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黒獅子物語 作者:黒井ここあ

第三章 マリオネットの憂鬱

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九、アマネセール攻防戦・後篇

     1

「ミラーなんだろう? どうしてこんな事……!」
 汗を冷やす爽やかな風が駆け抜ける湖水地方ヴェデン・ヴァリ
 そこでは屍を観衆に、一騎打ちが始まっていた。
「……」
 剣が剣を弾く耳障りな金属音が響く。
 ラインの持つ長槍では、細い切っ先の素早さに対応するのに精一杯というところだ。
 ――せめて長剣に持ち替えられれば……!
 一撃は重くないものの、素早く正確な剣技を追い続けると、流石の青年騎士でも体力が削られる。それも長物を扱うとなれば尚更だった。
 背を向けたほうが敗者となる死線。ラインは目前の少女から視線を逸らさぬまま、新たな武器を探し求めた。彼の腰にいつもある刀はなく、それは彼の死んだ馬に下げられていた。
 手に馴染んだ刀ならば疲れ知らずなのに、とラインは唇を噛む。
 ――刃こぼれするだろうから、騎馬戦では使わないつもりだったのに。こんな時に限って……!
 上からたたきつけられる細身剣の一撃を長槍で受けた瞬間に膝を曲げたラインは、足元に息絶えた仲間の長剣を拾い上げる。騎士は虚空に口を開けたまま、肉の塊になり果てていた。早逝した彼の長剣はラインの左手にずっしりとした重みを与えてくる。
 これが単なる手合わせだったなら、相手を簡単にいなせたのかもしれない。だが、青年騎士は防御に徹していた。膝のばねを使い、彼は立ち上がり様に少女のレイピアを跳ね返した。
「ミラー! 僕だってわからないのかい!?」
「……」
 ラインの悲鳴に似た呼びかけの答えとばかりに、小柄な騎士は冷静に攻撃を繰り出してくる。
 ――ミラーもさっきの奇妙な兵士達と一緒なのか……? 言葉もなくした化け物になってしまったのか? だったら殺すほか……。でも、そんなことはしたくない……絶対に!
 焦りなのか、続いた戦いのせいなのかラインの思考が働かない。呼吸も浅く、変速的に繰り返されて喉を乾かす。
 戦場は、不思議と静かだった。
 二人の騎士が剣を交えて対話するほかは。
 湖水地方ヴェデン・ヴァリののどかな景色に湿った風が渦巻く。
 横から殴りつけてくるようなそれは、散っていた雲を真黒になるまで寄せ集めている。
 世界に影が落ち、色彩が濁る湖畔。嵐の匂いが立ち込めてきた。
 命の源だった赤い流れが清澄な湖に流れ込む傍で、二人の騎士が相対していた。
「どうして僕達が戦う必要があるんだい!? 怒っているなら謝るから! 止めよう!?」
「馴れ馴れしく話しかけないで! あなたなんか知りません! 私のミルちゃんを拘束したグレイの仲間なんか!」
 針のように鋭いレイピアが、面頬に開いた穴めがけて真っ直ぐに突きいれられるのを、ラインはすんでのところでかわす。切っ先は嫌な音を立てて青年の兜に一文字の傷を付けた。
 判断を誤れば失明は免れなかっただろう正確な一撃に、流石の鬼神も生唾を飲み込む。
 ――ミラーは言葉を失くしていない……! 消滅していった彼らとは違う……? でも、何がミラーを変えてしまったんだ!?
 全身に滲む嫌な汗に顔をしかめるライン。その耳元で、誰かが嘲笑うのが聴こえる。
 ――苦戦してるね、ライン。どうしてすぐに止めを刺さないんだ?
 ラインにはその声の持ち主を確認する術は無かった。目前のミラーが攻撃の手を緩めない限り、辺りを見回すことなど不可能だった。ましてや彼は、頭を守る兜に視界のほとんどを奪われていた。
 青年騎士は歯の隙間から呪詛を吐き捨てる。
「やれるわけ、ないだろう……! ミラーはまだ、ミラーなんだ!」
 ――良く解んないな。それに嘘は良くないぜ。ここにいた兵士は皆、お前が殺したんだ。こんな女、一突きでやれるだろ。
 ラインは何故か、声の主がにやりと笑みを漏らしたのを理解できた。そして次の瞬間、自分の口元が同様に持ちあがっていることに自覚すると、歯を食いしばってそれを強く真横に引き締める。
「うるさい! お前は誰だ!?」
 青年の荒々しい叫びに答えたのは、対峙する少女だった。
「さっきからなにをわめいているんです? 大人しくミルちゃんの居場所を教えてくれれば、手こずらせてくれたお礼に痛くなく葬ってあげます。今、貴方の命は私のものです!」
 浴びせかけられた侮蔑の言葉に、ラインが瞳を見開く。
「……それは……! 僕が昔、言った台詞だよ、ミラー!」
「……気易く……、呼ばないでください!」
研ぎ澄まされたレイピアの切っ先が、青年の瞳を今にも抉らんと迫ってくる。
 ラインがそれを払いのけた拍子に、少女の頭が払われて兜が飛び、その重さを象徴するような鈍い音を立てて落ち、転がった。
 刹那、光そのもののように淡い金髪が舞った。普通の女性ならばふらついたまま気絶するところを、ミラーは耐え抜いて首を擡げた。
 キッと菖蒲色の瞳で睨み返してくる少女の顔立ちは憎悪に凍てついていた。
「……どこまでも歯向かうと言うのね……王家に!」
騎士は彼女の冷たい美しさに肌を粟立たせた。
目が逸らせない。
 だがラインは今度こそ小さな笑みを零した。
「王家……? それは誰の為?」
「グラジルアス様……! 若様の為!」
 叫びが力となって閃き、ラインをじりじりと退かせる。
 しかし青年はそれを窮地とは思わなくなっていた。
 再び剣と剣が会話する。切っ掛けはもちろん、殺意を露わにしている少女だった。
 細い剣身を十二分に生かし、ミラーは手首をしならせて四方八方から攻撃を繰り出す。
「若の為! そうだね! じゃあ、誰が最初に若を若と!?」
「私です!」
「そうかな? じゃあ、若の剣は誰だい!?」
「何を馬鹿な事を……! 全部、私一人に、決まっています!」
「そっか! ようやくわかったよ! 君が、何か違うことを思い込まされているって!」
 青年の暗雲たる気分に一筋のヤコブの梯子が降りて来たようだった。
 ミラーに敵意をむき出しにするよう仕向けたのが誰かは解からなかったが、少なくとも彼女は兵士ばけものにはされていないと解かった。それだけでも十分だった。
 ――殺さなくて済む、って喜んでる暇は無いんじゃないの? ん? 本当、お前って解かりやすいのな。
 ラインが笑みを溢しているのを知ってか知らずか、レイピアが青年騎士の首を執拗に狙う。
「ぐっ……!」
 ミラーの左腕が真っ直ぐに伸ばされ、レイピアがラインの装甲の隙間を貫通した。
 一瞬で沸き上がった熱い衝撃は、間もなく痛烈に痛み出した。真っ直ぐな突きが左肩の隙間に突きささったのだ。昂った鼓動に合わせて溢れる血液が、鎧の中の下着を濡らす。
 よろめいたラインを無責任な観覧者が小馬鹿にする。
 ――あはは。おちょくったから、怒られてやんの。痛いか? 怖いか? 代わってやろうか、怖がりのライン?
「……代わる……? ありえないよ……! 僕がやらなくてはならない。ミラーの瞳を曇らせている何かを払うのは!」
 青年の背中に当たるもの、それは彼の視界を覆った影からも明らかだった。茂みの方にまで追いやられた青年は、そのまま木に背中を預けてずるりと尻もちを突く。ラインは溜息をついて少女を見上げた。やっと楽になった、と安堵する場面ではなかったが。
 ――で。どうやってその『何か』を消すつもりなんだか。
 血濡れたレイピアを突きつけるミラーが冷徹に言い捨てる。
「……ミルちゃんはどこです? アマネセールに? 正直に言えばすぐに楽にしてあげます」
「……ミラー。君は勘違いをしている。僕はアルライン・アルバトロス。僕が若の剣だ。君じゃない」
「はぐらかさないで。知りません。あなたのことなんて」
「……思いだしてくれない、か……。それか、思い出せないのか……」
 ラインは少女の威嚇から視線を逸らさないまま、武器を降ろし、鉄臭い兜を脱ぎ捨てた。それよりも清らかな色をした灰色の髪がぺったりと頬に張り付いている。青年の肺いっぱいに爽やかな空気が流れ込む。
 軽く頭を振ったラインが再びミラーを見上げると、そこでは戸惑いに強張った口元がわなないていた。その小さな変化は戸惑いの証に見えた。
「ほら。解かるかい?」
「……なにが……?」
 少女の瞳が揺れている。だが、ラインは真っ直ぐに見つめていた。
「この髪。君が斬った。前は、長かった」
「知るわけ……」
 体を起こそうとするが、手負った左腕がそれを阻む。彼は背中を支えてくれる木立を利用してじりじりと立ち上がる。踵が湿っぽい土を削り、なかなかうまくいかない。
「……ねえ、ミラー。僕は覚えているよ。若が僕の右腕を探していたあの日、君が来たのを……」
 ラインはようやく立ち上がり、少女を見下ろす。乱れていた呼吸と共に、青年の心が温かく凪ぎ始める。
 今、自身の命を奪わんとしている少女の相貌に、彼女がまだつぼみだった頃の面影を重ねていたのだ。ふっくらとしていた輪郭を整え、ミラーは大人の女性として花開こうとしていた。それは贔屓目に見なくとも、素直に美しいと思えた。
 姿なき青年の声が、訳知った風に呟く。
 ――ふうん。お前、こいつのことを……。
 チャコールグレーの瞳が懐かしさに緩んでいるのを、ミラーは認めまいとしてレイピアの切っ先で振り払う。しかしその焦点は徐々にずれて、少女の足元さえもふらつかせる。
「うっ……。うるさい……! 若様の右腕は私で――」
「違う。僕と若は六つの時から一緒なんだ。君が後だ」
 徐々に間合いを詰めるラインに合わせて、レイピアで威嚇しているミラーがどこか怯えながら退く。昏く淀んでいた瞳は見開かれたままだ。
 その少女に向かって、ラインは無防備に両腕を広げていた。
 ――馬鹿だな、お前。そのまま刺されちまっても知らないぜ。
 不親切な警告を無視し、彼は少女から顔を逸らさずに切々と説く。
「僕は覚えているよ、ミラー。今より髪が短くて、小さかった。毎朝、起こしに来てくれた。ずっと馬鹿みたいな押し問答につきあってくれた。誰よりも気丈で、誰よりも泣き虫なのは、僕だけが知っているんじゃないかな」
 一つ一つしっかりと歩む彼の足跡には赤黒い染みができていた。
「……知らない……!」
 少女が力無くレイピアを振り回す。
「僕と同じく、若を……若と呼んでくれるようになって……嬉しかったんだよ……」
 ラインは少女の左腕を右手で捻り、少女の両腕ごと抱き締めた。お互いに鎧を纏った者同士、不格好な抱擁になってしまったが青年はそれに構わず両腕に力を込めた。
 ――自覚せずにやってるんだから、相当だよ、お前……。
 その両腕から逃れようとする少女の鎧がぎしぎしと不協和な音を立てる。
「止め……!」
「僕と同じ、ひとりぼっちのミラー。でもあの日から、僕が隣にいた。思い出して」
 少女の身を捩る力がだんだんと弱まってきたのに、ラインは手ごたえを感じ始め、更にきつく抱きしめる。
「……や……離して……! くださ……」
「離さない。傍にいる。君はずっと僕の隣にいた。それが普通だと思っていた。でも、いつの間にか、君はいなかった。若と旅に出てから、君が隣にいたらどれだけ良いだろうって、気付いたらいつも思っていたんだよ」
 ラインの告白は、実に純朴なものだった。いつも通り、思ったことを口にした、ただそれだけだった。
 その言葉が届いたのか、腕の中の少女は急に大人しくなり項垂れた。
 彼女をいきり立たせていた何かがすとんと抜け落ちたようだった。
 逆巻く雲を作りあげている風の中に向かって少女がぽつりと呟いたのをラインは聞き逃さなかった。
「……嘘、です……」
「……僕が嘘を付けるほど器用な人間だと思っているのかい?」
 振り向いてラインを見上げたミラーは、泣いているのか笑っているのか、それとも申し訳ないのか、鼻と目元を真っ赤に染めて涙を溢れさせた。
 それは、青年がこれまで見てきたとおりの表情だった。
「……ライン殿……! 私……とんでもない事を……!」
「これくらい、大丈夫だよ。それよりもミラー、どうしてここへ、それも正気を失って……?」
 青年騎士はぎこちなく腕を解くと、両手を少女の両肩に置いて顔を覗き込んだ。淀んでいた少女の瞳に清らかな光を認め、自然と頬が緩む。彼は革手袋のままの親指でそっと涙を拭ってやった。
 だが次の瞬間、ミラーの左腕が急激に暴れ出した。
「そんな、どうして……! 嘘! 駄目! ライン殿、離れて!」
 刹那、ラインの微笑みが凍りついた。
 それは、少女の警告と同じ速さだった。
「……っ!」
 急に詰まった呼吸の正体を確かめんと問うた言葉は、喉から赤い液体となって飛散した。
 彼女のレイピアが、鎧の隙間に真っ直ぐ突き刺さっている。
 真っ直ぐに、ラインの腹部を貫き、背中にまで穴をあけて鎧にぶつかっている。
「……み、らー……? ど、う……して……?」
 少女は右腕を使ってそれをすぐに抜いて、レイピアを持ったままの左腕と格闘し始めた。ミラーの左腕は全く別の意思を持ったかのように、執拗にラインを狙う。だが、少女の右腕がそれを必死で食い止めている。
「止まって! これ以上、私にライン殿を傷つけさせないで! 嫌! いうことをきいて、きいて! お願い! きいて! 嫌あ!」
 少女の悲痛な叫びが湖畔にこだまする。
 ラインはわけもわからずに、その場に膝から屑折れた。そのまま頭から倒れ込む。戦いに疲弊し火照った頬に、湿気た土がひんやりと心地よかった。
 その時、彼の視界を支配する草むらに、ふわりと降り立つ者があった。
「ミレニア・フォーシュルンド、君の種は、そこで咲いたのだね」
 美しいバリトンが舞い降りたと同時に、スェプトヒルト・レイピアの指輪から一輪の黒ユリが咲き、ぽとりと落ちた。その瞬間、少女の左腕が大人しくなった。
 ミラーはもたつきながら指輪から指を引き抜き、愛剣を土の上へと投げ打って横たわるラインに抱きついた。少女のレイピアは憎らしいほど正確に青年の柔らかな部分を抉っていた。流れる血に汚れるのも構わず、きつく抱きしめる。
 少女は突如現れた黒髪の青年に向かって牙を剥き、吠える。
「種……! ……あなた、あの時、私に魔術をかけたのね……! ラミナス、よくも……!」
「みら……? ……若……じゃ……、ない……?」
 ラインが朦朧とする頭で見上げた先には、彼の敬愛する黒髪の主君が赤いビロードのスーツを纏って立っていた。
 彼は戦場ににつかわない優雅な装いが汚れるのも構わず、跪いて黒ユリの花を拾った。そして彼がそれを匂うと、漆黒の頭髪はたちまち金色に代り、ユリは色を失いながら朽ちていった。短かった金髪は見る見るうちに腰まで伸び、嵐の気配がそれをかき乱した。
 金髪の青年は嬉しそうに訝しんでみせる。
「怒り、寂しさ、孤独……。君の隠してきた昏い思いはそこに集約されていたのか。ふむ。君の心は実に気高く、美しい。故に闇の種は心に根差さなかったというわけか……。なるほど。運命が許せば、君が真の恋人でも良かったのかもしれないな、ミレニア・フォーシュルンド」
 ちらと向けられた瞳が赤くぎらついたのに、ラインの心臓が跳ねあがった。
「魔術師……ラミナス……! 若のふりをして……!」
 しかし、ラインの呟きは乾いた喉に阻まれて声にならなかった。急速に失われていく血液のせいで、ラインの四肢はどんどんと感覚を失っていく。怒りに震える力すら、沸いてこない。
 青年騎士に代わって怒り猛るのは、彼の副官だった。
「何をたわけて! 私はあなたのものじゃありません! 私を殺していいのはこの人だけです! そして、この人が死ぬ時は私も!」
 ラインは、ぎゅっと青年を抱く少女の細腕が震えているのを、おぼろげながら感じていた。
「ふむ、実に殊勝な……。気に入った。君はグラジルアスではなく、鬼神を……。よろしい。鬼神の命を救ってあげたらば、私の元に帰って来てくれるかい、ミレニア・フォーシュルンド?」
「……み、ら……!」
 少女の腕の中、ラインが息を飲んで相貌を見上げた先、尖った顎が一際勇ましく見えた。
「命を食らって使う穢れた魔術で、命が癒せるわけがありません!」
「ああ、その通り。出来はしない。だけども、すぐにでも癒し手の元に連れていくことができる。可愛いリシュナ・ティリアの元へね」
「そんなこと……! リシュナ様にまで凄惨な思いをさせるつもりなの!?」
 ミラーがラインを抱きとめる腕に力がこもり、青年が呻く。傷に障ったようだ。
「光の神子リシュナ・ティリアの、傷を塞ぎ生命を癒す聖なる力ならばお前もよく知っているだろう? それに、彼女の心境を慮る暇に、鬼神の命は潰えてしまうのではないか? それは君の望みではあるまい?」
「ぐっ……!」

     2

 横たわった体にかかっている体重が解かる。
 そして、魔術師に反抗する少女の悔し涙がことごとく青年の頬に向かって零れているのも。
 ――いや、雨かな。風が逆巻いているから……。
 ラインの耳には、少女と魔術師が言い争う声が振り出した雨の彼方に聞こえ、ぼんやりと回した瞳にはどくどくと流れる血潮が映る。彼の鼓動に合わせて、血潮のリズムに強弱が付くのが不思議に面白かった。
 焼けつく痛みに目が冴えるが、視界を埋め尽くす赤い物に対するめまいの方が勝っていた。
 ――血……僕の……。ああ……、僕は……ここで死ぬのか。
 かすんでくる風景には、彼の大切だと思う相貌が並ぶ。
 ――若……。ミラーを取り戻しただけでも、僕を褒めてくださいますか……。
 そして、瞬いた世界には一枚の鏡が現れた。
 鏡の向こうのラインが、心底愉快そうな顔をしながら、心配そうな口ぶりで問う。
「お? くたばるのか、ライン?」
 ――ミラー……。これからは傍に居られるって思ってたのにな……。
「こんな奴に抑圧されていたなんて、信じらんないね」
 ラインはそっと、鏡の自分に手を振ったが、相手はそうしなかった。不思議に思って、そっと鏡面に触れてみると、相手も同様にした。そして、彼の手を握ってきた。ラインはそれを惜別の握手だと思った。
 ――君ともさよなら、だね……。
 鏡のラインがあっけらかんと言う。
「そっか。じゃあ、オレの身体、返してもらうからな」

     3

「……グラズア殿……? まだここにおられたのですか。たった今、伝令が入って……」
 眼鏡の軍師が直々にアマネセールの地下牢に降り立った。
 彼は牢屋の中でグラジルアスと、彼が抱き起こしている捕虜の胸にぽっかり空いた赤黒い穴に気付いた。にわかに酸っぱい物が込み上げてきたが喉をさすってそれをおさめた。
 黒髪の王は右手に摘まんだ黒い花を見せ、低く問う。
「エイノ……。これがなんだか、解かるか?」
 問われた軍師は、眼鏡の奥でオリーブの瞳を細める。地下牢に差し込む光は限られていた。
「黒い……、ユリですね。高山地帯に分布している――」
「意味は?」
「《愛》。または、《呪い》。それをどこで? 弔いに摘んできたわけではありますまい?」
 グラズアの横顔は仮面を張りつけたように無表情だった。
「鋭いな。こいつの心臓に……いや、心臓の代りに植わっていた。俺が見つけた時には薔薇のようなつぼみだった……。それが開くと、動物みたいに暴れていたのが急に止まってさ……」
 エイノが他の地下牢を少し見て回ると、倒れている捕虜たちに不可思議な共通点を見出せた。
 それは、《三本の薔薇》のお仕着せを与えられている他は、全くの私服だと言うことだった。人それぞれに稼ぎが違うとはいえ、キルトやガントレットの一つも付けないのは歩兵としては極めて意識が低い。彼らが弓兵だというのならばまだ納得がいくのだが。黒いユリを咲かせて倒れる捕虜たちは皆、何も腰に帯びていなかった。
 軍師の静かな足音と、グラズアの呟きが空間で融け合う。
「こいつ、エフゲニーに食われたんだって……。こいつだけじゃない。捕虜にした歩兵のほとんどが《喰われた人間》だったって、セルゲイが……」
 エイノがそっとグラズアの肩越しに息絶えた捕虜を見下ろしたとき、遺体の末端がぼろぼろと崩れだし、それはやがて全身へと波及し、ただの砂となって床へ散らばった。その上に、一つ二つ、雫が落ちて砂へ染みをつくる。
 暗がりに身体を預けていたアルバトロスが苦々しく呟く。
「……此奴には悪いが、ようやっと安寧を得られたんじゃな……」
「……くっ……!」
 ――命を食らっただけで飽きたらず、人形のように使い捨てて……! 人の尊厳を二度も奪われて……!
 グラズアは堪らず、がっくりと頭を落とす。力無く垂れた両腕には白い砂が残る。
彼の丸まった背中に、小さな暖かいものがぴったりと体を寄せた。背中越しに愛らしい声が伝わってくる。それは実体化した《英知の書》の精霊だった。
「えど、おしえてくれた。いのちは、まわるの」
 人間の幼児の姿をとっているココは、長い獣耳をぴったりと引きながらも、親のように慕っている青年を慰める。
「うえたたね、らみなすのいうこと、きかせるもの。いきてて、つよかったら、おそとにぽい、できるけど、しんでたら、できない」
 不安げな子供の声に、アルバトロスの隣にいた小柄な兵士が身体を震わせはじめた。
 エイノは思考を止めず、怯えているであろうその可哀想な頭巾の兵士をちらと見遣った。細身ではあったがどこか柔らかな曲線を持っている兵士だと思った。
「そうか、ラミナスの命令が組みこまれた種……。いわば、呪術の一つなのか。生者にあって死者に無いもの……? そうか、血の流れ……! だから、死者は人形になって……!」
 エイノの瞳がぐいと見開かれるや、彼は口元に右手をあてがった。それは、彼の中で謎の点が結びつき合う姿勢だった。
 思案がまとまったのか、青年はグラズアの肩に左手を置いた。
「グラズア殿……、絶対に飛びださないと誓いますか?」
 青年王の見上げた軍師は、らしくなく、鼻の上に汗を浮かべていた。嫌な予感しかしない。 グラズアは涙の乾いた頬を無理矢理に持ち上げてみたが、その努力は虚しく終わった。
「……ああ」
「ユッシ達が倒した歩兵部隊が湖から上がってきたそうです。そしてその様子見に行ったライン殿の小隊がまだ戻らないと。恐らく、いえ、予想でしかありませんが……。その歩兵は《人形》たちでは――」
 エイノの視界の端で、アルバトロスがマントを後ろへ払ったのが見えた。不慮の事態へ備えてくれているのだと、軍師は判断した。
 身構えている仲間たちの前で、グラズアはゆらりと立ち上がって鎧に着いた死者の粉を払い落した。
「……そうか……」
 彼はそのまま階段へ向かい、実にゆっくりと登りだしたのにエイノが倣う。軍師の肩に精霊が飛んできてしがみ付く。
「伝令を出し、兵を下げます。士気を下げかねませんから。一時的なアマネセールへの退却も止むを得ませんね。良かった。あなたが分別のある人間で……」
 エイノの安堵は最もだった。
 如何に戦況が不利に傾こうとも、戦場で友が倒れたとしても、大将は本陣にいねばならない。大将が動く時とは、勝負を決するときに他ならない。
 ――ライン殿ならば大丈夫でしょうが、それでもグラズア殿は友の危機に駆けてゆきかねない……。戦いにおいて成長できたということか……?
 階段を行く黒き獅子王が振り向く。その眉根には深い皺が刻まれていた。
「ごめん!」
 そう言ったが最後、彼は突然に駆けだした。彼が投げ捨てていった置き土産のマントで視界を奪われた三名がもたついている間に、グラズアは姿を消してしまった。上方からは兵士たちのどよめく声が波打っている。
 アルバトロスの怒号がびりびりと空気を揺らす。苛立つ騎士は、重装備で階段を駆けられるほど若くは無かった。
「グラズア! 大将自ら出ていくとは!」
 エイノは自身の持つ《英知の書》と肩に乗っていたココとの重みでバランスを崩し、尻餅をついた。転げ落ちなかったことに安堵する暇は無い。
「――まかせて!」
 老騎士の背後から少女の声がしたと思うと、一人の兵士が飛び出して行った。

     4

 テュミルは走った。
 アマネセールの石畳に何度も打ちつけられた踵が、天井まで音を散らかす。
 彼女を包むキルトが、その重量から本来の軽やかな足捌きを阻害する。
 テュミルのわき腹が痛んできた頃、廊下の彼方に揺れるお団子頭を見つけた。彼女は小ぶりの木箱を抱えたお団子娘の前に回り込み、立ちはだかった。
「ウェンディ! グレイを見なかった!?」
 突如現れた弓兵の頭巾を目に入れ、薬学生は目を白黒させた。テュミルの揺さぶりにより、箱の中の調剤器具がガラス特有の危なっかしい音を立てる。
「えっ? えっ? その声、ミルやん!? なんでここに――?」
 爆薬で金髪がところどころ焦げ付いていたが、ウェンディは息災なようだった。
「それは後で! グレイ、どっち行った? 来たでしょ?」
「えっ。なんか、外に行ったっぽい。ほらあそこ――」
 ウェンディが首を回して窓を覗き込み指差したのは厩の方だった。背の高い木々の頭が邪魔をして良く見えないが、黒光りする鎧を纏った人物が騒々しく駆けてゆく足元が見えた。
「いた! ああん、階段とか、かったるいったら!」
 テュミルはたすき掛けにしていたマスケットのベルトを引き締めると、そのまま窓の枠によじ登って木の枝に手を掛けた。
「ミルやん! 飛び降りるとか、冗談キツいって!」
 ウェンディの悲鳴に重なる声があった。
「うおッ!? 何してンだ!? 危ないからよせッて! そんなテュミルみたいなことすんじゃねえ……ッて、テュミル!?」
「あたしで悪かったわね! 死にゃしないわよ、多分!」
 ユッシの引き留めを無視し、テュミルは膝を柔らかく使って跳び、枝に体重を掛ける。みしりという不穏な音を察知し、少女はそのまま身体を弓ぞらせて地面へと着地した。両の手足で衝撃を和らげたのは、さしずめ猫のようだった。着地の拍子に緑の頭巾が脱げ、少女の三つ編みが解け落ちる。それは、暗く濁った世界に清らかな白い流れを生み出した。
「い、一体なんですの!?」
 また悲鳴だ、とテュミルがうんざりして振り向く。その声の主がアマネセールの城主だと解かるや、彼女はおもいっきり不機嫌な顔をして見せた。
「あら。あんた、こんなところで何してんのよ?」
 サンデル公女ヴィルヘルミナもそれを上回る横柄な態度を見せる。
「それはこっちの台詞ですわ! あたくしはグラズア様を追いかけて――」
「で、止められなかったんでしょ?」
「……うぐぅ……」
 公女が歯噛みするのを目に入れても、テュミルの気は晴れない。むしろ、縮めていたはずのグラズアとの距離が振り出し、あるいはそれ以上になったと想像し焦燥感に頭を掻く。
「……ありえないですわ……」
「……は?」
「殿方ならば、絶対にあたくしの言うことをきくのに! あたくしをないがしろにして良いと思うなんて、ありえないのですわ! ましてやあたくしよりお友達を優先するだなんて――」
 ヴィルヘルミナのヒステリックで自分勝手な主張に、テュミルは盛大な溜息を浴びせかけた。
「そんなの、当り前じゃない。いい? あいつは、人の言う事なんてまるで聞かないし、一度友達だと思ったらそいつのために突っ走る、そういう素直で聞きわけの悪いぼんぼんなわけ」
 公女はテュミルの人差し指に噛みつかんばかりに吠える。
「また、あたくしを馬鹿にして! それに、高貴なグラズア様をあなたみたいなじゃじゃ馬と一緒くたにしないで下さる? 身の程を知りなさい!」
「救いようのない馬鹿ね。似た者同士、よく解かるのよ!」
 公女に背を向け、銀髪をたなびかせて厩へ飛び込んだテュミルの目前を、黒毛の馬が駆け抜けた。鞍に跨るは、揃いの黒髪を乱す青年王だった。
 轟々と荒ぶる風に逆らって、少女は声を張る。
「グレイ!」
 けれどもグラズアは振り向かなかった。呼び声は蹄鉄が大地を蹴る音にかき消されてしまったようだ。あるいは、跳ね橋が降ろされるあの大きな鎖とギヤの歪む音か。そのうちにずしんと一回、大地が揺れた。ふいの衝撃に馬小屋の生き物たちが各々首を擡げる。
「橋が降りた今なら……!」
 テュミルは自身の閃きに確信を持つと、茶色とぶちの愛らしい馬に手綱と鞍とを付け、腹帯を丁寧にしめた。そこまでは良かった。だが、左足を高く上げてあぶみに掛けるも、上手く跨ることができない。少女は苛立ちに足踏む。
「ちょっと! あたし、急いでるんだからね! しゃがむとかなんとかしなさいよ!」
「何、君が台を使えばいい話だろう」
 そう、テュミルにぴしゃりと指摘する人物と言えば一人しかいなかった。少女が唇を噛みながら振り向いた先、腰をさする青年がいた。
「教えてほしいかい、テュミル君?」
「……あんたからお小言も無しにそう言われると、気色悪いわね、エイノ」
 軍師の息は弾んでいたが、いつも通りの高飛車な答えが返ってきた。
「おや、条件があるとでも? もちろん。その答えは、イエスだ。ご名答」

     5

 グラズアはあらゆる制止を振り切って単騎、アマネセールより北北西に馬を走らせた。腰を浮かせて姿勢をツーポイントにすると黒毛の馬は三つ編みにされた鬣を上下させるほどの襲歩ギャロップに移行した。その荒々しい走りっぷりは、焦りと不安とでグラズアが脹脛を強く馬腹にあてたせいでもあった。
 ――さっきの声……ミル……!? 《御山》にいたはずなのに、どうして? でも、今は行かないとラインが……。ラインが危ないんだ……!
 急に世界を黒く染めた雲が、風を集めている。
雨粒と共に吹きつける風が気紛れに角度を変えながらあおり、グラズアの行く手を阻む。その折、サファイアの瞳に舞いあがった砂埃が容赦なく飛び込んでくるが、彼は瞼を擦らずに走り続けた。
 山の端がその緑を濁らせたとき、渦巻く風に水の粒が混じり始めた。それは世界を打ち鳴らし、森羅万象がその身に潜めている音楽を引き出そうとするようだった。グラズアが乗馬していなければその始まりを聞くことができただろう。その瞳を攻撃するのが砂から雨粒に変わったことで、彼は嵐の到来に気付けた。
 きっかけは弱く緩やかだったが、雨足はたちまち強まって景色を不透明にした。
 フルプレートがドラムロールのように叩かれる音は、装着者の骨身を伝うからか、より大きく響いて聴こえた。そして、髪を濡らした雨がそのまま下り全身を隈なく濡らしてゆくのは大変不快なものだった。
 しかしグラズアは異なる理由で眉根を寄せていた。
 ――セルゲイもいる。ミルの事は百歩譲って、アマネセールにいてくれればひとまず大丈夫だろう。ラインが剣を持っていてやられるなんてことはありえない……! でも、もしも――。
 世界は潤っているのに、グラズアの喉はからからだった。彼を乗せる馬も同様に、気管を鳴らしている。無理をさせていることは十分に承知していたが、グラズアの焦る気持ちが拍車をかけさせる。
 数分の後に視界が開けたが、あたりは水煙で白く濁り色を失くしていた。グラズアは背中ごと手綱を引き、馬脚を休めた。湖やぬかるみを危ぶむだけの神経は持ち合わせていた。
 グラズアは馬上から雨簾の彼方へと首を回す。激しい雨音の中に人間の音がしないかと耳を澄ます。
 ――剣戟の音がしない……?
 慎重に馬を進ませていくと、馬が突然進路を嫌がった。グラズアは怪しがって、馬の避けたがった物に首を向けた。それは力なく横たわった兵士だった。
「お前、ラインの……! 大丈夫か!?」
 グラズアはすぐさま馬を降りて膝をつき、雨に口を開いた兵士の喉元に触れる。冷たい身体に鼓動は無かった。
 死せる青年を悔やむ気持ちもそのままにグラズアが首を擡げると、そこらじゅうに武器とその使用者たちが倒れているのに気付いた。
「ライン……。ライン……どこだ……?」
 グラズアはわずかな希望を動力に立ち上がり、ふらふらと親友の姿を求める。
 覚束ない足取りで歩いては、兵士一人一人に触れてその命のありかを確かめる。その亡骸の近くには決まって、白い砂塚と黒ユリの花があった。
 どれくらい歩いたかは知れない。しかし、グラズアは白いぶちの付いた黒毛の馬が息絶えているのを見つけた。ラインの馬だった。
「ライン!」
 青年王は堪らず駆け寄り、全身を使って重たい躯体をずらす。そこから現れたのは親友の愛刀だった。東洋の武器、そしてその柄に結ばれた青い飾り紐が持ち主を証明していた。だが、ライン本人の姿はどこにも見当たらない。
 エイノの話しを聞いてから芽生えていた、あの嫌な想像が大きく膨らんでグラズアの心を占拠し、動悸を激しくさせる。
「嘘だ……!」
 血眼になって辺りを探ったが、あるのは使われない装備と命尽きた肉体、あるいは黒ユリだけだった。
 絶望がグラズアの心を支配しようとしたその時、弱まってきた雨足を縫って彼の耳に届くものがあった。それは人の声――聞きなれた青年の声だった。

     6

 景色を黒く染めた乱層雲が、渦巻いた風と共に大地を潤す。ミラーの頬を流れていた涙が雨に洗われ、それもまた世界に還元されていった。
 だが今の彼女に、そんな悠久の輪廻へ思いを馳せるゆとりは無かった。ただあったのは、自身の非力さを呪う気持だ。主君グラジルアスが、ヒトクイという叔父の暴挙を知らずにいた自身を呪った、あの無念を追体験するようだった。
 項垂れて、小さな体で青年を雨から守る少女の肩に、そっと触れる手があった。
「さあ、ミレニア、風邪をひくよ。私と共に離宮へ戻ろう。これが、君と彼にとっても最良の選択なのだよ」
 グラズアの扮装を解いた金髪の魔術師ラミナスだった。
 彼は闇の中でさえ不思議と煌めく金髪を耳へかけ、微笑んで見せた。
 魔術師の赤い瞳は不気味に優しかった。それがグラズアに似ているものだから無性に腹立たしく、ミラーはその手を払いのけた。
「……そんなに簡単に撤退できるなんて……! 若様と騙り、このいくさを何のために起こしたの!? 国民同士を争わせて何が面白いと言うの!? 命を何だと!?」
 少女の涙が再び溢れるのに、ラミナスは形の良い眉を傾ける。おっとりと気の毒そうにしている顔は、非力な国王の仮面を被っているときのグラズアにそっくりだった。
「君は勘違いをしているようだよ、ミレニア。私はグラジルアスにとって代わりたかったわけでも、この『グレイ・シール掃討』を希望したわけでもない。全てエフゲニーがやりたがったのだ」
「でも、それを止めずに認めていたわ! 同罪です!」
 ミラーの声音が厳しいのに対し、罪を認めない魔術師はどこ吹く風というふうに穏やかだった。
「それが罪だと言うのならば、そうだろうね。だが、国民からすればどうだろうか。今まで碌に舵をとれずにいた国王が、突如現れた賊をみずから成敗しようとしただけではないのか? 彼らは思うだろう、国王は民の為戦い、罪人はエフゲニーに刃向かうグラジルアス――グレイ・シールであると」
「論点をずらさないで! 戦争が目的では無いにしろ、命を食らうのはリンデン伯爵もあなたも変わりありません! あなた達の目的を聞かせなさい!」
「エフゲニーについては、もう理解しているだろう? 国盗りだよ」
 質問に対する飄々とした返事に、ミラーは慣れていた。だが、それは相棒である騎士アルライン・アルバトロスとのやりとりであって、ヒトクイの魔術師との応対ではない。グラジルアスの名を騙り、扮装をしてまで戦を起こし、ミラーの姉テュミルを求めるような輩なのだ。エフゲニー・リンデン伯爵の擁しているラミナスは――グラズアを追い立てその恋人までも奪おうとする彼は、ミラーにとって紛れもない敵だった。
 それなのに相手は明らかな憎悪を向けてこないものだから、ミラーは妙なひっかかりを覚えるのだ。
 ――まるで掴みどころが無い……。最初からそう。この人からはリンデン伯爵のような、悪意や敵意をむき出しにしない。どこか夢を見ているような……。
 国王近衛騎士副官の顔を取り戻しつつあるミラーは、雨に震える体を律していた。彼女が触れるラインにも不安を伝えぬように。
「……あなたもですか、ラミナス? 生前にできなかったから、一〇〇〇年の未来に蘇って返り咲こうとしているわけ?」
 ミラーは、刺々しく追及する自身の口調に姉と似たものを感じた。そう思うと、どこか勇気づけられる気がしてきた。
 ラミナスはルビーの瞳を怪しく閃かせると、小さく納得して見せる。
「そうだね……。過去、成し得なかったと言えばそうか。だが、玉座など、くだらないものは打ち捨てるに限る。私はそんなしがらみの無い時代へ送った愛する人を迎えに来たのだ。ただそれだけだよ、ミレニア」
 何がおかしいことがあるだろうか、とでも言いたげに、切々と説くラミナスに、ミラーは調子を狂わされそうになる。
「訳のわからないことを……。謎ときは結構です――」
「しかし、こう、押し問答を繰り返している間にも君の鬼神は死へと一歩ずつ近づいている。さあ、私と共に来たまえ、ミレニア」
 優雅に手を差し伸べるラミナス。彼の言うとおりだと、ミラーは良く解かっていた。闇の種のせいとは言え、ラインに深手を負わせたのはミラーなのだ。しかし、彼の申し出を簡単に受けることは憚られた。彼女の持つ忠誠心は本物のグラジルアスに寄せられていた。
「……行きません。私は、あなたの恋人ではありませんから」
「それはよく承知しているよ、ミレニア。それでも私は、君に《その顔》でそんな顔をしてほしくは無い――」
「……あーあ。久しぶりのシャバだっていうのに、よりによって瀕死かよ」
 ラミナスの豊かなバリトンを遮る硬質なテノールがあった。
 ぐったりと力なく横たわっていたはずの青年が、すっと上体を起こしたのだ。
「……え……? ら、ライン殿……生きて……?」
「……おや……」
戸惑う少女の目前で、騎士は首をほぐし、雨をシャワー代わりにして顔を拭い、灰色の髪を梳いた。
 少女は突然の事に、泣きはらした瞳を丸める。
「あ、ああ! 動かないで下さい、ライン殿! 傷が開きます――!」
 少女の制止に構わず、彼はゆらりと立ち上がる。そして彼を守っていた鎧を脱ぎ散らかし、シャツの一部を思い切り裂くと、まるめて傷口に押し込んだ。一瞬だけ、歯の隙間から苦悶の声が滲む。
 ラミナスとミラーがそれぞれに瞳を丸めているのに気付くと、彼はさも不快そうに眉根を寄せた。その険しい瞳は、ミラーが見たことの無いほど嫌悪感に満ちていた。
「五月蠅い。こんなもんで死にゃしねえよ。慣れてる」
「でも――!」
 失血で色白の肌を土気色にしているラインだったが、口ぶりは健常、いや、それ以上に勝気だった。柔らかな響きを持っていたテノールが急に硬く張り詰めて、まるで別人が話しているように聞こえた。それは、嵐のせいではないように思えた。
「何? 心配してくれるんだ? オレの事、そんなに好きなの、ミレニア?」
 意地悪く片方の口の端を持ち上げて少女の本名を呼ぶ青年。いつにもまして真意が知れない言動だった。
「こ、こんなときに変な事を言わないで下さい!」
 しかし、ラインの口撃はやまない。血色を失った白い唇を滑らかに、そして軽やかに動かす。
「いやあそれにしても、お前に刺されるだなんて、相当なショックだったんじゃない? 今ので、ラインはくたばったかもしれない。ありがとう。オレを助けてくれた礼はしないとな、ミレニア」
 血濡れた手を伸ばし、躊躇いも無く少女の濡れた頭を撫ぜるラインに、ミラーの違和感はどんどんと増してゆく。
 ――表情も物言いも高飛車で……。悪ふざけをしているのでなければ、まるでライン殿じゃないみたいな……。
 つのった不安が、ミラーの口からぽつりと零れた。
「本当に……ライン殿……なのですか?」
 彼は、返り血がまるで似合わない程の爽やかな笑みを浮かべた。
「当たり! オレは蘭英らんえい。偽物のラインはもういない! オレが本物だから!」

     7

 グラズアはラインの刀を左手に握り締め、警戒を高めながらじりじりと湖畔へ近づく。馬はそっと木陰に隠してきた。
 雨霧にぼんやりと浮かんできたのは、二人の人間が対峙するシルエットだった。二人揃って鎧を纏わないというのは、戦場に似つかわしくなかった。
 獅子の兜の奥でサファイアの瞳が鋭さを増す。グラズアは自身の湿った足音を殺しながら、正体を見極めんと歩みを進めた。彼の耳に、つんととがった、いかにも不機嫌な声が雨音の間をぬって届いた。
「なあ、ヒトクイの魔術師――ラミナスっていったっけ? お前さあ、オレのミレニアに何してくれてんの?」
 細身で灰色の髪を持つ男が苛立ちも露わに問う。
 グラズアの雨粒に叩かれる兜の中でも、男の声はしっかり聞こえた。そして、彼のよく知る少女の名前も。
 ――ミレニア……ミラーのことか! それじゃあ、あの短髪の男は……!
 相手の男は優雅な身の振りで穏やかに答えた。乾いていれば深紅だろうスーツが濡れに塗れ、乾いた血の色のように赤黒いのがなんとも不気味だった。
「ほう。私に対して自己紹介は必要ではない、とでも言いたげだね、鬼神よ」
「いらないね。お前はオレのこと、最初から知ってたんだろ? てか、謝れよ、さっきの」
 相手は長い金髪を嵐にゆだねていた。だが彼はそのつややかな金髪の流れとは対照的に、肩幅、身幅共に均整がとれて男らしい体つきをしていた。
「さっき……? ああ、種の事かね? それならば、意思の強いこの子には作用しないことが解かった。二度としないだろう。これで十分かね?」
 金髪の男の優雅な一礼、その余裕たっぷりの動作が却って刺激を与えてしまったらしい。細身の男の、硬質なテノールが刺々しく弾ける。
「なに? 作用ってことは、ミレニアもバケモノにして喰っちまうつもりだったってこと? 冗談はそのむかつく顔だけにしてくんないかな」
「ら……ライン殿……」
「蘭英だ。ミレニアは黙ってて!」
 細身の男が苛立たしさを隠さずに言い放つ。
 その音色があまりにも少年じみていたので気付かなかったが、その声はグラズアが知っているものだった。もちろん、この嵐にかき消えてしまいそうなソプラノの持ち主にも心当たりがあった。
 屍の山の中、たった一つ埋もれていた希望に黒獅子の足に活力がじわじわと蘇る。
 近づくほどに対峙する二人とへたりこむ一人の輪郭がくっきりし、希望的な予想は、まもなく確信に変わった。
 癖の無い灰色の髪が顔中にまとわりつくのも構わず、大地の上、まっすぐに立ちつくす細い背中はグラズアの親友のものに間違いなかった。
 血と嵐とが混沌と渦巻く戦場で、初めて見つけた安堵にグラズアの鼻がむずむずしだす。
 心の加速度のまま、グラズアは鎧が音を立てるのにも構わず、青年騎士の元へ走り出した。ぬかるんだ湖畔を不格好に駆ける。思うように振れない両の手足が歯がゆくも、グラズアにはそれを脱ぐことはできなかった。玉鋼の鎧と兜は、彼が彼自身に課した王としての枷だったから。
「……ライン……! よかった……、無事で……!」
「……」
 息を荒げたまま、グラズアは親友の肩を掴んだ。
 だが破れた衣服を真紅に染めているラインはグラズアを軽く一瞥すると、金髪の男を睨みなおした。
「酷い傷じゃないか、ライン。お前は休め、俺が――」
「若……様……?」
 夢見るような呟きに、グラズアが視線を落とす。
 ラインの足元には、離宮に転勤させたはずのミラーが膝を折っていた。しばらくぶりに見た愛らしい顔は青ざめて、白い肌には返り血の名残があった。
 グラズアはそっと屈んで少女の両肩をしっかりと掴んだ。
 彼は革の手袋に伝わってくる確かな暖かさに、彼女の命を感じた。この戦場に降り立ってから、命の燃え尽きた入れ物にしか触れてこなかったグラズアは、ミラーのとりあえずの無事を心から喜んだ。
 だが、離宮という箱庭の守り人として派遣したはずの部下が、離宮よりも北の、ましてや激戦地である湖水地方ヴェデン・ヴァリはアマネセールに居る事実はなんとも不可解であった。
「……本当に来ていたのか、ミラー……? どうしてだ……? 一体何があったんだ!? 離宮は、リシュナとセレスは……?」
「……若様……? なぜ、前線へ……? ああ……私……、私……! ライン殿を……」
 グラズアの濡れたマントに弱々しくすがりつくミラーが溢す言葉は、いつになく狼狽していた。雨に冷えたのか、色を失くした唇もわなないている。
「わかった、何か理由があるんだな。後で聞かせてくれ。とにかく、無事で良かった、ミラー。……ラインも! お前たちだけでも生きていてくれて……! ほら、お前のだ。受け取れ」
 腹心の無事に、グラズアの心が温まる。安堵するにはまだ早いという自覚があったので、彼も安直に喜んで見せたりはしなかった。
 灰色の短髪を丸い頭に張り付かせた青年騎士は、グラズアから差し出された愛刀をもぎ取ると、主君からの労いに軽く舌打ちを返した。
 グラズアには、親友のただならぬ様子に気付ける余裕はなかった。彼の目の前で立ちはだかる男に青い視線が引きつけられてしまったからだ。
「……お前は……」
 グラズアは掠れた呻きを絞り出した。続く言葉は、緊張に震える胃袋に遮られ行き場を失くした。
「やあ」
 彼は、青白い顔の上に怪しく笑顔を咲かせた。清潔な歯列がかえって妖しさを際立たせている。
 グラズアには、戦場に真紅のスーツだけで立ち、金色の髪に真紅の瞳の色彩、色こそ違えどグラズアと同じ相貌に柔らかな笑顔を浮かべる男が誰だか、すぐにわかった。
 だが彼は、遠い過去から現れた男が現代でグラズアと言葉を交わしている事実や、その存在そのものを認めたくなかった。
 グラスリンデンで復活装置を破壊し、一度は殺したと思っていたから、尚のことだった。
 ――本当に蘇っちまったのか……一〇〇〇年前の魔術師…………!
「ラミナス……!」
 新たな役者に名を呼ばれ、金髪を雨に濡らすラミナスが両腕を広げ、歌うように歓迎した。その堂々とした立ち居振る舞いは、舞台を支配するマエストロのようだ。
「おお、そう呼ぶ声の懐かしいことよ! 先だっては世話になったな、傀儡のグラジルアス。元気にしているかね? ……おや、鬼神よ。君の主が登場あそばしたのに、喜ばないのだね?」
 ちらと赤い瞳が三日月に緩み、グラズアからその友人へと移るが、呼ばれた騎士は大変不服そうに顔を歪めた。
「誰が喜ぶか。くそが。それは《ラインの》であって、《オレの》じゃない。そんな事はいい、早く傷をふさげよ」
 青年騎士は血とともに呪詛を吐き捨てると、グラズアを左腕で乱暴に押し、ミラーから遠ざけた。そして、その隣にどっかと腰を降ろし胡坐をかいたが、その衝撃に顔を歪めた。傷に障ったらしかった。
 グラズアは初めて見る親友の一面に瞳を丸めたが、彼の手負いを認めると、気が立つのも仕方がない思った。日頃のラインらしからぬ様子も、彼が乗り越えた死線のことを思えば咎める気にもならなかった。
 それに今、グラズアの目前には、憎きエフゲニー・リンデン叔父がヒトクイ――一〇〇〇人の心臓を食らった非道な魔術で蘇らせた魔術師が一人、丸腰で立っているのだ。
 ガントレットの下で汗を滲ませているグラズアは、喉仏を大きく上下させると、玉鋼の鎧を軋ませて剣を引き抜き、敵に突き付けた。
 青い瞳が、その切っ先よりも鋭く輝く。
「……ラミナス……お前が仕掛けたんだろう? 玉座の椅子取りゲームなら、もっと優雅に行こうとは思わなかったのか? この意味の無いいくさに、一体何を仕込んだ? 離宮にいたミラーまで巻き込んで! リシュナ達に手を出したというのなら……!」
 魔術師は困った風に肩をすくめてみせる。
「おや。それが話をする態度かね、グラジルアス。素敵な椅子が欲しいのはエフゲニーであると、お前も良く知っているだろうに。ミレニア・フォーシュルンドなら、自分の意思で来てもらったのだよ。リシュナ・ティリアやセレス・フィナには指一本も触れていない。そうだろう、ミレニア?」
「それは……。ええ……」
 ミラーが一つ、ぎこちなく頷いたがグラズアには見えなかった。
 ラミナスは淀みなく続ける。
「それに私は鬼神には何もしていない。寧ろ、ただの騎士が鬼神に変わったそのきっかけは、ミレニアの一突きにほかならぬよ」
「ミラーがラインを刺したと? でまかせを! 信じられるものか――!」
「――はんっ。良く言うよ。お前が、なんか判んない種ってやつでミレニアに命令してた癖にさ」
 グラズアが噛みつこうとするのに、耳慣れないとんがったテノールの横槍が入った。
黒獅子王はピンとくる。アマネセールの地下牢で見送った可哀想な男や、湖畔で命を散らした兵士たちの傍にあった小さな砂山とそのてっぺんに咲いた黒ユリは記憶に新しかった。
「……種……? ……黒ユリの種……か……!」
「ああ! そうだ、そうだとも、グラジルアス! お前も目の当たりにしたのかね、あれが美しく咲いたのを! 生命を糧として薔薇を思わせる蕾からユリが咲く《闇の種》……。私の成功作なのだよ、あれは!」
 いずこからリボンを取り出し金髪を結わえながら同意を求めてくる魔術師が、グラズアの正義を強く揺さぶる。
 ――人を魔物に変えた、あの植物の種は……!
 グラズアが長剣を握る拳が震える。
 怒りという一言で片づけられないほど、その感情は熱く滾り、血と共にグラズアの体中を駆け巡る。
 緊張で知らず知らずのうちに噛みしめていた臼歯が、ぎりぎりという厭な音を立てて軋る。辺りを包み込んでいた雨音のカーテンは、もはや彼にとって無いも同然だった。
 浅く早く繰り返される呼吸が、彼の胸を鳴らして興奮を加速させてゆく。それと同時に、柄を握り締める拳も力みを増し、腕をも震わせはじめた。
 グラズアの正義が鉄のように赤く焼けていた。
 爆発しそうな怒りの、その根源が彼の脳裏によぎってゆく。
 ラミナスというたった一人の男を蘇らせるために殺された人々のこと。
 その亡骸を葬ることなく、再び利用したその独りよがりな思想。
 その全てがグラズアを憤怒の塊に作り変えてしまおうとしていた。
「お前がッ!」
 黒髪の青年が吠えたける。
 そして間髪を入れずに踏み込み、ラミナスへ一撃を浴びせかけた。
 魔術師は軽いステップで後退し、かわす。だが、上から横から、グラズアの攻撃は止まらない。
 ラミナスの、雨の伝う顎がそっと動いた。
「宣戦布告も無しに、丸腰の相手に切っ先をむけるとはな、グラジルアス。野蛮であるぞ」
「人を喰らう、その口で言うな!」
 剣を振るうグラズアの頭は、怒りできりりと冴えわたっていた。しかしその剣さばきは冴えているとは言い難い荒ぶりようだった。
 彼の勇ましい眉はぎゅっと寄せられ歪んでいる。もちろん、彼には哀しむ心はあった。だがそれは爆発的に膨らんだ憤怒によって、彼の慈愛と共に心の奥へ押しやられていた。
「一体、何をそのように怒ることがある、グラジルアス?」
 グラズアと瓜二つな唇を小さく尖らせ、魔術師は不可解にしてみせる。だが次の一撃が左斜め下からくるや、素早く護身用の剣を引き抜いてそれを弾き、応戦を始めた。
大地を湿らす雨音の中に、金属と金属のぶつかる鈍い音が広がる。
「何を、だって? 愚問だ! 俺はお前を許さない、ラミナス! 他者の命を喰らって蘇ったお前とエフゲニーを!」
 グラズアの袈裟がけがラミナスの肩口めがけて振り落とされる。
 ラミナスはそれを小剣で受けると手首をひねり華麗にいなした。相手のパワーを利用した巧みな防御だった。
「他者? 私がエフゲニーを通して喰らったのは平民の命だ。我々王侯貴族の糧となるべく生きる者達だぞ、グラジルアス。私にとっては幾度となく呪った生まれではあるが、生まれながらにして持ち得た権利は使ってこそ。王族に生まれたお前なら、よく理解しているだろう?」
 その言葉同様、はぐらかすように体を流麗に扱って、ラミナスはグラズアの攻撃をかわし続ける。
 ひらりひらりとたなびくジャケットの裾にしか剣が掠らないから、グラズアの苛立ちは高まるばかりだ。
「そんなこと……! 生まれた立場が違うだけの、同じ人間だろう!」
 グラズアのハイバリトンはざらざらと荒れた響きになりつつあった。対するラミナスはきめ細やかな質感を保っている。
「誰のお陰で生きてこられたか、まるで理解できていないようだ……。何が王を王たらしめるのか知らないのかね?」
「民なくして、王は存在しえない! それくらい解かっている――!」
「――無知ならば知りたまえ。たとい民がそこらじゅうに居ようとも、王という支配者が居なければ国が存在しえないことを」
 諭す様な口調同様、ラミナスの剣捌きは相手の攻撃を流すために緩やかだった。その無駄のない動きに合わせて揺れる金髪は、雨雲に暗む世界においても何故か光を宿していた。
 グラズアは、激高しながらも魔術師の手管をしっかりと見ていた。だから、ラミナスが防御の為に剣を取り、振り続けていることにも気づいていた。
 玉鋼の鎧の重さを感じさせないステップで、グラズアは後方へ飛びのいた。そして彼は、キッと顔を擡げて敵を見据えた。
「だが今はここに国がある! 民がいる! 俺がいる! だから、俺は……! みんなを明るい未来まで導いていかなきゃならないんだ!」
 二人の王の間を、再び雨雫の静寂が満たす。
「……はやくしてくんないかな……」
「若様……」
 心身ともに傷ついたグラズアの二人の腹心が、片や面倒くさそうに、片や心配そうにその対峙を見守る。
 雨はあいもかわらず大地に向かって、誰に対しても分け隔てなく降り注いでいた。
 森のざわめきが雨粒に答えて合唱する。
「ふふ……。はははは……!」
 にわかにその合間から、くつくつと笑い声が聞こえてきた。顎を上げ、堪らないと言う風に左手で顔を覆ったラミナスの喉はやがて高らかに響いた。
 彼はその手で、顔面に張り付いていた前髪をかき上げた。前髪の下、それまでいささかの余裕を湛えていたラミナスの表情が、ぐにゃりと一瞬にして歪んだ。憎しみの眼差しと持ち上げられた口の端に、グラズアの背筋が粟立つ。それまで感じられなかった威圧感が突如として押し寄せてきたのだ。
「本当に君は綺麗事が好きなのだね、グラジルアス。その、叶いもしない理想を掲げて大声で叫ぶ様……。本当に、何もかもそっくりだ、あいつに……!」
 グラズア同様にしっかりとした存在感のある金色の眉が憎悪に寄せられ、しっとりと掴みどころのなかったバリトンが突如として黒く濁る。
「……!」
 己と鏡映しのような相貌の上に憎しみの皺を深く刻み、ルビーの瞳を燃やすその様に、グラズアは己の暗い部分を直視させられた気分になった。思わず目を逸らしたくなるほどの昏い表情に、彼の闇の深さが垣間見えるようだった。
 ――違う……! 俺は、こんな形相なんか……こんなに醜悪な表情なんかしない!
 グラズアの唇が小さく震える。
「あいつって誰だよ……? もしかしてお前の弟、エド王のこと――?」
「――黙れ!」
 ラミナスは血の瞳をぎらつかせて襲いかかってきた。その手には、先程の短剣ではなく長剣がしっかりと握られていた。それはグラズアの懐を貫こうと真っ直ぐに突き進んできた。
「くぅっ!」
 グラズアは幻覚ごとラミナスを剣で薙ぎ払ったが、魔術師は軽やかにそれをかわすと、そのままグラズアの背後をとった。
 ――後ろを!
 幾ら鋼の鎧を纏っているにしても、長剣に切られて無事でいられる保証はなかった。貫通はせずとも、打撃の衝撃が来ることには変わらないのだ。
 だが、手負いを覚悟したグラズアの背中には、何の衝撃も無かった。
ただ、掌がぴたりとあてられただけだった。
「グラジルアス。丸腰の私になら勝てると思っていたのかね?」
 勝利を宣言するようなラミナスの物言いに、勘の良い少女が息を飲む。
「まさか……! 若様、逃げて下さいっ!」
 ミラーのか細い悲鳴を耳にしたグラズアの額を、首筋を、幾つもの雫が流れていく。それらが脂汗なのか雨粒なのか、彼には判別が付けられなかった。ただ、落ち行く感触の不快感だけは、確かに感じていた。
 グラズアは腹心の忠告に逆らい身体を凍りつかせ、サファイアの瞳を肩口に寄せて背後に注意を向けた。
「……それはお得意の魔術、ってことでいいか、ラミナス?」
 低い語りかけに諦めを読みとったのか、ラミナスは元の穏やかさで答えた。だが、若干息が上がっているのか流暢とまでは行かなかった。
「その通り。気が変わったのだよ。グラジルアス、お前に恨みは無いつもりだったが、やはり消えてもらったほうが何かと好都合だ。何より、その青臭い正義感がとても目障りだ」
 グラズアは瞳をそっと伏せて低く呟く。
「やっと言ったな。それがお前の本音か」
「本音……。そうだな、そうとも。私はお前が嫌いだ、グラジルアス。私に先んじてあのに出会った運命を呪いたまえ。ヴァニアスは終われど、テュミル・フォーシュルンドは私が幸せにする。安心して逝くがいい」
 くつくつと勝利の笑いを溢す魔術師に、グラズアの瞳が見開かれる。
 ――こいつの、ラミナスの狙いはヴァニアスの王冠じゃないのか……?
「お前、ミルに何を――!」
「――さよなら、エド」
 ラミナスの言葉が消えると同時に、閃光と爆風が巻き起こった。
 灰色で満ちていた世界に光そのものが爆発し、真っ白な閃光が本来の色まで一瞬で吹き飛ばしてしまう。
 詠唱の無い、上級魔術が発動したのだ。
「くそ……! ミレニア、伏せろ!」
「きゃああ!」
 グラズアとラミナスの対決を見守ることしかできなかった二人の騎士は、咄嗟に腕で顔を庇う。
 しかし副官の少女は、風圧でびしびしと顔に叩きつけられる砂埃の彼方に自身の主君を見出そうと、顔を擡げた。
「嫌! そんな! 若様ぁぁ!!」
 ミラーが飛ばされそうになりながらも這いつくばって、強風に立ち向かい腕を伸ばす。それをラインが上から覆いかぶさって留める。
「ミレニア! 無駄だ!」
「若様あ!!」
 二人の腹心の悲鳴は、魔術の渦の中に飲み込まれ主君に届くことは無かった。

     8

 黒豹にまたがり彼らを従えているのは、水色の髪をたなびかせる少年だった。緑と青に満たされた景色で、真っ赤なバンダナが彼の異質さを際立たせていた。大地を洗う風が彼らの全身を撫でていく。今すぐにも泣き出しそうな空が彼らを見下ろしていた。
「『《海の契約》とはワニアを守るもの……』」
 ルヴァの頭を支配していたのは、御山の神子イルマリの言葉だった。
 意味深な物言いをする女性だったが、彼女は嘘を言わないのはルヴァにも分かっていた。だからこそ、彼女の真剣なまなざしと言葉が少年の心に深く刺さった。
「『露命ろめいは海にて孵る』か」
 二頭の豹が、湖の合間を縫う。乾いた大地を蹴りあげる音だけが、静かな湖水地方ヴェデン・ヴァリに鳴る。それを横風が煽っていくが、二頭はものともせず、まっすぐにあぜ道を走っていた。
 そのとき、彼らの進行方向の左手でまばゆい光が鬱々と暗かった天を貫いた。
「ルヴァ! 見た? なんかあっちのほうで光った! いくさか?」
 黒豹――クロが、ルヴァの下で吠えた。
 ラズ・デル・マールの山道を抜け、三人の少年は海沿いに古城アマネセールを目指していた。白豹の姿のシロが、耳を下げ、並走してしゃべる。
「耳がきいんってなった! 兄上、あれ、魔法の光です! でも、あっち、お城じゃないですね」
「うん、僕もそう思う。あっ! 止まって!」
 ルヴァが首をかしげた手前に、急に人間が現れた。男だけではない、女子どももまじって、十数人ほどだ。
 二頭の豹――双子は友の声に素早く応じ、足を突っ張った。土煙が巻き起こる。
 鎧もほとんど身につけず、普段着のまま手に武器だけを持っている。戦場に似つかわしくない一般人のようにも見えた。
 おかしいな。義勇兵以外はみんな、アニルかマールに避難したはずだけど。
 少年は、再び首をかしげながらクロの背中からひらりと降りた。いずれにせよ、命を無駄にするまいと思ったのだ。グレイさんだって、きっとそうする。
「あ、あの! 今、このあたりはいくさの最中で! 危ないですから逃げて――」
 ルヴァが大きく注意喚起をしたその時だった。
 ゆらりと首をもたげた人々が、武器を掲げて襲いかかってきたのだ。
 魔少年は背筋を凍らせた。見据えた男の瞳が、窪落ちて無いのに気付いてしまった。
「ルヴァ!」
「うわっ!」
 シロが頭突きをし、乱暴にルヴァをどかした。
 そうして出来た空間を使い、クロが喉から炎の柱を吐き出す。すると、炎に包まれた敵は黒豹の足元に倒れ、そのまま灰の山となり果てた。そこになぜか、黒ユリが一輪残るも、一瞬で火花となって散った。
「なに、これ……。どうして……!」
 白豹が、わななく少年のほほを大きな舌でなめた。
「ルヴァ、ごめんです。でも、こいつら、人じゃないから危なかったです」
「そんな! でも、もし間違ったらタダじゃすまないよ!」
 黒豹も仲間をかばうように立ちはだかる。低くごろごろと喉を鳴らして、威嚇している。
「ルヴァ! こいつら、ドキドキ、無い! それからすんごく――」
 クロが言う間に、人の形をした化け物がゆらりと襲いかかってきた。一人と二頭はそれぞれに身をかわす。腕が描いた虚空にむわりと、甘酸っぱくてえぐみのある独特の異臭が満ちる。それは、魚のはらわたと残飯とを掛け合わせてもまだあまりある、一瞬にして吐き気を催せるほどの不快感があった。生きた人間からは決してかいだことのない臭いだ。思わず咳き込んだルヴァは、友人の言おうとしたことがわかった。
「臭い! とっくに死んでて、腐ってるってこと!?」
 ルヴァは避けた先にいた女へ、とっさに回し蹴りをお見舞いする。まっすぐに首を狙ったハイキックが重たい音とともに綺麗に決まる。その証拠に、少年のすねがびりりと痛んだ。
「でも、もう一度殺すなんて、そんなむごたらしいこと、できないよ!」
 ほかの誰でもない、自分のために、少年が吠えた。
 だがそのすぐ下で、先ほど倒したはずの女の体が無感動に起き始めていた。
 ルヴァは立ちすくんでしまった。
 女の首は彼が蹴ったままの方向にすっかり曲がりきっていて、落ちくぼんだ瞳はそちらへ向いているのに、体は正面からルヴァを狙っている。手には、見慣れた斧が握られ、横から振りかぶられようとしている。心臓があるべき場所には、黒ユリがびっちりと根を這わせて寄生していた。
 だめだ。やられる。
「ルヴァ!」
 少年を押しのけ守るように、シロとクロが魔法を吐き出し応戦してくれた。
 その圧力に負け、かつて女だった化け物は押しのけられ、ついぞその姿を灰と化せられた。
 一体が消滅するごとに、あの悪夢のような腐乱臭が軽減される。
 少年は信じられなかった。だが、ヒト型の化け物が目の前で双子が喉から放つ炎と氷の魔法に次々と倒れ、骨も残さず消えていくのを受け止めざるを得なかった。
 みぞおちのあたりが、第二の心臓のように締め付けられ、激しく脈打つ。
 ――こんな、こんなのって!
 泣きたい気持ちが、胃液とともにせりあがる。
 だが、ルヴァの水色の瞳は、その色に反してからからに乾いていた。
「やらなきゃ、だめなのか……ッ!」
 少年は、最後に残った自分より頭一つ小さな化け物に右の手のひらを向けた。添える左手に力がこもる。
「水よ、透明よ、ぼくに力を貸してくれるなら……」
 そして、大きく顎を下げながら襲いかかってくる、子どもだったそれを、睨みつける。
「この者たちに安寧を! 大地に還れ!」
 尖った水柱が、まるでレイピアのように細く心臓部をえぐった。
 黒ユリがはらりと、行き場を失くしながら霧散する。
 子どもが膝をつく音は、聞こえなかった。

「ちょ、ちょっと! エイノいる!?」
 金髪のお団子を揺らしながら、あわてた少女が軍師の部屋に駆け込んできた。
 飛び出したグラズアをテュミルにまかせた矢先のことだった。
 先ほど、雨天をつんざいた強い光があり、そちらに警戒を強めているところでもあった。
「何事だ?」
「あ、あのね! ルヴァが魔獣に乗って!」
「何だって!?」
 薬師ウェンディの説明を待たず、エイノは見張り台に走った。何時間か前にしたたかに打ちつけた腰が痛むが、それに構っている暇はない。
「あっちっす、あっち、≪御山≫のほうから!」
「貸したまえ!」
 見張りの水兵から望遠鏡をもぎ取って、覗きこむ。
 すると、白豹にしがみついている古代の血をひく少年と、並走する黒豹を見つけることができた。彼らは小さな水たまりを軽やかに避けては、古城アマネセールへ向かって迷いなく突き進んでいた。まるで風を味方にしているかのようだった。
 エイノはたまらず叫んでいた。
「跳ね橋をおろしてやってくれ!」
「駄目だよ! 魔獣が入ってきちゃうじゃん!」
「あれは双子だ!」
 ウェンディは瞳を白黒させると、くちびるをぎゅっとつぐんでうなずき、すぐにきびすを返した。

   9

 空を厚く覆っていた雨雲さえ散らした爆風がおさまるのを、二人の騎士は泥の中でうずくまって待つほかなかった。
 至近距離での魔術が発動した大爆発の渦に、巻き込まれなかっただけでも幸運だった。狂風の名残は木端とともに殴りつけてくるが、その勢いは徐々に損なわれつつあった。
がらん、と重たい音を立てて、少女の鼻先に鉄の塊が転がってきた。
 ミラーは泥と草に汚れた顔を持ち上げる。少女の纏う鎧の銀にも泥がこびりついている。
「……ん……」
 ぐしゃぐしゃに乱れた金髪の下からぼんやりと焦点を合わせる。玉鋼に金色の装飾が施された豪奢な金属は、グラズアの鎧の一部だった。丸くつややかだった肩あての一部が無残にもへこみ、塵でその輝きをくすませていた。
 それは、黒き鎧の最期の姿であり、装着者の終わりをも意味していた。
 爆風に晴れた青空の下で、はらはらと小さな雫が大地に落ちた。
「……う、うそ……。あぁ……!」
 見開かれたミラーの瞳から、とめどなく涙が溢れる。絶望の滴は埃にまみれた頬を洗う。動線を見失ったそれは、色も力も失くした唇の端から口腔に入りこむが、少女はそのままにしていた。
 金色の睫毛は瞬きを忘れ、菖蒲色の瞳はただ呆然と、土煙に隠れた爆心地を見つめる。
「……そん……な……」
 彼女は地面に力なく頭を落とした。そして、額と額とを土に汚したまま、嗚咽に身体を震わせた。
「……若様……若様……! どうして、どうして……! ああ……! やっと、やっと私、ここまで来られたのに……! お守りするって決めて、来たのに! 来たのにッ……!」
「……」
 少女を庇っていた青年騎士が、力なく身体をどかす。
 親友の最期を目の当たりにしたにもかかわらず、彼の瞳は冷ややかに乾いていた。
 彼は失血の影響でよろめきながら、震える腕を伸ばした。失意の底にいる相棒の背中に指先が触れるか触れないかというところで思いとどまり、それからそっと退いた。
 舞っている砂塵の中から、一人の男が姿を現した。雲の隙間から降り注ぐ光が、真紅のビロードと彼の金髪を輝かせている。
 それを認めた灰色の騎士は、掠れたテノールで小さくまくしたてた。
「おしまい? じゃあ、はやいとこ、お姫様のところに連れてってくんない? 正直、目を開けてるのがやっとなんだよね。……ミレニアも疲れてる」
 穏やかに微笑んでいるラミナスは騎士に頷くと、うずくまるミラーの肩に手を乗せた。
 しかし少女は失意の底に深く沈んだまま、頭をあげようとはしなかった。少女のしゃくり上げる声は最早言葉ではなく、悲鳴そのものだった。
「いや……、いや……! 若様……早すぎです……、早すぎます……、若様……! まだ何も、何もッ……!」
 魔術によって切り裂かれた雲、その晴れ間が、少女を励ますように光を注ぎ込む。けれども温かさは彼女には届かない。
 ミラーを絶望に落とした張本人は気の毒そうに眉を傾けるばかりで、一言も詫びずに彼女の頬を撫で、枯れない涙を拭った。
「ミレニア。そう泣かないでおくれ。それに、グラジルアスに次いで鬼神までも失いたくはなかろう? さあ、すぐにリシュナ・ティリアの元へ行こう――」
「――ふふん。いいことを聞いた。離宮に行くなら、俺も連れていってくれよ!」
 穏やかに少女へ語りかける魔術師の背後から、勝気な声が響いた。爆発の名残が消えはじめた世界には、黒い戦士の姿が燦然と照らされていた。
 男は背中でぼろきれと化したマントと上半身に残った鎧をかなぐり捨てると、左の掌で乱暴に前髪をかきあげた。口元を余裕たっぷりに引き上げた彼は、サファイアの瞳を勝気に輝かせていた。
「リシュナとセレスの成長を、今からでもじっくり見守りたいんでね!」
 皮肉っぽいハイバリトンが、ミラーには却って頼もしかった。
「そうか、魔法制御マジックキャンセラ……!」
 隣で悔しそうに呟く青年騎士の声に、ミラーが気付く。
 ――そうだ……。私は見たことが無かったけれど……若様には、あらゆる魔法を跳ね返すお力があったのだわ……!
 絶望が転じたにもかかわらず、ミラーの瞳からは涙がぽろぽろと止まらなかった。だが希望を取り戻したという証拠に、彼女は自ら涙と鼻水を拭ってよろよろと立ち上がった。
「わ、わか……さま……っ! よか……よかった、ご無事で……!」
「……ちっ……おとなしくしてくれればいいのに、馬鹿王子……!」
 二人の騎士がそれぞれに反応を見せる中、ゆったりと立ち上がったラミナスがグラズアへ振り向いた。
「……これはどういう茶番だろうか、グラジルアス? 魔法制御マジックキャンセラなど……。どこで覚えたのかね……?」
 魔術師のルビーの瞳が燃え上がるのを、サファイアの瞳が受け止める。
 グラズアの玉鋼の鎧はあちこちにへこみをつくり、パーツもちぐはぐになりつつあった。叩きつける砂つぶてから装着者を守りきったことに変わりない。
 青年は黒髪を風に乾かしながら、首を回した。
「さあ? 悪いが覚えてないな。生まれつきなんでね。コイツのお陰で散々な思いをしてきたが、今日ほど感謝したことは無いな」
「……そうか……! エド、お前なのだな……? この期に及んで私の邪魔を……!」
「邪魔? ああ、大いに邪魔させてもらうぜ! エフゲニーとお前の野望を!」
 グラズアとラミナスが再び殺気立つ間に、入り込む影があった。
 その細い腕には、藍色の紐飾りが結ばれた刀が握られていた。
 グラズアは親友の背を汚す血痕に息を飲み、彼をどかそうと手を伸ばす。
「……ライン、お前は休んで――」
「黙れよ、馬鹿王子」
 だが、慈しむ手のひらはあっけなく払いのけられた。
 困惑に言葉が出ないグラズアの首元に、涼しい音とともにひやりとしたものが当てられた。そこから、赤い雫がぷつと浮かび、膨らんで首筋を流れていった。
 刺々しい物言いと鋭い視線、有無を言わさぬ迫力でグラズアを脅すラインは、まさに鬼神と呼ぶにふさわしい。だが、その鬼神に喉元を狙われているグラズアに、そんなことを考える余裕などなかった。
 青い紐飾りが特徴的なイヤリングをいじりながら、騎士が言う。
「どーも。オレの刀――月華げっかを持ってきてくれて。ラインも死んだことだし、ようやくこいつの力を発揮させてあげられる。ねえ、魔術師!」
「む」
 騎士が背中越しに声をかけてきたのに、ラミナスは眉をぴくりと上げた。
「こいつを殺したら、すぐに癒しのお姫様のところにつれてってくれる?」
 蘭英は、ごく簡単な思いつきだという風に放り投げた。だが、言っていることがあまりにも物騒すぎた。グラズアはぎょっとする。
「お前、どうして――?」
「ライン殿!」
 すると、青年が刀を握る右腕に、ミラーが飛びついた。
「やめてください! 気でも狂ったんですか! この方は私たちの若様です! 私たちが守ると決めた――!」
「……ミレニアも黙ってて」
 ラインは細い眉をひそめると、左手で立ちふさがった少女の首筋を押さえた。少女は両手で騎士の右腕を下させようとしていたため逆らうこともできず、その場に力なく屑折れた。
「ミラー!」
 少女を助け起こそうと腕を伸ばそうにも、チェックメイト寸前のグラズアにはどうすることもできない。
「ライン! どうして俺を、ミラーを――!」
「ミレニアには見せたくないから、あんたの生首。また、泣かせちまう。それに、オレはラインじゃない! 蘭英! この体の本当の持ち主だよ。お前がよく知る《弱虫》はもう死んだんだ。やっと取り返せたってわけ。オレの人生、これからだっていうのにさ。死にかけだって。ホント、ヤになる」
 はあ、とこれ見よがしにため息をつきながら蘭英と名乗るラインは、確かにグラズアのよく知る彼とは違っていた。全てにおいて勝気な物言いが目立つだけじゃない。灰色の瞳に宿った光の鋭さが、日ごろの温厚さをかき消していた。
「もう一人の、ライン……?」
「ハァ? 物わかり悪いな。オレが先、ラインが後! わかる?」
 そう言う蘭英の細い眉が、ぐいっと不機嫌に寄せられる。
 表情にある種の乏しさがあったラインと異なり、蘭英は極めて感情的だった。これまでのラインを知れば過剰とも思える顔の動き。それを目の当たりにして、グラズアも蘭英がラインの第二の人格であることをうっすらと認めつつあった。
 ――そうだ……。俺は、セルゲイに拾われる前のラインのこと、全然知らない。全てをゆだねあった親友と思ってきたのに、俺はこいつのことをほとんど知らずに来たんだ……。
 小さく悔しがり歯を食いしばるグラズアの前で、蘭英のチャコールグレーの瞳がくるりとひらめく。
「ちょっと、早く決めてくれない、魔術師さんさあ。オレの要求、まっとうだと思うんだけど。どう、悪い取引じゃないだろ?」
 蘭英が細い顎をしゃくるのに、ラミナスがゆっくりとうなずいた。ルビーの瞳はその穏やかなしぐさに似合わず、相変わらず血の赤を宿して燃えている。
「……ああ。ミレニアだけでなくお前が来てくれると、それらしくなる」
 それらしく、という言葉にグラズアの目元がぴくりと動く。確かにラミナスの傍にラインとミラー、二人の側近の顔が揃えば、城の内外問わず、彼を国王だと信じきるだろう。
「お前、やっぱりこの国を乗っ取ろうと……!」
「その話はもう、し飽きたよ、グラジルアス」
 ラミナスが指を一つ鳴らした。その音が消えたときには、彼の腕にぐったりとしたミラーが抱かれていた。少女は戦場にそっと横たえられた。
 グラズアは苛立った。敵の手に少女が陥った揚句、その少女を守ることすらできずにいる己に腹を立てていた。しかし、そちらに気を取られている暇はなかった。彼は今、鬼神に首を狙われているのだ。
「あきらめてよ。ね? 親友だったオレに死んでほしくないでしょ?」
 そう言って蘭英は、半ば誇らしげに腹部を見せびらかした。傷口は小さいものの、赤黒く染まった布切れはまだ湿っていて、赤い滴をしたたらせている。傷の深さがうかがい知れた。いつ失血死してもおかしくない状況下で、彼は静かに怒りの炎を燃やしていた。ただグラズアには、蘭英の苛立ちが何に由来するのか見当もつかなかったが。
「てことで」
 蘭英は青白い顔でにっこりと真っ白な歯を見せびらかした。
「死んでね」
 鬼神の渾名を持つ最強の味方が、最悪の敵となった事実に、グラズアは遅まきながら気づいた。今日何度目かの背筋に伝う嫌な汗が、非常にゆっくりと時間をかけて下る。彼のサファイアの瞳が移す最後の景色が、親友の邪悪な笑顔だというのは、悔やんでも悔やみきれないものだった。グラズアの太い喉が、繋がっているうちにと、名残惜しげにごくりと鳴る。視線は蘭英から外さない。だが、彼の瞳にはトレジャーハンターの少女がかすめていった。
 ――こんなことになるなら、さっき、ちゃんとミルにさよならを言ってくるべきだった。
 きらきらと輝く銀髪と笑顔がまぶしい、彼の恋人。
 ――きちんと、好きだって言えてないのに……。
 ラミナスがなぜかその身柄を求める少女を、グラズアは守り切れずに死んでゆく運命さだめなのだろうか。
 まばたきを忘れた彼の脈動が、鼓膜をゆっくりと叩く。
 騎士の手首が少しでも動けば、グラズアの首は飛ぶだろう。それこそ、幼少に見た丸太と同じように、鮮やかな切り口をもって。
 ――だが、まだだ。まだ、生きている。
 グラズアは食いしばっていた顎を解放した。こめかみがジンジンと痛む。首が繋がっているうちは、その頭を回すことができる。喉を鳴らすことも、もちろん可能だった。
「蘭英。……っていうんだっけ」
「何?」
 それは突然だった。眉をひそめた剣士の刀を、グラズアが掴んだのだ。
 鋭利な刃が彼の皮手袋に、そして手のひらに食い込む。肉もろとも。力を強めれば、よく研がれた刃はすぐに骨まで達するだろう。
 切り開かれた傷に顔をゆがませながら、グラズアは刀を徐々に己の首から遠ざけ始めた。
「ぐっ……!」
 ――首を失うくらいならば、指をくれてやる!
 グラズアの左腕に、鮮血がさらりと伝う。紅き滴は、曲げた肘のさきから大地へと注がれる。
「大人しく、死んでよ、グラジルアス……!」
 突然のことに蘭英の右腕が抵抗で震える。だが彼の意思とは反して、刃はゆっくりと首元から引き離されてゆく。
「残念ながら、まだまだ、子供なんでね!」
 グラズアは、知っていた。ラインが無慈悲に全てを切り刻む姿を。
 その迷いなき太刀筋を禁じたのは、ほかでもないグラズアだったのだ。
「そっちだって、大人しすぎるんじゃないか?」
 ――ラインに迷いさえなければ、俺の指くらい、簡単に吹き飛ぶ。でも……。
 憎々しげに顔をゆがませる蘭英の足元が一瞬ふらついたのを、そしてそこに血がぼたりと滴るのを、グラズアは見逃さなかった。
 ――そうは出来まい……!
 一か八かだ。グラズアの乾いた喉が鳴る。その口元は勝気に持ち上げられていた。から元気と言えば、そうだった。けれども、彼にいくばくかの勝算が見え始めていたのも、確かだった。
「こんな……こんなに弱かったっけな、ラインは?」
「は?」
「お前が、ラインより先に生まれたっていうなら、強いはずだろうと思ってたんだが――」
「バカにしやがって!」
 蘭英の腕がなぎ払うのを、グラズアはかがんで回避した。それとほぼ同時に、己のブロードソードを引き抜いて刀をはじき、バックステップで間合いを取った。
 グラズアがぐっと両手で握りしめた柄に、右の手のひらから滲む血がまみれる。痛みに目をしかめたグラズアの手の中で、ぬるぬると滑る。彼は激痛と緊張に固めていた肩を、ゆっくりと下ろした。蘭英に呼吸を悟られてはいけない。戦士の余裕はそこに現れるものだ。
「グラジルアス……!」
 血色の悪い騎士は、ゆらりと首をもたげて主君をにらみつけた。血走った目玉の真ん中でぎらつく瞳孔は、彼の殺意そのもののように、底の無い闇として広がっていた。
「いいよ。あんたがその気なら、そうしてあげる」
 蘭英の赤黒い舌が、彼の薄いくちびるの上をぬらりと這った。
 そう思った瞬間、グラズアの目と鼻の先に白く閃く刃が現れた。
「ぐっ!」
 弾けたのは、青年の目玉ではなく、剣と剣とがぶつかりあう音だった。
 すんでのところで剣身にあてることができた。グラズアは防御に成功したのだ。
 己の血しぶきではなくてよかったと、グラズアが安堵する暇もなく、蘭英の刀はしなやかに舞い、彼を攻めたてる。
 グラズアはブロードソードの重心に親指を添えてがっちりと握り、四方八方から彼を切り刻もうとする鋭い太刀筋を跳ね返す。
 そうしているうちに、残っていた鎧の接合部が断たれ、肩当てが無様な音を立てて転がり落ちた。無意識にグラズアの瞳がそれを追いかける。
「……余裕だね」
 だが、それすらも認めていた蘭英は、敵の左目をえぐりぬこうと、切っ先を真っ直ぐグラズアの顔面めがけて伸ばした。鋭く輝くそれに焦点を合わせた刹那、その瞳は役目を終えるだろう。
「褒めてくれてあんがと、な!」
 しかし、グラズアはそうしなかった。間一髪のところでのけぞると、それを左下から巻いて払い、打ち返す。そしてそのまま切っ先で大地を削ると、今度は右下から斜め上へと思い切り振りあげて刀身をしたたかに打ち上げた。があんと耳障りな音が散らばって、グラズアが繰り出した一撃の重さを物語る。
 その拍子に、蘭英の足元が揺らいだ。
 たった一呼吸。
 その間に、二人の男は燃える瞳で貫き合った。
 蘭英の、髪と同じ銀色の瞳は、困惑に。それからグラズアへの苛立ちに。
 そしてグラズアのコーンフラワーブルーの瞳は、この窮地を生き抜く決意に。
 二つのぎらついた意志が弾けるように燃えた。
 乾いた砂が蘭英の踵を抱きとめたお陰で、彼は辛うじて倒れなかった。
 落とした上半身は、彼の――ラインのするいつもの構えのようでもあり、彼の消耗の激しさにも見えた。
 グラズアはこの機を逃すまいと、体制を整える。攻撃か、防御か。そのどちらか気取られぬよう、切っ先を下げた姿勢をとる。
 距離をある程度とったとはいえ、相手は鬼神のあだ名を持つ剣士だ。
 しかし、グラズアは思い切った技を使う気にはなれなかった。
 ロングソード術の全ては、相手の命を奪うために存在する。
「己のそれと天秤にかけられるものではない。剣とは、生きるためのものじゃ」
 聞き慣れた、しかし懐かしささえ感じる師匠、セルゲイ・アルバトロスの声がグラズアの耳を掠める。それはまもなく、逆巻く風の中に混じった。
「愚者の構え、ね」
 騎士は血痰とともに乾いた言葉を地に吐き捨てる。
「お前の攻防なんか、月華とオレの前じゃ無意味なんだよ」
 刀がぎらりと鈍く光ったと思いきや、グラズアはその場に倒れていた。その拍子に、かろうじて体を守っていた鎧が分離する。残ったのは、血濡れた鎖帷子だけだ。
「ら――!」
 グラズアの視界が、殺意に満ちた友人の顔で占められる。
 蘭英は鋭利な刀の切っ先を、少年王の額めがけて突き立てるところだった。
「ぐッ!」
 グラズアはとっさに両腕を地面について腰を浮かせ、鎧から解き放たれた両足で蘭英の腹に蹴りを入れた。手のひらの傷口に砂が容赦なく入り、青年は顔をしかめた。
「がぁッ!」
 背をそらすことで、まっすぐに伸びてきた刀を受け流す。顎から鼻先をかすめそうになり、グラズアの肝が冷えた。それがもう何度目かを数えるのはとっくにやめていた。 
 両足蹴りの反動を使って立ちあがったグラズアの瞳は、うずくまっているだろう蘭英の姿を求めた。そうしながら、右手は剣を求める。
「言っただろ。無意味だって」
 グラズアの背後から、嘲るようなテノール、そして濁った咳が聞こえた。
「やられるかッ!」
 彼は振り向かず、自身の首の横にブロードソードを立てた。
 があんと大きな音を立てて、剣の半分が飛んで行った。
 一呼吸。
 グラズアの喉が、ひゅうっと鳴った。
 ――終わりか。
 命を狙う男に、丸腰で背中を向けている。
 心臓が脈打つのがいとおしく、そして残された生の時間をグラズアに感じさせる。
 永遠のような一瞬を縫う声がする。ぶつぶつとこぼれるのは、呪詛だ。かすれてもいる。
「こんな、状態じゃ、なければ……。剣もろとも、首を飛ばせたのに……」
 逃げることも、あがくことも。
 しようと思えばできたのだ。
 だが、目の前に開かれた死を甘んじて受けとめようとしている自分もいた。
 相手は、得意の刀を手にした鬼神。
 その骨身を断つ鋭い切れ味はグラズアもよく見知っている。
 ――本物の鬼になっちまったラインに殺されて終わるだなんて……。
 蘭英の刀を握る手にそっと角度がついて、やいばがグラズアの首から離れた。
 彼の容赦ない一振りで、グラズアの世界は終わりを告げるのだ。
「これでほんとにバイバイ、馬鹿王子」
 ほっとしたようなつぶやきが、グラジルアスに与えられた辞世の句だった。

   10

 アマネセールに入城するなり、ルヴァは白豹の背中から飛び降りた。二頭の豹はその場で宙返りをしたと思いきや、見慣れた双子の少年に姿を変えた。
 それをエイノとアルバトロスが迎えたが、少年たちは顔を青ざめさせたまま首を回していた。
 軍師が尋ねる前に、ルヴァが噛みついた。
「グレイさんは!?」
 エイノは、一度避難したはずの少年たちに目くじらを立てていた。何か一言、いや、それ以上の小言は聞かせてしかるべきだと思い、口を開きかけた。だがそれをアルバトロスが右腕で制した。
「おらん。……今は。理由はお互い、時間ができたらにしようじゃないか。のう、エイノ」
 そう言われてしまうと、返せなかった。軍師はそれを引き継ぐ。
「なにか、急を要することがあったんだな?」
 少年たちは、別れた二週間前とは見違えるほど大人びた瞳で彼を見上げた。
「敵が、人間じゃないんです!」
「知っている。だが、魔術のよりしろになっている心臓部を貫けば――」
「それよりも安全な方法を伝えたくて」
「……どういうことだ?」
「近接戦は、危ないんです。リスクっていうんですよね、こういうの。化け物を倒すのに、こちらも傷ついてしまう。心臓部以外の弱点がないんだから。ぼくもシロとクロがいなかったら、死んでたかもしれない。だけど……」
 ルヴァは、己のこぶしで手のひらを殴った。
「あいつら、魔法に弱かったんです!」
 エイノとアルバトロスの瞳が、どちらともなくかち合った。

   11

 グラズアは、風を切る音を聞いた。
 ――首を切られると、こんな音がするのか……。
 他人事でのんきな感想とともにグラズアは恐る恐る目を開けた。先に広がっていたのは、落ちた生首が真っ先に目にするであろう、湿気た地べたではなかった。
「……え?」
 グラズアの足元にぽとりと落ちてきた何かが、まばゆい光とともに爆発した。
「くそッ! なんだッ!?」
 蘭英の困惑の声、そしてオレンジ色の火花と共に、煙がもくもくと勢いよく広がり視界を濁らせる。
 思わず左腕で顔をかばったグラズアの、折れた長剣を持つ右腕がぐいっと引かれた。
「グレイ! こっちに!」
 右も左もわからなくなった煙幕の中で、一方的に引き寄せられてバランスを崩しながら後退するグラズアの聞いた声は、彼のよく知る少女のものだった。
「ミル!」
 生き延びたという喜びよりも驚愕の勝ったグラズアが、命の恩人の名を呼んだ瞬間、薄灰色の煙が一陣の風と共に霧散した。
 蘭英が刀で巻き起こした小さな旋風つむじかぜの仕業だった。
「……逃がさないよッ!」
 ぺろり、とひとつ舌なめずりをする蘭英は、獲物を狙うハイエナのように鋭い視線でグラズアたちをくぎ付けにした。
 意識を失って倒れるミラーを挟み、テュミルとグラズアは蘭英とラミナスに対峙していた。
 弓兵のキルトをまとったテュミルが、自身より大きな体躯の、ぼろぼろのグラズアを背にかばう。その手の指の間には、彼女の得意とする爆薬が並んでいた。
 少女は、滝のように落ちる銀髪の背中越しに声をあげた。
「ちょっと、これは一体どういうことよ、グレイ!」
「み、ミル……! あ、ありが――!」
「こンの、馬鹿!」
「だッ!」
 礼を言う言葉に詰まったのは、テュミルの踵がグラズアのつま先に落ちてきたからだった。つま先は鉄で覆われていたが、その衝撃は強く、現実に戻ってくるのに十分だった。
「何を簡単に死のうとしてんのよ! それよりも状況! ラインはグレイを切ろうとしてるし、ミレニアまでいるなんて! おまけに何? 一番の悪玉までいるじゃないの! しかも丸腰で! ここは戦場で、会議室じゃないわ!」
 テュミルは吠えるのをやめない。しかし、その声はぐずぐずと濁っていた。
「どっちよ? あたしのミレニアを、あたしの妹を――!?」
 言葉に詰まる少女のあとを継いだのは、蘭英だった。
「――ミレニアは大丈夫。殺してない。ちょっと気絶してもらっただけ」
 蘭英がきっぱりと言い放つ。先ほどまでグラズアの命を弄ぼうとしていた彼にしては、不思議と紳士的な響きがあった。
「ライン! あんた、なんで裏切って――!」
 テュミルが蘭英に噛みつこうとするのを、彼はひょいと体ごと避けた。そして、愛刀を鞘に納める。それから、両腕で力なく倒れる金髪の少女を抱きあげた。その拍子に、ぐっと顔をしかめる。蘭英の腹に詰められた柔らかなシャツから赤いしたたりが落ちるのに、テュミルの瞳がぎゅっと見開かれた。
「ライン! ミレニアをどうするつもりよ!」
「……どうもしないってば」
 蘭英の左肩にミラーの首がくったりと預けられる。
 少女の呼吸は、彼女の泥にまみれた銀の鎧で全く分からない。テュミルとグラズアのふたりが蘭英の背中越しにミラーの安否を注視する。
「オレ、蘭英だし。まあいいや。ラミナスー。オレ、疲れた」
 そういう彼の顔はさらに青ざめていた。溢れ出た血の量を思えば、彼が生きていることのほうが奇跡のようだった。グラズアはその事実に、安堵とも不安ともつかない心持がした。
「……ふむ。私との契約を破棄すると?」
 ラミナスは軽く眉を上げる。
「今は不利だよ。ってか、この傷が塞がれば、こんな馬鹿王子、どうってことないし。オレには月華もある」
「先へ延ばすか。……だが」
 魔術師は不服そうだ。くるりと指を一ひねりすると深紅のリボンを空中から取り出し、それで風になびく金の長髪を手際よく結んだ。
「彼女は、テュミル・フォーシュルンドは私の花嫁となる宿命の元、この世に生を受けたのだ。お前のものではない、グラジルアス」
 憎悪にぎらつく赤い瞳が、グラズアを突き刺す。だが、彼のほうも負けてはいなかった。
「そんなの――!」
「何よ。その、運命とか、宿命とか? 勝手に決めないで。そんなの、あたしは信じないッ! パパやママが殺されることが『最初から決まっていた』だなんて、絶対に認めない! あんた一人の為にどれだけ、どれだけの人が死んだと思ってんのよ……! 笑わせんなッ!」
 涙の滴を振りまきながらも、この場にいる男たちの誰よりも勇ましく吠える少女に、グラズアが強い同意の心を寄せる。
 怒り猛るテュミルがその勢いで爆薬に着火しようと、口にくわえたマッチに点火を試みる。が、それは適わなかった。
 ゆらりと持ち上げられたラミナスの右手が、テュミルにまっすぐ向けられている。
「なっ……!」
 ――動けないのか!
 グラズアが察した手前で、テュミルは身じろぎ一つしないまま呪詛を並べている。
「なんで! この! 動け!」
「ミル!」
 歯を食いしばったまま体を固まらせる少女に気付き、今度はグラズアが彼女を庇い、たちはだかった。もちろん、折れてしまった長剣を両手に握りしめて。グラズアの魔法制御マジックキャンセラが機能している。先程もラミナスの扱う魔術を一度跳ねかえせたのだ。魔術に対してなら、少女の盾になれる。
 だが魔術師はグラズアの行為に眉をしかめただけで身じろぎもしなかった。
「くっくっくっ。そうか。テュミル……。あのには似ても似つかない、なんと粗暴な……。これは、お灸をすえてやらねばなるまい。あるいは呼び醒ますか……。鬼神、蘭英よ」
 ラミナスの足元に何度目か腰を落ち着けた蘭英が、血走った瞳を彼に向ける。
「何、改まって?」
「少し、実験をしてから帰る」
「何の? すぐ終わる?」
「見ていなさい」
 そう言うとラミナスは、とっておきの穏やかな笑顔を取り出し、グラズアの背後にいるテュミルに向かって手を差し出した。それは先程、停止の魔術をかけた手つきと異なり、まるでダンスの相手を申し込むような優雅さを湛えていた。彼の頬笑みにもそれは当てはまったが、先ほどまで濁っていたルビーの瞳には、一抹のもの悲しさがあった。
「今日のところは見逃してあげよう、テュミル・フォーシュルンド。そして、どこにいようと、必ず迎えに行こう。きみの本当の魂とともに」
 名残惜しそうにしていた魔術師は、繊細な印象を一瞬で覆した。
 ぐっと見開かれた瞳孔は、狂気ともとれる敵意で満たされていた。
「だがグラジルアス。お前はこれで終いだ……!」
 テュミルに差し伸べ、天を向いていた手のひらを力強く握ると、彼はその拳をぐるりと一ひねりし、再び開いた。
 しかし、何も起こらなかった。ラミナスの体に宿る魔力をもってすれば、詠唱無しで魔術が発動されるはずだった。グラズアは衝撃に耐えようと肩を強張らせ続けてはいたが、何かが彼の体に当たった、それだけだった。雨を晴らすまでの爆発を引き起こした先程の魔術に比べれば、どうということもなかった。
「忘れたのか? 俺に魔術は効かな……!」
 余裕の言葉を並べようとしたグラズアの口から何かがあふれ、唇の端から流れ落ちた。
 唖然とする王は、無造作にガントレットで頬をぬぐった。
 彼の平たい手を赤い液体が汚した。それが何か分かった瞬間に、彼の腹部に焼けただれるような激しい痛みが襲いかかってきた。
「ふ……ぐうぅ……!」
 ――魔術じゃ、なかったっていうのか……!?
 これまでに感じたことがないほどの痛みに、グラズアは膝を折った。自身の傷を直視できはしなかった。ともすれば一瞬で意識を手放せそうな、あるいは永遠に続きそうな劇痛だ。彼の顔にぐしゃりと苦悶の皺が深く刻まれる。傷口がどくどくと激しく脈打つ。生きている証明のはずの鼓動が自身を苦しめている。
「かは……ッ!」
 食いしばった歯の隙間からは、唸りにも似た呻きが絞り出される。それは堪えているようでもあり、痛みを声にして少しでも逃がそうとしているようでもあった。湿った咳とともに、鮮血が喉からも飛ぶ。
「グレイッ!」
 グラズアの背後にいる少女は、彼の背中から飛び出た、一つだけではない、二、三の切っ先を目の当たりにした。それはいずれも、この湖畔で戦死した兵士の持っていた剣や槍だった。
 彼の鎧は上半身のほとんどを失くしており、持ち主を刃から守り抜く力はとっくになかったのだ。
「いやあああ! グレイ! グレイッ!」
 動けずにいるテュミルの悲鳴が、天を切り裂く。
 それと同時に、少女にかかっていた停止の魔術が解かれた。
 テュミルは自身の膝に血液がつくのも白銀の髪が乱れるのにもかまわず、グラズアに駆けよって寄り添った。彼の頭は落ちていたが、その首には青筋が立っていた。
 文字通り血を失った顔をした蘭英が、小さく顎を落とす。
「すぐ近くに転送して、突き刺すってか……。容赦ねえなあ……」
「魔法や魔術の類が無効というなら、単純だ。貫けばよいこと」
 ラミナスは満足そうに呟くと、ビロードのジャケットと金髪を翻した。
「長くはもつまい」
 その一言と共に戦場に残されたのは、もはや屍とはわからない兵士たちの変わり果てた姿――砂塚と、静かなそれらに囲まれた血まみれの王、そしてその恋人だけだった。

 少し乾いた風が、寄り添う二人の砂ぼこりに濁った髪を梳く。
「……ル……」
 グラズアの力ないささやきに、テュミルが耳をそばだてる。少女の頬の上に、真珠のような丸い涙がいくつも転がり落ちていく。
「グレイ……! やだよ、死んじゃ……! 絶対、許さないんだから!」
 グラズアは目元をひくつかせた。霞み始めた瞳に力を込めているようだ。
 しかしサファイアの輝きは落ちて、焦点が全く定まらない。頭は朦朧として思考が働かない。
「……ごめ……。でも……、ミル……、……お前は、生きて……」
「あたし! エイノと、ううん、みんなと約束してきたの! あんたのこと、絶対に守るって! 絶対に、生き延びさせるんだって!」
 涙と鼻水とのまじりあったテュミルの叫びに、命の灯火が消えかかっている王の喉が、ひくひくと鳴る。それは笑っているようでもあり、泣きだしそうでもあった。彼の口の端からは赤い流れが乾くことなく垂れ落ちる。
「は……はは……。それ、は……俺の台詞、だろ……」
「笑い事じゃ、ない! ないんだから……!」
 梢を揺らす風の音が、二人の会話をかき消し、湖水の上にさざ波を立てる。
 静かになった世界を撫でてゆくのは、陽光も同じだった。
 しかし、テュミルの耳には、恋人の肺がヒューヒューとざらつく音を立てるのが奇妙に大きく聞こえていた。呼吸は彼の生きている証の一つだが、不規則で、そしてともすればすぐに途絶えてしまいそうな危うさがあった。
「……ミル……、これ、抜いて……くれ、ないか……?」
 グラズアのみぞおちに深く刺さっているのは、土埃にまみれたブロードソードだ。もはや誰のものかもわからないそれは、少年の鮮血を浴びて真っ赤に染まっている。
 少女は首を振った。
「やだ。やだ。血が出ちゃう」
 少年の口元が、それを聴いてほころんだ。
「頼む……。このままじゃ、お前を抱けない……」
 消えゆく声で紡がれるのが彼の最後の望みだと、テュミルは思いたくなかった。
 しかし、だんだんと硬直していく肉体に、命がゆっくりと消えてゆくのを、少女は確実に感じていた。
「……」
 すべてを抜いては、大量に体液があふれ出すだけだろう。
 テュミルの中に、悲しみながらも冷静な判断を下す自分がいた。
 ――でも。
 少女は深く刺さっていたブロードソードに手をかける。重たいそれを、ゆっくりと引きぬくと、とぷとぷと音を立ててグラズアの血液が溢れてきた。彼の命そのものが逃げていくような気がして、テュミルはその傷口をふさぐように、少年を正面から抱きしめた。湿っぽい温かさが憎らしくて、切なさをあおる。
「……く、くるしい……ミル……」
「最後に言うのが弱音かよ……ぼんぼん」
 少女のキルトが生ぬるい液体で湿る。
 その背中に、力なく腕が回された。まだ、温かい。
「よかった……。最期に、やっと、言える……」
「……!」
 いつ途切れるかもわからない言葉に、テュミルは息をのんだ。瞬きもしていないのに、涙が勝手にあふれてくる。
「なに……? なあに……?」
 彼女は恋人の顔を両手で包みこんだ。
 サファイアの瞳は、少女を求めてまっすぐに見つめている。瞼が実に重たそうだった。落ちてしまえば二度と開かないだろう。そう思いたくないのに、もうすぐ訪れる悲しい未来を思ってしまう。
 グラズアは口の端から垂れる鮮血を、もう自覚できていないようだった。
「ミル……。おま……えが……」
 グラズアが焦点を合わせようとしている。テュミルがここにいるというのに、瞳は忙しなく小刻みに揺れている。黒々としたりりしい眉が、ぴくぴくと痙攣するのが痛々しい。
「す……」
 ゆっくりと絞り出された声。
 舌が次の言葉を発音することはなかった。
 腕が落ち、くちびるが動きを止めた。
 海の青に似た、かつて意志の輝いていた碧眼が、無感動に少女を貫いている。
 少女の顔が、歪んだ。
 見なくてもわかった。
「馬鹿……。最後、まで……」
 瞳から溢れ出る涙は熱かった。
「聞かせなさいよぉ……ッ!」
 ぎゅっと抱きしめた体躯には、まだ鼓動があった。
 弱々しいそれが止まるのは、時間の問題だった。
 そうして彼の時間は、終わりを告げるのだ。
「やだ。やだよぉ……!」
 テュミルは、だだをこねるように鼻をすすった。
 本当なら、真正面から見られたくないようなすさまじい泣き顔だ。
 だが、少女はぺちぺちとグラズアのほほをたたいた。
「おきて、おきてよッ!」
 それはだんだんと力なく。
「死んだら、許さないんだから……」
 ひそめた眉で睨みつける少女を、彼は見ていない。
 そして、二度と見ることはないだろう。
 少女は認めたくなくていやいやと首を振った。
 彼を、いままさに失おうとしていることを。

   12

「納得できませんわっ! どうしてあたくしが前線になんて!」
 馬上の女がぷっくりとしたくちびるを突き出す。
 ローブの上に申し訳程度の皮鎧とマントを身に付けた彼女の軽装は、重装備の騎士たちの合間にあってよく目立った。
 そこに、ヴァニアスの薔薇の鎧を着込んだ男が並ぶ。白髭の男は、まるで自分の皮膚のように楽々としていた。
「なんじゃ、不安か、ヴィルヘルミナよ。守ってやるから、安心せい」
「アルバトロスさまは年上すぎます。あたくしの好みじゃありませんわよ」
「おや。わしの一振りでハートを鷲掴みされても知らんぞ」
 老騎士が自慢の戦斧をひらめかせながら担ぎ直したが、公女は見向きもしない。
「お戯れを。今回の英雄ヒロインはまぎれもなくあたくしですわ」
「違いない」
 かかか、とアルバトロスが笑い飛ばした。
 自陣を組んだあとは、敵方の動きを待つだけだった。
 変に間延びした緊張が、部隊のなかに蔓延していた、そのときだった。
「見えたッ!」
 最前線の見張りが声を張り上げた。
 それに合わせて、アルバトロスは腰に下げていた望遠鏡を目にあてがう。
 小さく丸い視界の中で、細身の青年が馬を走らせている。兜の中から飛び出したピンク色が
ぴょこぴょこと動いている。彼の足もとで並走するのは、白と黒の豹だ。
 三者の背後からは、黒々とした人の群れが着実に近づいてきていた。湿気た大地にあっても、彼らの歩みで砂埃が舞っている。そのため頭数が多く見えるのも事実だった。
 老将軍は、たっぷりと息を吸いこんだ。
「時は満ちた!」

 船乗りたちは、風が運んできた自軍の喊声かんせいをアマネセールの港で聞いた。
 いよいよだ。
 ルヴァは、ウィリアムの徒弟たちと荷運びを終えたところだった。皮手袋の下で滲む汗は、労働のためだけではなかった。
「おい」
 その背に聞きなれた呼び声があった。少しの安堵と不安、気まずさに濁った気持ちのまま、少年は振り返る。アクアマリンブルーの瞳に、筋骨たくましい男が映り込む。
「……シグ」
 六.六フィートを誇る大男が黒い頭を掻きながら、言いにくそうに口を開いた。
「ルヴァ。おまえ、今、行きたいって思ったんじゃねえか?」
「……」
 義理の親子は、久しぶりに視線を交わらせた。少なくとも、ルヴァにはそう感じられた。
 シグルドの黒々とした瞳をまっすぐに見つめると、二フィートの身長差から首が悲鳴を上げるものだった。だが、少年は臆することなく見上げた。
 彼の養父はそこに肯定を読んだらしかった。
「おまえ、《御山》に行くとき、あんなにだだこねたからよぉ……。肩透かし食らっちまって――」
「ごめん。心配かけて」
 驚きにぎゅっと、シグルドの眼睛がんせいが丸められたのがわかった。
 だが、ぽろりと本音をこぼしたルヴァ本人が、一番戸惑っていた。
 周りで働いていた黒竜丸の船員たちは気を利かせてくれたのか、二人から離れたところで作業を進めていた。その心配りを、二人はなんとなく肌で察知していた。
「あのさ……」
 水色の髪を、湿った風がやさしくなでていく。はらんだ潮の香りが何とも心地よい。
「戦うってどういうことだか、ぼく、わかってなかったんだ。シロとクロのほうが、よくわかってた。死なないようにすることだって、とても、よく……」
「……」
 だが、先ほど直面した甘くすえた腐乱臭は、まだ少年の鼻腔びくうを支配していた。それを拭うように、深呼吸を繰り返す。手袋にも染みついている気がする。その手のひらを見下ろす。弱々しい手だ、とルヴァは思った。握れども、小さくなるばかりだとも。
「ぼくさ、グレイさんやシグみたく、強くないんだ。腕っぷしもそうだけど、ココが」
 たまらず、心臓を押さえた。彼の直面した人ならざるものになった敵が、ありありと思い起こされる。
「殺したく、なかった。でも、ぼくは――!」
「おまえは悪くねえよ」
「え……」
 不意に、ルヴァの瞳から滴がこぼれた。何の予兆もなかったから、驚きに体が固まる。そのまま見上げた父親の目元が、悲しみか悔しさか、あるいは憐れみかでくしゃりと歪んでいた。
「おれが、悪かったんだ」
「そんな! シグが殺したんじゃない!」
「ちげえよ! こうなるって予想できてたのに、巻き込んじまったのは、おれなんだよ!」
 シグルドの太い喉が鳴り、ルヴァは怒られてもいないのにすくんでしまった。
「……何が乗りかかった船だ……。さっさと降りてりゃ、おまえにそんな顔させずに済んだのによォ……」
「喧嘩か」
 しきりに目頭を揉む大男に息子が面くらっているところに、静かな声があった。
「ウィリーか……」
 隻眼の義賊は、どちらをかばうでもなく二人の間に体を割り込ませた。赤い瞳でなにかしらを読みとったのか、彼は口髭の下を動かした。
「過去は、変わらん。おれの腕がそう言っている。痛みすら抱いて、前に進むほかない。おまえが一番わかっているだろう、シグルド」
 寡黙な男が珍しく言葉を並べる。
「ルヴァ。おれは説教が嫌いだ。だが、これだけは、聴け。勇気と無謀は、別だ。おまえはその分別ふんべつをつけろ」
 それは、ずしんとルヴァの心に重たかったが、彼は負けなかった。
「ちゃんとわかってるかは、わからない。でもウィリー、ぼくがここにいる意味を聞いてくれたら、そのどっちかはわかってくれるはずだ」
 少年は右腕でごしごしと乱暴に、相貌を濡らしていたものを拭った。
「本物のワニア――魔法使いが城内ここに残るって決めた、その意味をね」

 騎馬隊がゆったりと足を進めるのは、古城アマネセールのある東南東だった。その後ろを、魂の抜け殻の群れが追う。
 伝令が小さな花火を天へ打ち上げると、その号令に合わせて、城壁の上に並んでいた弓兵たちが一斉に火の矢を放った。
 騎馬隊が駆け抜けたあとに刺さる火は、矢を燃えくさにして炎を立ち上らせる。それはやがて小さな穂波のようになって、化け物たちに立ちはだかった。
 化け物の先頭がそれに触れたらしく、アルバトロスの背後からは腐った肉の焼ける焦げ付いたすっぱい臭いと咆哮がやってきた。兜の下だろうと関係なく、それは刺激的だった。
 かつての戦役を乗り越えてきた将軍とあっても、死人しびとを払ういくさは初めてだった。
 吐き気にむかむかする胃と、非人道的な魔術に対する怒りとを制御しながら、アルバトロスは炎を超えてきた一体をなぎ払った。再び起き上がったところを、容赦なく三日月型の先端で心臓部を突き刺す。だが、その体は灰に帰さない。ラミナスの術式が込められた闇の種の根は、意外と深いようだった。アルバトロスはそろっている歯を軋らせた。
「じーちゃん!」
「下がってです!」
 少年の声とともに、凍てつく空気が訪れる。それを浴びた敵はとたんに色を失って消滅した。
 小さく胸をなでおろした老騎士の両側に、白豹と黒豹がそれぞれぴったりと寄り添った。
「助かったぞい!」
 手短な称賛に、双子は喉を鳴らす。
 その合間にも、アマネセールから打ち放たれる炎の矢が敵陣を包み込んでいる。鼻先に炎の波が生まれては、右往左往としているのが見える。そして、焼けた死肉の何ともいやな臭いが清涼な湖水地方ヴェデン・ヴァリの空気を濁していた。
「やだ、このにおい、きらい」
 クロの前足がしきりに鼻を洗っている。
「わしもじゃ。じゃが、すぐに終わろうて。ユッシ! ユッシはおるか!」
 同意にうなずいたアルバトロスが呼びつけると、桃色頭の剣士がこなれた手つきでやってきた。彼の手前には、あのわがままな公女がまたがっている。
「なんすか、じっちゃん! そろそろッすか?」
「おう。ヴィルヘルミナよ、広範囲だが、やれるか?」
 魔法使いは、棗色なつめいろの瞳をひらめかせた。ほほがいつになく上気しているのは、緊張のせいに違いなかった。
「あたくしを誰だとお思いでいらっしゃるの? ただ、時間はくださいませ」

「うまくいくかなぁ?」
 城壁を背に座る薬師が同郷の友に問うた。
「公女さん、魔法使いなのはなんとなく聞いてたけど、ワニアの純血じゃないのに大丈夫なのかなぁ? 魔法って体を削るんでしょ?」
「彼女が『無理』と言うと思うか?」
「や、ぜんぜん」
 ウェンディと目線を同じくした軍師は、《英知の書》とココを膝に乗せながら、器用に隙間から外をうかがう。化け物を囲い込むという仕事を終えた彼らには、待つことしか残されていなかった。弓兵たちも、屈んで身を隠しながらそわそわと事の成り行きを見守っている。
「……ほんとにそうだったらさ、寿命が縮むってこと、だよね。あたし、それってなんか違うと思うんだよね」
 少女は両膝を抱きしめ、膝の上に顎を乗せた。
「夢の話なら、勝ってからいくらでも聞く」
「マジで――!」
 そのとき、突然嵐のように風が渦巻いた。
 堅牢なアマネセールであってさえ、いささかの不安を覚えるような疾風だ。
 エイノはその瞬間を胡桃色の瞳に映さんと、勢いよく立ちあがった。そして、炎の囲いに向かって風の魔法を編み続ける魔法使いの小さな背中を見つけた。彼女の隣には、駿馬しゅんめを預かる剣士が控えている。
「そろそろか……!」

 ヴィルヘルミナを炎の近くへ連れて行くと、ユッシは下がるように言われた。
「な! 疲れて倒れたら危ないから、オレが来たンだろ!」
「お黙り! 集中が切れる!」
 公女はきつく言い放つと、一歩踏み出た。
 剣士は仕方がなく馬を引いた。だが、いつでも飛び出せるように、さほど離れはしなかった。
 これまで、ただの姫君として悠然としていた女の手には、羽で出来た扇があった。ユッシには、熱さに涼しさを添える物にしか見えなかった。
 それを突然、スナップを利かせた片手で勢いよく広げたものだから、剣士は驚いて体をびくつかせた。その瞬間に、向かい風が方向を変えた。焦げ付いた死臭から解放されて、ユッシはやっと満足に呼吸ができるようになった。
 小さなかまいたちが魔法使いの体をなでるかのように包んでいる。サンデルの血統である赤毛が、ふわふわと逆立つ。
 ヴィルヘルミナは、その扇を持つ右手に左手を添え、敵の方へと向けた。
 するりと彼女の体からほどけた風が、その先端に渦巻き始める。まるで毛糸だまみたいだ、とユッシはあっけにとられつつものんきに思った。
あま駆け、地駆ける、坤輿こんよを巡りし清きものよ」
 静かな詠唱が始まった。静謐ながらも、おぞましい敵のうめき声を覆うようなメゾソプラノが、ユッシの耳を癒す。なめらかに紡がれる言葉に誘われるようにして、風が彼女の手元へとどんどん集められ、圧縮されていくのも見える。
「澄み渡る水がともにして炎がよ。瑩徹えいてつなる息吹を我が吐息と化せ。舞え、蒼き風よ!」
 ヴィルヘルミナの声音が、両腕とともに高まる。
の者を包みたまえ!」
 そして、その腕が前へ振り下ろされたと同時に、彼女の身長よりも大きくなった風の球が炎の中へと叩きつけられた。
 空気を得た炎はその背丈を何倍にも伸ばし、熱の壁となって敵をなめつくした。
 風の甲高い切り裂き音に交じって、低い咆哮がいくつも起こる。
 そして、焼け焦げていた肉の臭いが一瞬にしてはじけ飛んだ。
 その衝撃で術者本人も飛ばされかけたが、ユッシがあわてて駆けて馬の陰に引き入れた。熱風が彼らにも襲いかかる。
 こンなん浴びたら、やけどじゃすまねえぞ! もうちょっと離れておけば……!
「よいしょっ」
 後悔するユッシの耳に、子供の声が聞こえた。さらに、少しひんやりした空気まで感じる。 気付けば、彼らの目の前に双子の豹がいた。シロが氷の息を熱風に真っ直ぐ当ててくれている。そうして熱量を相殺しているのだ。
「おまえら……!」
「オレたち、あしはやいから!」  
 クロがひげの生えた鼻先を得意げにひくつかせる。ユッシはたまらなくなって、彼の顎下を撫でた。
 そうしているうちに熱風の勢いがおさまった。
 ユッシたちが見据えた爆心地は、灰色に染まっていた。その合間に黒い花らしきものがちらほらとあったような気がしたが、それもすべて弾けて消えた。悪夢のような悪臭も言葉にならないうめき声も、そこにはなかった。
 剣士はほっとして、腕を土につけた。
「すっげーのな、ヘルミーナさん……って」
 ユッシが見下ろした公女は、力なく倒れていた。一瞬、安否がわからなくなって肝が冷えたが、ビスチェに包まれた豊かな胸が上下しているのにすぐに気付けた。
 注視してはいけないと、ユッシが視線を外したとき、北西の方向が真っ白になった。
「また、ピカだ……」
 クロが呟く。そのうち、その白い光は彼らの頭の上までを覆い、光り輝く雨粒を降らせた。それは、滴のようにすぐに落ちては来ず、ゆっくりと、まるで雪のようにちらほらと舞い降りてきた。
 シロがそれを鼻で受け止めた。
「……母上?」
 くるる、と双子の喉がさみしそうに鳴る。
「父上……?」
 光の雨は、解放軍がアマネセールへ撤収する間もしばらく降り注いだ。
 雲が立ち込めて本物の雨が大地を洗い流した。

   13

 風が冷たいとわかったのは、いつだろう。
 どれぐらい泣いたか、わからない。
 ずっとずっと、少女は動かなくなった恋人を抱いて涙していた。
 テュミルはぼんやりとする頭で、グラズアの瞼を見下ろした。
 動かぬ少年の頬に、ぼたぼたと滴が落ちる。
「グレイ」
 呼べども、彼は動かない。
 その頬を濡らした涙を、テュミルはいとおしげにぬぐった。
 ――寝てるみたい。今にも起きそうな。
 砂ぼこりに汚れた口元を、少女は手の甲で涙ごとぬぐった。
「あたしも、好きだよ」
 聞こえただろうか。
 擦れて、鼻もつまっていて、みっともない声をしているには違いないけれど。
 聞こえていて、ほしい。
 それから、はりさけてしまった思いのたけをこめて、グラズアの血濡れて乾いたたくちびるに、深く深くくちづけた。
次の3-10で、3章が閉じられます。
グレイ編は全5章。ぜひ見守ってください。
+注意+
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