挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
黒獅子物語 作者:黒井ここあ

第二章 二人の王

しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

更新通知 0/400

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

12/29

三、ヴァニアスの闇

キャラクターデザイン(外部リンクです)
http://toumorokosi.zero-yen.com/kurosisiframe.html

キャラクター紹介
http://ncode.syosetu.com/n2893cc/
    1

 ヴァニアス家の離宮を明るいうちに旅だったアレクセイ・フェブル・リンデンは、父親の出発に遅れること半日、四日間の馬車の旅を終え、自身の故郷グラスリンデンに舞い戻った。
 ヴァニアス島の南端に位置するグラスリンデンは、その名の通り草原の多い地方だった。夏は雨が少なく極端に空気が乾燥するため、青々とした草がその背丈を伸ばす。
 リンデン伯爵の治めるこの地は、ヴァニアス城近郊同様、港町として栄えていた。その人口は王家直轄領のスキュラよりも、二万人ほど多い。市民は南ヴァニアスの名産である花きや羊毛、乳製品の輸出入、及び国内への配送で財政を回していた。
 停泊した船の色とりどりの旗が目に眩しい活気ある街並みは、国内外から多くの観光客を惹きつけていた。しかしその明るさも、今や現リンデン家家長エフゲニー・ピョートル・リンデン伯爵の徹底的な監視により、失われて久しかった。
 堅牢な城壁を構えるグラスリンデン城に帰還したアレクセイは、気持ちがはやるままに足を進めていた。少年は無数の使用人が膝を追って礼をするのを労うことも無く、城内を進む。
 大広間を横切り、右折した先。そこに父親の執務室があった。
 アレクセイは、旅路で埃にまみれた濃い青紫のジャケットをはたき、身だしなみを軽く整える。そして期待に弾む心臓を落ち着かせようと一つ深呼吸をしてから、丁寧にその扉を叩いた。
「父上、私です。アレクセイです。ただ今戻りました!」
 浮ついた息子の声に、父親はすぐさま反応し扉を開けてくれた。
「おお、アレク。戻ったか。一人の長旅はつらかっただろう? おいで……」
 エフゲニーは、自信と同じ遺伝子の証、あかがね色の髪を持った息子を優しく抱擁した。
「つらくはありませんでした。それよりも、父上の研究を見せていただけるとのお手紙を拝見し、喜びのあまり、飛んで帰って来たのです!」
 父の愛情に顎を持ち上げる息子の表情は実に誇らしそうで、エフゲニーもつられて目を細める。
「ほほほ……。さすがは我が息子だ……実に殊勝な心構えだ。さあ、おいで、ご挨拶に参ろうか……」
「はい……?」
 アレクセイは、「ごあいさつ」という言葉に小首を傾げつつも、素直に父親に従った。
 赤いジャケットを翻す父の背中に、息子も続く。
 向かったのは図書室だった。
 日も高いというのに、文官も女中もいないその中で、二人の足音だけが響く。
 室内を支配する沈黙に耐えきれず、きょろきょろと辺りを見回していたアレクセイは、先を行く父が何をしたか見過ごしてしまった。
 だが、次の瞬間、本棚の向こうに地下への入口が現れたことは認めることができた。
 息子に驚く暇もくれず、父親はどんどんと足を前に出すものだから、彼もそれに黙ってついてゆくことしかできない。
 静かな靴音が二人分、螺旋階段に染み込む。
 そうして陽光の差し込まぬ地下室に辿り着くと、父親は蝋燭を灯した。小さな太陽のように光をもたらしたそれは、地下室が研究室であることを照らし出した。もちろんそれは、親子の髪を赤く輝かせもした。エフゲニーはその扉の内側から南京錠をかけた。数は4つ。
 厳重な戸締りに、息子が疑問を覚え問おうとする間に、エフゲニーは入口の対面に位置する階段を潜ってゆく。アレクセイは置いてゆかれまいと、その背中を追いかける。
 ほどなくして、青白い光が螺旋階段の出口を照らしているのが見えた。
「……父上、あの光は……?」
 太陽の日差しが大地を温めるのとは反対の、全てを凍りつかせるかのような光。
 言い表し難い寒気が、少年の背中を走った。
「今にわかる。ついておいで」
 立ち止まってしまった息子の肩を、父親が諭すように抱き、二人はそろって階段を下りた。
 冷たい光の満ちた地下室に辿り着いたアレクセイを出迎えたのは、管に繋がれた大きな硝子の容器。
 通された無数の管からは、外部から何かを供給しているようだった。
 地下の研究室を満たす静けさが、かえって不気味さを助長させる。
 その中の発光源がなんだかわかると、アレクセイの頬が緊張で強張った。
 アレクセイがその髪と同じ色の瞳を向けたその先。
 そこには、どろりとした黄緑色の溶液の中で瞳を閉じて眠る男がいた。
 その顔立ちは――……。
「……ど、どうして……?」
 少年から血の気が引いてゆく。
 立ちすくむ息子の隣で、エフゲニーはジャケットの裾を後ろに広げ、膝まづいていた。
「? アレク、何をしている? さあ、我らがまことの王に頭を垂れよう――」
「父上……。どうしてこれは、グラズア様に生き写しなのです……?」
 大きな硝子の中で、夢見るようにたゆたう男。
 それはアレクセイの見る限り――長い髪や肌は色素こそ薄く、透き通っているようだったが――グラズアそのものだった。
 父親の叱咤が唾と共に飛ぶ。
「アレク! 王に向かって何を……! 言ってよいことと、悪いことも判らんのか!?」
「で、でも――! 父上! 訳が、わからないのです!」
 刹那。
 容器の中で眠っていたであろう男の、瞳が開いた。
 その双眸は――鮮血そのもののように、紅く、ぬらりと輝いた。
 アレクセイの背筋に、冷たい物が走った。膝が、わななく。
 困惑を隠せないアレクセイを、伯爵は膝まづかせた。
 その男に向かって――。
「申し訳ございません、王よ……。倅の無礼を、なにとぞお許しくださいますよう……」
 ただならぬ雰囲気の中、少年は身体を強張らせることしかできない。
 すると、何処からともなく語りかける声が聴こえて来た。
「……なに……お前の子のすることだ……。……かわいいものだよ……」
 息子が恐る恐る辺りの様子を窺う。
 見たことも無いような恍惚の表情を浮かべる父親。
 彼にもまた、謎の声が聴こえているらしかった。
「……お前のお陰だ……。じきに……完成を迎えられよう……」
「はっ。もったいなきお言葉……。後、五〇ほどで、一〇〇〇になりますゆえ……」
「一〇〇〇……実に永かった……。真の王の……その目ざめを……」
 謎の声が消えると、親子は顔を上げた。
 目の前の男の、鮮血の瞳は既に閉じられていた。アレクセイは胸を撫で下ろし、父親を見上げる。
 見なれた横顔によそよそしさを感じつつも、少年はそれを務めて無視しようと明るい声を上げた。
「父上、五〇とは、なんの数字ですか?」
 水底のような明かりを湛えた地下室に、少年の声とその倍音がじいんと響く。
 伯爵はその余韻を聞き届けると、ゆったりと息子に首を向けた。
 丁寧に育てたハの字の髭の下、その口元には安堵を誘うような穏やかな笑み。
 しかしアレクセイは、恐怖に見開かれた顔で頷くことしかできなかった。
「……なに、すぐにわかるさ……アレクセイ……」
 父親の瞳――本来は墨色の瞳が――濁りない鮮血に燃えていたのをもろに覗き込んでしまったから。

     2

 パンプスの踵を打ち鳴らし、ヴァニアス王宮の廊下を行く小柄な少女。
 軍服を一糸乱れさせずに着こなす彼女は、その細腕に抱え込めるだけの書類を持って、ある場所へ急いでいた。
 彼女の短く切りそろえられたプラチナブロンドが、アーチの窓から差し込む正午の光に透けてたなびく。
 すれ違う女中たちが、あどけなくも凛々しい横顔に頭巾頭を下げると、早足の彼女も小さく会釈する。
 そうしてミラー・シール副官が辿り着いたのは、国王グラジルアスの自室だった。
 国王の部屋の前で立ち止まった彼女は、首を小さく回し、一つ唸った。
「……あちゃぁ……」
 そして、がっくりと頭を落とした。
 その腕に抱えた書類のせいで、ノックもできない。そもそも扉も開けられない。
 なんとか片腕でそれを持てはしないかと、悪戦苦闘するも、はさんでいた紙がひらひらと足元に逃げて行くだけでうまくいかない。
 ミラー、ここは落ち着かなくちゃ。
 面倒くさがっちゃ、駄目よね。
 少女は一旦両手を空けるため、書類を置こうとその場に屈んだ。
「ミラーかい?」
「いたぁっ!?」
 が、それは失策だった。
 屈んだミラーの頭頂に、開け放たれた扉の角がしたたかに当てられてしまったのだ。
 もちろん、犯人は国王ではなかった。
 少女はずきずきと痛む患部を撫でさすり、犯人を糾弾するために顎を上げた。
「ライン殿! どうして突然開けるんですか!?」
「ご、ごめん、ミラー! 痛かったかい?」
「痛いに決まってるじゃないですかぁ!!」
 痛みのために涙ぐむ少女を目の当たりにし、ラインも取り乱す。
 幼少の頃より、養父とグラズアからきつく言われていたことに抵触してしまったからだ。
 守るべき存在――女の子を泣かせてはいけない。
「ああっ! ごめん! 泣かせるつもりはなかったんだ!」
 咄嗟に手を伸ばし、ミラーの頭を撫でまわすライン。
「ここ? ここが痛かった?」
 彼なりのいたわりに、少女は大げさに反応した。菖蒲色の瞳が突然の接触による混乱で、真ん丸に見開かれる。顔には紅葉が散らされる。
「ちょっ……!? 触らないでくださいっ!」
「じゃあ君はどうしたら許してくれるんだ?」
「許すとかよく解んないです! 離れてくださいっ!」
「だって君を泣かせてしまったんだよ、僕は!?」
 部屋の扉が開いたまま続けられる、混乱した騎士と副官の言い争い。
 それを止めたのは、二人の主君だった。
 彼はあくびを噛み殺しながら、ラインの頭を上から軽く小突いた。
「……お前ら……うるさくてかなわん……」

     3

 グラズアの部屋にも、暖かな日差しが差し込んでおり、室内はそれでほんのりと温められていた。
 壁紙の白む明るい室内は、実に健康的な色彩を見せている。
 窓辺に程近いライティングデスクの前で、ミラーがしきりに絹の様な髪をかき上げている。
 それはまるで、猫が自身を落ち着かせようと毛づくろいをしている様子に似ていた。
 実際、彼女は未だ、その頬の赤さを拭い去れずにいた。
「若様。こちらが兵士の勤務表で、こちらが議事録です。先代陛下の頃の物ですが参考になるかと思います。目を通していただければ、ヴァニアス全土の勢力が把握できるはずです」
 ミラーの仕事は、実に早かった。
 軍師の宿題は雪解けまでに済ませればよかった。
 だが彼女は、ものの三日でグラズアに与えられた二つの仕事を終えてしまったのだ。
 間接的にこれを指示したエイノも、これは予想していなかっただろう。
「……ありがと……」
 寝起きのグラズアは、背もたれに全体重を乗せたまま書類を受け取り、寝ぼけ眼を擦りながらそれに目を通す。
 そうしているうちに、藍色の瞳がとろんとその色を濁らせはじめた。
 それが瞼の裏に隠れると、穏やかな呼吸音が。
 自身の書類を机に叩きつけると、ミラーは容赦なくグラズアの肩を掴んで揺さぶった。
「若様! もうお昼なんですから、ちゃんと起きてくださいな! まるで本当に病弱みたいじゃありませんか!」
「うぅ……。数分だけ……、数分だけでいいから……寝かせてくれよ……」
 瞼の重たさに弱音を吐くグラズア。
 グラズアとラインは、見張りの少ない夜に動きまわり、王家の抜け道の地図を作成していた。
 二人の測量の技術は、等間隔に歩いた歩数を記憶し、地図に記入するという拙いものだった。
 建物の部屋と縦を一致させるために、地下道の真上を、同様の歩数分歩き、曲がり角も同様にしてシミュレートしていた。
 これは、意外と骨が折れる作業だった。
 人々が寝静まった時間に、夜闇に包まれた部屋を歩き回るのは、あからさまに不審な行動だ。
 結局のところ、夜は地下を歩き、昼は城内を歩くという作業が続き、慢性的な睡眠不足がグラズアとラインを襲っていた。
 それが三日目ともなると、その寝不足は侮れないものだった。
 あきれた少女は、扉に背中を預けていたラインを勢いよく指さす。彼もまた、瞼を落としてうつらうつらと船をこいでいたところだったが、少女の声には小さく反応を見せた。
「ほら、ライン殿を見てください! ぴんぴんしてますよ!」
「それは、あいつから刀を奪ってから言ってくれよ……」
 かっくりと頭を項垂れさせる主君をそのままにし、ミラーはラインの目前につかつかと歩み寄った。その口はへの字に歪み、至極不満そうだった。
「……どうかした、ミラー?」
「では実験をします」
「あ」
 そう言ったミラーが、ラインが片時も手放さない刀を取り上げる。
 うっかり帯刀を解いてしまったラインは、そこで、ぷっつりと意識を途切れさせ、膝からくずおれた。
「ら、ライン殿!?」
 ミラーは刀を持ったまま、脱力した相棒を慌てて抱き止める。
 ラインは棒きれのような身体をしていたが、小柄なミラーにとっては大荷物だった。
「重たっ……! 若様!? 私……聞いてませんよ……! これは一体、どういうことですか……っ?」
 それを薄目で見ていたグラズアが、手をこまねいて意地悪く言う。
「あれ、ミラー。知らなかったのか? 理由は俺も知らないが、これがラインの悪い癖の一つなんだ」
「……閣下が、ライン殿の……目ざましに、刀を手渡せ、というのは……?」
「そう、そういうことだ。なんだ、知ってたんじゃないか」
 ラインを支えるミラーの背中が、震えながら次第に弓ぞってゆく。
「ちゃんと……説明……、されたこと、ありませんよぉ……」
 彼は刀を手にすると覚醒し、その反対に、刀と共に緊張感をも手放してしまう不思議な癖を持っていた。
 そう言う訳で、ラインの引き締まった肉体からは、ぐったりと力が抜けてしまった。
 少女にしなだれかかっているその様は、まるで、熱い抱擁を交わしているようだ。
 不可抗力で背中にまわした手のひらから、彼の体温が伝わってくる。
 穏やかな鼓動までも感じ、ミラーは耳まで燃え上がらせた。
 いつの間にか眠気が吹き飛んだらしいグラズアが、わざとらしく声を上げる。
「ほらほら二人とも! いちゃつきたいなら出てってくれよな!」
 彼に首を向ける少女に、限界が訪れようとしていた。
 混乱を極めたミラーが眉を傾けて乞う。
「からかわないで、助けてくださいよぉ! もぉ……どうしよう……グラズアさまぁ! 落ち、ちゃう……っ! ふえええ!」
 グラズアは重い腰を上げると、荷物の重さで今にも倒れそうな少女の元に駆けた。
 少女の背筋を支えてやり、そして、その手からライン愛用の刀を抜きとった。
「はい」
 それを彼の筋張った大きな掌に触れさせる。
 鞘が掌にしっかりと収まった途端、騎士の瞳がぱっちりと開いた。
「……ふわわぁ……?」
 小さく欠伸をした彼が少し首を回すと、彼の鼻先に何か柔らかなものが触れた。
 それは少女の頬だった。
 瞳がかちあう。
 チャコールグレーがぼんやりと。桃色がかった紫陽花色は真ん丸に。
「あ。ミラー。おはよう」
「っ!!」
 彼女は何も云わずに自身からラインを引き剥がした。
 それからグラズアに向かって振り向くと、彼を突き飛ばし、ソファの上にあったクッションを次々と投げつけた。ベルベットのカバーが艶めくそれらが、ことごとくグラズアに当たる。
 秋日の窓辺に、埃がきらきらと光を受けて踊る。
「あっ! ミラー! 若になんてことを!」
 再び帯刀し覚醒したラインが、少女の両手首をそれぞれに掴んで制する。
 しかし少女はじたばたと暴れた。
「ライン殿、手を放してくださいっ! 若様がいけないんですっ!」
「だめだよ! いつものミラーらしくないよ?」
「ライン殿は黙っていて下さい!!」
 訳もわからず宥めすかしてくる騎士に、副官が噛みつく。
 少女の言葉はいつもと同じだが、その声音と動作はいつになく狂暴だった。
「元はといえばですね――!」
「困ったちゃんだな、ミラーは!」
「子供扱いしないでください!!」
「ミラー! 俺が悪かったっ!」
 グラズアはラインを制すると、肩で息をしていたミラーに頭を下げた。
 乱れた黒髪に、最後のクッションが弾んで落ちた。
 恐る恐る見上げた国王の瞳に、憤慨と屈辱感に頬を染め、顔を歪ませている少女が映る。
 ……どこかで、見たことがある様な――?
 その相貌に既視感を覚えたグラズアの耳に、平和な呟きが飛び込んできた。
「そうだ、お茶にしましょう、若! ミラーも叫んで喉が渇いただろ?」
 ラインの突拍子もない提案に、二人はきょとんとした。
 そしてどちらともなく吹きだした。

     4

 女中に茶器を下げさせると、三人はグラズアのリビングで書きかけの地図を広げた。
 地図は四枚あった。
 三枚が王家の住居の一階から三階で、残りが地下を走る王家の抜け道の地図である。
 抜け道は二種類発見され、四枚目に丁寧に記入されていた。
「一つ目は、俺とテュミルが脱出に使ったルートだな」
 住居の三階の南東に位置する、グラズアの部屋の暖炉裏から潜り、そこに掛けられた梯子を地下まで降り切ると、丁度、騎士団長の控室の真下になっている。そして、直角に蛇行する地下道を進むと、水路へと繋がる。道なりに進めば迷うことのない、ほぼ一本道のルートだった。
「地下水路の出口まで遠いですが、若の――国王の部屋から直通というのが最大のメリットですね」
「そうだな……」
 グラズアが頷く。
「二つ目は、ここが出発地点です。一階の北東に位置する僕の部屋の床を開き、地下室を経由して水路に出るルートですね」
 ラインは隠し通路の動線をなぞりながら、確認する。
 これは一旦地下道に出てしまえば、角を二回左に曲がるだけで水路の出口へと抜けられる最短の抜け道だった。
「たった二つか……」
 そんなはずはない――多分……。
 グラズアは机に肘付く、左の手の甲に唇を押しあてて俯いた。
 王侯貴族の住まいには、戦が起こることを想定して、複数の脱出ルートが用意されることがあると、彼は学んでいた。
 幸運のためか、はたまた時の女神の加護によるものなのか、一〇〇〇年の間、ヴァニアスには平和が保たれていたため、どのルートも忘れ去られて久しい。
 また、グラズアは古いヴァニアスの言葉には明るくない為、過去の資料にあたったところで読み解くことができない。
 ここにエイノかルヴァがいてくれたら、読めたのかもしれない……。
 彼らの顔を瞼の裏に映すグラズア。
「はやく他の隠し通路も見つけましょう、若」
「ああ……そうだな」
「そうして、早く安眠を取り戻したいものですね!」
「そうだな!」
 頷き合って同意するグラズアとライン。
「……?」
「……お?」
 二人の青年は少し物足りなさを感じて、もう一度視線を交わす。そして、同じ方向に首を回した。
「……ミラー?」
「ひゃっ!?」
 目を伏せていた少女が、主君の呼びかけに過剰反応する。
 彼の声はおずおずと下手だったのにも拘らず。
「……さっきの、まだ怒ってるのか……?」
 副官は慌てて笑顔を取り繕い、首を横に振る。
「い、いえっ! 全然っ! あの、なんでしょうか……?」
「……いや、ラインに突っ掛からないミラーなんて珍しいな、と……」
「そ、そうでしょうか……?」
 苦笑いする少女の肩を、大きな掌が包み込んだ。
「悩みがあるなら、いつでも相談してくれて構わないんだよ?」
「……ライン殿にお話しするくらいなら、若様に聞いていただきたいですっ」
 ミラーは幾度目か顔を赤らめ、両の肩口をぐるりと回してラインの手をどかせた。
 二人の何気ない様子に目を細めるグラズアだったが、再びその表情を引き締めた。
「それにしても、エフゲニー叔父がいつ王宮に戻ってくるかがわからないとなると……」
「閣下は、二週間ほど時間を見てくれとおっしゃっていました。それが、マッピングにかけられる最大の時間でしょうね」
 凛然と述べる少女の双眸は、副官のそれに切り変わっていた。
「それまでに幾つ見つけられるのでしょうか……」
「一日に一つ見つけられたら、万々歳、ってところだな……」
「僕と若は少なくとも二週間寝不足が決定か……」
 三者三様に息を吐く。
 グラズアは、落とした視線で四枚の地図をざっと撫でる。
 地下水路の出口から、王宮内へ戻る道を指でなぞってみる。
「――!」
「若?」
 天啓がひらめいたグラズアは座る姿勢を正す。
「そうだ、何かおかしいと思ってたんだよ!」
 二人の腹心が顔を見合わせる手前で、国王は二枚の地図を隣り合わせた。
 左に隠し通路が書かれたものを、そして右に二階の地図を。
「見てくれ。今わかっている二つの経路は、全部王宮の東側に偏っているんだ」
 城内の東側には、グラズアの部屋、ラインの部屋、大将軍の控え。そして、客間と採寸室はリンデン伯爵が自室として使用していた。
「男性の住まいにだけ、隠し通路があるということ……なのでしょうか?」
 小首を傾げるミラーにグラズアは力説する。
「ミラー、それは違う。戦時にまず王宮から逃がすべきは、血脈に連なる女性とその子供だ。当主が息絶えても、その血が絶えぬ様に……。だから、東側に二つの抜け道があるということは、少なくとも同じか、それ以上の数の抜け道が西側にも用意されているはずなんだ!」
 主君の推理に納得する将軍と副官。
「西側はと言うと、女中が働く裁縫室や、リネンストック……。それから、リシュナ様とセレス様のお部屋……。これであってるかい、ミラー?」
 少女は黙って頷く。
 グラズアは熱っぽく続ける。
「全ての隠し通路の出口が一つと仮定するならば……遡って西に行くルートを見つけ出すのも簡単かもしれないな……。しかし、地下の構造がわかっても、秘密の花園を男の俺が一人でうろうろするわけには、いかない、か……」
 思考の行き詰まりに唸る青年。
 しばしの沈黙の間を、窓の外から流れてくる小鳥の歌が埋める。
「なるほど、理解できました。では、城内の西側は私がやりますね。若様とライン殿は、地下から城内にアクセスできる道だけ探してもらえませんか?」
 十六歳の優秀な副官の少女が、グラズアには頼もしく映った。
「ミラー……。お前一人で、ライン何人分の働きをしてくれるんだ……」
「そうですね……。事務作業でしたら、十人分でしょうか」
 ふふっと勝気にほほ笑む少女に、相棒が感嘆する。
「ミラーは、僕の十人分なのか!」
「また誤解されるような言い方を……。でもまあ、こういった、事務仕事に限りますよ。ライン殿は、刀一本で百人力の鬼神なんですから」
 そう言うと、少女はそっとはにかんだ。
「後は、《三本の薔薇》か……。こっちは、全然手がかりも何もないな……」
 真黒な前髪をぐしゃぐしゃにする青年の前で、二人の部下がそっと目配せし合う。
「若、それは追々で良いと思います」
「……でもエフゲニー叔父が戻る前に……」
「大丈夫ですよ、若様。まずは地図を完成させることを優先いたしましょう?」
 グラズアは自身の呟きにもう一つヒントを見つけた。
「……そうか!」
 リンデン伯爵が城内にいないうちならば、堂々と彼の部屋に侵入して暴くことも可能だ。
 その部屋で五年前から起こり始めている不可解な事件に連なる物的証拠を発見できれば、彼の陰謀と所業を明らかにすることができるだろう。
 そして、リシュナ・ティリアが見たという、馬車の細工についても明らかになれば、解放軍として動かなくとも彼を失脚させることが可能に――。
 グラズアは、自身の閃きに興奮さえ覚えていた。
「なあ……!」
「なんでしょう?」
 ミラーは涼しい顔をして、手元にある書類を机の上で揃え、部屋から去る支度を整えている。
 一方のラインは、手慰みに耳飾りをいじっている。
「俺、エフゲニー叔父の部屋を調べてみようと思うんだが――」
「!」
 二人の手が止まる。
 菖蒲色の瞳が、くるりと回され、困ったようにラインを見つめた。
 それを受け止めたラインは、唇を横に引いた。
「……若……」
 青年の沈鬱なトーンに、グラズアは片眉を上げた。
「……なんだよ……。何か、変なことを言ったつもりはないぞ――?」
 その途端に、ミラーが頭を全力で下げた。
「……申し訳、ありません!」
「ど、どうしたんだ、ミラー?」
 ラインだけでなく、ミラーも深刻そうな声色。
 二人の掌の返し様に、グラズアは動揺を隠せない。
「ミラー、頭を上げて……。君だけが背負うことじゃないんだから……」
 ラインは、苦虫をかみつぶしたような顔をし、彼女の肩を支え抱き起こした。
 二人とも元から血色の好い方ではないが、その顔はいつになく白く、蒼白とも言えるものだった。
「……若、今夜、地下に潜る前に、一緒に来ていただけますか?」
「でしたら私も――!」
「……ミラー……君は来ないでくれ」
「……部屋には入りませんから……」
 突如として訪れた重苦しい空気に呑まれてしまったグラズアには、二人の沈鬱な表情の理由を糾弾することができなかった。

     5

 猫の爪の様な三日月が、恥ずかしげに雲間に隠れている。
 グラズアは、リンデン伯爵が自室として使用している二階の東側の客室を目指した。その客室の南に隣接した男性用の採寸室も、同様に彼が占拠していた。
 王族の住まう三階から螺旋階段を二階へ下りたところが、ヴァニアス王国の政治の中心である議会ホールだ。リンデン伯爵が宰相として君臨してからは、中心に据えられた円卓も、その機能を果たさなくなってしまったのだが。
 ホールに隣接している客室の扉には、主の不在にも拘らず重装備の衛兵が二人、見張りに立っていた。
 降り立った主君に最敬礼をする彼らを、グラズアは得意のアルカイックスマイルで労う。
「……御苦労さま。夜も深いのに、眠たくはないのかい?」
「はっ。ありがたきお言葉。しかし御心配には――!?」
 その間、彼らの後ろに音も無く近づいたラインとミラーが、それぞれに衛兵を無力化した。しばりつけ、念のためにねむり薬をかがせた。
 そして新しい見張りとして、ミラーをそこにつけた。
 螺旋階段の影に、縛り付けた衛兵を引きずりこむ。
「よっし、これでいいな!」
 首回りをわざとらしくほぐすグラズア。
 彼の明るさとは反対に、二人の腹心の顔は翳ったまま。
 少女のほうが張り詰めていた息を吐き、おずおずと申し出た。
「……若様、本当に……?」
「なんだよ、ミラー。人の部屋に入るくらいで、そんなにびくびくしなくたっていいだろ?」
 グラズアは彼女を安心させるかのように、大げさに口端を持ち上げる。
「……でも……」
 歯切れの悪い少女に代わり、青年が言葉を引き継ぐ。
「若……。今なら、引き返すことができます。僕達は、そっちをお勧めしているんですよ」
「……まるで、中にある物が何なのか、知っている口ぶりだな」
 二人の青年の静かな攻防を、ミラーがはらはらとしながら見守る。
「僕はそうですね。でも、ミラーは知りません。というか、僕個人の願いとして、若にもミラーにも見てもらいたくないんです」
「……そんな事を聞いちまったら、尚更見ないわけにはいかないな」
 グラズアの声に、一段と意思がこもる。
「お前達が知っていることは、俺にも知る義務があると思うんだ。間違ってるか?」
 サファイアの瞳が真っ直ぐに騎士に突き刺さる。
 固い決意を秘めた眼差しは、その涼しげな色とは反対の情熱に溢れている。
 それをまともに受け止められるのは、ラインしかいないとミラーは思った。
 若い騎士は、苦々しく本音を吐露した。
「どうしてそう、頑固なんですか……。僕は、義務という言葉であなたを縛りつけたいわけじゃないのに……」

     6

 リンデン伯爵の部屋に入ると、まず、グラズアの鼻を打つものがあった。
 カーテンが閉め切られた暗い室内には、黴臭いような、または木苺のような酸っぱさも孕んだ、不自然な香りが満ちている。
 甘ったるい匂いに、グラズアは胸やけを覚えはじめる。
「……窓を開けようか……」
「……ええ……」
 だんだん、頭がくらくらしてきたグラズアが、鼻を押さえながら、隙間なく締め切られていたカーテンを脇によけ、軋む窓を開いた。
 室内には涼やかな秋風と共に清かな月光が差し込み、暗がりに慣れていた二人の視力を奪う。
「――!?」
 黒髪の青年は、月明かりが照らしだした光景に息を飲んだ。
 数々の、硝子瓶が書棚に所狭しと乗せてある硝子の戸棚。
 その中で、濁った液体と共に詰められた何かの胎児。
 金属でできた、大きな拘束具と拷問具。
 錆付きの目立つ、医者が使うような鋏とナイフが机の上に散らばって。
 深緑色の絨毯の真ん中は、赤黒く染まっていた。
 そこから思わず後退さったグラズアの靴の裏が、何やら湿った音を立てた。
「血……、なのか……? 一体……?」
 何の、と、グラズアは続けることができなかった。
 重厚な絨毯を染め上げるだけでなく、ひたひたに濡らす大量の血液。
 未だ乾くことのないそれに、こで起きたであろう惨たらしい行為は簡単に想像がついた。
 彼の喉に、込み上げてくる晩餐。堪らず、手でそれを抑える。
 縋る様な目つきをする主君の背中を、友人がさする。
 口元を押さえる青年は、眼のやり場に困惑していた。
 何処へ首を回そうと、リンデン伯爵の部屋には彼の気分を滅入らせるものしかなかった。
 今なら引き返せる。
 扉をくぐる直前の友人の言葉が、痛いほど理解できた。
 できることなら知らずにおきたかった真実が、目の前に広がっている。
 最早グラズアには、この部屋で起きたことを知ること以外の道は残されていなかった。
「……ライン……、何が、ここで……?」
 見開かれたサファイアの瞳に、涙が滲み出す。
 嗚咽をこらえるグラズアの横で、ラインが重い口を開いた。
「……若が即位してから、リンデン卿がここに居を構えましたよね……」
 背中を丸めている青年が何とか頷いたのを見て、友人はぼそぼそと低く続ける。
「お爺様と僕は、彼が若に危害を加えないか、ずっと監視してきました」
「……ああ」
「……ある夜、僕達は見てしまったのです。非人道的な実験を……」
「……拷問、か……?」
 青年騎士は首をゆるゆると振った。
「あくまでも実験であると、リンデン卿は主張していました。しかし……」
 ラインが言葉に詰まる。
 日頃、無神経を我が物とする彼をもってしても言い難いことなのか。
「……言ってくれ……」
 今にも溢れてしまいそうな涙を何とかせき止めているグラズアが、真っ直ぐに友人の瞳を見据えた。
 それを受け止めたラインは、そこにグラズアの精神的苦痛さえも見てとった。
 そして、左手を愛刀の柄に置き直した。
「……生きたまま、腹を裂かれた彼らにとっては……まぎれも無い拷問だったはずです……」
「っ!!」
「……僕はそこで意識を失ってしまって……。あとは、お爺様から伝え聞いたことしか知りません……」
 グラズアの双眸に溜っていた涙が、はらはらと零れ落ちる。
 ラインはそれを見てしまわぬよう、顎を窓の向こうへと向けた。
「お爺様が監視していたところによると、リンデン卿は、暇さえできれば動物を生きたまま解体し……違う動物同士を縫いつけるなど……むごたらしい行為を実験と称し、繰り返してきたそうです……」
「……動物……。そこに……そこに人間はいなかっ……?」
 安堵と不安との入り混じる主君の涙声を、従者は否定した。
「……人間も、その例に漏れなかったと聞きます……。ときには、そうしてできた異形の獣に、生娘をあてがうこともあったと……」
 ラインの瞳には、空に浮かぶ三日月のように冷たい光が映り込んでいた。
 湿り気のある絨毯を踏みしめ、硝子戸を開いたラインは、瓶を一つ手に取る。
 臍の緒なのか、帯状の紐に繋がっている、不格好な生命だったものが、液体の中でぷかりと揺れる。
「この瓶に入っているのも、そうして出来た子供……あるいは幼生……かもしれません」
 ふと、その瓶の横にあるハンカチが目に留まる。
 それを手に取ったラインが振り向いた先には、棒立ちで涙をただ流すままにしている青年がいた。
 グラズアの体中にある水分が、全て瞳から溢れてくるようだった。
「……そんな、そんな……っ!?」
 おとぎ話のような、悪夢。
 しかし、足元の血染みと拷問具が無言で語る。
 現実の出来事だったと。
「俺……。どうして、気付けなかったんだ……? なあ……?」
 この実験の行われた部屋の真上。
 それこそが、国王の寝室に当たった。
 それなのに、なぜ?
 なせ、俺は気付かずに過ごせていたんだ?
 グラズアの嗚咽が激しくなる。
 リンデン伯爵は、国民から血税を絞り出すだけでは飽き足らず、自室では血の雨を降らせていたというのに――。
 血涙をしぼるグラズア。
 それは、身体を巡る流れの様に熱く。
 それは、悔しさと、不甲斐なさと、苦しみでとめどなく。
 やるせなさに膝を折った国王に、腹心が駆け寄る。
 そして、先程手にしたハンカチを差し出す。
「若……。若は悪くないんです……どうか、ご自分を責めないでください。僕とミラーがお爺様の言われた通りに、若が旅立たれるまで毎晩、若にお届けする水に睡眠薬を入れていたん――」
「だ、だからって――!」
「……こんな、むごい実験が階下で行われていることを、知らずにいてほしかった! 今だってそうです! 若はその優しさから、気分を害しているじゃないですか。ミラーには悪かった……でも、僕なら、大丈夫だったから……。僕には、汚れ仕事がお似合いですから……」
「止められたかもしれないじゃないかっ!! 俺が! 俺が、この手で……っ!!」
「止めたからと言って! たとえ……、若がリンデン卿の実験を知って、彼を止めたからとしても……。その時点でこの国を取り返せたと思いますか……? 僕は……、そうは思いません……」 
 グラズアは、何も云うことができなかった。
「僕は……、僕達は、若を守りぬくことだけ、考えていたんです。若が生きてさえいれば、僕は……」
「でも……! お前にとって大切なのが俺だというなら! 俺にとって大切なのは――!」
 国民だ。
 グラズアは、そう、言いきることはできなかった。
 そう言えない自分に、愕然とする。
 果たして、自身の命を投げうってまで、一国民を救う覚悟ができていたのか。
 違う。
 違うんだ。
 グラズアはわななく自身の掌を、涙の受け皿にした。
「俺が……! 俺が、守りたかったのは……っ!!」
 命を賭けて守りたかったのは――。
「……っ」
 その掌も、力なく垂れてしまった。
 守りたかったのは。
 彼の脳裏には、血を分けた妹の顔。
 そうだったんだ。
 自身の本音に気付いてしまったグラズアは、自身の浅はかさに、押しつぶされそうになる。
 王位継承のあの日、彼の上に載せられた王冠の重さ。
 国家元首の責任の重さは、王冠とは比べようも無く、重たい。
 彼はそれを、今まさに知った。
 思い知った。
「あああ……! ぐああああああああ!!!」
 感情が昂りすぎて、言葉は意味をなさなかった。
 吐瀉物が散るのも構わず、グラズアは膝をつき、床を強く、拳で叩いていた。
 力のままに、振り下ろす。
 夜であることも構わず、行き場のない怒りを破裂させる。
「……若……」
 ラインが手を差し伸べる。
 しかし、グラズアは、それを払いのけた。
 グラズアの身体と共に、青い魂が震えていた。
 悲しみで。
 悔しさで。
 リンデン伯爵への憎しみで。
 ラインへの、ミラーへの、セルゲイへの怒りで。
 そして、無力な自分を責めて。
「どうして! どうして!! こんな、こんな……むごい遊びを!!! 許していいわけ無いだろ!? 見過ごして、いいわけ、無いだろぉおおがあああ!!!」
 ぱしん、と一つ。
 グラズアの頬に、衝撃が走った。
「若。呪うなら、僕を呪えばいい。でも、あなた自身を決して呪わないでいただきたい」
 平手の主ラインは、先程手渡したハンカチを再びその手に取り戻した。
「僕達は、あなたの命の代りにあれを見過ごすようにという、条件を飲んでいたのですから……」
 畳み直して、主君の口元をぬぐおうとした彼は、見つけてしまった。
 そこには、彼らの求めていた、秘密の紋章が刺しゅうされていた。
「……《三本の……薔薇》……!」
「これが……そうなのですか……? 僕が知る限りこれは、リンデン卿の腹心が持つ……《忠誠の証》だと……」
 苦々しく言葉を紡いだラインに向かい、グラズアは剣を構えようとした。
「……ライン……、これを持っているってことは……お前も……?」
 ラインは、首を振った。
「今、ここで見つけたのです。僕は、未来永劫、あなたへの忠誠を誓っています。それは、あのときから変わることがありません」
 気遣う頬笑みを見せたライン。
 その顔に、いつもの彼を見出したグラズアは、その場で意識を手放した。

     7

 ヴァニアスの守護神、セルゲイ・アルバトロスは、その肩書に見合わない処遇を受けていた。
 彼にあてがわれた仮住まいは、グラスリンデンの地下に位置する、一条の光も差し込まない牢屋だった。
 そこに入れられているのは、アルバトロスだけではないようだった。
 男の声。
 怒りに溢れている。
 女の声。
 嘆きに満ちている。
 子供の声。
 訳もわからず泣きじゃくっている。
 人間以外のものである、低いうなり声も聴こえてくる。
 それらにさして恐怖を感じなかった彼だったが、寒さには身を震わせた。
 秋寒の中、暖炉も無い牢屋で身ぐるみをすっかり剥がれていたからだ。
 彼の口からひとつ、大きなくしゃみが飛び出す。
「やはり……罠、じゃったか……。ライン……陛下を助けてやってくれ……」
 アルバトロスは、ヴァニアス城を出発する前に、再び三通の手紙をミラーに託していた。
 一通目は、アーミュの元、軍師であるエイノユハニ・ヘンリク・クルーセルへ。
 二通目は、ヴァニアスの北方、サンデル公爵家へ。
 三通目は、ミラー、及び、ラインへ。
 アルバトロスが、二週間以上グラスリンデンから帰らない場合、それらを送付、または開くように言いつけてきたのだった。
「万が一、とはよく言うものじゃが……。悪い予感は結構な確率で当たるもんじゃのぉ……」
 アルバトロスは、むき出しの肩をいからせた。
 そして、若かりし日、その肩に掘りつけたヴァニアスの紋章――白い薔薇と赤い薔薇のシンボル――をそっと撫でた。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ