恋愛サンプル
梅雨に入り始めのある雨の日。
私は初めて彼氏の家とやらに足を踏み入れた。
付き合って――――といつから言っていいのかはよくわからないが、初めて会ったのが2ヶ月くらい前なので、きっと2ヶ月。
きっかけは兄の紹介で、兄の後輩だった。
私よりふたつ年上の大学生で、私にとっては初めての彼氏というやつになる。
高校に3年も通っていて初カレだなんて、笑われそうで自分からは言えないけど、きっとそういう人って今は多いんじゃないだろうか。
恋愛下手っていうのか、ニュースでも恋愛意欲について取り沙汰されていることがあったような気がする。
まあどうでもいいのであまり気にして見ていなかったから、よく覚えていない。
そんな私の姿を見て両親は「ああこういう感じか」と納得したような顔だったのが、私には微妙だったが…。
「えっと、じゃあ中で待ってて。何か持ってくるから」
「うん」
そう言って私を部屋に案内してすぐ出て行ったのは、とてもじゃないがこんなに広くて上品な部屋に住んでいるとは一目じゃ絶対わからないほど普通の人だ。
以前から、着てるものとか持ち物なんかが、結構高そうだなーとは思っていたものの、自分がブランドを知らないのでよくわかっていなかった。
なるほど、こんないいお家に住んでいるなら納得である。
「なんか私、場違いっぽい…」
呟いた独り言すら、少し響いてしまうほどの広さの部屋が恐ろしい。
私の部屋なんて、普通に六畳だぞ。
真の普通は私だけだったのか。
ていうか兄ちゃんは、このマンションどころか億ション的なお家を知ってたのかな。
今朝彼の迎えで家を出る私にへらへら手を振っていた兄ちゃん。
一応デートだし、と思ってスカートにしたけど、近所で買った安いアンサンブルのワンピースだ。
私の全身コーディネートが靴を入れても計1万くらいだと知ってて、へらへらしてたの、兄ちゃん。
「…兄ちゃんのぼけなす」
訪問するお宅の基準がこんなに高いのなら、最初に言っとけ!
そうやって一人の時間を、兄ちゃんへの恨み言でやり過ごしていた私の耳に、何やら噴出す声が聞こえた。
彼が戻ってきたのかと思って見たら、違う人だった。
初めてきたよその家で、知り合いなしに家族と遭遇するのってすごく気まずいんだけど。
とりあえず会釈しておくけど、彼にあんま似てないから家族じゃないかも。
「ああ、笑ってごめん。弟が友達連れてきたのかなって思ってたんだけど…女の子の声がするだろ?気になっちゃって」
「えと、おじゃましてます」
へえ、お兄さんか。
うちの兄ちゃんとは比べ物になんないくらい上品そうな物腰の、芸能人みたいな人だ。
「弟はキッチンにいたみたいだから、もうちょっと待っててあげてね」
と言いつつ、何故このひとは部屋に入ってくるのだろう?
ふかふかのラグに置かれた低反発クッションにぺちゃりと座っている私の横に、何故座る?
「はい…」
言いたいことはあるのに、小市民の私の口からは情けないイエスしか出てこなかった…。
「桜花ちゃんは高校生か…雰囲気が少し大人びているから樹と同じ大学の子かと思ったよ」
こんな美形の男性にちゃん付けで呼ばれてしまった…美形というだけで、無駄に照れるのは何故だろう…。
苗字は鈴木っていう超平凡なのに、親が名前だけ頑張っちゃったせいで、随分名前負けしてるけど。
中学時代の友達に、さくらって名前の子がいた。
その子は少しぽっちゃりめで、やはり私と同じく名前の後に顔を見られるとがっかりされるのがわかると言って悩んでいた。
私は別に太ってないけど、痩せてもいない。
けど、名前だけ美しいもんだから、空気読まない大人には「ああ…」っていう顔されることがたまにある。
黒川君―――厳密に言えばこの人も黒川君なんだろうけど―――のお兄さんは、少なくとも顔には出さなかった。
ま、私たち世代の名前って少しカッコよさげな当て字の名前が多くなったりしてるから、私みたいなのも珍しくないんだろう。
始終人好きのする笑みを浮かべていて、話しやすい空気を醸し出しているお兄さんのおかげで、私の口数が少なくても場が持っている。
それにしても、黒川君遅いな……
お兄さんが来て数分くらい経っているけれど、戻ってこない。
「あの、くろ…樹君遅く」
「そうだ。樹のヤツ遅いし桜花ちゃん一緒にDVDでも見る?リビングに来ない?」
遅くないか、と聞こうとしたら、お兄さんはまるで先手を打つように切り出した。
私は当然、困惑する。
子供じゃないんだから、相手が遅いからとか暇だからという理由で、簡単に家の中をうろうろしたくない。
話していてもわかったけど、このお兄さんはとても賢い人だ。
多分うちの兄ちゃんと同年代くらいだけど、この人の方が格段に思慮深い。
「いえ……樹君、待っててって言ってたので……」
私の目には、はっきりと困惑の上に疑惑の色が乗っていたに違いない。
「ここで待ってますから、おかまいなく」
「待たせてるのは樹なんだから気にしなくてもいいよ。桜花ちゃんは律儀だね」
お兄さんを見ると、ゆるりと楕円を描いた瞳が予想以上に近くにあって驚く。
黒川君ともまだ清い交際を貫いているので、異性とこんなに近づいた経験なんてほとんどない。
キスくらいはあるけど、その黒川君とだって数回くらいしかしたことないのに、今にもキスが出来そうな距離にその兄がいる。
え、普通弟の彼女にこんな接近する?
まさか彼女って思われてないとか?
いやいやあの黒川君だよ?
真面目でちょっとのんびりした黒川君だよ?
彼女でもない女の子を一人で部屋に招いたりしないだろう……しないよね?
「俺も桜花ちゃんともうちょっと話したいしね?」
そして私の手をとると、私にはテレビの中でしか縁がないような仕草で立たせる。
うちの兄ちゃんだったらこんなこと、付き合ってる彼女にすらしないだろう。
ていうか、連れてく気満々?
私ここで待つって言ったよ。
「あの…」
咎める意味で見上げると、また優しそうな顔で微笑まれる。
でも……
私は無意識に、彼の手から己の手を引っ込めた。
失礼だったかも、と一瞬見上げると、きょとん、と丸くなった目が自分を見下ろしていて、少しだけしまったと思った。
我に返って思えば、もうちょっと何か言ってから手を離せばよかった。
むこうもちょっと強引だったとはいえ、初のお宅訪問で、感じ悪かったかも…
しかしそれは、取り越し苦労だったと一瞬にして知れた。
「っくくく…っ!おい樹、今度はまあまあいいんじゃないか」
何が『まあまあ』かと問うのは、馬鹿のすることかもしれないと思いつつも、私はつい、聞きたくなった。
だって、その口ぶりから察するに、ドアの向こうには黒川君…樹君がいる。
ということは…
それからゆっくり入ってきた黒川君のせいで、私の口はやっぱり閉ざされてしまう。
それを、ニヤニヤと…もはやこの表現で正解だろうと思われる顔をして、黒川兄が見ていた。
えー
えー
つまりこれは…
「……ごめん桜花ちゃん、俺…」
私と目が合うと、黒川君は少しだけ早足で私との距離を詰めた。
180くらいのお兄さんと違い、165くらいの黒川君は、巨人巨人してなくて見上げやすい。
深刻そうな顔の黒川君の話を聞こうと見上げると、何故か黙る。
そして何故頭が重いか、と見やれば、そこにはにっこり顔の黒川兄の大きな手が乗せられていた。
その顔を見るとムシャクシャして、私の頭は肘置きか何かか!と言いたくなったが、
黒川君が何か真面目に話そうとしているのでやめておく……手を伸ばして、頭の上の手だけは払ったけど。
「っくく…有体に言えば、君を試したかったんだよ。これまでこいつに近づいてきた女って、だいたいうちの親とか金とか期待してたの多くてね。しかもこいつの見た目ってフツーだろ?だから疑心暗鬼に」
「兄貴!!」
黒川君が怒鳴ると、黒川兄はまた手を置いて私の頭をくしゃくしゃにしたので、今度は遠慮なくぺちっと叩く。
おい笑うな兄!
段々イライラしてきて黒川君に目をやると、彼は目に見えてしゅんとした。
「俺としても、頭も尻も軽い女に騙される弟は見たくなかったんだ。悪く思わないでくれ」
つまり…これってドラマとか漫画とかでよくある、お金や地位には目もくれず、他の美形に目移りしないで一途に彼を想ってる?的な試練?
なにそれ。
なにそれ。
「なにそれムカつく」
何でさっき、黒川兄から手を引いたのかがわかった。
「……帰る」
こんなところいたくない。
私はイライラどころか、ムカムカして今にもブチ切れてしまいそうなのを必死で抑えた。
じゃないと、これ以上ここにいたら、何でもかんでも怒りのまま口走ってしまいそうだった。
「おっ桜花ちゃん」
妙に焦った風の黒川君も、私の怒りを助長させているように思えてならなかった。
黒川兄などは、子供の癇癪を見ている大人みたいで、もっとムカついた。
バッグを引っ掴んだ私は人様の家だというのに、バタバタと盛大に音を立てて階段を降りる。
ところが敵もさるもので、オロオロしていた黒川君に止められるなんて思っていなかった私は、一瞬だけ先回りした手に靴を取られてしまった。
「返してよ!」
「ごめん!でも嫌だ!」
「返してってば!!」
「ねえ、ちょっと待ってよ桜花ちゃん!話を聞いて!」
取り返そうとするも、頭の上で持ち上げられたら、女の私には届かない。
「靴取るなんて小学生でもやんないよ!それでも年上!?」
「桜花ちゃんが話を聞いてくれないから!!」
「私のせいにする気!?」
傍から見たら、子供のケンカか子猫のプロレスみたいだったのかもしれない。
黒川兄はツボに入ったのか腹を抱えて笑っている。
嵌められた挙句、靴も返してくれない。
取り返そうとすれば笑われる。
もうやだ。
「じゃあなんで私があなたのお兄さんから急いで手を引っ込めたかわかるっ?」
「え、」
急に手を出すのをやめて聞く私に、黒川君は戸惑うような視線をよこした。
「気持ち悪かったからよ!!あの目、中学のとき罰ゲームか何かで告白の真似事してきた男子とそっくりだった!私のこと馬鹿にしながら、探って、どんな反応するのかニタニタ楽しんでっ」
その男子からの告白を、本気で信じたわけではなかった。
どうしたらいいかわからなくて、ちょうど今の黒川君みたいに全身の動きを止めてしまって…
きっとそれくらいでは、望むような反応ではなかったのだろう。
彼は近づいてきて、真剣みを帯びたような顔をして、返事を促した。
それで信じたかといえば、100%ではなかったけど、もし本当に好きだと言ってくれたのなら
簡単に嘘で流したら悪いと思ってしまったのだ。
そしたら結局、焦れて出てきた友達にネタばらしをされた。
うっかり信じてOKしちゃったとかいう大恥は免れたけど、その後影でどう言われていたかはわからない。
「黒川君だって、あの時私の反応を影でコソコソ見てた人たちと一緒よ!!何がまあまあよ!!こっちは二度と顔も見たくないわよ!!」
そんな靴、欲しければくれてやる。
私が裸足のまま玄関に降りると、固まっていた黒川君よりも兄の方が寄ってきそうだった。
「来んなバカ!!」
私は年上への礼儀も何もかもかなぐり捨てて叫ぶと、重たいドアを開けて走った。
追って来られたらと思うと、咄嗟にエレベーターは避けてしまった。
結局初カレのお宅訪問と同時に、私は見切りをつけることになった。
泣きながら何十階もある階段を降りているうちに疲れた私は、座り込んで息を整えた。
追ってくる靴音がしないのを耳で確認しながら、私は生まれて初めて恋のための涙を流したのだと気づいた。
「かさ、わすれた……」