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黒獅子物語 作者:黒井ここあ

第三章 マリオネットの憂鬱

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三、光満つサンデル

     1

 雪の名を持つルンタ連峰れんぽう。古い時代の岩肌が露出するそれを下ると、サンデル領だった。
 旅立ちから四日目、グラズア達はサンデル領を見晴らせる高みにまで辿り着いていた。
「――わぁ! グレイさん! こっち! 早くこっちに来てください!」
 持ち前の持久力から、一行の先頭を行っていたのは十四歳の少年、ルヴァだった。
「どうした、ルヴァ?」
 水色のポニーテールとバンダナとを風に遊ばせる少年の元に、グラズアは慎重に降りて行った。
「――わぁ……!」
 彼よりも先にテュミルがルヴァに追いつき、その隣で足を止める。
「……すごいですよね……!」
「何がすごいんだ――?」
 追いついた青年は、感嘆し言葉に詰まる二人の視線の先をなぞった。
 薄く伸びた雲が、山のふもとに広がる景色へと影を落としていて、何も見えない。
 しかし次の瞬間、吹きつける風が雲を流し切ってしまうと、眼下には青い世界が広がった。
「空が……、足元にある……!?」
 グラズアは息を飲んだ。
 ルンタ連峰の裾に広がる無数の湖に、青空がくっきりと映り込んでいたのだ。
 湖の青と空の青、そして遠くで島の端を包みこむ、水平線の青。
 それらが旅人達の視界を、青く染め上げていた。
 グラズアの背後から、小枝を踏み折る二人の男の足音が近付く。
「若? 空はちゃんと上にありますよ」
「嘘じゃないぜ! いいからラインも早く来いよ! すっごい綺麗だから!」
「どれでしょう? ――!」
 主君に誘われるまま、開けた景色を目の当たりにしたラインも黙りこくった。チャコールグレーの瞳に映った水色の世界を認めると、グラズアは頷いた。ラインも頷き返す。
「ふふん。どうじゃ、来てよかったじゃろう! わざわざ歩いた甲斐があったろう!」
 若者たちが自然の作り出した偶然の芸術に舌を巻いているのに、老騎士は満足げだ。
 最後にやってきた彼に、グラズアが振り向く。サファイアの瞳に空色がいろどりを添えている。
「これを見せたかったから、わざわざ山を登らせたのか、セルゲイ?」
「無論じゃ。エイノが魔術による転送を申し出てくれたが、丁重に断ってやったわい。ミルやルヴァはともかく、お前ら二人は世界を知らないからの。魔術に頼る前に、まずおのが足で世界を踏まんといかん」
 なるほど、と頷く二人の青年に、うんざりした声が飛ぶ。
「ええ!? グレイとラインのせいで、四日間も山登りさせられたって訳? もう、ぼんぼん二人だけで歩かせれば良かったじゃない!」
「まあまあ、テュミルさん。僕だって、こんなに時間を掛けて山に登るのは初めてでした。いい経験になったかなって思いましょうよ、ね?」
 テュミルの不平を全て拾い上げる健気なルヴァに、グラズアがぽつりと呟く。
「……荷物は重たくないしな」
 グラズアにとって山登りと言えば、ロフケシアで王立図書館へと向かったあの一件が思い起こされる。
「……今回は自己責任ですよ。どうですか、グレイさん? 辛くないですか?」
「いや、平気だ。むしろ軽いもんさ。あの時に比べたら、着替えの数も半分以下になった。だんだん、荷物のまとめ方が解かってきたみたいだ」
 と言って、グラズアは自身の鞄を軽々と持ち上げて見せる。
 それをにやりと認めるルヴァの頭に、ずしりとした何かが落ちてきた。それは筋張った老人の掌だった。それにぐりぐりと撫でまわされ、少年の水色の髪が乱れる。
「さって、この湖水地方――ヴェデン・ヴァリを抜けて高原に出れば、そこがサンデル城を抱く都、ラズ・デル・アニルじゃ。早う降りて、湖のほとりで野営を組みたいのぉ」
 遠い目で目的地を見据えるアルバトロスに、テュミルが諸手を挙げて賛同した。
「やった! 湖で水浴びができるわよね! 汗ばんで仕方が無かったのよね! おじじもたまにはいいこと言うじゃない!」
「たまにとは何事じゃい。しっかりと潤わせてもらうぞ、ミル」
「なっ……!」
 老騎士の発言に口を噤んだテュミルに代り、グラズアが叱責する。
「――!? 目的はそっちか、セルゲイ!」
「お爺様の言葉を借りるなら、無論、そうでしょう」
「……え? 今アルバトロスさんが言ったことって、そんなにおかしかったんですか?」
 きょとんとする少年に、ラインがそっと耳打ちする。
「お爺様は、テュミルさんの水浴びを覗かんがために湖畔での野営を提案したんだよ、ルヴァ。昔からそうだけど、お爺様はこと、色事に関しては露骨でお下品だから、気にしない方がいいよ」
「えっ!? そ、そうなの……?」
 ルヴァは気まずそうに瞬かせたコーラルブルーの瞳で、アルバトロスを見上げる。
「全部聞こえとるぞ! 水場が近い方が何かと便利じゃから提案したまでで――!」
「伝説の英雄が……。ちょっとショック……」
「ほらお爺様、いたいけな少年をがっかりさせていますよ」
「う、五月蠅いのぉ! いいから、きばらんかい、若者らよ。わしゃ、一人で雪山を往復したんじゃぞ!」
 仲間のじっとりとした視線を背に受け、アルバトロスは一人で先を急いだ。
 誰かがくすりとしたのをきっかけに、笑いに包まれた一行。
 彼らはその軽やかな気持ちのまま再び足を進めた。

     2

「……であるからして、未だ、ヴィルヘルミナ様との連絡は取れないまま……」
「……そうか……」
 現サンデル公爵、ルフィノ・パコ・サン・デル・モンテは、謁見の間において、秘書官から四月五日の報告を聞いていた。
 彼は手持無沙汰なのか、その太い指でたっぷりとたくわえている髭をいじっている。
「……お転婆が過ぎる! 護衛も付けず一人でアマネセールに行くなど! ……とは言いつつも、あの子の歳でそうも言えまいか……」
「はい、御年おんとし二七歳になられます」
「……立派なオールド・ミスじゃないか……」
 不意に髭が音を立てて抜けた。茶色の頭髪に比べ白いそれを、おもむろに床へ落とす。その瞳は窓の向こうに見える時計塔をぼんやりと見つめていた。
「《運命の人》とかなんだか知らないが、いつまでもふらふらされては困るんだがな……!」
 そこに、つつましいノックが聴こえ、すぐに扉が開いた。公爵の許可もなく、中肉中背の男が謁見の間に入ってきて、恭しく礼をした。春の芽吹きも始まっていると言うのに、その身体を厚手のローブですっかり覆い隠している。
「お取り込み中、失礼致します、サンデル卿」
「おお、マルセル! 何か良い知らせがあったのか? ……お前達は引き続き娘の件を」
「御意に。サンデル卿、オラール占星術師殿、失礼いたします」
 マルセル・オラールと呼ばれた男は、目深にかぶっていたフードをそっと後ろに落とした。現れた穏やかな相貌を、藍色の髪がふんわりと包み込んでいる。彼は秘書官と小さく会釈し合うと、その背中を見送った。
「私の報告は、別荘に行かれた公女様の件ではありませんよ、サンデル卿。あなたの御友人が再び、この地に舞い戻られたという噂が聴こえた、それをお話しに来ただけです」
 その声も、ふんわりと温かな色を宿していた。まるで春風の様なテノールだ。
「ほう、セルゲイのやつ、手も早ければ足も速い! それならば、そなたの占った通り、明日にはここに到着することになるな!」
「……そうですね。しかし、誤算がありました。……個人的には嬉しい物でしたが」
「……誤算とな?」
 左眉をぐいと引きあげたサンデル公爵に、占星術師が頷いた。
「……『空に溶ける色彩の髪』を持つ旅人が二名、アルバトロス殿の一行に混じっているのです」
「『空に』……? 古代の民か……!」
 サンデル公は棗色の瞳を好奇心にくるりと閃かせると、身を乗り出した。
「ええ、その通りです。《御山おやま》の村――ラズ・デル・マール以外のワニア――彼らは昔、《御山》を離れ、理想郷《花の都》を求めて海へと旅立ちました。それから現代まで交流が途絶えて久しかったのですが……。まさか、私が出会えるとは思ってもみませんでした……! そろそろ《雪解けの知らせ》で神子みこが降りてきますし、彼らを通じておばばさまにもご報告が出来たらと……!」
 マルセルのいだ声がにわかに波立ち始めるのを、主君は聞き逃さなかった。
「ふむ。やはり気になると見える……。それに、お前がそこまで熱を入れこむのは珍しいしな……。わかった。お主にセルゲイ達の案内を任せるとしようか」
「……よろしいので?」
 マルセルの、髪と同じ藍色の瞳が高揚感に見開かれる。
「……わしとて、そこまで暇を持て遊んどらん。四六時中、あの猿めの顔を拝みたくはないわ。酒があれば、話はまた別なんだがな」
 そう言うサンデル公爵は、いまだ髭を引っ張り続けている。
 マルセルは、緊張にいからせていた肩を溜息と共に降ろす。
「奥様に叱られますよ」
「なに、それが聴きたくて飲んでるようなもんさ」
 また数本、髭が抜けた。

     3

「グレイ、あの時計塔、見える? あれがラズ・デル・アニルの象徴シンボルなのよ!」
 テュミルの指さす先へ、青年たちが顎を上げる。
 グラズア一行は城壁にすっぽりと囲まれている街、ラズ・デル・アニルを目指していた。
 城壁は高く、その足元をくぐらねば街中の様子を見ることができなくなっている。しかし、テュミルの言う時計塔は、その城壁を越え遥か天へと向かって真っ直ぐに伸びていた。その天辺には見張り台らしき手すりと、太陽を模した紋章のサンデル家の旗が翻っていた。
「でか……! 一体、どうやって建てたんだ……?」
「まるで、大きなマストみたいだ……!」
 感嘆するルヴァの言葉に、ラインが首を傾げる。
「……マスト? ルヴァ、これは街だよ、船じゃない」
「そうです、そうなんですけど……。ほら、この街全体が船みたいで、時計塔がメインマスト、サンデル城の塔がサブマスト……そんな感じに見えませんか?」
 そう言いながら、ルヴァは人差し指で街の輪郭りんかくをなぞりながら、神妙な顔つきをした青年騎士に説明した。少年の解説にラインが頷く。
「ほー。ルヴァ、君はすごいな。僕にはただの城塞都市にしか見えなかったよ」
「……陸に居てまで、船のこと思い出すなんて、ちょっと変ですけどね」
 照れているのか自嘲気味に言葉を濁すルヴァの背中を、グラズアが一つ叩く。
「まあ、そういうものじゃないか? ルヴァは海の男だからな!」
「海の……男……」
 ラズ・デル・アニルの外観に見惚れる若者たちの背中を、アルバトロスがぐいぐいと押す。
「皆の衆、ほれ、見えるか? 迎えが来とるぞ! さっさと行かんかい!」
 彼に促された方、城壁同士を繋ぐ見張り塔の間隔が狭いところが、街の門だった。
 グラズアが目を凝らすと、二人の門番の他にもう一人、人影があるのが解かった。
「おじじ、よく見えたわね。おじじってとっくに老眼なんじゃないの?」
「近くはよく見えん。遠くは何となく見える。ほれほれ、急がんかい。待たせては可哀想じゃ!」
 急かされるまま、早足で歩くこと数分。
 城門に辿り着いた一行を、一人の男が出迎えた。
 厚手のローブで身体を覆った男は、優雅な礼をして見せた。それにあわせて藍色の髪とその額に載せられた雫石しずくいしが揺れた。
「ようこそ、光満ちるサンデル、その都ラズ・デル・アニルへ」

     4

「私はマルセル・オラール。サンデル公の占星術師――運命を見届ける者です」
 暖かなテノールが、彼の儚げな笑顔を一層ひきたてる。
「あ……」
 グラズアの、自己紹介をするまいかと自信無さ気に取りだされた右手を、アルバトロスが制した。
「オラール殿、出迎え誠に御苦労。サンデル卿のところで詳しく話すが、今は簡単に。この黒いのがグレイで、灰色のがライン。白いのがテュミルで、水色のがルヴァじゃ」
「セルゲイ、その紹介はいくらなんでも投げやりなんじゃ……」
 髪の色と名前だけの紹介をグラズアが訂正しよう口を開くと、占星術師が彼を真正面に認めてにっこりと頷いた。
「黒髪のグレイ殿……ですね。聞いていたとおりですが、ちょっぴり不思議な気分がいたしますね」
「そうじゃな。しかし、グレイズ様も、その名にもかかわらずからす羽色ばいろの髪じゃった」
 その名前を耳にし、グラズアは瞳を丸めた。それは母の父――すなわち彼の祖父の名だったから。
「グレイズ様――貴殿きでんの国王様ですね、アルバトロス卿。立ち話もなんですから、すぐにサンデル城にご案内しましょう」
 分厚い城壁を貫く門をくぐり、オラールの背中に付いてゆくグラズア一行は、初めての街並みに首を回していた。
 ぐるぐると渦巻くような狭い路を、家々が縁取っている。建物の外壁は少し崩れていたり、古い壁画がそのまま残されていたりと、いにしえからの時代の流れを感じさせるものだった。そして、そのどこからも大きな時計塔を見上げることができた。
 つるりとした光沢さえある、踏み均された石畳いしだたみを辿ってゆくと、サンデル城の庭にまでたどり着いた。
 オラールが警備兵に合図を送ると、閉ざされていた門が重たい音を立てて引かれた。
「さ、こちらへ」
 ローブをひるがえしながら、占星術師はゆったりと足を進める。
「――ん?」
 と、急にマントの裾を握られたグラズア。
 振り向くとそこには、眉をひそめたテュミルの手がかかっていた。
「……ミル? どうかしたか?」
「……あいつ、さっきからあたしとルヴァを見てくるのよ……」
「気にしすぎ……それこそ自意識過剰なんじゃないか?」
「いや、絶対そうだから! ね、ルヴァ?」
 テュミルはそう言いながら、隣を行く少年へぐいっと首を回した。ポニーテールが宙を切る。
「……うーん……。僕は逆に、この髪のせいで注視されるのには慣れてて……。見られているかどうか、気にしていませんでした……」
「もう、やっぱ男って鈍いんだから!」
「ほらな。気のせいだったんじゃないか?」
「なによ、鈍感代表のぼんぼん――おっと!」
 小さく憤慨ふんがいするテュミルだったが、すぐにその足を止めた。
 先行する占星術師にならったのだ。
 庭の真ん中に据えられた丸い噴水、その手前に厳つい風貌の男がどっしりと待ち構えているのが見えた。たっぷりとたくわえた髭を丁寧に刈り込んだ男が、たくましい両腕を開いた。
 男の見覚えのある佇まいに、グラズアの口元が思わず緩みそうになる。
「……変わんないな……ルフィノおじさん……!」
 グラズアの呟きに、テュミルが小首を傾げる。
「……知り合い?」
「ああ。彼が――」
 ひそひそ話をする若人の手前から、毛羽立ったバスが聴こえて来た。美しいと言えるような音色ではなかったが、演劇じみた抑揚が聞く耳を引き付ける。
「来たな、セルゲイ! 往復、ご苦労だったな。さあ、感動の再会と行こうじゃないか」
 対するアルバトロスも、かたの様に大げさな物言いと礼とで返す。
「ついこの間、惜別せきべつしたばかりゆえ、この足に気持ちが追い付きませんじゃ、サンデル卿」
「おお、なんとつれないことだ! そなたの心は雪解けの風にすっかり冷え切ってしまったのか! それではじきに、赤き血まで青く凍り、長き冬の再来、あるいは永遠の冬が訪れんとするだろう!」
「全くもって、その通りでございます。わしの身体を辛うじて流れるこの血は、吹きつける風に冷やされ、まさにその流れを止めようとしております。ああ、この老木おいぼれもついに倒れるときが来たのでございましょうか。今はただ、時を待つのみ!」
 朗々と語る二人の男に、グラズアは笑いだしたいのを必死でこらえていた。その後ろでは、テュミルとルヴァが、二人の旧友が突然始めたやり取りに、ただただ眼を丸めていた。
「……何……これ……?」
「面白くないか? 二人が出会いがしらに必ずやるんだ」
「えっと……何かの演目なんですか?」
「まさか。即席で戯曲ぎきょくを打つ遊びなんだ。おじさんもそうだけど、セルゲイの身振りなんて役者が顔負けするくらいだ。な、ライン?」
「そうですね、年季が入っている感じですかね」
 うんうん、と頷き合う二人の青年にテュミルがこぼす。
「あのおっさんたちもそうだけど……あんた達も大概よ? 何を言ってるのかさっぱりだわ……?」
「まあ、良いから見てろって」
 空いた口が塞がらない二人に気付かぬ男たちは、そのまま草芝居を続けていた。
「おお老木とは! そなたは数多あまたの歳月を経て年輪を重ねた大樹に違いないというのに! それならば今、そなたの身体に流れる命の流れをば、ここで暖めようではないか。血のように赤く、初恋のときめきをもたらし、しとねのように我々を夢へと誘うあの葡萄酒にて、そなたを再び蘇らせよう。春の息吹いぶきをそなたに注ぎこもうではないか!」
「おお、サンデル卿! わしに再び生きるよろこびを教えて下さると言うのか!」
 二人は言い知れぬ興奮のまま、固く握手を交わした。それを見るや、オラールが一歩前へ進み出た。
「さて、お二人とも、納得なされましたか? サンデル卿におかれましては、謁見の間でお待ちいただくお話しではありませんでしたか?」
 冷ややかなテノールに、サンデル公爵は少したじろぐ。
「……そうだったかな?」
「ええ。今日のお客様は、アルバトロス卿だけではありませんよと、少しは気を引き締めていただきたいとお話ししたばかりではありませんか。それに、お着替えもなさらずに……」
 占星術師の指摘の通り、サンデル公は高級ではあるがラフな装いをしていた。それは何処からどう見ても室内着だった。
「……執事がなかなか来なかったんだ。それでたまたま窓を覗いたらお前たちが城門に来ておったものだから……その……」
 言い訳を連ねるサンデル公に、オラールは吸い込んだ呼気を大きな溜息に変えた。そして、グラズアへと振り向いたものだから、彼は緩んでいた口元を咄嗟とっさに引き締めた。
「申し訳ありません、グレイ殿。サンデル公との面会を先んずる予定でしたが、このように支度が整っておりませんゆえ……。先にアパルトマンへと案内させていただきます」

     5

 占星術師オラールに連れてこられたのは、宮殿のすぐ隣に建てられた、こぢんまりとしたアパルトマンだった。迎賓げいひん用の仮住まいらしい。扉にはサンデルの兵士が警備に立っている。
 重たそうな木製の扉を彼らに開けさせると、一行はアパルトマンのロビーに荷物を置いた。
 ルヴァとテュミルが磨き抜かれた内装に首を回している。
貴賓きひんとして御招き出来ていれば、王宮内にて滞在していただくことも出来たのですが……」
「構いません、占星術師殿。却って気楽に過ごすことができると言うもの」
 グラズアはオラールの申し訳なさそうな藍色の視線を笑顔で受け止めた。彼は今、国王グラジルアスとしてではなく、一介の冒険者グレイとして招待されているのだ。
「そう仰っていただけますと有難い。それでは、サンデル公爵の支度が済みますまで、今しばらくお待ちください」
 そう言うと、オラールは楚々とアパルトマンのドアから退出した。

 アパルトマンには八つの個室があった。一行はそれぞれの扉を開けてみて、気に入った部屋を自室として扱うことにした。
 グラズアは藍色の壁紙が目に優しいシックな部屋を選び、荷物を運び込んだ。
 設えてあった寝台やキャビネットは小さいながらも美しく、小さな書きもの机には春の小花が散らされ、グラズアは何とも小粋こいきな歓迎を受けた。
 部屋の規模や寝台の大きさなど、ヴァニアス王宮の自室には到底かなうものではなかったが、それでも質の良いものであることは見て取れた。
 彼は一通り部屋を見て目を楽しませると、旅の埃を落とし、謁見の為に小奇麗こぎれいよそおいに変えた。それは、王宮から発つ前、王の執務着より格下となるものを探していたグラズアに、ラインが差し出してきたものだった。
「ラインの奴……こんな丁度良い、伯爵が着る様なものをよく見つけてきたな……」
 どこか見覚えのある、ふんわりとした襟のシャツと赤茶けたジャケットに袖を通し、キャビネットの横に取りつけられていた姿身を確認する。若干だが、胸回りがきつく、袖も短い様な気もする。しかし、大きく腕を回さない限りジャケットのホックが外れることはなさそうだったし、シャツの袖が手首をしっかりと覆っていたので問題は無かった。スカーフタイをブローチで止めてやると、首元がきりりと引き締まった。
「やっぱり見たことがある……。ま、これで良いか……。みんなを待たせたら悪いな……」
 乱れた黒髪を梳り、旅で履き馴らされてくったりとしている靴を脱ぎ捨て、つやつやに磨かれた革靴に履き替える。縫いとられたサテンがかかとに彩りを添えているのに満足すると、グラズアは自室と決めた藍色の部屋を後にした。
 グラズアが玄関前のロビーに行くと、既に正装に着替えた三人が揃っていた。テュミルはまだのようだった。
 アルバトロスは彼を目に入れると、まぶたを目一杯に見開いた。
「おお、遅かったなくそ王子! お前、その服は――」
「ああ、ラインがどこかから見つけて来てくれたんだ。……変か?」
「……確かに、変な気分がするわい……」
「それ、どういう意味だよ?」
 老騎士と国王のやり取りに、ラインが割って入る。
「若! 僕も着替えました! 変なところはありませんか?」
「変って言ってもな……」
 グラズアが返事に困るのも無理は無かった。二人の騎士については普段通りの軍服姿なのだった。鎧が標準装備のアルバトロスは普段通りとはいかなかったが。
「それを言うなら、いつもはローブか鎧のセルゲイが、騎士団の制服を着ている方が変だ」
「わしもそう思うわい」
 口ではやいのやいのと言い合う三人だったが、その佇まいは実に落ち着いたものだった。
 そんな中で、そわそわと一人落ち着けずにいたのは船乗りの少年だった。
「……グレイさん……。僕こそ、変じゃないですか……?」
「ん? きつかったか?」
「い、いや、そうじゃなくって、その……」
 ルヴァが戸惑うのも無理は無かった。
 彼は着なれない襟付きのシャツにループタイ、かっちりと縫われたジャケットと揃いのズボンという、身体にぴったりと沿う衣装をまとっていたのだ。それは、ルヴァが今まで袖を通した中でも最高級の部類に入るだろうものだった。
「僕、ただの船乗りなんだけど……こんな恰好しても良いのかなって……」
「良いさ! 汗とか色んな埃でドロドロの旅装束たびしょうぞくで会いに行くよりはずっと良いって! 失礼にならないんだから、しゃんとしとけ、な?」
「で……でも……」
「ラインのお下がりってのは、やっぱ嫌だったか?」
「そ、そんなことないですよ!」
「ルヴァよ、背筋を伸ばさんかい。服に着られとる」
「は、はいっ!」
「お待たせ!」
 にやりとしたアルバトロスの口元から、鋭い指示が飛ぶのと同時に、少女の声が階段から飛んできた。
 四人の男が一斉に見上げたその先で、薔薇色のドレスを着こなした少女が裾を持ち上げて礼をした。
「ロフケシアでリーサに貰ったドレスなの! 色々と着るのに時間かかっちゃったわ! 化粧とか久しぶりで!」
「……」
 全員の絶句が少女を出迎えた。
「……え、そんなに遅かった……? もしかして、みんな怒ってる……?」
 踵を鳴らしてロビーに降り立った少女は、柄にもなく戸惑っている。しかし、対するグラズアの方が動揺に言葉を詰まらせていた。
「お……遅くは……ない……」
 元来整った顔立ちのテュミルではあったが、正装するとその美しさがより際立って見えた。それは高貴な身分の女性に勝るとも劣らない様子だった。
「そう? なら良かった」
 笑顔を花開かせる少女の顔を縁どる銀色の髪は、丁寧にくしけずられた為か普段よりもきらきらと透き通った輝きを見せて揺れる。そこに巻き付けられた細口のリボンもまた、薔薇色を添えていた。
 空いた口が塞がらないルヴァが、ほうっと溜息を吐いた。
「……綺麗……」
「ほ……褒めても何も出ないわよ!」
 頬までも薔薇色に染める少女に、少年はご機嫌だった。
「綺麗だと思ったから言っただけですよ! ね、グレイさんもそう思うでしょう?」
「お……おう……」
「えい」
「痛……!」
 どもるグラズアの脇腹に、少年の肘鉄ひじてつが容赦なく刺さる。ついでに、期待に満ちたアメジストの視線も刺さっている。
 少年はつま先立ちでグラズアに耳打ちする。
「ちゃんと言わないと駄目ですよ!」
「な……! 余計な御世話だって!」
 彼女の美貌をいざ褒めようとすると言葉が出てこないグラズアに、四方しほうからひそひそときつい言葉が飛び交う。
「なんと男気の無い……。腑抜ふぬけ王子め。誰だ、こいつを教育したのは?」
「お爺様です」
「……再教育せねばならんということか……」
「お前らなあ――!」
「失礼いたします」
 五人がそれぞれに息を吐いたところで、アパルトマンの扉が叩かれ、開かれた。
「大変お待たせいたしました。面会の準備が整いました故、謁見の間へ皆様をお連れいたします」
 入ってきたのは、サンデル公爵の占星術師だった。

     6

 サンデル城、謁見の間。
 公爵の座る椅子の前に、グラズア一行は一度膝まづいた。
「苦しゅうないぞ! 早々に頭を上げてくれ」
 グラズアの見据えた彼は、先程と打って変わって、衣装と共に公爵としての威厳いげんをその身に纏っていた。はちあった彼のなつめ色の瞳から、グラズアはそっと視線を逃がした。
 グラズア一行が佇まいを直したのを認めると、公爵は身体をふっと楽な姿勢に崩した。右手はたっぷりとした髭にあてがわれる。
「よし、形式は気にせず、お前のところの若いのを紹介しておくれ、セルゲイ」
「サンデル卿、またそうやって――!」
「マルセル。わしの数少ない友人なのだ。好きにさせてはくれんか?」
「……」
 一歩進み出て進言した占星術師だったが、主君に言われるまま大人しく引き下がった。
「さてサンデル卿――」
「いつものように、ルフィノと呼んでくれ、セルゲイ。その方が断然気楽だ」
 アルバトロスは肩の力をふっと抜くと、後ろに控えていたラインの腕を引っ張り前へ出した。
「ルフィノよ、こいつがうちの息子じゃ。覚えとるか?」
 ラインは紹介されたままに一礼した。アッシュグレーの短髪がしゃらりと揺れるのを見て、サンデル公爵は満足げに頷いた。
「アルラインだな。しばらく見んうちに随分とひょろひょろ伸びたものだな」
「もう少したくましくなりたいとは思っています、サンデル卿」
 グラズアは、ラインが失言しやしないかとはらはらしながら、その細い背中を見守っていた。
「ははは! お前はまだ若い。鍛錬たんれんすることだな! セルゲイがお前ぐらいの時は、骨と皮にちゃんと筋肉が付いていたものだよ」
「それは知りませんでした」
最早もはやそれを知っている者は少ないさ」
 サンデル公爵がどこか寂しそうに笑い飛ばすと、アルバトロスは続いてグラズアの背中を押した。それを目の端で確認したラインが下がる。
「それで、こいつが件のグレイじゃ」
「お……お初にお目にかかります……サンデル公」
 緊張のあまり、グラズアはぎこちない礼をしてしまった。
「……ふむ。お前がグレイか……」
「……」
 公爵の視線が、真っ直ぐにグラズアのサファイアの瞳を貫く。だが次の瞬間、冷ややかなそれがアルバトロスに向けられた。
「なあ、セルゲイ。お前のグレイズ様には隠し子がいたのか?」
 グラズアの聴覚が研ぎ澄まされる。
 グレイズとマルティータ。それは会ったことのない彼の祖父母の名だった。
「まさか。あの方にはマルティータ様しかいなかった」
「そのマルティータ叔母の亡き後に――」
 先々代ヴァニアス王妃マルティータは元サンデル公女で、ルフィノの父の妹――すなわち叔母にあたった。
「それも有り得ん。一人娘のアナシフィアと婿のクラヴィスの挙式の後、あの方は孫の顔も見ずに……」
 そしてグレイズとマルティータの一人娘、アナシフィアこそグラズアの母親で、クラヴィスはその配偶者にして彼の父親だった。
 グラズアは彼らに纏わる話をほとんど聴けずに肉親と死に別れた。したがって、知りたくても知りえなかった彼らの生前の物語に、自然と耳が傾けられる。
 サンデル公爵は深い溜息を吐いた。
「セルゲイよ、お前を疑っちゃいないが、だとすれば私はこの自分の瞳を疑わねばならんという話になる。グレイ、お前の名前もそうだが、その佇まいは私の記憶のグレイズ様にどことなく似ているのだよ。一体どういう訳か見当もつかん」
「ふむ……。それは気の毒にのう……」
 含み笑いを見せるアルバトロスに、公爵が片眉を上げて見せた。
「……そのにやついた口元……。お前、答えを持っている顔だな」
「左様じゃ。そうじゃな、まずはお主の答えを聞いてから、こちらも答え合わせと行こうじゃないか」
「と、いうと?」
 老騎士は咳払いをすると、落ち着いたバスで宣言した。
「……ヴァニアス王国の奪還だっかんに協力してくれるか、否か……」
「……エフゲニー、か……」
 うなるサンデル公に、アルバトロスが畳みかける。
「そうじゃ。グラズアの名を楯にした奴の治世がヴァニアスに混乱を招いとるというのは、実感しているじゃろう? 現にお主のサンデルでも、《神隠し》が起こっているではないか。しかも、膝元のラズ・デル・アニルにて」
「……それは……」
「全ての中心がエフゲニーとは言い切れん。しかし、アナの死、そしてグラズアの即位から全てが始まっているのは事実じゃ」
「それも不可解なのだよ、セルゲイ。どうしてお前は、あの可愛い従妹いとこの死にエフゲニーが関わっていると言いきれるんだ?」
「それは――!」
 グラズアはたまらず口を挟んでしまった。うっかりしていた自分の口をつぐむほかない。ここでグラズアが妹の名を出してしまえば、何とかひた隠している彼の素性すじょうが一瞬でばれてしまうのだ。
「なんだ、グレイ?」
「……それは……」
 口籠くちごもる黒髪の青年の横から、一歩前へ進み出る者があった。ラインだった。
「若は仰っていました。『リシュナ姫の目撃によれば、リンデン卿が女王及び王配暗殺の実行犯である』と……」
「……ライン……!」
 的確に代弁してくれた友人に向かって、グラズアは信頼の眼差しを向けた。友人のほうは、あのぎこちない両目のウインクを投げてよこした。
「……そうか……リシュナ・ティリア……王家の《光の神子》が……」
「これで信用してくれたかの? お主の騎士団を貸してもらえればこちらも――」
「――では、交換条件と行こうじゃないか」
「……それはどんな?」
 アルバトロスはそっと眉をひそめる。
「ヘルミーナ――私の娘、サンデル公女ヴィルヘルミナが、サンデルの北東にある古城こじょうアマネセールから帰ってこないのだ。先の秋に出かけたきり、この冬からずっと連絡が取れずにいる。彼女の安否を確認してきてくれ。その頃には私の考えも少しは落ち着いているだろう」
「……と、いうよりも、今はヴィルヘルミナ嬢のことで頭が一杯、ということじゃな?」
 サンデル公は髭を引っ張る。抜けた物ははらりとその場に捨てる。サンデル公の仕草に、グラズアは苛立ちを見てとった。
「……お恥ずかしいが、そう言うことになるか。こちらもただ、依頼するだけではない。――マルセル」
「はい、サンデル卿」
「道案内にうちのマルセルを付けよう。ついでに、そこの美しいお嬢さんの未来も占える。便利に使ってやってくれ」
 急に話を振られたテュミルが、瞳を丸め背筋を伸ばす。それに口元を緩ませた占星術師が進言する。
「しかし十日後には《雪解けの知らせ》があります。それまでに戻ってこられるでしょうか」
「何、馬を使えば良い。こちらで用意させよう。どうだ、セルゲイ? 《雪解けの知らせ》までにヘルミーナの事を頼めないか?」
「ふむ。こちらも一旦、考えをまとめる時間をくれないか? なにせこの娘が、この一行を牛耳ぎゅうじっているでな。一通り説き伏せ、なだめすかさねばならんのじゃ」
「な……! おじじの馬鹿……!」
 テュミルの悔し紛れの呟きを聞いていたのは、彼女の隣にいたワニアの少年だけだった。
「ははは! それはサンデルも変わらん! うちで一番の発言力を持っているのは我が夫人に他ならないからな!」
「お互い苦労するのう!」
 全てのうれいを洗い流すかのように豪快に笑った二人の旧友。彼らの笑い声をさえぎったのは、静謐せいひつなテノールだった。
「……では、皆様方。お二方のお話はいつまでも続きますゆえ、お先にアパルトマンにお送りします。良いお返事を主君ともどもお待ちしております」

     7

 時を同じくして、場所はアルバトロス邸のダイニング。
 そこは、グラズア達が予想だにしない量の木箱で埋め尽くされていた。
「ねえねえ、エイノ、これはどこに入れといたらいい?」
 木箱の群れの中で、小麦色のお団子がひょこひょこと動く。話しかけられた軍師がオリーブ色の髪をかきわけて首を伸ばすと、新緑しんりょくの瞳がこっちを見ていた。その両手には愛らしいマグが握られている。
「こっちは多分、ミルやんので、こっちはあたしのお気に入り!」
「……この家の物はアーミュに聞いた方がいいんじゃないか?」
「それはそうなんだけどさ。あれ、見てよ」
「迷路みたい! キッチンに行きたいのに行けない!」
 薬学生の指さした方を素直に見ると、背丈の小さな少女が木箱に道を遮られ、動きにくそうに右往左往している様が目に飛び込んできた。髪に結わえた大きなリボンが、辛うじて彼女の居場所を伝えてくれていた。
「ほらね」
「……なんて気の毒な……。ユッシはどこだ?」
「呼んだ? 何だ、エイノ?」
 エイノのすぐ右側から首をもたげたユッシ。今日はきちんとバンダナで鼻と口を覆っているようだった。
「アーミュと一緒に居てやってくれ。彼女の言うとおりに動いてくれたら間違いない」
「エイノじゃなく?」
「僕はこの通り、何も困っていない」
「そっか! 困ったら呼んでくれよな!」
 ひょい、と身軽に木箱を飛び越えた剣士が小さなホストマザーのところに行ったのを認めると、エイノは大きく溜息を吐いた。
「この荷作りが終るのが先か、あちらが先か……。このままでは見当がつかないな……」
 少し汗ばんでずれていた眼鏡の位置を直すと、エイノは自身の取り分に再び取りかかった。
「早いに越したことは無い、がな」

     8

 グラズア達はアパルトマンに着くなり、着の身着のままでロビーの机を囲んだ。陽光は赤みがかり、段々と夕暮れに近付いていた。
 議題はもちろん、公女ヴィルヘルミナの安否確認とサンデル公爵の協力についてである。だが、話は思わぬ方向に転んでいた。きっかけはグラズアの呟きだった。
「俺……、正直、ルフィノおじさんに身分を隠す意味が見出せないな……」
 青年と机を挟んだ正面で、アルバトロスが頷く。
「奴のことならば、さして態度は変わらんじゃろうなあ。じゃが、問題はそれではない。グラズアよ、お前、一体何の名目めいもくで城を出てきたんじゃ? それに関わってくるじゃろう」
「……えっと……それは……」
 彼はぎょっとして口籠るグラズアから首を擡げ、そこに立っている息子に声をかける。
「ラインはどうじゃ? 騎士団には何と申請してきた?」
「僕は休暇です。ミラーはお仕事です」
「誰もミレニアの話はしてないわよ」
 ソファに背中を預け切って足を組むテュミルから、厳しい言葉が飛んでくる。
「そうでした」
「で、時間稼ぎはできないぞ、くそ王子よ。さっさと吐いちまうんじゃな」
 しばしの間、自身から話の矛先がそれたことを喜んでいたグラズアは、くるりと視線を左上へと逃がす。それを覗き込んだ友人がすぐさま指摘する。
「あ、若、嘘をつこうとしている目ですね、それ」
「……別に、何も……」
 彼ははす向かいに座るテュミルにちらりと視線を送る。彼女は足を組みかえると、やんわりと首を振って顎を二つしゃくった。
 あたし、何も悪くないわよ。
 早く言っちゃって、楽になんなさいよ。
 グラズアにはそう言っているようにしか見えなかった。
「……グラズアよ?」
「……黙って出てきました」
 アルバトロスは深く頷いた。
「よろしい」
「え? よかったんだ? はぁ、焦って損し――!」
 だが、次の瞬間には主君である青年の頭に、骨ばった拳骨を一発お見舞いしていた。
「馬鹿王子、なにやっとるんじゃ! 少しは考えんかい!」
「痛ぇ! 俺だって考えたさ! でも思いつかなくって!」
「その足りない頭を補うためにエイノユハニが居ったじゃろう! 話はしたのか!?」
「したさ! そうしたらあいつ、『暫く旅に出ます。探さないでください。とでも書き置きをしておけばいいんじゃないでしょうか? 何処にも嘘が無い』……って!」
 負い目がそうさせるのか、白熱するグラズアに対してアルバトロスは一歩退く。
「……そのそっけなさ……、もしかして執筆の最中じゃったろう?」
「ああ。ヴァニアスの歴史をまとめてもらってたけど……」
「聞くにその様子……徹夜を続けとった様じゃの。それならばその投げやりな回答に納得じゃわい……。で、本当にそうしてきたと?」
「……ああ」
「……もはや国王の不在は白日はくじつの下にさらされておるじゃろうな……」
「一応! 一応さ、『リンデン氏を探しに旅に出る』って書いて来たから! 大丈夫なんじゃないかって……」
「……知らんわい……」
 がっくりと肩を落とす王と従者につられて、ルヴァも溜息を吐く。
「お……王様って大変なんだな……。僕には全く想像がつかないけど……」
「そうみたいよ? 服を着るのにも部屋から出るのにも書類がいるんじゃない?」
 すぐ横に腰掛ける少年に、テュミルが同意している真正面から、能天気な回答がふわりと飛んでくる。
「大丈夫です、若! 昔みたく、何事も無かったかのように帰ればいいんですよ」
「……あの時は母上がいたからそれができたんだ、ライン」
「……やっぱり、ちょびじゃだめですかね」
 暗雲たる空気に一同が項垂うなだれるなか、アルバトロスが真っ先に首を擡げた。
「とにかく面倒じゃ。嘘は貫いてこそ真に嘘となるのじゃ。あちこちで嘘を吐いた責任は取れよ、グラズア」
「でも、おじじ。あの占師もついてくるんだよ? あたしたちは良いけど、おじじとラインが困るんじゃないの?」
「僕は困りませんよ、ね、若?」
「その、若っていうのが言えなくなるんですよ、ラインさん……」
「あ、そうか!」
 じゃあ、何と呼べば、と首を傾げる青年騎士に、全員が小さく呆れかえる。
「……くそ王子の正体も、今回の取引の案件に含めてしまったしのぉ……。明日の朝にあっさりばらすわけにはいかん……」
「じゃ、どうすんのよ?」
「……」
 答えの見えないやり取りに、一同が沈黙する。
「……あのぉ……」
 そこへ、おずおずとした少年の声が上がる。ほんの少し雑音が取れて来て、響きが深まってきたそれに、四人は耳を傾ける。
「……公女さんの安否を確認して、サンデル公に伝える。その時に、サンデル公が解放軍に協力してくれるかどうかを決めてくれるんですよね?」
「そうじゃな」
「じゃあ、公女さんの所には絶対行かなきゃいけないんですよね。オラールさんは、その、公女さんがいる古城……えっと……」
「アマネセール、か?」
 グラズアの助け船を、コーラルブルーの瞳が受け取る。
「そう、アマネセールの往復の間、ずっと僕達と一緒なんですよね?」
「ああ。それが?」
 少年はグラズアに向かって、理知的な輝きを二つ瞬かせる。
「じゃあ、オラールさんにだけばらしちゃえば楽なんじゃないですか? だって、オラールさんがグレイさんの正体を知ったところで、任務の最中なんですから、ラズ・デル・アニルに居るサンデル公爵に伝えられないわけですし……」
「……まあ、それしか……ないのかしらね……」
 しぶしぶルヴァに同意するテュミルの冷たい視線が、ラインの横顔に付き刺さる。しかし当の本人は、主君に頭を垂れるばかりだった。
「若、僕の為に……申し訳ありません」
「いいよ、ライン。ここはルヴァの作戦を採用するか。占星術師オラール殿には、アマネセールとラズ・デル・アニルとの往復の間、俺の嘘という罪を一緒に背負ってもらうことにしよう」
 これでいいんだ、とグラズアが背を守る青年に顎を上げたところに、シニカルな少女の声が飛んできた。
「信じてくれるかどうかは、わかんないけどね?」
「侮るなよ、ミル」

     9

 グラズア達が占星術師の導きで、サンデル領の北東地区、その中心たるアマネセールへと出発した、四月六日。
 ヴァニアス離宮にて生活することを許されているリンデン家の嫡男ちゃくなん・アレクセイは、小さな違和感が日増しに大きくなるのを感じていた。
 それは、彼が心から慕う許嫁いいなずけに纏わることだった。
 午後、柔らかな光が姫君のサロンに差し込む奏楽そうがくの時間。
 従姉弟いとこの二人はチェロとヴァイオリンの為のデュオを奏でていた。年少のセレス・フィナは午睡ごすいの為に欠席していた。
 二声にせいが交わった響きはふんわりとサロンの天井、シャンデリアの居座るところにまで立ち上り、彼らの未熟な演奏をまろやかな印象に整えていた。
 終結音が充実した音色を広げる。
「ふぅ……。おっかなびっくりですけれど、なんとか通りましたね」
「……」
 曲の始めから最後までを一通り弾き終わった二人は、息を吐くと同時に肩の力を抜いた。少年がヴァイオリンを膝に立てる。その視線はもちろん、一つ年上の許嫁に向けられていた。
「……リシュナ様……あの……」
 十四歳になったばかりのリシュナ・ティリアは、その両腕に再びチェロを抱くようになっていた。そして、アレクセイに向かって生き生きと輝く空色の瞳を向けてくれるようにも。
 彼女の演奏には少し音程の良くないところがあるが、その音色は以前よりも香り高いものになっていた。つんと張り詰めていた固い音が、ふっくらとふくよかなものへと生まれ変わろうとしているかのように。
「なあに、アレク?」
 彼女の誕生日に夜這よばいの真似をしたアレクセイを、彼女は一言も怒らない。そのようなそぶりすらも見せてこないから、少年の気持ちは不思議に空回りする。
 アレクセイはあかがね色の癖毛を耳にかけ、うつむく。
 あの日の事を、どのように思われているのですか。
「……」
 尋ねたくてたまらない言葉は、ぴったりと閉じられた唇の中。
 松脂まつやにに汚れ始めた弦を柔らかな布でそっと拭く姉姫が小首を傾げる。
「もう、黙っていてはわからないわ。どこか、やり直したい場所でもあったの?」
「……いえ……そう言う訳では……」
「……そうなの? では、わたしがやりたいから、付き合って下さる? 一ページ目……アダージョは、ちゃんとお互いを聴き合えば良いとして……。次のフーガの頭からやりましょう?」
「……わかりました」
 アレクセイは弓を持ったままの右手で、譜面台の上の楽譜を一つめくり、フーガのページを準備する。アレグロ・モデラートという楽曲の速度と性格を表す楽語の下、一小節目の頭には、四分の二の拍記号と、堂々とした四分休符が書かれている。

 音楽の練習に興じる高貴な二人を影ながら見守っている少女たちがいた。一人は彼らの剣術師範で、もう一人は年若い女中だった。
 女中は主君たちから視線を逸らさずに、年長の少女に向かって背伸びをした。
「ミラー、アダージョやフーガとはなんですか?」
「どちらも音楽の性格や仕組みを表している言葉なの。アダージョは『緩やかに』とか『ゆったりとした幅をもって』という意味でね、ゆっくりというテンポ――速度の表記でもあるし、おっとりした音楽の様子を表してもいるの」
「じゃあ、フーガもそうなのですか?」
「フーガの方は、音楽の速さと言うよりも仕組みを表す言葉で……。遁走曲とんそうきょくとも言うんだけど……なんて説明したらいいのかな……」
 ミラーの脳裏に、二本の腕、十本の指で四声よんせいのフーガを弾いてのける若き国王の姿が蘇ってくる。
 あまりに目まぐるしく展開する音楽と指に茫然ぼうぜんとしていたところ、それをラインに指摘されたと言う恥ずかしい思い出も一緒に。
「えっと……同じ旋律せんりつや、その旋律と同じ形をしたもの――主題とかモティーフというんだけど――それで追いかけっこをし合う……。音楽を言葉で説明するのは難しいな……。実際に聴いた方が解かりやすいんだけどな……」
 ミラーは愛らしい唇をつんと突き出して、眉間に小さな皺を寄せている。彼女なりにかみ砕いて説明しようと、考えを巡らせているのだ。
 そんな彼女に、シアはかすかな微笑みを見せた。さらりと揺れる前髪は、窓の外で萌えだした新緑と同じ色をしている。
「……ありがとうございます。今、リシュナさまとアレクセイさまが演奏されるのがフーガ、なんですよね。でしたら、聴いて勉強できますよね」
「……そう、そうね! あなたはお利口りこうさんだね、シア」
 幼い女中は、照れ隠しなのか、真っ白な帽子の位置をちょいちょいと直した。

 その手前では、軽いチューニングを終えた王女がチェロを構えていた。それに従弟もならう。
「テンポは私が出しますから」
「どんなに早くても良いですよ」
「……言ったわね!」
 リシュナ・ティリアは悪戯っぽく口の端を持ち上げた。
 そして、極めて短い呼吸を合図に弾き始めた。
 彼女の楽譜、チェロの一小節目は二つの四分しぶ音符だけだ。
 それにも拘らず、音はアレクセイの予想を越えた速さで並んで聴こえて来た。
「――!」
 二つ目の四分音符が聴こえてすぐがアレクセイの演奏開始ポイントだったので、すかさず弓を引く。
 思いもしなかった早すぎるテンポに、アレクセイの左手指はろくに十六分音符を押さえられないまま、無様ぶざまに滑ってゆく。
 それは、チェロを弾く少女も同じようだった。
 坂道を転がる林檎のようにぼろぼろとこぼれた音符たちは、最早音楽のていをなしていなかった。
 二人はどちらともなく、演奏することを放棄した。
 こうして、無理なテンポ設定で始められた音楽は、あっけなく空中分解してしまった。
「あは……! あはは! ごめんなさい! 速くしすぎてしまったわ!」
「謝るのは私の方です。挑発しておいて……全然、追い付けませんでしたから」
「それはお互いさまだわ! ふふふ!」
 二人は、この半年のぎくしゃくした関係が嘘のように笑いあった。
「ねえ、アレク。前にもこんなことがあったわよね」
 背もたれに身体を預けたリシュナ・ティリアが、頬に絡みつく金髪を指先で整えながら窓の彼方かなたの緑をぼんやりと見遣みやる。
「そう……そうでしたか? 何時いつのことだったか憶えて――」
「憶えていないかしら? 王宮でお兄様と一緒に暮らしていた頃の話よ。お父様とお母様の前で小さなコンサートをしようって、お兄様が発案なさって……」
「――思い出してきました……! あの時はグラズア様が無茶をなさりましたね! なんでもかんでも速く弾ければ良いという風に、とても挑戦的でした」
「そう! 今だから言えるけれど、下手の速弾はやびきそのものだったわ!」
「私たちで抗議しましたね、おい――」
「おいてかないでよ!」
「そう……それです!」
「ふふふ! アレクがそう言って、お兄様を止めてくれたのよね。わたしがあんまりにも泣き虫だったから……」
「リシュナ様につられて、女王様のお膝のセレス様が大泣きして……。大変でしたね」
「ええ。でも、おかしいったら……! グラズアお兄様の十八番おはこは、蜂蜜みたいな甘いセレナーデなのに――!」
「――なのに、速く弾きたがるのですよね!」
「そうなのよ! ふふ!」
 アレクセイは、屈託なく笑う王女に魅せられていた。
 弓運びだけでなく、その言葉も心なしかうきうきと軽い様子。
 大きすぎず、小さすぎず。
 アレクセイは、彼女の上品な形の唇から目が離せない。
 それは、彼が思いのたけを込めて優しくくちづけたものだったから。
「ご機嫌麗しゅうございますね……」
「ええ!」
 満面の笑みをアレクセイに見せる王女。そこにかげりは一つも見られない。
「……どうして、とお尋ねしてもよろしいので?」
「ふふふ……そうね……。ちょっと最近、嬉しいことがあった……それくらいかしら!」
「――! そ、そうですか……!」

 彼女の笑顔を花開かせている、嬉しいこととはなんだろうか。
 それは、あのくちづけの事だろうか。
 そうだと良いな。
 そうに違いない。

 そっと微笑みをしまい込んでヴァイオリンを構えるあかがね色の髪の少年。
「……」
 彼の真っ直ぐな背中を、女中が熱っぽく見つめていた。
アレクセイとリシュナ・ティリアによるヴァイオリンとチェロの二重奏デュオの参考曲です。
幼少から弦楽器に親しんできた二人ならば、この程度は楽に演奏できるかと思います。

J.G.アルブレヒツベルガー(1736-1809)作曲
ヴァイオリンとチェロの為の二重奏曲 より 第一番 ハ長調
https://www.youtube.com/watch?v=LxPzW0Va8nM
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