ジャンが海辺にあるその店に辿り着いた時には、午後四時を回っていた。
真っ黒なフォードから降りて、目の前の建物を見上げると、白い壁が色濃くなった金色の陽射を反射して、彼の目を細めさせた。
店の中は暗くて、背後の市場の喧騒から、そこだけ切り離されているようだった。
この建物の静けさの中に居れば、潮騒が届きそうだ。
ジャンはそんな事を考えながら、店の入口に歩いた。
ドアの前には、『海辺にいます。コーヒーなら“カフェ・ド・エルザ”へどうぞ』など全くやる気の感じられない細い文字が紙面の上で風に吹かれていた。
――エルザは彼女の姉代わりで、ジャンの主のアントニオの情婦でもあり、街で一番美味しいコーヒーを出すカフェの女主人をしている。
ジャンは苦笑して、その字体を指で撫で、風に飛ばされそうなハットを押さえる。
路地裏から石畳の大通りに出て、市場でオレンジを二つ購入して通りを横切った。
白い浜辺は陽射に染められ、その先に広がる海も金色にきらめいていた。 水色の薄い生地のワンピースを着た女が、
波打ち際を裸足で歩いていた。
「ニコ!」
ジャンは彼女の名前を大声で呼んだ。
退屈していた飼犬が、主人の声を聞きつけたような素振りで彼女は顔を上げ、満面の笑みを見せた。
「ジャン!」
弾けたように走り出す彼女をみて、思わず頬が緩む。
――本当に子犬のようだ。そう思いながら、ジャンは片手で彼女を受け止めた。
「どうしたの?」
ニコはジャンを覗きこみながら、首を傾げた。
「することが終わって、とりあえず時間が空いたから、退屈を甘受しようと思ったのさ」
「あら。あたしは暇潰しのマリオネットってこと?」
ジャンの答えに口を尖らせる彼女。
彼はその唇に口づけを落した。
「今日は潮の香りがするな。マリオネット」
「潮風に何度もキスをされたから」
「ああ。今日は風が強い」
「少し焼けたの。遊んでくれる人の居ないマリオネットは、太陽と波打ち際で暇を潰してたわ」
ニコはワンピースから肩を露出させ、愛嬌のある眼差しでジャンを睨み上げた。
「美味そうだな」
ジャンはその肩に唇を落とし、軽く歯を当てた。ニコは小さく叫び、ジャンを突き飛ばした。
「吸血鬼が出たわ」
ニコは楽しげに笑いながら、大通りの方へ走り出した。
ジャンは微苦笑してその後を追った。
薄暗い店内に夕暮れの濃い陽射が差し込んでいる。床に転がったオレンジが日だまりで日光浴を強制させられている。
白いエナメルのパンプスが片方落ちている。
くすくすと笑い合う囁きが焦げ茶色のソファの上で、戯れている。
忍び笑いが、微かな喘ぎに変わったのを、電話のベルが切り裂いた。
ソファの上で戯れていたジャンとニコは同時に顔を上げ、電話を見た。
「……エルザかしら」
ニコは苦々しく顔をしかめて、ジャンの身体の下から這い出た。
ジャンはがっかりしたように、シャツの乱れを整えて、タイを緩く締め直した。
「……忘れてた」
膝の上で頬杖をつき、溜息を一つ落して、ニコの後ろ姿に視線を移す。
ニコは、カウンターに腰をもたせかけ、受話器を取った。
ジャンに視線を向けて口を尖らせる。
彼は煙草を銜えて、ニコの方へ歩み、後ろからその腰を抱いた。
「あら、ルチアーノ。どうしたの?」
ニコはジャンから煙草を取り上げて自分の口に銜える。受話器を肩と顎に挟み、煙草に火を点けた。ジャンの手は彼女の身体を撫で回していく。
「あら。そうだったの?……んっ。なんでもないわ……。ああ……」
ニコは身体をくねらせてジャンの指に応える。
「……エスプレッソ?エルザの店のことじゃないの……?」
なんとか平静を取り持とうとするニコの努力もお構いなしに、ジャンは彼女の身体を開いていく。
「……あ……、ダメ……。ルチアーノ、無理よ」
ニコは身体を揺らされながら、必死になって答えている。
「なんの用意も出来てないのよ……え?ジャン?ああ……」
ニコは背後の男に受話器を向けた。
「……ルチアーノか?」
ジャンは少しの間の後、おかしそうに笑った。
「……すまない。予定がずれてしまった」
ニコはカウンターに手をついて、ジャンを受け入れている。
ジャンは受話器越しに非難の雨を浴びせられながらも、悪びれた様子はない。
「責任?なら、責任を持ってエルザの店を紹介するよ。埋め合わせは後ほど。……今、手が離せないんだ……ああ、悪いけど、……え?」
なかなか終わらない電話といまいち冷静なジャンに、痺れを切らしたニコがカウンターの奥に手を伸ばし、エスプレッソマシンを突き落とした。
断末魔をあげてエスプレッソマシンは台から突き落とされてしまった。
それを目撃したジャンは受話器に向かって唖然と告げた。
「……ルチアーノ、エスプレッソ・マシンは殺されたよ」
受話器越しの剣幕から耳を離して逃れる。
今度はニコがジャンに悪戯を仕掛けていく。
彼は身体を跳ね上がらせて眼下のニコを見た。
「……犯人?」
『誰がエスプレッソ・マシンを殺したってんだ!お前の女か!?』
受話器から飛び出すルチアーノの怒声を聞き流しながら、ジャンは目を閉じた。
「……エスプレッソマシンを殺した犯人は……、快楽だ」
ジャンはそう答えると、受話器を置いてニコの髪の毛に指を差し込んだ。ニコは悪戯を止めて受話器を耳にあてた。
「ジャンは今あたしをその気にさせたの。彼は義務を果たさなきゃいけないのよ。わかるでしょう?ごめんなさい。エルザの店に行って頂戴」
ニコはルチアーノの怒声を無視し、電話を切った。
「男はいつも責任と義務の間で揺れてなければならない」
ジャンは微苦笑しながらニコの動作を眺めている。
「あなたは今あたしの上で揺れていればいいのよ」
ニコは、そう答えて再びジャンを可愛がり始めた。
哀れ。
罪なきエスプレッソ・マシンを悼む者はいない。
――誰がエスプレッソマシンを殺したか?
――誰が彼女の理性を殺したか?
――快楽?
否、真犯人は――、
彼女の瞳の中にいる。 |