進め!セゴビア水道橋
(ここから姉の談話の口述筆記)
狭い溝の中を匍匐全身しつづけるのは、そりゃあ不愉快なものよ。汚いし疲れるし。でも、なによりサイアクだったのはネズミ!ドブネズミ!毛の生えてないシッポを持って出っ歯でチュウチュウ鳴く、あの……え?ドブネズミの説明はいらない?ああそう……まあ、とにかく、あのネズミたちがサイアクだったのよ。
いくら修行を積んだあたしでも、バイ菌やらウイルスには勝てないからね。あのときばかりは本気で
「死にたくない!戦争反対戦争反対!なんであたしがこんな目にあわなきゃなんないの……」
って、呪文のように頭の中でくりかえしくりかえしつぶやいたわ。
そのうえ、このネズミたちが腹を空かしてて、隙をみて、かじろうとしてくるわけね。人間様を。げっ歯類の分際で。ほら、戦争でどこの街も食べ物が無かったでしょう?人が餓えてりゃ街のネズミどんも餓えるってわけよ。わかる?田舎のネズミどん。え?僕は田舎のネズミどんじゃない?わかってるわよ、そんなこと!
寄ってくるネズミをナイフで殺したり蹴っ飛ばしたりはするんだけど、あんまり大きな音を立てるわけにもいかないじゃない?警備の兵が近くにいて息を殺してるときに、小さなネズミが襟元から胸の谷間に入ろうとしてね。十年分の嫌な汗を一度にかいたような気がしたわ。え?谷間なんかない?ぶっ殺されたいの?弟だからって何でも言っていいと思うなー、みたいな?……ま、いいわ。話を戻すわよ。そんな目に遭いながらね、
「戦争反対戦争反対!なんであたしがこんな目にあわなきゃなんないの……」
って、呪文のように……え?それはもういい?せめて3回は繰り返させてよ。2回目でNG出さないでよ。
それでね、橋の上にも巡回する警備兵がいたんだけど、すぐ近くにいるのに案外気付かないものなのね。懐中電灯っていうハイテク機器を持ってたくせに。
景色?夜景?あんたね、そんなもの見てるわけないでしょ。そりゃあね、あの橋の上からセゴビア市内の夜景を眺めたら、きれいだっただろうと思うけど……。いや、そうでもなかったんじゃない?戦時中は街の灯なんて消えてたもん。
えーと、それから?まあ、そういうわけでね、ズリズリズリズリ、溝の中をえっちらおっちら、ちっくりちっくり進んだわけよ、あたしは。ガラさんは。でも、匍匐前進じゃない?警備兵もいるじゃない?ずいぶん時間がかかったのよ。体感で8時間くらい過ぎたころ……実際は2時間くらいだったんだけど、なにか、ネズミとは違う気配が伝わってきたのね。気配っていうか微妙な振動と音ね。それがだんだん近づいてきたの。
焦るじゃない?でも戻れないじゃない?しかたないから慎重にこっちも進んだわけ。手にナイフにぎりしめて。そしたら、気配が近づくにつれて、だんだんわかってくるわけよ。むこうから何者かが匍匐前進で近づいて来てるんだって。
怖いじゃない?でも、怖いけど、怖いんだけど、とりあえず反乱軍の兵士じゃなさそうだから、ちょっとだけ安心したのね。だって、考えられることはひとつでしょ?向こうの人も、何らかの理由で検問を避ける必要があって、このセゴビア水道橋を使っているんだ……って。
だったら身を隠さなくても平気じゃない。身を隠す場所なんかないんだけどさ。それで、そのままあたしも進んだのね。それでとうとう、ちょっと首をのばせばキスできるくらいの位置まで近づいたのよ。男の人ってことはわかったのよ、ヒゲがあったから。でも、髪の色や目の色は月明かりじゃわからなかったわ。
どうしたものか考えあぐねて、相手の出方を待ってたら、さすがに男の人ね。向こうから声をかけてきたわ。もっとも、そのときはこっちが女ってことに気付いていなかったみたい。
聞いてくれる?その男の人は、ささやき声で、こう挨拶してきたの。
「コンバンワデスバイ。ヨカ月夜デスバイネ。ウチノ、ぶるどっぐガ、吠エテナケレバ、ヨカッチャケドデスバイ」
(姉の談話、いったんここまで)