた。だがアンナが明るい表情で振り向いてくれたので、二人ともほっとすることができた。「ところであの砂崩れはどうして起こったの? 何かきっかけがあったのでしょう?」

 リンゴ姫が答えた。「あの砂崩れは自然に起こったのではなく、誰かの手でわざと起こされたものなのですよ」

「どうして? 誰が起こしたの?」

「それを今からお目にかけなくてはなりませんね」一歩前に出て、リンゴ姫は首飾りを鼻先高くかかげた。それが彼女の頭の形にそってゆっくりと滑り落ちていくさまをヘンリーたちは眺めることになった。ミミズの肌は湿り気をおび、つるつるしているから、さぞかしスムーズに滑っていったことだろう。そしてついにはリンゴ姫の首にかかり、首飾りはそこで停止したのだ。その間もリンゴ姫は話し続けていた。

「ただ『下の世界』の支配者だというだけではなく、砂時計の管理者でもあるので、砂たちはジュディスの命令に従います。それはつまり、ジュディスの言うことであればなんでもきくということだ。だから今から私は、砂たちに命じてセミ丸の死体を目に付かぬよう地球の中心にまで運び去らせることにしよう。やつはあそこで大きく育ったのだ。その墓場としても適当であろう?」

「でもあの…」背の高いジュディスを見上げたまま、ヘンリーもアンナも何を言っていいかわからなくなってしまった。肩にそっと触れ、馬とともに歩いているあの二人の方向へ、ジュディスはヘンリーたちの視線を向けさせた。セミ丸を運び去る準備がもう始まっているのか、砂たちがざわめく振動を足の裏に感じることができる。

 そしてついにそれが始まったのだが、なんという早業なのか、セミ丸はそれこそあっという間に姿を消してしまったのだ。あの巨大な体が、まるで船が沈没するときのように砂の下へと見えなくなってしまった。そのあと砂丘の表面は、はじめから何もなかったかのような平らな砂だけになり、セミ丸が遠ざかっていくゴツゴツとした振動だけは少しの間感じることができたが、やがてそれもまったく消えてしまった。

 砂丘の内部で何百メートルもの厚さに積もっている砂がどういう構造をとっているのかはもちろん知らなかったが、きっとただ眠たく積み重なっているのではなく、海の流れのように複雑で、嵐の日の雲の群れのように生き生きとした動きをしているのだろうかとヘンリーは想像してみた。その生き生きとした動きがただ人間の目に見えないというだけで、砂丘の意外な場所同士が実は地下トンネルのように互いにつながっているということなのか、セミ丸が運び去られると同時に、何百メートルか離れた別の場所では砂に大穴が開き、馬を連れたヘンリーとアンナの足元が突然崩れ始め、まるでアリ地獄のようにのみこんでしまったということなのかもしれない。

 遠くにいるあの二人の姿が砂の下へと消えてしまうのはジュディスとともにいるここから見ていてもよくわかったが、それでもほんの一瞬の出来事でしかなかった。しかし運がよかったのか、強い脚力のおかげなのか、馬だけは砂のウズからなんとか脱出することに成功していた。足を取られながらもきつい斜面を一歩一歩登り、砂の動いていない安全な場所まで逃げ延びることができたのだ。隣にいたアンナが駆け出したことにヘンリーが気づいたのはその瞬間のことで、砂の上に足跡を飛び飛びに残し、馬に近寄ってたづなを取ろうとするのが見えた。そうやって彼女が戻ってくるまでの間、ヘンリーはジュディスと二人きりになった。「ねえジュディス…」

 ジュディスは黙って振り返った。手を伸ばし、ヘンリーは彼女の首飾りにほんの軽く触れた。「あんたは、これからもずっとその姿のままでいるつもりなの?」

「わかりません」ジュディスはリンゴ姫の声で答えた。「一度ミミズの国へ戻り、父とも相談してみようと思います」

「ふうん」

「適当な人がいれば、すぐにもこの首飾りを手渡すことができましょう。下の世界の人々とも話してみる必要があるかもしれません」

「そうだね」

「これでお別れですね」軽くかがみ、ジュディスはヘンリーのほおにそっとキスをしてくれた。

「何の話をしてるの?」馬の足音が近づき、同時にアンナの声も聞こえたので振り返ると、たづなを引いてここまでやってくるところだった。

「大したことではない」女王の声でジュディスは答えた。

「そうなの。ああそうだ」アンナは何も気がつかなかったようだった。「ねえジュディス、ウロコ丸に会ったら言っておいてよ。もう地球の中心まで私たちを迎えに行く必要はなくなったからって」

「そうだな。伝えておこう」ちらりと見つめあい、ジュディスはヘンリーに微笑みかけた。

「さあ行くわよ」そばへやってきて、アンナがヘンリーの腕を引いた。

「どこへ?」

「村へ帰るのよ。急がないといけないわ」アンナは答えた。

「どうして?」

「何言ってるの? 郵便配達人がやってくる前に家に帰り着いていないと、あの手紙が両親に見られて大変なことになるじゃないの」

 ヘンリーは思い出した。『しばらく冒険の旅に出ます』と書いたあの手紙だ。アンナの言うことはもっともだったので、ヘンリーたちはあわただしく出発することになった。リンゴ姫にお別れを言っている暇も十分にはなく、ヘンリーを馬の背に押し上げ、自分はたづなを引いて、半分駆け出すようにしてアンナは砂の上を行き始めたのだ。ヘンリーは何度も振り返ったが、ジュディスは手を振りもせず、それでもその場に立ったまま見送ってくれた。だがいくつ目かの砂丘を乗り越えたところで、その姿もとうとう見えなくなってしまった。

 こうやって、ヘンリーとアンナは村へ帰ってくることができた。まるで何事もなかったかのように朝食のテーブルにだって着くことができた。昼前には門の前に立ち、郵便配達人を待ち構えていた。誰にも見られる前に、手紙は二通ともうまく取り戻すことができた。

 誰も信じないだろうとヘンリーは言ったし、一度はアンナもそれで納得したのだが、やはりあきらめきれなかったのだろう。夏休みが終わり、学校が始まって1週間もたたないうちにアンナは言い合いをはじめていた。もちろん相手はパン屋の息子だった。強いくせ毛の持ち主で、乾ききった松ボックリのように広がった髪を激しく左右に振り、「そんなバカなことあるもんか」とジョージは大きな声を出した。

「本当だったら本当なのよ」アンナは負けずに言い返した。

「地球の中心まで潜っていって、おまえとヘンリーが大怪物を退治し、世界を救っただなんてウソに決まってらあ」

「ウソじゃないわよ」アンナの声もだんだん大きくなってくる。休み時間のことだったが、その声が職員室にまで届くのではないかとヘンリーははらはらし始めた。

「ヘンリー、あんたも何か言いなさいよ」突然振り返り、アンナはヘンリーをにらみつけた。

「僕は…」

「弱虫のヘンリーなんかには、小さなミミズだって殺せるもんか」ジョージが言った。「なんていったっけ? アンナの話に出てきたヘビ。体全体が緑色で、でかい一つ目のやつさ。ウロコ丸とかいったな。そいつを連れてこいよ。オレが小指の先でやっつけてやらあ」

 ところがこのとき、誰かが廊下を行く物音がドアの向こうから聞こえてきたので、口論はこれまでになった。騒いでいたせいでベルが耳に入らなかったのか、いつの間にか休み時間が終わっていたらしい。きっとあれは先生だろう。

 みんな、もちろんあわてて席に着いた。足音らしい物音は教室のすぐ外で立ち止まったが、いくら待ってもドアが開く気配はない。どうしたのだろうと子供たちが不思議に思い始めたころ、閉じたままのドアの向こうからとうとう声が聞こえてきた。「なあ誰か、このドアを開けてくれないかな。先生を抱えたまま、オイラ一人じゃ無理でさ」

 ヘンリーは立ち上がり、ノブに手をかけた。そしてドアを開けたのだが、最初に目に入ったのはぐったりとなったサンダース先生の姿で、何か強いショックを受けたのか気を失ってしまっているようだ。ここまで床の上を引きずってきたらしいが、困ったような顔で先生を支えているのがウロコ丸だったのだ。あの大きな瞳と見つめ合うことになってヘンリーは目を丸くしていたが、ウロコ丸が口を開いた。

「ああ、ここにいてくれて助かったよ。地球の中心でどんな冒険をし、セミ丸をどうやって退治したのか聞きたくてやってきたんだが、職員室に顔を出して、あんたらがいるのはどの教室かと尋ねようとしたらこのざまでさ」

 だがサンダース先生の意気地のなさだけを笑うのは不公平かもしれない。しばらくしてやっと気がつき、ヘンリーとアンナはキョロキョロ見回したのだが、教室の中はもう空っぽで、かれら二人とウロコ丸以外、あっという間に誰もいなくなってしまっていたのだ。

「ちょっとまずかったかな」とウロコ丸はつぶやいたが、それを聞いてアンナはくすくす笑い始めた。少しの間は我慢していたが、つられてとうとうヘンリーも声を立てて笑い始めた。そこにウロコ丸まで加わり、いかにもヘビらしく舌をシューシューと出し入れしながら忍び笑いを始めた。だが三人が平和に笑っていることができたのも、教室のすみにある物入れの中からゴトンと小さな音が聞こえてくるまでのことだった。

 三人はどきりとし、首をすくめて静かになったが、最初に体を動かし、物入れのドアに手を伸ばしたのはもちろんアンナだった。さっと勢いよくドアを開くと、体を縮めて身を隠そうとしているジョージの姿が目に入った。頭を両腕でかかえ、足を精一杯に引き寄せ、掃除用具の間に体を押し込み、少しでも小さくなろうとしている。ウロコ丸が声を上げた。「地上の子供らの間では、物入れの中に入って遊ぶのがはやってるのかい?」

 アンナとヘンリーはあきれた表情で顔を見合わせたが、口を開く前にジョージの泣き声が聞こえてきた。ちょっと意地悪な気分になり、ウロコ丸に顔を近づけ、ヘンリーは少し耳打ちをしてやった。アンナも面白そうな顔で聞いている。

「へえ」ウロコ丸の目が大きく、これも少し意地悪そうな表情に変わるのがわかった。

「なあジョージ」せき払いをし、ウロコ丸は口を開いた。「早くそこから出てきて、小指の先一本でオイラをやっつけてくれよ。その勝負をするために、わざわざ地の底から来てやったんだぜ」

「お客さんを待たせるもんじゃないよ」調子に乗ってヘンリーも言った。

 物入れのドアをけとばし、アンナはドンと大きな音を立てた。「出てこないとドアを壊して、引きずり出しちゃうぞ」

 ジョージがさらに大きな泣き声をあげ始めたのは言うまでもない。三人はもう一度笑った。だがすぐにウロコ丸が真顔になった。「おや? あれはいったい何の音だい?」

 アンナとヘンリーも耳をすませた。ウロコ丸が何のことを言っているのか、すぐに理解することができた。サイレンの音だ。どうやら消防車らしい。この町は小さすぎて警察署はなく、もちろん軍隊もいない。それでも通報を受けて消防団から駆けつけつつあるのだろう。

「消防車ってなんだい?」ウロコ丸は言った。アンナとヘンリーは説明してやった。

「そいつがオイラを退治しにきたのかい?」ウロコ丸は目を丸くした。

「そうらしいわね」アンナはうなずいた。

「こうしちゃいられないや」ウロコ丸は体を動かし始めた。しっぽの先で物入れのドアを閉めてジョージを一人にしてやり、アンナとヘンリーを連れて校舎の外へと急いだのだ。ヘンリーたちはすぐに気がついた。校舎のすぐわき、背の高い木が一本立っているすぐ隣の地面にマンホールほどの大きさの穴が口を開けていて、ウロコ丸はそこからやってきたのに違いなかった。

 頭からその穴の中に飛び込みざま、ウロコ丸が言った。「じゃあな。冒険の話はジュディスからでも聞かせてもらうことにするよ」

「ええ、さよなら」

「さよなら」

 肩を並べてアンナとヘンリーが手を振っている間に、ウロコ丸の姿は穴の中へさっと見えなくなってしまった。消防車が到着し、手に手に木の棒や網を持った消防士たちが飛び降りてきたときには、地面には穴が一つ黒々と開いているだけだった。


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