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ゲルニカの郷姫ドーニャ・キホーテの聡明なる冒険  作者: 桝田道也
第3章 セゴビア
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計画・準備・決行

 翌朝。快晴。青空の下、バラックの建ち並ぶ河原で姉と僕はドラム缶のお風呂で体を洗った。このスラムに近い居住区にもそれなりの自治があり、女性が安全に入浴できるしくみになっていた。


 入浴をすますと、グリエゴ神父とスラムのおかみさんたちが僕たちの変装用の衣服を用意してくれていた。すなわち、僕には白い木綿のブラウスに赤いスカート、そしてこれまた赤いカチューシャ。すでにおさげに編まれた付け髪も用意されていた。


 姉にはフランコ軍の軍服が用意された。

「街を過ぎたら、一刻も早く脱ぎ捨てることだね」

と、おかみさんたちは言った。

「その軍服は、シラミがわいたからフランコ軍が捨てていったものなのよ。シラミのしつこさったらないからね。こんなバラック暮らしだろう?真冬には服が一枚でもあった方がいいから、焼かずにとっておいたのさ。でも、あたしゃそのシラミがわいた服を着るくらいなら、凍えてるほうがマシだね」

「何度も熱湯消毒はしておるが、そのくらいでなんとかなるなら、フランコ軍とて捨てていったりはせんからのう」

とグリエゴ神父。 姉は心底いやそうな顔をして、

「戦争反対!守ろう、シラミの沸かない清潔な毎日」

とつぶやいた。


 僕の覚えるべきシナリオは簡単なもので、すぐに暗記できた。リハーサル(つまり暗誦)はそつなくやりおえた。会話じゃなければ僕にとっては簡単なことなのだ。つまり、僕は自分じゃない誰かになりきることで、過剰な自意識から解き放たれるタイプだった。他人の見てる前で流暢にしゃべる僕を見て、姉は目をまんまるにした。姉弟でも、学年が違えばお互い知らない部分があるものだ。


 ただ、そのあとがよくなかった。女の子の格好で女の子っぽくポルトガル語をしゃべる僕を見て、スラムのちびっこたちが興味を抱いたのだ。

「ねーねー、おにいちゃんおにいちゃん、なまえなんてーの?」

「どっからきたの?」

「そのおしばいでなにするの?」

「きこえてる?」

「なんかいってよ。いえってばぁ!」

僕は困ってしまって、助けを求めて姉を見た。

「みんな、ごめんね~。そのおにいちゃんは、サンチョっていうなまえなんだけど、おしばいのセリフはいえても、ふつうのおしゃべりはとってもにがてで、できないのよ」

姉が助け舟をだしてくれた。

「でも、ちゃんときこえてるし、いみもわかってるから、気にしないであそんであげてねえ」

助けてくれなかった。結局、その日の夕暮れまで僕はちびっこたちと鬼ごっこやサッカーをしてすごすハメになった。


 姉はシラミのわいているかもしれない軍服に袖を通すのは後にして、グリエゴ神父と合流場所について、地図をみながら念入りに予習した。地図!予習!どちらも姉の苦手とするものだったが、マドリードに行くためなら避けることはできなかった。


「セゴビア水道橋の西端はここじゃ。ここまでは荷台に隠れておればいけるじゃろう。そこからはお前さんの単独行動じゃ」

「わしらは検問を抜けたら橋の近くの裏通りで待つ。ここに、わしの教会を壊した連中の主犯格が住むアパートがある。非常事態じゃ、この際、弱みを利用させてもらうとしよう」

「フフ…、とても聖職者の言葉とは思えないわ」

「いまは、誰もが生きのびるので……」

とグリエゴ神父が言いかけると、姉は残りを先に言った。

「……精一杯。誰も、それを責めることはできない?もう聞き飽きたわ、それ」

「口の減らん娘じゃのう」

神父はややあきれ顔でそう言った。


「橋の警備は手薄じゃが、まったくないわけではない。もし夜明けまでに約束の場所に現れなかったら、捕まったものとして見捨てるぞい。わしの助力もそこまでじゃ。逆に、もしわしらが約束の場所に現れなかったら、お前さんは独りで先へ進むんじゃ。どこへ落ち延びようと、かならずサンチョくんを届けよう」

「わかったわ。……もし、私が死んだら、弟の面倒を見てもらえますか?」

と姉はたずねた。

「まかせておけ。立派な修道士にして書写漬けの毎日を送らせてやるとも」

神父は笑った。


 グーテンベルクが活版印刷を発明だか改良だかして0.5ミレニアムが過ぎ、修道士の仕事に占める書写の割合は減っていたはずだ。だが、活字を組んだり版にインクを塗ったり人力で転写したり、商業出版にならない教会内部で使う小部数の印刷物のために、結局は人手が要ったのだろう。のちのゼロックスの発売までまだ二十年ほどあった。


 夜になった。例の軍服を嫌々ながら着た姉は荷台に積まれたブリキ缶の陰に隠れた。僕も荷台に乗り込んだ。

「神父様は、馬車を運転できるの?」

とたずねた姉に、グリエゴ神父は当たり前のことを聞くな、という顔をして答えた。

「わしが子供のころ、蒸気機関車なんて大都会にあっただけ。バスや自動車なんぞ陰も形もなかったわい」


 ただしロシナンテは、体中に藁くずを浴びせられくたびれた農家の駄馬に変装させられていたので、いたって不機嫌であり、荷馬車を引く足取りにも力がなかった。


 いくつかの検問所を過ぎたが、形ばかりのもので、老人と子供しか乗ってないとわかるとそれ以上、調べられなかった。兵士達はあきらかにこの仕事に情熱をもっていなかった。それもそうだろう、いくら一個小隊を壊滅させたとはいえ、戦局を左右させる力があるわけでもない一人の民間人を探すだけの不毛な検問なのだから。


 燃料の乏しい戦時中のこと。検問所が設けられた場所は夜通し明るかったが、住宅街・商店街は早々に就寝し、街は22時前には田舎のように暗くなってしまった。荷馬車の音が静まった街の遠くまで伝わってるように思えた。


 空には美しい上弦の月。月明かりのみに照らされたセゴビア水道橋の西端。その近くにひっそりとたたずむ建物の陰に、グリエゴ神父は荷馬車を止めた。

「いつでもいいぞい」

と神父。姉はブリキ缶のすきまからあたりの様子をうかがった。ひとけの無いことを確認すると、毛糸のくつしたを履いて厚手の絨毯を敷いた部屋を歩くように静かに、かつチーターのようにすばやく水道橋の溝に入り込んだ。そう、あたりまえだが、巨大さで知られるセゴビア水道橋とて、その両端は地面と同じ高さなのである。でなければ橋とは呼べず単なるモニュメントになってしまう。


 さて、ここで僕は姉と一時的に別れることになった。したがって、ここから先のくだりは姉の談話を口述筆記したものとなる。


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