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黒獅子物語 作者:黒井ここあ

第三章 マリオネットの憂鬱

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八、アマネセール攻防戦・前篇

     1

 世界は、雪解けを望んでいた。
 その証拠に、ヴァニアス全域の空には雲が薄く広がり、雨を降らせ続けていた。
 冬の切り裂くような激しさの名残なのか、風は冷たいまま木から木、街から街へを、音を立てて闊歩していた。
 人々のざわつく気分は、気紛れな春の天気だけが原因ではなかった。
 十日後に開戦を控えた『国賊グレイ・シール掃討作戦』。それを耳にしたヴァニアス国民は、歴史が変わる一瞬に立ち合えると、緊張と興奮を高めていた。長らく守っている沈黙を美徳としてきたヴァニアス離宮においてもそれは例外ではなかった。
 ヴァニアスを舞台にした戦は二世紀ほど遡らねばなく、ヴァーナ諸島全域で言えば、小さな島の間で起こった紛争を第六〇代国王グレイズ・ウィスプ・スノーブラッド・ヴァニアスが平定に尽力した《ファルト戦争》及び《ラウマ調停》が約半世紀前の出来事だった。ヴァニアス島西部で最大の港であるセウラの街から、船で一週間ほど南西に進んだファルト海域が主な戦場だったこと、また、それぞれの街の代表がヴァニアス国王の名の下にラウマ島に召集され、調印が押されたのでこの名がついた。
 このときに、あらゆる武力を引き受けて国の力を見せつけたのが、王の右腕だったセルゲイ・アルバトロスという名の青年騎士だった。セルゲイの武勲は誉れ高く、人々が彼を《ヴァニアスの守護神》と呼ぶのにもそう時間はかからなかった。
 それから時は流れ、現代のヴァニアスにおいて異国ともいえる島々での戦の記憶は遠くなっていた。故に地続きのヴァニアス島で始まる戦いというものに、人々は好奇心をかきたてられていたのだ。
 それも若き国王自らが指揮をとるという、国賊の首をとる為の正義の戦いだとなると、騎士団だけでなくその家族までも誇りが高まる。騎士達は警護以外の職務に自慢の腕を振るえるとなると、息勇んで装備を整えはじめた。
 だが良識ある使用人たちのお陰で、二人の王女が住まうヴァニアス離宮の静けさは守られていた。
 彼らが不安を囁き合っていた眠り姫は、第六二代国王、齢十九のグラジルアスの急な訪問があった四月三〇日から数えて五日目に目覚めた。
 第一王女の深い眠りの原因について、コルセットがきつかっただの、ヒステリーだの、憶測が唇から唇へと飛び交っていたが、結局は、小さな淑女のリシュナ・ティリアらしく、兄王との急な対面に興奮しそのまま気絶したという説で落ち着いていた。
 リシュナ・ティリアの目覚めという良きしらせは、疾風のように駆けていった第二王女によってすぐに離宮中に知らされた。
 真っ先に駆けつけたのは彼女の許嫁アレクセイ・フェブル・リンデン少年だった。
 しかし、呼吸が収まらない彼がそのまま入室しようとするや、メイド達女性陣がそれを阻み、扉を閉じ切ってしまった。その勢いで巻き起こった小さな風が少年のあかがね色の前髪をかき乱す。
 そこへ、それこそ風のごとく離宮中を駆け巡ってきたセレス・フィナが舞い戻って来て、立ちつくしている少年を見上げてにやりとしてみせた。
「アレク、残念だったね。寝起きのねーたまを見られなくて」
「どうしてそう言うのですか?」
「だって、一番に会いたかったんでしょ? そう言う顔、してるもん」
 背伸びをした物言いをしてみている少女は、子供らしく両手を背中で組み身体を左右へ揺らす。一つに結びきった金髪がしゃらりと煌めく。
 その対比がなんだか可笑しくて、少年の口元が自然と緩む。
「それは間違いありません。でも、リシュナ様が望まぬ形でお会いしたくはありません」
「それって、どういう意味?」
「私にはレディを辱める趣味は無い、ということです、セレス様」
「難しい事言われても、ボク、わかんないよ」
 少年が愛しい人の顔を見られたのは、それから三〇分後、メイド達が退室してからだった。
 そして、最後に残った年若いメイドが二人を招き入れた。
「もう、いーい、シア?」
「ええ、フィナ様。あ、アレクセイ様も……どうぞ……」
 アレクセイは伏し目がちなメイドの前を素通りし、真っ直ぐにリシュナ・ティリアの元へと歩いた。
 雨雲が太陽を隠している為、昼間にもかかわらず少女の室内には蝋燭が灯されていた。
 寝台の上、暖かな光に照らされた金色の流れが煌めく。あわせて、細いシルエットも壁を行き来する。
 少年は堪らず安堵の息を吐いた。
 《ヴァニアスの光の神子》は運ばれたグラスに口を付けていたが、それをこくりと小さく飲み込むや、集まった面々――アレクセイや妹、贔屓のメイド・シアに恥ずかしそうに詫びた。
「みんな、心配をかけてごめんなさい。折角、兄様がいらっしゃったのに、私ったら……。あの、さっきから先生のお姿が見当たらないのだけど……」
 アレクセイとセレス・フィナがどちらともなく顔を見合わせる。
 妹姫のふくふくとしたほっぺたが強張った。
 少年は、それが文句を言う兆しであることを知っていたので、咄嗟に小さな乙女の口を塞ぎ、笑顔を繕う。小さな拳が振り回されて当たっても、彼には効かなかった。
「……大丈夫です、リシュナ様。グラジルアス様ならば『養生するように』と仰られてでかけられました。先生もご一緒に」
「兄様と……?」
 許嫁が苦々しく視線を逸らすと、姫は信じられないと言う風に瞬きをした。彼女が手にしていたグラスをシアがそっと受け取ってトレーに乗せ、テーブルへと運ぶ。
「嘘……。それじゃあ、本当に戦いが始まるの……? セルゲイとライン様を……兄様と先生が討ちに行くの……? そんなの、そんなのって哀しすぎる……」
 リシュナ・ティリアは金色の睫毛を震わせると、上体を力なくベッドに横たえた。真っ白なレースが可憐な枕の上に、金の糸の束が柔らかく広がる。少女はそれを両手でくしゃりと握り、細長い顔をすっかり隠してしまった。
 一瞬の隙にアレクセイの腕から逃れた妹が、事実を受け入れられず放心する姉に抱きつく。
「違うよ、ねーたま! あれはにーたまのにせもの! それにミラーが言ってたよ。にーたまは違うところでがんばってるんだって! ボクたちのために! だから、セルゲイもラインも、絶対悪くないよ!」
 声高に説得を試みる妹を、姉は力なく押しやる。
 幼いセレス・フィナが、何故だか知らないが真実の一端を知りうると悟った少年は、再び彼女の事を取り押さえた。
「セレス様……!」
「むぐぐぅ!」
 苦しそうにあがく第二王女が心配なのか、メイドが小さく息を飲んだ。
 遠くで閃いた雷のむずつく音に紛れ、姉姫がぼそぼそと何かを呟く。
「……フィナ……いいかげんにして……。私たちの兄様は一人だけなの。確かにどこか遠い印象がしたと言いたいんでしょう。……兄様はきっと、辛いご決断をしたの……。セルゲイと、お友達のライン様と戦うと決めたんだもの……。兄様じゃないように思えたのは、きっと、兄様が大人になられたからよ」
 ぷは、と少年の手を剥がしたセレス・フィナが吠える。
「嘘だ! ねーたまだってわかってたくせに! ミラーはボクと同じ意見だったもん! ミラーは嘘、言わないんだよ!」
「……あなたの言うように偽物なら、先生はついて行かなかったと思うの……」
「違うもん! ミラーは、ミラーは! 本物のにーたまを守るんだもん、かえってくるんだもん! ね、アレク?」
 腕の中で見上げてきた少女に、アレクセイは頷かなかった。
 静かに答えた声は、発した本人もどきりとするほどに無感動に冷たかった。
「……リシュナ様の仰るとおりだと思います、セレス様」
 セレス・フィナのエメラルドグリーンの瞳が見る見るうちに丸くなる。
 そして、兄によく似ている凛々しい眉がきっと斜めになったとき、急に風が渦巻いた。
 彼女のポニーテールを結んでいたリボンが解け、小麦色に輝く髪が波打つ。
「アレク……! アレクが一番の嘘つきだ!」
 第二王女はあらゆるしがらみを振りほどかんと、少年を突き飛ばしてリシュナ・ティリアの部屋を飛び出した。小さな嵐は少女と共に去った。
「フィナ様!」
 風魔法の影響が収まると、緑色のリボンを拾い上げたメイドが一礼し、扉から出ていった。
 静かになった第一王女の部屋には、将来を約束された二人が残された。
 沈黙を彩るのは、窓を叩き続ける雨のリズム。
 失意の底で横たわるリシュナ・ティリアの前で、アレクセイは動けずにいた。
 少年の脳裏には、彼女が十四歳になったあの夜のことが鮮やかに蘇る。
 ――いきなりのキス……。あのことを一つもお話しして下さらない。きっと軽蔑して……。
「……ねえ、軽蔑しないでね、アレク」
 無意識に唇を一舐めした彼だったから、ふいにかけられたリシュナ・ティリアの声に身体をびくつかせた。自身の心を見透かされた気がして、次の言葉が怖かった。
「……私、《あの兄様》にお会いした時、フィナと同じ気分がしたの。お顔も何もかも兄様なのに、笑っていらっしゃるのに、何故だか怖かった……」
 少女はもぞもぞと、布団の中に身体を隠した。
「私ね、本当はわからないの……」
 リシュナ・ティリアの澄んだ青い瞳から、はらりはらりと透明な雫が溢れだす。
「……怖い……。何が起こっているのか、何が起こるのか……。《雪解けの知らせ》だってそうよ。何を言っているのか、私には見当もつかないの。でも、何かを失くすのは解かる……。解かるの……。それが兄様だったら、本当に私、どうやって生きていけばいいの……?」
 呆然と、涙を流し続ける少女が痛々しくて、アレクセイは堪らず跪き手をとった。
 そして、細い指先に丁寧にくちづける。
「私がいます……リシュナ様。私が、ずっと、ずっとお傍にいます……!」
 リシュナ・ティリアは手を引っ込めなかった。
「……ありがとう、アレク……」
 神子姫は眠るように瞳を閉じた。その指は、ささやかだったがアレクを求めるように緩く握られた。
 少年は、そっと心に独りごちた。
 ――リシュナ様にラミナスのことは言わないで良い。もちろん、フィナ様にも。これで、よかったんだ。

 風が凪ごうとも、雨足が弱まる気配は無かった。
 薄暗い廊下、第一王女の部屋の扉に背中を預けていたメイドは、静かに静かに崩れ落ちた。
「これで、よかったの……」
 彼女が胸元に握っていた緑のリボンに、ひとつふたつ、濃い染みができた。

     2

 《御山》の神子、カティ・ヒュムニ・アアルトは、揺らぎの中にいた。
 出会ったばかりの少年と床を共にする使命を与えられたことだけが、その原因ではなかった。
 《山のワニア》一族を救うために、彼女は従兄ルカ・ヴィルトゥースへの思慕を全て捨てるよう求められていた。
 カティは豊かな水色のソバージュがぐしゃぐしゃになるのも構わず、布団の中へ縮こまった。
 ――誰にも言っていないのに、私の気持ちなんか、ババ様とイルマリ様にはお見通しだった……。ルカも、そうなのかな……。
 そして、頭まで被った布団の中を溜息で一杯にしていた。
 どんなに理不尽な要求でも、カティに拒否権は無かった。
 突如現れた《海のワニア》と交わらなければマールが近い未来に滅ぶことは、彼女も理解していた。
 古から同じ血脈で結ばれてきた《山のワニア》ゆえに、現代のマールでは子をなすことは難しくなっていた。たとえ幸運から赤子を授かったとしても、七割は女だった。したがって、残り三割という数少ない男が複数の女と関係を持たねばならない事態になっていた。例え、結婚をして所帯を持っていてもそれは変わらなかった。事実上の一夫多妻制である。
 マールの男は誰と関係を持ったかは口外しない。そしてマールの女は、運良く子を成せば未婚の母となるのだ。そう言う決まりだった。
 カティとルカの母親は姉妹関係にあるので従兄妹ということになっているが、父親が同一人物である可能性は大きかった。なぜなら、二人の妊娠と出産の時期が綺麗に重なっていたから。
 カティは、そうじゃないといいな、と願っていた。
 ――従兄妹なら、結ばれても良いんだものね。
 彼女の思い人、ルカ・ヴィルトゥース・アアルト、その名の通り幼いころから強大な光の魔力を巧みに使いこなせる天才児だった。そしてそれを、誰にもひけらかさない謙虚な心もあった。彼がマールを負って立つ存在になることを、村の皆が望んだ。
 対するカティは、備わる魔力は十分だと認められてはいたものの、それを扱う技量とセンスを持ち合わせていなかった。
 少女は感情の起伏に合わせて出たり引っ込んだりする魔力をコントロールする術を、一から学ばなければならなかった。その地道な努力が実を結び、彼女は神子になることを許された。
彼への憧れと思いを募らせたために神子になったといっても過言ではなかった。
 ――ルカの傍にいたかっただけなのに……。ルカの力になりたかっただけ……なのに……。
 込み上げた涙が、彼女の頬を伝う。
 泣くまいと呼吸をおさめようとすればするほど、哀しみは大きく彼女を震わせる。
「……泣いてるの……?」
 少年の声。
 確かルヴァという名前だった。
 少女は今、この異邦人と寝室に二人きりだった。
 ルカと名前が似ていることまで、呪わしく感じられる。
 カティは気取られぬよう、寝息を立てているような呼吸を繰り返す。
「……わかるよ……。嫌、だよね……」
「……」
 ルヴァは、決して少女に近付かなかった。そして布団に包まっているカティの存在を努めて無視したいのか、夜通し何かの本を読んではそれを書きとるのを繰り返していた。そんな夜が三日続いていた。
 カティはそっと、兎のように赤くなった瞳で明かりを求めた。
 小さな明かりに照らされた机に向かって背中を丸める少年の横顔は、真剣そのものだった。
 ――ルカのほうが、かっこいいけど……。
 少女がぼんやり見つめていると、ルヴァは彼女の方へちらと穏やかな視線をよこした。
「……大丈夫。怖くないよ。何もしないし、ましてや取って食ったりもしない……」
「ひっ」
 カティは怯えて布団を被り直し、少年の方も少し慌てた声を上げた。
「い、今のは忘れて! ちょっと考え無しだった……」
「……」
 静けさが元通りに、二人の間を埋める。
 ――あの日も、絶対に触れなかった。むしろイルマリ様に抗議までしてくれた……。このルヴァって子……悪い子じゃ、ないのかも……。
 カティはもう一度、そっと少年の様子を伺った。
 一つに結びきった髪は同族のそれでも色が濃く、真っ直ぐで癖が無い。ルカのそれはふわふわとしていて、それでいて真冬の山のように白銀に輝くと、少女は知っていた。
彼女の従兄のように優しい雰囲気を纏っているが、彼よりもどこか男臭い感じがする。
 ――ルカよりも、なんだかごつごつしてる……。
 少なからず興味を持つのは当たり前だった。なぜなら少年はカティにとって、初めて出会う《御山》の外の人間だったから。
 緊張に早まる呼吸を整え乾いていた唇を舐めると、神子の少女は聴こえないようにそっと問いを発した。独り言のつもりだったのだ。
「……何を読んでいるのかしら……?」
「えと……僕達のご先祖様の本……。でも、僕には難しくってさ」
 しかし、少女の意に反して少年の耳に届いてしまった。
 気恥かしさに上下の唇をぴったりと閉じた。
 ――ちょっぴりだけど、声が低いんだわ……。
 一人小さく納得した少女が呟く。
「……下界の本……?」
「まあ、そういうことになるね。……見てみる……?」
 彼の小さな手招きに応じ、神子はそっとベッドを抜け出した。塗り固めた床に熱を奪われぬよう、少女は爪先でちょこちょこと少年の近くへ寄った。
 そして、極力ルヴァから離れるようにして腰を折り、彼の本を覗き込んだ。
 そこには彼女の慣れ親しんだ文字列が並んでいた。マリンブルーの瞳に光が宿る。
「《ワニア民族譚》……? てっきりソレナの言葉かと……」
「そう。ワニアの言葉で書いてある。何か、おとぎ話ばっかりの――」
「これ、おとぎ話じゃないの。マールに残っている伝承で、本当の話なの。あのね、えっと……《御言葉のバラッド》とか……こんな感じで……」
 少女は小さな咳払いを数回した。そして手首に付けていた鈴のブレスレットでリズムをとりながら、細い喉を鳴らし始めた。

 青き乙女 御言葉を聞く
  いざゆかん その光 求めらるる地へ
 優しき思ひ 寒空を
  いざゆかん その力 望まるる淵へ

 少女の歌う清涼な響きが室内に沁みわたるのに、ルヴァが瞳を丸めた。
 彼女はそこに、静かな称賛を見つけるや口元を小さく綻ばせた。
 少年は不思議な興奮のまま、本をぱらぱらとめくって見せる。 
「繰り返す言葉はリフレイン……。伝えたい物語とメッセージとがちぐはぐに内在しているのは、歌だったからか……! そっか、だからこんな書き方をして……! じゃあ、この本にあるのは全部、音楽……?」
「……うん。あのね、私たちのお役目の一つなの。神子の口から口へ、私たちの歴史を歌い継ぐの。こういう風に歌って子供に教えるの。そうして、記憶になっていくの。《ひとりぼっちのアザラシ》の話しをご存知?」
 カティのほうも、少年につられて饒舌になってしまう。
「アザラシの話……? もしかして、悲しいアザラシの話かい? 大波にのまれた子供のアザラシが帰ってきたら、皆の事を覚えていなかったっていう、あの?」
「そう! なあんだ、下界から来たというから、知らないと思っていたわ」
「母さんが小さいときに話してくれたんだ」
「私も、そうなの」
 二人は小さく笑い合う。
 カティにとって、そしてルヴァにとって、同年代のワニアというのは希少な存在だった。
 ――こんな風に知り合いたく無かったな……。そうしたら、ルカと皆で良いお友達になれたのに……。
 小さな共通点に心を温める二人の間に割り込むものがあった。
 天窓から風と共に転がりこんできたそれは、白と黒の二匹の豹だった。身体の大きさは、カティやルヴァと同じくらいだろうか。
 神子の少女は、その二匹から感じる魔力をいち早く察し、立ち上がって退いた。
「魔物!? どうしてこんなところに……!」
 両手の中に光の弾を創り出すカティの耳に、何処からか子供の声が聴こえた。それも二人分。
「お話し? 聞きたい、聞きたい!」
「読んでくださいな」
 わくわくと弾んだ声がしたとおもうと二匹は青白い光に包まれた。
 今だ、とばかりにカティが光の弾を放つと、二匹は尻尾でそれを交換するように弄んで、空中で弾けさせてしまった。
 唖然とする神子の手前で、ルヴァは落ち着き払っていた。
「やあ、来たね。シロ、クロ。首尾はどう?」
 彼の声を合図に、二匹の豹は人間の子供に化けてしまった。
 頭頂が黒い少年が得意気に胸を張る。カティには彼の着ている服に見覚えがあった。確か、ルカの物だったように思う。
「ばっちり! おれたちなら、ぴょんだぜ!」
「でもルヴァを乗せたら、わかんないですね」
 反対に、頭頂が白い少年は顎に手をやった。彼はカティの服を着ていた。
「わかった。二人ともありがとう。これで経路ルートが確保できる……!」
「うん! 母上と『待ち合わせ』!」
「『待ち合わせ』楽しみです!」
 少女は彼らが来訪者であると気付くと共に、驚きを隠せずにいた。
「……嘘……。その力……、あなたたちもワニアなの……?」
 いくら新人とはいえ、カティにも魔力の善悪を見抜く力はあった。
 ――ワニアに属する自然の力と、人ならざる変化へんげの力……。でも、この子たちの心から邪悪なものは感じられない……。
 緊張に冴えわたる頭で訝るカティの前で、双子は呑気に首を傾げあっていた。
「さあ? 知ってる?」
「知りません、兄上」
「わかるのかい、カティ?」
 ルヴァがどことなく嬉しそうに尋ねてくるので、少女はゆっくりと頷いた。
「……だって、そうだわ。私たちと同じ力を感じるもの。でも……。どうしたら、人間と魔獣から子供が生まれるの……?」

     3

 コロボックルの青年は、この戦をヴァニアス解放軍の一員として乗り切ることを決めていた。五月の訪れと共にアマネセールを発った彼は、目利きの相方と共に現在その帰路についていた。
 彼らが選んだ道は、御山のふもとをなぞる獣道だった。ヴェデン・ヴァリの道はぬかるみが多く馬車には向かないが、岩盤の多い《御山》の近くは、運良く乾燥していた。それでも、鉄製の丈夫な車輪が土に大きな轍を残すのは変わらなかった。
「いんやぁ、でっかいキャンプだったけど、だあれも気づかず! 穴ぼこ警備だったのネ!」
 ロップのだみ声がご機嫌に響く。とんがり帽子の中に押し込められた、こんがらがった毛糸のような髪の毛が、馬車の揺れに合わせて自由自在に形を変える。ついでに、横長のとんがり耳も揺れる。
「見過ごしてもらったと言うには、随分手薄でしたね。ヴァニアス騎士団を総動員したわけではなさそうです」
 ロップに同意したのは、二台繋がった幌馬車の隣をぐるりと駆ける騎士だ。彼の馬術は落ち着いていて、かつ実に軽やかなものだった。その証拠に鎧を着せられた馬も落ち着いた足取りをしている。
 にゃはは、と商人が笑う。
「今回は大成功! どの武器防具も良い感じネ! 流石はマスターと呼ばれるだけあるのネ。やっぱり使用者じゃないと判んない事、沢山! マスケットなんて曲がって無けりゃ良いと思いがちだもんネ。ねえねえ。鑑定はアナタ、値切りはワタシで、武器商やってかないかネ? 成功のビジョンが見えたのよネ! ネ、ドーガスのにーさん!」
 騎士は面頬を上げ、苦笑する。
「……あなたのお気楽さには救われますよ、ロップ君」
「それは顔だけネ。内心、ひーやひーや、なのネ」
 武器を運んでいる最中だったが、二人は和やかにアマネセールへ向かっていた。
 しかし、騎士は一瞬、鳥のさえずりの彼方へ耳を傾けると、低く問うた。
「……走れますか?」
 商人は彼の言わんとするところが十二分に解かった。線のように細い左目を軽く開いて見せる。
「良いネ。商品を捨てればの話ネ」
 そう言い合う二人の耳には、がさがさと草根を掻き分ける音が届いていた。
 弓ならばとっくに射程距離だ。
「意地悪な言い方です」
「うちのかわい子ちゃんたちだからネ」
 二人が呼吸を揃えて拍車をかけようとした時、茂みの中から細い影が現れて道を塞いだ。
「あら、丁度良いところに。お二人さん」
 銀色の流れが陽光を跳ね返す。
 見なれた少女の登場に、二人は驚いて手綱を引き、自身の目を疑った。
「……ミルちゃん? 嘘、あなた、今は《御山》の天辺にいるんじゃ――?」
 ドーガスは、テュミルが戦に向かない子供たちを逃がす役目を負ったと聞いていたものだから声を裏返してしまった。
 信じられない、と言う風に追及するドーガスに、少女はあっけらかんと答える。
「あは。予定ではそうね。でも、ちょっと気が変わって、降りてきた」
「そんな調子で子供たちを置いて来たんですか?」
「うん。あたしがいなくてもあそこにいれば大丈夫でしょ。古代の民じゃないと解けない結界がある」
 ――でも、ミルちゃんは降りてこられたんですね……?
 ドーガスはふと沸いた疑問を飲み下す。じっと姿を見てみると、少女の露出した肌にはところどころ赤い線が刻まれていたし、膝まで覆うブーツも泥まみれで本来の色を失っている。余裕そうな顔色も、安堵の裏返しのようだ。それにまだ、肩で息をしているところを見ると、彼女なりに必死に駆けてきたのは間違いなさそうだった。
 ドーガスはそっと溜息をつく。
 ――また無理をして……。
「ミルちゃん、ここはもう、あなたの来る場所じゃありません。私はこういうことをさせる為に剣を教えたつもりはありませんよ」
「剣ね。あれ、あたし苦手」
「ええ。だから、馬鹿な真似は――」
 騎士の姿をしたドーガスの脇をくぐり、少女は荷馬車にもぐりこんで何やら物色し始めた。
「あ、これ、良さそう! 火縄銃ハークウィパスとどう違う訳?」
 弾む声は、無理に張り詰めた音色をしていた。
「流石ねーさん、お目が高い! それは、スナップハンスロック式のマスケットなのネ。フリントロック式っちゅう、火打石で着火するタイプの仲間だけど、それよりも暴発しにくくてお勧めなのネ。火薬とたまを入れるのは従来どおりだけど、やったことあるのかネ?」
「当然。ちっちゃいのは持っているから」
「ほんで、ねーさん。お代はどうするネ?」
「グレイの名前でツケといて」
 少女はその言葉同様、自分の気に入った装備を手早く取り扱った。
 マスケットが二本、ロンデルダガーが一本、キルトを数枚取りよけると、自身のビスチェの上から装備を整え始めた。銀色のポニーテールを一度解き三つ編みにすると、それをきつく頭に巻き付けてピンでとめた。そしてその上から頭巾を被る。
 全身を深緑色に染めた少女を止めんと、馬を降りたドーガスが彼女の肩を掴む。
「ミルちゃん……本当に独りで行くつもりじゃ……」
「そんなこと、しない」
 少年に扮した少女は、薄紫の瞳で真っ直ぐにドーガスを貫いた。
「ねえ、お願い。ちょっと付きあってくれないかな、マスター。あたし、明日の朝にここで『待ち合わせ』をしているの。その後に乗せて行って、アマネセールへ。大丈夫。絶対ばれないようにするから」

     4

 『待ち合わせ』。
 それがあの日、テュミルがルヴァに残していった無言のメッセージだった。
 他に小さな紙切れもよこした。
「……『出来る限り秘密を聞きだすこと』……。テュミルさん、人使いが荒いよ」
 ルヴァは癖の無い水色の髪を結わえ、その上から真っ赤なバンダナをしっかりと結んだ。鏡が無くてもそれくらいは朝飯前だった。実際彼らは、夜明け前に身支度を整えていた。
「ね、お洋服畳みましたよ、ルヴァ」
「行こうぜ、母上のところに!」
 双子の兄弟はと言うと、その場でジャンプしくるりと前転をした次の瞬間には、それぞれに変身を遂げていた。保護した当時には出来なかった魔力の制御も、身体と理性の成長に合わせて可能になってきていた。
「……ねえ、君たちは辛くないの? ……ワニアと魔獣とのハーフなんて……」
 ルヴァがそれぞれの胴体に、風呂敷で包んだ荷物を結びつけながら問う。
 クロが喉を鳴らす。
「んー。人間じゃないとは思ってたしな」
「ですね。でも人間でもあったんですね」
 額を擦りつけ合う中睦まじい魔豹の兄弟が、金色の瞳をルヴァに向ける。そして一つ、ゆったりとした瞬きをおくってよこした。親愛の情だ。
「……強いね……」
 ルヴァは二匹の喉元をそれぞれに掻いてやる。
「そうかなあ。オレ、思い出したくない事、いっぱい。父上と母上と会う前はすごい嫌な事ばっかり」
「でも、いっこだけ良い事あったですよ。優しい女の人がお話しと文字を教えてくれました」
「真っ暗だけど、水色の髪なのは解かった。でも、死んじゃった」
 ――二人はその女性をお母さんだと知らず……。
 苦い思いをそっと飲み込んだルヴァがシロの背中にまたがったとき、葉を伝う雫のようにささやかな声があった。
「……行くのね」
 音も立てずに、少年があてがわれていた部屋へ現れたのは神子カティ・ヒュムニ・アアルトだった。
「……見つかっちゃったか……」
「魔力がふんわりと香ったの。すぐに解かったわ」
 ふふ、と謳うように答えるのはワニア伝承の優れた歌い手であるカティらしかった。
 ルヴァの潔癖ともいえる対応から、少女は警戒を解くようになっていた。
「……ありがとう、ルヴァ。あなたが悪い人じゃなくて本当に良かった」
「それは僕の台詞。《ワニア民族譚》、全部君に教えてもらっちゃったんだ。それにしてもみんなの目は欺けただろうか……?」
「……多分。ルカにも言ってないから……」
「そんな! それじゃあ……、僕たちが、その……。……して、しまったと、誤解させたまま……ってこと……? 君の好きな人なのに、そんなのは悲しすぎる……」
「……きっと。でも、最初に、大丈夫だよって言ってあるから……」
「でも――」
 そう言いかけた少年の隣で、黒豹が音もなく天窓へと飛び上がった。彼の臀部に幼い声が響く。
「約束の時間、きました」
 ルカに弁明できる機会を失くすのだと思うと、ルヴァの気持ちはざわついたままだった。
 ――言い訳にしか聞こえなくても、ちゃんと会って言うべきだったんだ……。
 しかし、テュミルとの『待ち合わせ』の日まで、彼に会うことはかなわなかった。向こうから避けられていたとも想像できる。彼の気持ちを慮れば、その行動に難癖を付けられない。
 ルヴァはそっとシロにしがみ付いた。つやつやした毛並みが柔らかな頬にちくちくする。
「カティ。じゃあ、僕達は行くね」
「……うん。さようなら、私の兄弟たち」
「さよなら」
 手を振る少年に、少女も振り返す。
 二人が触れ合うことは無かった。
 それは、お互いが抱いている、それぞれの恋人への強い思いを尊重し合った結果だった。

     5

「あら、遅い見送りだわね」
 緑の頭巾を被った少女は、振り返りざまに言った。
 彼女は、先程待ち合わせた年若い仲間たちを迎え、彼らをつけてきた人物に向かって声を投げたのだ。
 美しき追手は切れ長の瞳で追及してくるが、テュミルは一向に動じなかった。気楽に手を上げてさえみせる。
「ハイ、イルマリ。元気だった?」
 神子は解せぬと口を尖らせる。
「……こんなことだろうと思ったが、テュミル。回りくどい事をしなくとも、揃ってマールの門から去れたろうに? なぜそうして身を危険にさらす?」
 匿ってもらった上に逃げると言う、肩身の狭い境遇の少女だったが、その立ち居振る舞いは堂々としていた。まるで、決心がついたと言う風に。
「あたし、気が短いのよ。それでいて、意地っ張り。だから、いじけて山籠りに来てようやくわかったの。あたしがいたい場所がどこか。すべきことは何か」
「お子らを置いてゆかずに?」
「みんな、二枚目でしょ。だから、悪戯されたら困るの」
 舌を見せておどけるテュミルが小憎らしいが、イルマリに否定はできなかった。
「……そう思われるのは私の責任だ」
 神子はらしくなく頭を下げると、双子に駆け寄って後ろから抱き締めた。
 二人は驚きに身を固めるも、鼻をひくひくとさせるとイルマリに腕を回した。
「おばさん、あったかい匂いがする」
「あの人と似ている匂いです」
 にっこりする双子に対して、何故か神子は瞳を潤ませていた。
「そうか……。お前達、サーシャという名に覚えはないか?」
 双子は顔を見合わせ、次にイルマリを見上げた。彼女は何度か瞬くと眉を傾け、息を吐いた。
 正面には、距離を保ったルヴァが強張った顔で睨みつけていた。
「……イルマリ様……。残念でしょうけど、カティと僕には何もありません……」
「……私が強引だった。焦りを露わにした私を許してくれとは言わない。だが、私の罪滅ぼしと思って、聞いてほしいことがある」
 神子はターコイズブルーの瞳を一同へ回した。
「《海の契約》はルヴァ、お前を救う最後の手段だと、覚えておいてほしい。それは……」

     6

 開戦を翌日に控えた、ヴァニアス歴一〇二四年、五月十四日。
 古城アマネセールでは、ヴァニアス解放軍の決起集会が行われようとしていた。ヴェデン・ヴァリを含むサンデル領を潤していた黒い雨雲がほどけてゆくのに、人々は吉兆を見ていた。
 階段の踊り場を壇上に見立て、城のロビーを大広間のように使うというのは軍師のアイディアだった。
 ロビーにはグラズアの仲間に加え、宰相であるエフゲニー・リンデン伯爵こそがヴァニアスの悪政を取り仕切っていた本人だと信じ、それを正そうと言う意思に賛同した平民たちが解放軍に力を貸さんと集っていた。
 その顔触れは実に様々だったが、――それもそのはず、海の人間も陸の人間もいた――彼らは共通して調理器具や農機具という寄せ集めの装備、日に焼けた赤い頬、そして勇気に輝く瞳を持ち合わせていた。
 彼らは解放軍に身を置くグラズアが本物の国王であるというセルゲイ・アルバトロスの説を信じ、支持していた。
 そして何より、故アナシフィア女王を《金の女王》と呼び慕っていた。
 アナシフィア女王は十八の若さで即位するや、「政治なんて、何も見ずに決められないわ」と言い、足の悪いクラヴィス王配と共に馬車に乗ってヴァニアス中を視察して回った。
 彼女は靴が雨や土に汚れるのを厭わず、誰かれ構わずに話しかけ微笑みかけた。そうして国民はたちまちにこの若い女王のとりこになった。この国家元首本人が旅歩く型破りな調査は、長男のグラジルアスが生まれるまで続いた。
 その《金の女王》の息子に、亡き女王の清い精神が失われていなかったと知るや、革命に声高だった農民たちは保守派へと翻った。
「大将軍の言う通り、陛下は悪い子じゃなかったんじゃの!」
「なあなあ、噂の鬼神殿ってどいつだ?」
「その陛下はまだか!? 顔を見んことには解からん」
「そういや、大将軍がおらんな」
「んだな! 御顔を早う、見せていただきたい!」
 グラズアの登場を待ちわびる声が興奮と共に高まる中、当の本人は影に隠れ、小さな苛立ちをつま先に表していた。その格好は深緑のマントに鎖帷子という軽装のままで、これから戦陣に立つ大将の姿にはとても見えない。
「……遅い。早起き老人が昼間に顔を見せないなんて……ベッドの上で干からびているんじゃないだろうな?」
 角の欠けたタイルの上をうろつく青年王の背中に、ぴしゃりと批判が飛んでくる。
「おや。グラズア殿でもそんな暴言を吐くのですね」
 こんな時にグラズアに向かっておどけた物言いを出来る人物はたった一人しかいなかった。
 軍師は眼鏡を丁寧に拭き上げると元通りに装着した。これでもう四度目だった。
 エイノの緊張を肌で感じ取ったグラズアも、肩をすくめる。言い知れぬ昂りを覚えているのはお互い様だ、とでも言えればよかったのだが。
「人は選んでいるつもりだぜ。ああは言ったけれど、例えセルゲイのところに天のお迎えが来たとしても、俺が丁重にお断り申し上げる。この爺は鎧と共にミイラになる宿命なんだ、ってな」
 小さく鼻を鳴らした軍師の口の端は、その言葉に反してまんざらでもない様子だ。
「つまらないジョークですが……貴方なりに気を使ってくれたということにしましょう。よろしく頼みますよ、我が王。戦の今、守護神と謳われるアルバトロス殿を失うのは痛いですから」
「……ああ――」
「ごめん! エイノ! グレイ! ……遅くなって!」
 グラズアが首を回すと、そこには肩で息をする青年がいた。鉄製のヘルメットから元気に飛び出す桃色の髪で、正体はすぐに解かった。
 だが、その彼の幼馴染は目もくれず、眼鏡のレンズを拭き始めた。これで五回目だな、とグラズアはそっと数えた。
「ユッシ? どうしてユッシが謝る必要がある? 僕達はアルバトロス殿を待って――」
「まァ、いいから! 話は後だ。グレイ、やっと準備ができたんだぜ、こっちに来てくれ」
「えっ? でも、もうすぐ時間だぞ?」
 グラズアは仲間に腕を引かれ、広間の奥の階段を降りる。そこは使用人たちが出入りするような裏口に通じていた。
 外の光が差し込むそこに、台車と人の影があるのが見えた。
「こんなに早馬をしたのはいつぶりかのう。儂が骨と皮でよかったと、お馬ちゃんがゆうとるのが聴こえそうじゃわい」
 埃っぽい逆光にまみれていた彼を誰だかすぐに解からなかったグラズアだが、その声を耳にするやピンときた。
「……セルゲイ? この大事な日に散歩に行ってたって言うのか? 聴いて呆れるぜ。それとも守護神の余裕か?」
 グラズアが声を荒げると、老将軍もそれに応戦する。彼のほうは息も絶え絶えと言う様子だった。
「おうおう、敵軍を横目にしながらの散歩は楽しかったぞい、グラズア。……数日はかかったがな。お前の為に老体に鞭打ってサンデルまでこれを取りに行ってきたというに。なんちゅう言い草をされたもんじゃろう! おじいちゃんは哀しい!」
 そう言ってアルバトロスが顎をしゃくると、既に元気を取り戻していたユッシが荷台を覆っていた帆布を景気良く引き剥がした。
 乾いた音の後に砂埃が煌めきながら舞い落ちる。その向こうに現れたのは、黒鋼でできた兜と鎧という戦装束の一式だった。青黒く光を跳ね返すプレートアーマーには、刺繍を思わせるような金細工が縦横に施されている。その一着だけでも一財産に値するだろうことは容易に想像がついた。そしてそれがただの鎧ではないことが、グラズアにははっきりわかった。物言わぬ鎧に圧倒される。
「こんなものが……サンデルに……?」
 アルバトロスは布にくるまれた兜を恭しく持ち上げると、丁寧に包みを開いた。
 布の中から姿を現したのは、天を仰ぐ竜を頭の頂に従えた獅子の頭そのもの――それくらい精巧に作られた兜だった。それらの瞳は金色に輝き、虚空を真っ直ぐに見つめている。鼻に皺を深く刻み込んだ獅子が今にも噛みつかんと開いた口元が、装着者の顔を出す部分になっている。
「若き日のグレイズ様が、来るべき時にと玉鋼で作らせた《獅子》の鎧じゃ。あの方が去る時、マルティータ様の墓守にとサンデルに永久貸与していたのじゃがな。それをルフィノからふんだくって来てやったわい」
 老将軍から手渡された獅子の兜は、グラズアの両手にずっしりとした重みと共に彼を睨んだ。
「……獅子は初代国王の建国の誉れの象徴で、伝説の生き物じゃからな。おうおう、見るからに凶悪な牙よ。まさか、儂の目が黒いうちにこれを使うときが来るとは思わなんだがな……」
「……爺様の……。俺が使っていいものなのか? セルゲイ、むしろ大将軍のお前が――」
 アルバトロスは穏やかにかぶりを振る。
「この期に及んで何をゆうちょる、馬鹿王子。これは、お前の血脈の証明じゃ。その身に獅子王の血を持つ、直系の王族たるお前に相応しい物じゃよ」
 そう言って背中を叩いてくる老将軍の目元が、自信を持て、と囁いているようだった。アルバトロスの憐みとも信頼とも異なるその暖かい眼差しに、どこか懐かしささえ覚える。
 小さく感傷に浸る二人を剣士が捲し立てる。
「っていうことだから、オレ、手伝うからさ、コレ早く着てくれよ、グレイ! 集会にきた皆が待ちくたびれて帰っちまわないうちにさあ!」

 ユッシの言う通り、広間を埋め尽くした人々の野次は高まる一方だった。
 元来、喧騒を嫌うエイノユハニ青年が苛立ちに青筋を立てていると、その耳に重く金属の軋む音が近付いてくるのが聴こえて来た。
 軍師ははちらと、いつもの冷徹な一瞥をくれてやるつもりで音のする方へ鶯色の瞳をやった。
 だがそれは、本人の予想に反して見開かれる結果となった。
 そこに現れた黒ずくめの男は、堂々とした姿の割に情けない声を発した。
「……な、なんだよ、エイノ……。どうせ、似合ってないんだろ? 俺だって解かっているよ……」
 恥ずかしげに佇むのはグラズアだった。
 先程の軽装と比較すると、外見から発せられる威厳は雲泥の差だった。
 軍師は思わず口元を押さえた。
「ふふっ……」
「ほ、ほら、笑った!」
 鏡を見てこなかった青年王は、藍色のマントを身体に巻きつけて照れて見せるも、その動きは指先まで覆うフルアーマーに邪魔されて直線的で大変ぎこちないものだった。
「いえ、似合うか似合わないかで言うと、似合っていると思いますよ……。ふふっ! 獅子に首を丸のみにされたみたいで……!」
「やっぱ、脱ぐ――!」
「それは得策ではありません」
「お前が笑うってことは、他の奴らにも面白いんだろ……」
 ――ミルが見たら、小馬鹿どころか大いに馬鹿にしてきて、囃したてられるだろうな。
 ふとよぎった少女の面影と共に言葉を飲み込んだグラズアは、軍師の鳶色の瞳が楽しそうに閃いたのをうっかり見過ごしていた。
「さあ、時間です。グラズア殿。では、いってらっしゃい!」
「えっ?」
 グラズアが唇を尖らす正面で、エイノがにやけた口元もそのままに微笑むと、そのまま彼を階段の踊り場まで突き飛ばした。
 着なれぬフルアーマーはバランスがとりにくく、グラズアは大きくよろめきながらの登場を果たした。彼は獅子の兜で重たい首をぐるりと回すなり、その頭に乗せた獅子と共にきっとエイノを睨みつけた。
 ――また何か企んでいるな、エイノ? これが待たせた代償かよ?
 眼鏡の軍師はそれにひるむことなく満面の笑みで手を振ってくれるが、それがまた何時だかの女装の件を思い出させて腹立たしかった。
 謎の人物の登場に、ロビーが一瞬にして静寂に包まれた。
「若!」
 誰かが感嘆の声と共に盛大な拍手を贈り始めると、辺りが俄かにざわつきだした。
「……誰だ?」
「えっ、グレイ? 鎧、似合わないねっ」
「……うちの王様か……?」
「あれが、師匠の言っていた……」
 誰かが答えを見つけたとなると、次の瞬間には大歓声が巻き起こった。
「陛下!」
「よっ! 大将!」
「グラジルアス王!」
 グラズアを口々に呼ぶ声が喝采を呼び、十分に温められていた会場はすぐに熱気に包まれた。民衆の好意か、はたまた汗に蒸れた肌着のせいか、グラズアはなんだがむずがゆい気分がした。
 ロビーに集まった解放軍の頭数は数え切れず、大きく開かれた玄関の向こうにも人々がひしめいている。皆がそれぞれの胸に期待と興奮を抱いているのが、グラズアにも伝わってくる。
 重たい頭で民衆を見下ろす感覚は、六年前のあの哀しい戴冠式の記憶と重なった。
 彼はそっと拳を握る。
 ――いや、あの時とは違う。
 俯きがちに王冠を頂いていた少年は、王冠を獅子の兜に挿げ替えたのだ。
 細く頼りなかった背中が逞しく成長したという証拠のように、重苦しい鎧を身にまとっている。
 グラズアは金色の肩当てを軋ませて胸を張る。
 だが、彼が演説の為にと大きく吸い込んだ呼吸は、声にならずに終わってしまった。
 それは、いつの間にか隣に並んでいた軍師のせいだった。彼は二回、良く響く音で手を打ち鳴らすと、たちまちに寄せ集め軍人たちの集中を一身に浴びた。
「一千の民よ、ようこそ、血を血で洗う戦場へ!」
 被っている獅子と同様にあんぐりと顎を下げたグラズアに構わず、エイノは大き過ぎず、だが良く通る声で民衆に語りかけていた。
「貴方達の大切な家族はサンデル公の庇護の元、方々へと身を寄せ、今やここには戦士しかいない。勇気ある者しか!」
 エイノの拳がぐっと握られると同時に、兵士たちの声が高まる。
 彼がその横顔をまじまじと見ていると、眼鏡の向こうからウインクが飛んできた。
 軍師はそのまま腕を振り下ろす。
「勇気ある戦士達よ、祖国を愛する者達よ! この黒き獅子の旗の下、《黒獅子王グラジルアス》の名の下、誇り高く戦いたまえ!」
 エイノの宣言を待たず、民衆は声を上げた。先程よりも荒く、高らかに。
 軍師の演説は民衆の心をすっかり掴んでしまったようだ。立つ瀬がなくなった気がしたグラズアだったが、それも一瞬の杞憂に終わった。
 興奮が爆発したロビーを包み込む二階の手すりから旗が一斉に垂れ下がり、その姿を現したのだ。空色に染まった旗の中央に、紅白の薔薇を首に飾った黒い獅子の影が縫いとられた旗だ。国の象徴・棘のある薔薇の茎を命の象徴である首に巻きつけた真黒な獅子はまるで、国を背負ったがために自身の命を削らんとするグラズアそのもののようだった。
 ――偶然にしちゃ、出来過ぎじゃないか……?
 グラズアがサファイアの瞳を丸めていると、その背中に鋼の鈍い音が響いた。
 アルバトロスだった。
「大将軍!」
「守護神だ!」
「アルバトロス殿!」
 彼の登場に、会場は沸きに沸き立ち、老将軍はそれに答えんとざらついたバスを張り上げた。
「皆、よくぞ私の声に答えてくれた! 諸君らも知っての通り、国王による独裁は全てリンデン卿の仕組んだ筋書き! 民の母・金の女王アナシフィアの息子グラジルアスはその意思を継ぎ、ここに立ち上がりなすった! 今こそ奴を倒す、真なる革命のときよ!」
 それぞれが手にした武器を振りかざし雄々しく猛る中、ようやくグラズアの出番と言うところか、彼の背中が押された。
 堪らず手すりを掴む指先が、がしゃりと音を立てて軋む。
 波が引くように興奮を次第に収めていった民衆の前で、グラズアは小さく咳払いをした。
 ――こんなとき、母上だったら……。
 そっと閉じた瞼の裏に、在りし日の女王としての母を映してみる。
 だが、グラズアは長い間感傷には浸らなかった。
 ――いや、母上はもう……いない。戦うのは俺なんだ。
 空気を胸一杯に取りこむのに合わせて、体のあちこちから金属の擦れる音が聴こえてくる。
 そして、その向こうに潜む剣と剣のぶつかりが潜んでいることも肌で感じていた。
 ――平和なヴァニアスを取り戻す……。もう、引き返せないんだな……ミル……。
 じわりと目頭を熱くする感情をかなぐり捨てるように、彼はぐっと目を見開いた。
 そして、ぎこちなく獅子の兜を脱いで抱えると、頭を深々と下げた。蒸れていた頭に風が通る。
 小さなどよめきがさざ波のようにロビーへ、そして玄関の向こうの広場へと伝わってゆく。
 青年王は頭を上げると、ようやく口を開いた。集まった人々の一人一人と目を合わせながら。
「……皆。まずは謝らせてほしい。この五年間、皆からの税収を強め圧政を強いたのは確かにリンデン卿だった。だが、私はそれを解かっていながら、止めることができなかった。止めなかったのだ、たった二人の妹の身柄を案じたがために……」
 グラズアは針のむしろのように、その場にいる人々の注目を全方位から集めていた。
 特に、左頬には軍師の厳しい視線が突き刺さっていた。
 それに構わず、グラズアは続ける。
「私は、君主として大きな過ちを犯した王だ。自身の家族を守るという利己的な目的の為に、皆を苦しめた。そして、それを知らずにいた、最低の君主だという自覚をしている」
「……グラズア殿!」
 刺々しい小さな叱責。
 ――俺がただ謝り通すとでも? もちろん、そんなつもりはないさ、エイノ。聴いていてくれ。
 グラズアは左の軍師を一瞥すると、再び兵士の顔へと視線を戻した。
「今更と怒る者もいるだろう。許してほしいとも言えない。だが――」
 黒髪がどうなることも構わず、グラズアは再び獅子の兜を被り直した。
「私はここに誓おう! この旗に、この鎧に、この身に流るる血にかけて! この身を賭してヴァニアスに平和を取り戻すことを! 黒獅子の旗の下に!」
 グラズアがすらりと長剣を引き抜き掲げるのに合わせ、兵士たちの興奮はこれ以上ないほどに高まった。彼らは熱に浮かされたように、口々に叫んでいた。
「黒獅子の旗の下に!」

     7

 王室が国王を騙る国賊グレイ・シールにつきつけた宣戦布告から一カ月が経過した、五月十五日。
後に《アマネセール攻防戦》と呼ばれることになる紛争がここに始まった。
 何の前触れもなく現れた反逆者に対し、その作戦の指揮は宰相のエフゲニー・リンデン伯爵が執り、国王が現場に置いて指令を出すという異例の事態に、国内がざわついているのは言うまでも無かった。
 それは静かな始まりだったと記録にはある。
 サンデルの関所に近くに陣営を構えたグラジルアス王が、そこに真紅の《三本の薔薇の旗》を掲げた。
 それが彼らの宣戦だったのだ。
 一方、国家反逆者グレイ・シールの軍勢は要塞城アマネセールに《黒獅子の旗》掲げる以外、動く様子を見せなかった。
 サンデル領の都ラズ・デル・アニルをぐるりと湖が囲っている数多の湖群を、人々はヴェデン・ヴァリ――水のある場所――すなわち湖水地方と呼んだ。
 そのヴェデン・ヴァリの東端、海に面した半島部に要塞城アマネセールはあった。
 アマネセールの外堀を埋める川を渡ってから南西に下ること一〇キロメートルの地点では、黒獅子の紋章旗を掲げる騎馬隊が堂々とした姿を見せていた。
「弓兵およびに伏兵に伝令。合図と共に一斉射撃せよ」
 プレートアーマーに身を包んだ将軍が、これまた重装備の葦毛の馬の上から冷たく指令を飛ばす。
 少年の声にしては、こなれた物言いだった。
「はっ……」
「あ、待って」
「何でしょう、将軍殿」
 手綱を引きかけた伝令が、兜の中から尋ねる。彼はサンデルの騎士だった。
「……若が……。人を殺さないようにと言っていたから……その……無駄な血を流さないようにと……。ええと、あと、君たちも絶対に死なないように……」
 だから、しどろもどろになっている青年に対しても幾分か寛容的だった。
「将軍、簡潔なご命令を」
 戦場での端的な物言いは冷たさの証明ではなく、むしろ優しさの裏返しだった。
 ――ここは、いつもの僕が通じる世界……。いつも通りでいいんだ。
 青年は兜の面頬を上げた。
「目的は牽制と敵の退却! 総員、生きて戻れ!」

 ヴェデン・ヴァリは静かに戦場と化していた。
 《三本の薔薇の旗》を掲げた歩兵たちが、じりじりと戦線をアマネセールへと近付く。
 遠くでざわめきが高まったのを耳にし、解放軍の歩兵隊長をまかされたユッシが生唾を飲み込む。
 森に潜む彼らの目的は、アマネセールへのルートは一本道しかあり得ないという考えを植え付けることだった。すなわち、森は解放軍の縄張りであることを証明しなくてはいけなかったのだ。
 ――グレイの言った通り、どんな奴が来ても無力化するんだ。それじゃなけりゃ、ごめんだけど……。
 一口に兵士を無力化すると言っても、相手の戦意をそげなければ難しい話だった。
「でも、『怖い』って気持ちになってくれりゃ、意外と奥手になってくれるってエイノが言ってたよな……! 湖に落としてしまえば装備がダメになってくれるって……!」
 彼は幼馴染の作戦に全幅の信頼を置いた。勇者は人の為に戦う、そう信じる剣士は、実は一番の平和主義者だったのだ。
 と、そこへ伝令の少年が駆けてきた。彼はキルトに弓を持った、ウェンディの所属する部隊の伝令だった。
「ユッシさん、南西の方にいたみたいです」
「わかった。オレ達が引きつけたら、手筈通り頼むな!」
「はい! コレを使うんですね!」
 少年が腰に下げた革袋をぽんぽんと軽く叩くのを、ユッシが慌てて止める。
「うぁ! 止めとけ、何が起こるかわかンねーぞ! そっちが煙幕か? 薬か?」
 少年は弓矢を支度しながら笑った。
「大丈夫です。ミス・アルケミストの薬はどれを投げても良いって言われてますから」

     7

 五月二十日。開戦から五日経っていたが、どちらに軍配が上がるかは未だ不透明なままだった。
 王国軍は、ヴァニアス王家直轄領から関所をくぐり、サンデル公爵領に入ったところをさらに北上した湖水地方ヴェデン・ヴァリの入口に組んだ陣営に引き返していた。
 それと言うのも、湖の点在するヴェデン・ヴァリにおいて、騎馬隊の長所である機動力が制限され、王国騎士団の実力を十分に発揮できずにいたからだ。
 対する反逆者たちはこのアマネセール地方の出身者が多い様で、土地柄に明るく、平地ならば騎馬隊に蹴散らされるはずの歩兵や弓兵が器用に動き回り、次々に重装備の騎士たちを馬上から湿地へと落としていた。そのため、少数精鋭と用意した一二〇〇の兵は着実に数を減らしつつあった。
 金ぴかの鎧を纏って現場で指揮をとっていたのはリンデン伯爵だった。
 彼は作戦司令部のテントの中に戻ってくるなり、歯ぎしりをとどろかせた。
「おのれ、平民の反逆者風情が貴族にこうも噛みついてくるとは……! 馬にランス、これが最強で無くて何なのだ!? 王国の騎士団が聞いて呆れる!」
 リンデン伯爵は、大きな独り言を言っているつもりは無かった。
 プレートアーマーとマントを身に付けた小柄な騎士に向かって唾を飛ばしたのだ。
「……」
 しかし騎士は微動だにせず、手元の書類をめくっただけだった。
「君もそう思うだろう? 騎士団の一員として情けなくは無いのかね?」
「……私は王に従うために来ましたので……」
 そっけなく答えた声は女性の物だった。リンデン伯爵は彼女の胸ぐらを掴み上げる。
「口答えをするな、シール副官! 指令を発布するのは王であったとしても、実際に作戦を立て指揮をとっているのは私なんだぞ! すなわち、君は私に従っていれば間違いないのだ!」
「……そのように、陛下にもおっしゃっておいでで?」
 ミラーは、毅然として態度を崩さない。
 それが苛立ったリンデン伯爵の火に油を注ぐことをよく解かって、そうしているとしか思えなかった。
 真っ向から歯向かうでもなく、のらりくらりと言うことを聞かないと言うのは、まるで彼の甥グラジルアスを彷彿とさせる。
「……可愛げのない女だ……! あの方がひいきするのでなければ……」
 自身よりも一回り幼い少女に、歯ぎしりがおさまらないことさえ腹立たしかった。
 暗がりの天幕に、焚火のオレンジ色が入り込む。
「シール副官! 陛下がお呼びです!」
 それは一人の青年騎士だった。
 少女がそっとリンデン伯爵に視線を投げたので、伯爵も掴んでいた腕をしぶしぶ離した。
「ええ、ありがとう。では宰相殿、失礼致します」

 グラジルアス王のテントに向かい、青年騎士が先導する形で二人は歩いていた。
 キャンプは一二〇〇の兵の為にあつらえたものだったが、静かなものだった。
 外に灯した焚火の番がいるくらいで、出歩く人々は少なかった。
 湖に落ち、矢に果てた仲間を偲んでいるからかもしれない、とミラーは心を痛めた。
 ――あたりまえだわ、あちらには軍師としてエイノユハニ殿がいらっしゃる……。たとえ実戦経験が無くとも、この森と湖と言う豊かな地形を武器にしないわけが無いもの……。それに、ライン殿だっている。ちょびはいい加減、勝ち目が無いことをわかればいいのに。自分のところからわざわざ一〇〇〇もの歩兵まで連れてきても無駄に終わると言うのに……。
 少女はそっと息を吐く。
 目の前に広がっている戦場。そこに立つ自分を想像しては溜息で打ち消していた。
「……ミラーさん、大変ですね。宰相殿は気性が荒くて」
 青年に聞かれたのかと思い、ミラーは慌てて口を覆った。そして、見上げずに問う。
「もしかして、私に気を使ってくれたの……?」
「いえ、陛下がミラーさんを呼び出したのは本当です」
「そう」
 ミラーはそう言ったきり、口を噤んだ。
 繋いだ馬が、蹄鉄を泥に打ち付けている。
 青年は、不規則な呼吸を何回か繰り返していた。
「……二人のアルバトロス殿が指名手配なんて、俺、まだ信じられないですよ。セルゲイさんはさておき、ラインさんなんて、そんなふうに悪いことを考える人じゃないでしょう。国王に歯向かうなんて。だから尚更」
 彼が無理をして明るい声を出しているのは、明らかだった。
「……そうね……」
 彼の気遣いが、傷だらけの心に塩水のように染みる。
「……でも、お陰で俺にもチャンスがきたって思うようにしてるんです――」
「チャンス……? 今は止した方がいいと思う……。武勲なんか、何時でも立てられると思うわ。じゃあ」
「あ、ミラーさん、そうじゃなくて、俺と……!」
 少女のそっけない忠告は、実は的外れなものだった。
 ヴァニアス国王グラジルアスの近衛騎士・アルライン・アルバトロスが消えた今、彼のポジションに収まりたい男がせめぎあっていた。
 それは、騎士として戦場へ返り咲いたレイピア使いの少女が、男たちにとって高嶺の花として半ば神格化された存在になっていたからだった。

 ミラーが護衛の騎士に導かれてグラジルアスのテントに入ると、テントの主は両腕を広げて彼女を歓迎した。そして、続いて入ってきた二人の護衛に暇をくれてやると、少女の手を取って椅子まで導いた。
 ラミナスは、戦場にいるにも拘らず王宮できるような紅いビロードのスーツを纏っていた。
「やあ、ミレニア。不自由な思いはしていないかね?」
 しかし、少女は座らずに形だけの敬礼をしたままだった。
「……リンデン卿の八つ当たりさえ無ければ、快適な軍人生活を送っているはずですが」
 少女はグラジルアスに扮したラミナスに、とっておきの冷たい声を浴びせかけた。
 彼の瞳が炎のように赤く燃える。ラミナスはそのグラズアにそっくりな相貌を活かす為、髪を短く切りそろえ、黒く染めた。だが、その紅い瞳の色だけは変えられなかったらしい。
 ラミナスは聞く者をとろかすような声音で問うた。
「ほう? 君の気分を害したものが一体何か、私は興味があるよ、ミレニア」
「……あなたには関係ありません」
 彼は鼻で笑う。そっけないミラーにも全く苛立ちを見せず、かえって面白がっているふうでもあった。
「いいや、大いに関係するのだよ。私は君に大事な仕事を頼むのだから。それこそ、あのエフゲニーにはできなかった仕事をね――」
 だが次の瞬間、針のように細い切っ先がラミナスの喉元に突き付けられた。
 それはミラーのスェプトヒルトだった。
「あなたとリンデン卿が何を企んでいるかは知りませんけれど、今ここであなたを仕留めれば、リンデン卿が困ることは解かっています。魔術師ラミナス」
 厳しい眼光に反して、少女の静かな声は少しばかり震え、強張っていた。
「企み? そんなの簡単だろう。エフゲニーはこの国が欲しいんだよ」
「ええ、そうでしょうね。そして、あなたはそれを助けるために――」
「心外だな。助けようとは思ってはいない。ただ、契約の一環で力と知恵を与えているだけだよ。私の目的は昔から変わらず、ただ一つさ」
 人差し指を魔法のステッキに見立てているのか、彼はくるくると空中に円を書き連ねる。
 そのふざけた様子に、ミラーの語気が高まる。
「その目的が、『私に頼みたい仕事』に関わってくると、ラミナス?」
「そうだよ、ミレニア。ああ、それと、陛下と呼んでくれたまえ。どこで誰が聞いているともわからないのだからね」
 彼は正解した少女の手柄を褒めるように彼女を指さしたが、ミラーは低く唸るだけだった。
「……私の陛下は若様だけですから」
 ラミナスの眉が意外だという風に持ちあげられる。
「ほう……。君はグラジルアスを愛しているのか」
「あ、愛して……!? そんなことは今、関係ありませ――」
 少女が動揺した隙に、彼女が握りしめていたスェプトヒルトが、カランと乾いた音を立ててひとりでに地に落ちた。
 柄に絡められた金属に己の指を絡め、握る。使用者が手放さなければ決して離れぬレイピア、それがスェプトヒルトだった。だからこそ少女は動転し自身の掌を疑った。
 ――力が、入らない……!
 その事実に気付いた瞬間、少女はその場に屑折れてしまった。
 ――身体も……? 詠唱も無く、何時の間にか魔術をかけられていたと……?
 ラミナスは膝をつき、愕然とするミラーの顎を持ち上げる。
「あるとも。君の愛するグラジルアスは、君の姉、テュミル・フォーシュルンドの恋人だからね」
「ど、どうしてそれを……!?」
 魔術師はしっとりと頬笑む。しかし、グラズアのそれとは違って、少女の心を凍りつかせた。
「知っているよ。君がグラジルアスを愛しているならば、私は君の良き協力者になれる。テュミル・フォーシュルンドをグラジルアスの元から引き離しておいで」
 唇からも力を失くし始めたミラーの活舌は、覚束ない。
「ミルちゃん……? 姉さんに、何をする、つもりなんです!?」
「何もしない」
「……信じ、られま……せん」
 彼女の意思に反して動きを止めてしまった身体を、ラミナスがそっと抱きとめる。
「どうしてもできないと言うのなら、君の心に種を植えてあげよう。憎しみを糧に育つ、闇の種だ」
 ラミナスは指を閃かせて、いずこからか黒い種を取り出した。
 ――どうしよう……。
 そしてそれを、動けない少女の額にそっと乗せて押した。種は少女に傷一つ付けず、すうっと体内へ侵入した。
 ――私、誰の助けにもなれないまま……。御免なさい、若様……、ミルちゃん……。
 ミラーは朦朧とする意識の中で、助けを請うた。
 ――ライン殿……。
「ミレニア、悪いグレイ・シールに捕らわれている姉さんを取り戻しておいで」
 甘い囁きは、少女の耳だけでなく心も蕩かすように意識の中へ植え付けられた。

     8

 黒獅子軍の歩兵部隊の守備は順調だった。
 アマネセールへの正規ルートが、サンデルの関所から一本道であることを逆手にとって、王国軍を森の中へと誘導したのだ。この蛇のように曲がりくねった道が一本しかないのは、ヴェデン・ヴァリたらしめる無数の湖のせいだった。大なり小なりとなり合っている湖のせいで、辺りの土は乾くことが無い。比較的乾燥して重みにも耐えうる土と言うのは限られた場所にしか無かったのだ。それを繋ぎ踏み続けることで、道たらしめたのである。
 そして、その豊かな水を肥やしにしておがった木々が、首を並べて深い森を形成していた。
「森は僕らの盾でもあり、スカートでもある」
 眼鏡の軍師がこう言ったのを、グラズアはきょとんと受け止めたが、今となってはそれが良く解かった。
 王国軍も森と言う隠れ蓑を用いて敵の目をかいくぐろうとするのは間違いなかった。
 しかし、その意図を正確に読んだ軍師のお陰で、王国軍の四つある歩兵部隊を残り一つと言うところにまで減らせた。湖に落ちた《三本の薔薇》の兵士たちは、助からんがために装備を捨て、這い上がってきたところを捕虜として拘束された。
 だが、その対価も小さくは無い。ユッシとウェンディが参加していた歩兵部隊及びいしゆみ部隊にも負傷者が出た。彼らを引き摺って戻ってきたものの、その六割は深手を負い出血多量のために命を落としていった。残る四割も感染症が危惧されている。
 五日で王国軍の三割を叩いたという吉報に沸き上がるアマネセールだったが、グラズアだけは例外だった。
 浮かない顔もそのままに、真実の王は軍師の拠点とする指令室に入った。
「向こうの参謀がリンデン伯爵であることを鑑みれば、単純な作戦を打ってくるのには間違いあるまい……。身分主義の彼にとって、討たせた歩兵達は捨て駒でしかない……。兵力の少なさを逆手に取れば、広く薄く攻めてくることも考えられる……。しかし、騎馬隊は間違いなく道をゆくから、そろそろここに投石機と火縄銃ハークウィパスを置いて、馬が引いてくるだろう破城鎚ラムを壊しておきたい……」
 黒獅子の兜を抱えた青年は、地図の上に置いたチェス駒を睨み続ける軍師にそっと声を掛けた。
「エイノ、良いか? ……負傷者はどうするつもりだ……? 捕虜もいるんだろ?」
「ここに収容するまでです。綺麗な水があって、まだ薬もある……。城が落ちなければ死にはしませんから」
「……でも、これからも増えるんだろう?」
「……これだけで済むとお思いで?」
 だけ、と強調する声が乾いているのを、グラズアは聞き過ごさなかった。
「そう願うのは悪い事か、エイノ?」
「……いえ。理想を抱くのは個人の勝手です」
「……」
 いつになく冷たい物言いが、敏感になっているグラズアの心に容赦なく刺さる。
「みんな、あなたの理想に勝手に賛同したんです」
「だったら、俺のせいだな」
「……馬鹿な言い草は止して下さい。貴方を軽蔑したくはない」
「……俺はしてほしいよ……」
「ぐれ……。グラジルアス殿! 大変なのよ……であります! 地下牢へ!」
 指令室に飛び込んできた小柄な弓兵が、ぎこちない敬礼をよこす。
 声の高い少年だなとグラズアが思う隣で、軍師がぴしゃりと跳ねのける。
「それはグラズア殿が行くほどのことですか? 私が――」
「エイノ、俺が見に行ってくる。お前は作戦を頼む」
 グラズアは抱えていた黒獅子の兜を自分の代りに見立てエイノの膝の上に乗せると、幾分着なれてきたフルアーマーを鳴らしながら、少年兵の背中を追った。
 冬の名残のように冷え切った地下牢へ下ってゆくと、真っ白な髪を一つに束ねた騎士が仁王立ちで待ちかまえていた。
「おう、来たか」
 年の割に揃っている歯を見せびらかすアルバトロス。だが、その瞳は暗い色を見せていた。その原因なのか、彼は手の甲に包帯を巻いていた。
「……セルゲイ? どうしたんだ、その怪我!? お前、まだ出陣も――」
「慌てるでない。ちゃんと消毒も止血も済んでおる、……あれを見てみい」
 アルバトロスが顎をしゃくった先には、蝋の中でぐったりと倒れている捕虜がいた。彼の身ぐるみはすべてはがされ、下着だけになっている。
 グラズアは地下牢の肌寒さに同情を覚えつつも、家臣に歯向かった事実に腹が立つ。
「……捕虜がやったっていうのか?」
「それはどうでもいい。……あいつの胸じゃ」
 深刻そうにするアルバトロスに小首を傾げながら、グラズアは動かない捕虜の様子を見に屈む。
細い蝋燭の小さな炎が照らした先、人間の胸元に真黒な薔薇が植えつけられていた。それは心臓に花咲き、そこから身体中へと根を張っているように見えた。
「――! 心臓に、何か付けられて……!? 魔術なら取ってやらないと――」
「……いや、それは違うんじゃよ、グラズア。こやつはな、一度死んだ者じゃ」
 首を振るアルバトロスが言わんとすることを、グラズアは想像したくなかった。彼は『死』という言葉に極めて敏感な男だった。
「……どういう、ことだよ……?」
「……わしがグラスリンデンで捕らわれておったとき、言うたろう。エフゲニーが『目の前で食いおった』と……」
 乾いた喉に、飲み込む唾は無い。
「……じゃあこれは……こいつは……。あいつらの魔術で生き返ったのか? それを兵士に?」
「果たして、生き返ったのかどうか……」
 グラズアが愕然と牢獄を見渡す。
 ここまで気付いた耳に、人間のそれではない咆哮が幾つも折り重なって聞こえてくる。
「……もう、人間じゃ……ないのか……?」

     9

 ライン・アルバトロスは独り、死線に立っていた。
 ――僕が……僕がやるしかないんだ……。僕は若の剣だから……!
 アマネセールへと繋がる一本道に戦線を張っていた騎馬隊の将軍は、湖から突如現れたと言う歩兵の正体を見極める為、少数の兵士を連れて様子を見に行った。近くの森に配置して置いた歩兵を、一度下げたことを知っていたのだ。
それが間違いだったと気付くのに、そう時間はかからなかった。
 馬の足に噛みついてくる歩兵なぞ、見たことも聞いたことも無かった。
 強力な味方を失った騎士は、たちまちに窮地に追いやられる。
 それは、彼らを頭からつま先まで包んで守る鎧の重さが、却って仇になるからだった。
 一人、また一人と仲間が倒れるのを助けられないまま、将軍は長剣を振りかざす。
「ごめん……」
 脇から迫ってきた軽装の歩兵に容赦なく叩きつけられたそれは、深く骨肉に食い込んで抜けなかった。抜こうと二、三度試すも難しく、そして目前には同様に言語を失くした人間が野獣のように四つん這いになり、今にもその身体で飛びかかってこようとしている。
「……ごめん……!」
 運良く落ちていた長槍パイクを拾い、その兵士へと真っ直ぐに心臓をめがけて投げる。どういう訳か、致命傷と思われる一撃を与えても、心臓を貫かねば兵士は動き続けていた。飛び散る赤い血飛沫に嫌悪する暇すらない。
 ――こんなこと……。若の気持ちと違う……。
 足元に噛みついて来たもう一人を、引き抜いた長槍で薙ぎ払い、また心臓を一突きする。そうして騎士はまた一人、敵を倒した。
 涙の枯れた灰色の瞳が見下ろした死体は、幼い子供の物だった。
 せめてもの悼みにと、瞼を閉じてやろうと屈んだラインは気付いてしまった。
 先程までみずみずしかった肌はたちまちに乾き、骨に張り付いて、その骨もたちまち風に吹かれて消えていったのだ。ラインがここで倒しきったと思われる兵士もみな同様に、血と血濡れた装備を残してすべて消えていった。
 馬と仲間の遺体が、寂しく横たわる。
「……どういう……?」
 先程までの哀しみを振り切った彼の感情は、驚くほど凪いでいた。
 遠くに剣がぶつかり合う音がした。だがそれも、大地を撫でる風によってかき消されてしまった。
 美しい湖水地方ヴェデン・ヴァリあおが、死臭に満ちた赤によって汚されている。その事実だけでも呪わしいと思うのに、ラインの心の片隅では何かが燃え上がっていた。
 その黒い炎はラインの自責の念をあざ笑うように、活き活きと踊っている。
 ――血だよ。これはオレの力の証明。もうすぐ。もうすぐ。
 ラインは頭を振る。
「僕じゃない……! こんなこと、僕はしたくない!」
 ――戦わなければ死ぬんだ。弱い奴が死ぬ。お前みたいな。
 そっと握った拳を開く。
 一向に乾く様子を見せない血が、ラインの全てを赤く染めようとしていた。
 俄かに、青年の体が震えだす。
 それが恐怖なのか興奮なのかを判断しようとしたとき、一人の騎士が馬に乗って現れた。兜の面頬が降ろされていて、誰かは解からない。
 軽い身のこなしで馬を降りた騎士は、真紅のサーコートを解き、その場に捨てた。
 風に舞ったそれには、《三本の薔薇》が縫いとられていた。
 騎士は腰に納めていたレイピアを抜き、真っ直ぐにラインへ切っ先を向けた。
 彼はその生真面目な構えに見覚えがあった。
「……あなたが反逆者……」
 声を聞いて、疑問が確信に変わる。
「ミルちゃんを返してもらいます。死んでください。今、ここで」
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