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哲学者2
作:君塚正太



哲学者3


 俺はすぐさま、彼女に抱きつきたかった。しかし、少し冷静になれば、どだいそれは無理な事であると分かった。前々から彼女の素行を観察していたが、それにしても彼女の下に来る男たちの数はすさまじい。私の下には、まるで、女の人はよってこない感じがした。とは言っても、これは主観的な意見である。そりゃ、周りを見れば、多数の女性が俺のほうを振り向く。でも、どうしても、俺は彼女に囚われてしまっているのだ。だから、客観的に自分の事を見つめる事ができなくなってしまっている。そのことに関しては、おれ自身も、うすうす感じていた。人とは一時とはいえ、夢から現実の世界を覗く事ができるのである。神秘的なヴェールとは、時に時代の鋭い矛先にもなりえる。なぜなら、その身にヴェールを羽織っているからこそ、人々は彼に神秘的なものを感じられるのである。それは論理的にも、倫理的な観点からも、推察できない。それは人間本性に根ざした、欲望の束がまるで天上にいる神々に届く気概のようなものである。
 はたして、その中で人間は呼吸できるのであろうか?それは、否である。すべての人々を眺めればよい。ルソーの考えた牧歌的(アルカディア)な楽園がはかなくも崩れ落ちるのが分かる。これは真理である。人とは、性善説の理論で成り立つわけではない。人とは、くしもその個人の性格によって、規定され、行動を起こしてしまう。そこで、ある一種の神秘的なことが起こる。それは愛情によって、しばしば犯罪者の凶行は阻止できるという事である。この実例を見たければ、いくらでも実例はいる。かかる問題を本気で、理解したいならば、犯罪心理学に手を染めてみればよい。そうすれば、おのずと答えは出てくる。人とは、時に矛盾を犯した性格を生来上、持ちうるものなのである。
「あら、今度は気難しそうな顔をして、どうなさったんですか?」
 俺はマリアに機先を制されたと思った。
「いや、別にそうでもないですよ。そりゃ、私だって、たまにはそういう顔をしますよ。でも、ユングに比べれば、ぜんぜんましですよ。」
「そういえば、そうですね。彼はいつも、悩み事を抱えているようです。」と、マリアは宙を仰ぎながら、述べた。そこには、恋愛以上のもの、まさしくそれは同情なのだが、それが介在している気がした。マリアはユングの事を、どれだけ知っているのだろうか?そんな気がかりが、俺の心中を渦巻いていた。もしかしたら、彼女はユングに気があるのかもしれない。でも、それならことはもっと大きな事になる。ユングは妻子もちで、しかもあの渋面ときている。そんなやつのどこがいいのか、さっぱり分からないが、ともかくユングが俺と同じく、神秘的なヴェールを羽織っているのは、否めなかった。
モーゼの十戒にある通りに、俺はヤハウェに奉納金を購いのために納めなければならない。その理由は、至極簡単だ。なんといっても、俺は一介の哲学者だ。それに、神学も学んでいる。したがって、そこから帰結されるのが、まず神学にそって、熟考を重ね、後に、哲学的視野でそのことを垣間見る事である。その過程で、否がおうにも、神との対談がでてくるだろう。そのときだ。その時に、俺は神の血をすすり、彼らをペルソナッソスの山々に葬りさるのである。まさに、神とは人の形の象徴化でしか、ありえない。なぜなら、神の似姿として、我々が創られたのではなく、反対に我々が神の姿を自分たちに転移させているのである。
「あら、そういえば、幼児を忘れていましたわ。」
 そんな思想の中に、彼女は間髪入れずに、まぎれこんできた。
「その用事とは、何ですか?」
 彼女は少し、首を左に傾かせた。そして、ちょうどその時、風が吹いて、彼女の金髪が静かになびいた。
「ユングさんの家に行く事です。さあ、あなたはユングさんと親しいので、絶好の言い訳が成り立ちますわ。ダランベールさんと、話しをしていて、時間に間に合わなかった、と。」
「いや、いや。ユングはそんなことでは怒ったりしませんよ。彼は一見、気難しそうですが、中身はまるで子供です。その証拠に彼の家の周囲を注意深く観察してみてください。色々と、使った遊び道具がころがっていますよ。」
「まあ、それは本当ですか!」と、彼女は叫んだ。
「それなら、早くユングさんのところに行かなくちゃ。」
 そう、言い終わると、彼女と俺はユングの家の方向にまっすぐ、かけて行った。なんと、そのときの光景がきれいだった事だろう。日差しが、俺達の方にささやきかけ、まるで我々を包括しているようであった。日が傾くにつれ、次第にあたりは暗くなっていった。そして、ようやく夕焼けがきれいにそそいでいる時間帯に、無事我々は到着した。玄関ではユングが待ち構え、時計の針を気にしていた。
「ダランベール。今日は帰りが遅いぞ。せめて、医者の助言は聞いておいてくれ。」
「次からは、気をつけます。しかし、ここにいるご婦人を見れば、あなたの慇懃な態度も変わるでしょう。」
 ユングは眼鏡を持ち出し、彼女の事をしばし見つめていた。その時に、俺は羨望の念にとりつかれた。これほどの美女をまじまじと見つめられるなんて、なんと医者とはよいものであろうか!俺は、これほど、ユングをうらやましく思ったことはない。だが、次の瞬間、彼は淡々と彼女と話しをし、精神分析を行っていた。どうやら、彼女には悪魔がすくっているようだった。時々、その悪魔が現れると、意識は無意識の背景に移行し、感情的な議論が始まってしまう。もちろん、ユングはその事を重々承知で治療を行っていた。彼は、彼女が決まって、感情的になると、受身の態勢をとった。黙って、彼女の言うがままにし、それを必死にカルテに書きとめていた。今度は、反対に、ユングが感情的になる場面もあった。彼の場合は、イルカが静かに海面に顔を出すような、感情の表し方をする。そそくさと、お大臣は、顔をひょっこり出し、そのまま現実の世界から、感情の世界へと移行する。その場面は、壮絶だ。どっちが、患者だか、分かったもんじゃない。神々の叫び声が響く時、審判の決着はつく。ユングの奥さんが、割って入り、場をなごやかにするのである。これは真に奇妙な事に思われるかもしれない。しかし、精神科医とて、いっぱしの人間である。だから、ユングも時に、声をあらげ、彼女の意見に猛反発するのである。そして、その時に出てくるのが神様、ユングの奥さんである。この光景は、見るものにとっては非常に面白いが、当人たちにとっては好ましくないのである。せんずる所、彼らは静穏なるクェーカー教徒と対比できる。むしろ、できたての荒っぽいプロテスタントといったところである。
 その後に、本人たちは我に帰り、事なきを得るのである。もともと、二人の気質が似ているために、この激しい診療は勃発するのである。自分の似姿を、鏡で見つめた人間は、その鏡を破壊しにかかるのである。これは人間本性の一つの表れである。自分と似るものほど、最初は忌み嫌い、後に仲良くなるのである。その中途段階として、喧嘩や討論が活発に行われるのは自然な事である。それで、マリアとユングは激しい口論を繰り返していたのである。
 また、これとは別の話ではあるが、久しく能動的でなかったユングが、その重たい口を開いた事があった。それは旅についての話であった。歳をとると、青年時代の印象が前景に突出し、更年期の記憶の印象を薄めてしまう。それでも、ユングは現在の自分の状況と、過去の状況をうまい具合に話した。それはこういう内容であった。
「それは、私がちょうど、チェニスに着いた時から、感じていたものであったのだよ。」
 彼は、煙草の火をつけながら、話し始めた。外には、青空が広がり、白鳥たちが湖の中で、体を洗っていた。
「あれがすべての切欠だった。私が、無意識の世界に埋没しようとする、自己を保つためには、ある事を成さなければならなかった。それは、ヨーロッパを外から、見ることだ。自己の存在意義にかまけているヨーロッパ人より、あちらの人々のほうが、よっぽど人間らしく見えたよ。まったく、笑ってしまうよ。自分の見つめていた事が、そこかしこで破棄されるのを目の当たりにするのを見て。それは、ともあれ、あの旅で一番印象に残っている事がある。」
 湖面から、白鳥たちが飛び立った時、彼はおごそかにその言葉を述べた。俺は、その印象とやらを、聞きたくて、たまらなかった。そして、ついに口出しをしてしまった。
「その印象とは、なんだい?ユング。」
 彼は、一時の間、止まっていたが、またぞろ口走り始めた。その目は、一瞬まどろんだ。それはなんとも言い難い魔力を持っていた。俺は、その目を見ただけで、自分のすべてを見透かされるような気がした。しかし、ユングはすぐに窓辺の方に向かって、誰に話すわけでもなく、追想を語り続けた。
「その印象とは、清新なものであった。インディアンたちとの出会いが、それをもたらしてくれたのだ。彼らは、まったく斬新な切り口で、物事を見る癖があった。白人を蔑視し、自分たちの領域を犯されまいと、頑強に抵抗していた。例えば、ある日の午後、太陽が頭上高く上ると、彼らは決まって、祈祷を始めた。それは秘蹟を信じての事ではなかった。彼らは、真っ向から、自然と対話し、それを消化していたのである。真に不可思議に思えるかもしれないが、文化人である我々よりも、彼らの方が自然についての深い洞察を持っていた。すると、とたんに世界は一変した。彼らの方が自然に詳しく、我々はそれを書物からしか、得られない。その隔たりが、彼らと私との大きな溝だったのだよ。我々は、今いる場所を頂点と考える癖を持っている。だが、それは間違いだ。我々が頂点だと、うつつをぬかしていると、すぐさま次の時代の人々に追い抜かされてしまう。いみじくも、人々はマックス・ヴェーバーの事を、世紀を越えた人物だと、評価したが、それは間違いだ。世紀を超えたものではなく、人間を超越したものである、というのが適切である。
 自然に生きる人々は、暗黒と光の相反性を理解していた。夜が来ると、それは暗黒の世界であり、朝が来ると、それは新たな曙光である。まったくもって、かれらはそれ以外の意味を解さなかった。というより、それ以上の意味を欲しなかったのである。我々、文化人はそれを曲解し、なんとか生を保っているに過ぎない。ダランベールよ。不思議ではないか?生に盲目的に執着するのではなく、生を素直に受け入れる、自然人がいるのに対し、我々は、その反対をしている。我々は、生を盲目的に欲し、いつも、未来の事を憂慮している。これは、真におかしいことだ。原始の世界に生きる人々の、時間は非常にゆっくりと進む。これは近代の世界では、非常に珍しい。そのため、私も旅行中には時間を忘れてしまったぐらいだ。万物が創造された時から、人間の内的衝迫は常に、前に前にと、進んできた。しかし我々はなにか、重要なことを忘れては、いやしないか?ダランベール。それは、時間だ。我々は、さも身近に時間がある風体をするが、それはおかしいことだ。原始の世界に生きる人々は、時間を神秘的なものと感じ、祭っているのだ。だから、彼らは人間にとって、もっとも大事な部分を見落としもするが、我々が見落としている部分を知ることもできるんだ。」と、ユングは煙草を吹かしながら、述べた。
 俺には、このことが奇妙に思えた。普段、平静を装っているユングには似ても似つかない行為である。その時に、感じたのはユングが今まで以上の、幻像をそれから得ていた、ということである。ユングには、そのような性癖が、時々あった。彼は、突然、恍惚とした表情を浮かべながら、散歩をする事があった。すると、決まって、彼の内的生活に変化が訪れたのが分かる。彼は決まって、自分の自室に閉じこもり、作業をするのが癖になっていた。そのせいか、久しぶりに旅行に出かけた話をするのは、彼にとっては非常に珍しい事だった。俺は、黙って、その話を聞いていた。人間とは、その内奥を他人に明かす時ほど、用心するものである。しかし、いったんそれを行えば、様々な疑念は払拭され、人間関係に煩う必要がなくなるのである。ユングが、俺にその話をしてくれたのは、彼が俺を親友とみなしての事だった。これは真に喜ばしい事だった。けれども、人間とは鈍感なものである。その話を聞いている最中には、まったくそんなことは念頭に浮かばない。そして、自室に引きこもって、ゆっくりと内省すると、そのことが分かってくるのである。












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