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黒獅子物語 作者:黒井ここあ

第二章 二人の王

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二、王様の冬支度

キャラクターデザイン(外部リンクです)
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キャラクター紹介
http://ncode.syosetu.com/n2893cc/
     1

 昇る梯子の先頭を行く青年は、足元から聴こえるテンポの良いやり取りに口元を綻ばせていた。
「もう、どうしてライン殿は私の後ろにいるんですか?」
「君が落ちたら大変だから、かな」
「私、落ちませんから!」
「本当に? 君の靴は見るからに滑りやすそうだよ?」
「余計なお世話です! ご自分の心配でもなさったらどうですか?」
「僕は、一応君の上司だよ? 部下を心配するのはいけないのかい?」
「事実そうであっても、私がお仕えしているのは若様であって、ライン殿ではありませんから」
「それもそうか」
 握る手が疲れてきた頃、ようやくその終わりが見えてきた。
 梯子の切れ端から、うっすらと光が差し込んでいるのだ。
 グラズアは咳き込みながら、その小さな抜け穴をくぐる。
 そこから頭を出すと、抜け道よりも幾分か光量のある開けた空間が目前に広がった。
「……ここは……」
 青年は狭い出口から抜け出そうと肩を捻り出す。
 大きな窓から差し込んだ月光が、えんじ色の絨毯を照らし出す。
 そこには黒々とした足跡が点々と残っていた。
 それは忘れもしない、三週間以上前にトレジャーハンターが――テュミルが残したものだった。
「……無事に、帰って来られたんだな」
 即位してからの五年間、彼の世界の大半を占めていた国王の部屋。
 それはどんな宿屋や屋敷も持ちえない天上の高さと広さを誇っていた。
 寝具も家具も調度品も、その全てが一級品だ。
 だが、グラズアは言い表しがたい狭さを、自室に感じていた。
 彼の初めての旅は、自身の生きる世界の幅をぐんと広げてくれたようだった。
 約一カ月ぶりの自室に感慨に浸るグラズアの足元から、抗議の声が上がった。
「若様、なるべく早く出てはいただけませんか?」
「お、悪い」
 副官の少女に言われるまま、グラズアは抜け穴から身体を抜き取った。
 彼が膝を引きずった床に、黒い煤の線が引かれた。
「ありがとうございます」
「ミラー、お腹がすいたね」
「ライン殿は、決して上を見ずに黙っていてください」
「上を見ないと出られないじゃないか、ミラー?」
「絶対に見ないでくださいと言っているじゃないですか!」
 ああ、なるほど。
 様子を窺っていたグラズアには、ミラーが何を言いたいかがわかった。
 女性用の軍服にはパンツとタイトスカートの二種類があり、彼女は後者を愛用していた。
 それにも関わらず、ミラーではなくラインがしんがりを務めてしまったのだ。
 主君は助け船を出す。
「ライン、絶対見るなよ!」
「何をです、若?」
 そう来たか。
 もっと直接的に言わないといけないのか……?
 察するということについて極端に苦手な友人。
 彼に理解させるため何と言おうか、グラズアが頭を悩ませているうちに、暖炉の抜け穴から小柄なミラーが、そしてラインが出てきた。
 少女が漏らした溜息が、グラズアのと重なる。
「ふう。こんな狭い抜け道なんて、もうこりごりです」
 ミラーが、全身についた埃を申し訳程度に払いながら文句を言う。
「でも、これからこういう抜け穴を探さなきゃいけないんだぜ?」
「それが、軍師殿の宿題、ということなんですね?」
「宿題って……。俺は子供じゃないぞ、ミラー?」
「若様はご自分が思ってらっしゃるより、とても少年らしいと思います」
「お前に言われてもな!」
 グラズアは自身より三〇センチメートル下にある少女の小さな頭を撫ぜた。
 が、撫ぜられた方は、いかにも心外であると唇を尖らせ、主君を見上げた。
 一方のラインは、しきりに首を横に振っていた。
 そうすることで、灰色の髪から埃を落とそうとしているようだった。
 やっぱり、犬みたいだわ……。
 そう思って、じっと彼を見据えてしまったミラー。
 ラインの瞳が、くるりと彼女に向けられ、菖蒲色の瞳とかち合うと、彼女は慌てて首を反対方向へ回した。
 若い騎士はあからさまに避けられたのを気にも留めず微笑む。
「さて、お風呂にしようか、ミラー。それともご飯?」
「ど、どっちも支度をするのは私ですし、誤解されるような言い方をしないでくださいっ!」
「誤解? 僕は提案したまでだけど」
「提案って、あなたがしたいことを言っただけじゃないですか!」
「そうだよ」
 きょとんとして見せる彼に、ミラーが大きく肩を下げる。
 ラインは、廻りくどいことを好まないのか、直感的な言葉遣いをする。これが語弊を生むのもしばしばだった。
 それに振り回される役目をミラーに負わせたのはグラズアだったが、いざ、ちぐはぐな会話を目前にすると少し後ろめたい思いをするものだった。
 悪い、ミラー。
 荷解きを始めた彼は口の中でそっと謝っておく。
「さて、なつかしい我が部屋だけども……。この恰好のまま、ちょびにご挨拶申し上げないといけないのか?」
「じゃあ、やっぱりお風呂が先ですね、若」
「確かに身体を流したいけどさ――」
 実際、彼らは暖炉の裏から外へと通じている抜け道を辿って来たせいで、埃っぽいいで立ちをしていた。グラズアに至っては、離宮を出てすぐ旅装束に着替えたので、装いの小汚さはお墨付きだった。
 自身の使命を見つけたのか、ラインは瞳を輝かせ踵を返した。
「すぐに女中を呼びましょう!」
 が、その首根っこを主君が掴んで止めた。
「ライン、待て」
「はい」
 湯浴みよりも先に何をすべきなのかを、グラズアは問いたかったのだ。
 するとミラーが、何処からともなく書類を取り出す。
 すかさず、彼女の相棒が炎を灯した燭台で彼女の視界を照らす。
 こういうときには、気が効くんだな。
 グラズアが感心する目の前で、少女はラインに感謝の瞳を向けた。
 そして先程の取り乱し様が嘘のように、極めて冷静な口調で切り出した。
「いえ、ご心配には及びません、若様。リンデン卿はご不在ですから。まず、表向きの若様の動向を御理解いただきたく思います。どうぞお掛け下さい」
「わかった」
 グラズアの椅子を引いたのもラインだった。彼は手慣れた手つきで、国王が腰掛けるタイミングにぴったりとあわせて椅子を押すと、主君の耳元に囁いた。
「早く終わらせて、ご飯にしたいですね、若」
「聴こえてますよ! ライン殿はちょっと黙っててください!」
 あどけない声にどすを聞かせたミラーが、咳払いをした。

     2

 ミラーの報告はこうだった。

 国王グラジルアス陛下は、激化する民衆の反乱に心を痛め、この三週間、部屋から出ずに塞ぎこんでいらっしゃいました。あまりの落ち込みように気を揉んだ側近は、宰相のリンデン伯爵に、陛下にはご静養が必要である旨を直談判しました。するとリンデン卿は、陛下の妹君、リシュナ・ティリア姫及びセレス・フィナ姫の住まう離宮への訪問を許しました。これにより御兄妹は、実に五年ぶりの再会が叶ったのです。これに際してリンデン卿が出した条件は、二人の側近と共に隠密に、王宮と離宮とを往復することでした。革命家たちや市民の混乱を防ぐためです。

「おお……」
 グラズアは、良くできたシナリオに唸った。
 彼がこの五年間で定着させた、ひ弱で、誰かがいないと行動できない国王グラジルアスの人格ならば、そうしても不思議ではない話だった。
 グラズアは報告を聞きながら、新しいマントの埃を落としていた。
「……で、実際にはどっちの側近が直談判をしてくれたんだ?」
 丸テーブルの向こうに立つ二人を、グラズアが見比べる。
 穏便に話を通す技量を持ちあわせているのはミラーだろう。
 しかし、彼の予測は二分の一の確率で外れた。
「もちろん、僕です」
 ラインが誇らしげに胸を張って見せる。
「嘘だろ……。にわかに信じがたい」
 主君の疑いの眼差しを、少女が恥ずかしげに受け止める。
「……でも、真実なんです、若様」
「僕は、演技力に定評がありますからね、若」
「いや、それ、初耳だし」
「私もです」
「え、そうだっけ?」
「……」
「……」
 訪れた不思議な沈黙に、チャコールグレーの瞳を丸めるライン。
 それを破ったのはミラーだった。
「……次に、リンデン卿の動向についてのご報告です」
「あ、ああ、そうだな。続けてくれ、ミラー」
 折られた話の腰を元に戻そうと、グラズアも頷く。
 が、しかし、青年騎士のほうではまだ話が終っていなかったらしい。
「若! 僕がどうやってちょびに迫ったか、聞きたくないのですか?」
「迫……った……?」
 大きな語弊がある言葉に、グラズアが一瞬ぽかんとする。
 迫った。
 距離を詰めた。
 嫌な汗が国王の頬を伝う。
「ライン殿、この場合は、如何にして説き伏せたか、って言いませんと。まるで、ライン殿が伯爵に関係を迫った、と勘違いされてしまいます」
「ああ、そっか。わかったよ。それで、関係って?」
「え!? えっと……関係とは~……そのぉ……」
 一瞬で赤面したミラーが、助けてほしそうにグラズアに視線を飛ばす。
 しかし、助けを求められた方も、言葉に詰まって頬を赤らめるしかできなかった。
 迫る関係といえば一つしかないだろう……!
 耳まで赤くして黙りこくる二人を見て、ラインが何かに気付いたようだった。
「なるほど、関係というのは、男女の関係のことですか! あれ、でもちょびは――」
「も、もういいですから! 次、次に行きましょう!」
「――だな!」
「男同士も関係――?」
「ライン殿は黙ってくださいっ!!」
 ラインがぶつくさと疑問を並べる横で、ミラーは一枚、紙をめくり口を開いた。

 一方のリンデン伯爵は、グラジルアス陛下が自室に閉じこもったのを良いことに、次々に政治的決断を下しました。代表例として、口減らしの受け入れが挙げられます。その内容は、収入源が少ない家庭において子供を捨てる決断が下された場合、その子供はリンデン伯爵家がその領地グラスリンデンで請け負うということでした。その政策のせいか、グラスリンデンの人口が増加したという報告があります。

「……エフゲニー叔父にしては、随分、博愛精神に充ち溢れているな」
 ふむと一つ鼻息を漏らしたグラズアの脳裏に、船上で養子にした双子たちのことがよぎる。
 彼らも、そうした例にもれず、貧しい家庭から捨てられた子供だったのだろうか?
 魔獣の子供を商人がどんなルートで手に入れたかは知れないが――……。
「リンデン卿の表立った動きはこれくらいでしょうか……」
「ご苦労だったな、ミラー」
 少女はグラズアの言葉を菖蒲色の瞳で受け止める。その口端は誇らしげに持ちあげられていた。
 彼女は頬にまとわりつくプラチナブロンドを耳にかきあげ、ミラーは意味深に続ける。
「ここからは、アルバトロス閣下と私の調査をまとめたご報告をします」
「あれ、僕が仕事をしていないみたいな言い草だな」
 口を尖らせる青年に、少女は手厳しかった。
「……ライン殿のご飯、作りたくなくなりました」
「……僕が悪かったよ、ミラー」
 言葉だけ反省の色を見せる相棒に、ミラーは肩をすくめてみせただけだった。

 リンデン卿が政権を握ったその時から、家畜や野生動物の突然変異の目撃情報が急激に増加しました。その怪物は、夜道を行く人間をも襲い始め、騎士による駆除が始まりました。
また、城下町を除く地方都市に置いて、《神隠し》が多発するようになりました。それは、一夜にして一家が消息を絶つという不可解な事件です。最新の報告では、スキュラで五件、《神隠し》が起きているとのことです。

 沈鬱な表情をしたミラーが、紙をめくる手を止める。
「この五年間……。彼の精力的な動きには目を見張るものがありますし……。もしかしたら――」
「その怪物も、《神隠し》も、エフゲニー叔父の動きと関係してるってことなのか!?」
 彼女の報告に、グラズアは思わず声を荒げた。
「まだ、そうと決まったわけではありませんが……。状況的には、そのようにみえます……」
 にもかかわらず、ミラーとラインは苦々しくお互い目配せし合っただけだった。
 まるでグラズアの反応を予測していたかのような、冷静な態度。
 若き国王は二人の腹心に眉をひそめる。
 おかしい。
 疑問点が一つでもあれば、その言葉の端を丹念に拾うラインが黙っている。
 一方で、自身の予測しない事態が起こると、とたんに慌て出すミラーが落ち着きはらっている。
 グラズアは確信を持って口を開いた。
「……お前達、この事を前から知ってたんだろ……。違うか?」
 側近はそろって頭を下げた。
「……すみません、若様――」
「誤らなくていい。理由を聞かせろ。どうして何も云わなかった?」
 グラズアは苛立ちを隠せずにいた。その証拠に、声は波立っていたし、小さく足をゆすってさえもいる。
「あ……。そ、それは……」
 感情を露にする主君に恐縮する副官の代りに、ラインが言葉を継いだ。
「いいよ、ミラー。若には黙っておくようにと、お爺様からお達しがあったんです。だから、彼女を責めるのはお門違いですよ、若」
「……セルゲイのくそじじい、か」
 苦々しく吐き捨てるグラズアを、ラインが宥める。
「たしかに、お爺様はくそのつくエロじじいですが、若を思っての事だったんですよ」
「お前なあ……仮にも親父なんだから……。擁護するか、貶すか、どっちかにしとけよ……」
「事実は事実ですよ」
「……それにしてもだ」
 グラズアの右手が、黒髪をかき乱す。
「名ばかりとは言え国家元首なのに、詳しい国勢を知らせても貰えないなんてな……。セルゲイにとっても、俺はそういう存在なのか……」
 三人は誰ともなく黙りこくった。
 それぞれに泳ぐ視線。
「すみません……」
「……いいさ。ミラーが悪いわけじゃない……」
「そうなんですけれど……。気持ちがすまなくて……」
「……俺だってそうだ。お前たちに謝ってもらったところで、今の気分が収まるわけじゃないさ……」
 グラズアの拳が、苛立ちできつく握り締められるのを視界の隅にとらえながら、ミラーは続けることにした。

 いち早く異変を耳にしたアルバトロス閣下は、《神隠し》について捜査していました。
 閣下は、過激派の山賊が金に困った末、奴隷商売に手を染めたのではという推理のもと、数名の騎士を任務にあたらせました。なぜならば、《神隠し》にあった後の家屋において、彼らの財産が荒らされた形跡が無かったからです。
 しかし、閣下をはじめとする騎士たちが侵入した奴隷市場で発覚したのは、意外な事実でした。
 奴隷商が扱っていた商品。それは、《用済み》と呼ばれた子供だけで、大人はいませんでした。
 そしてその奴隷商をまとめて雇っていたのは、リンデン伯爵だったのです。

 グラズアはそこまで聞いて、考え込んでしまった。
「ミラー。ちょっと……、整理させてくれ……」
「……ええ、もちろんです」

 リンデン伯爵の政権掌握と同時に台頭しはじめた怪物たち。
 それと時を同じくして始まった一連の《神隠し》事件。
 奴隷商が国内外で売りさばく奴隷は《用済み》と呼ばれる子供だけで、大人はいない。
 その奴隷商の雇い主もリンデン伯爵で、彼はそれだけでなく、口減らしにあった子供をグラスリンデン領に受け入れている。

 一連の不可解な出来事が、リンデン伯爵を中心に回っているのは明らかだった。
 グラズアの全身に、言い知れぬ怒りが込み上げてくる。
 しかし、決定的にリンデン伯爵が首謀者であると断言はできなかった。
 全てを真実の元に繋ぐ、証拠が無いのだ。
「エフゲニー叔父が全てに関わっているらしいことは、わかった……。仮に《神隠し》――スキュラやセウラの人間を一家丸ごと拉致するよう指示したのが彼だとしても、実行犯がわからないことには――」
「ええ、《神隠し》への対策、あるいは断絶は難しいですね。そもそも、《神隠し》の主犯者がリンデン卿と確定できる証拠はまだありませんし……」
 ミラーの言葉を肯定するラインが、灰色の髪を揺らす。
「僕が気になるのは、奴隷商の扱う子供が《神隠し》にあった一家の子供かどうか、ですね」
「残念ながらそれはわかりかねます……。閣下はそこまで確認できなかったようで……」
 申し訳なさそうに報告書をめくるミラーの隣で、青年がぼそっと呟く。
「つかえない爺だ」
「……ライン殿?」
「おっと口が滑った」
 大げさに口を押さえて見せるラインの目前で、彼の主君は未だ、唸りながら思索に耽っていた。
「真実は見えているはずなのに……。どうしても全てが直接、エフゲニー叔父へと繋がらない……。口減らしの子供を受け入れる片や、《用済み》と呼ぶ子供を奴隷商に流すことも、わからないし……。同じ子供のはずなのに、一体何が違うというんだ……?」
「……真実は、闇の中……」
 ミラーが苦々しく呟くのを、グラズアは聞き逃さなかった。
「……昔……誰かが言っていたのです。……真実は、闇の中だ、と……」
「ミラー。それは、全く見つからないっていう意味じゃないのかい?」
 ラインが横槍を入れる。彼は言葉を額面通りに受け取るきらいがあった。
「その通りですね、ライン殿。でも私には……、闇の中にこそ、真実がある……。今は、そういう意味で使いたいのです」
 ラインは、長い腕を伸ばし、ミラーの上から書類を取り上げた。ちらと、チャコールグレーの瞳が、書類越しに彼女をとらえる。
「全く、希望的な観測だな。君らしくないよ、ミラー?」
「表では革命が起きそうな絶望的な状況、裏ではやっかいな事件が起きている。そういう気分にもなりますよ」
 副官の少女は、相方の青年から書類を奪い返す。
「と、言うことなので、閣下はリンデン卿の領地帰還に際する警護を名乗り上げ、直々に視察をなさりに行かれました」
「よくわかったよ、ミラー。ありがとう」
「もったいないお言葉です。何か質問等、ございますか?」
 はい、と右手を上げた青年は、笑顔を湛えたラインだった。
「ご飯はいつごろになるかな?」
 ミラーがラインへの怒りで体をわなわなとさせる目前で、グラズアの腹が鳴った。

     3

 湯船に垂らされた花弁と香油の香りが、湯上りの青年を包む。
 小奇麗になったグラズアは、寝間着に着換え、自身の寝台に寝そべっていた。
 上質な羽毛が絹にみっちりと詰め込まれた寝具が、グラズアの筋肉質な体をふんわりと受け止める。
 高い天蓋を覆う繻子は、まるで夢の入口の様に煌めいている。
 繻子に光を与える蝋燭を支える燭台も、薄暗い中でさえも、その重厚な存在感を感じさせる。
 何処を見ても、見なれている装飾。
 しかし、これらが何処に行ってもみられるものではないことを、グラズアは旅で経験していた。
 少し髪の毛が湿気ている青年は、ころりと体躯を寝返らせる。
「……ミルが見たら……。贅沢とか、ぼんぼん、とか言いそうだな……」
 そう言われても仕方なかったな――。
 たったの三週間だったが、彼なりに世界を見てきた。
 自身の生活基準が最高のレベルであることは、自明だった。
 狭い王宮の図書室で読んだ、ベージュとインクの世界。
 それが本当の世界ではないと。
「……本を読むだけじゃわからない世界……か」
 土や風、海や鳥、それらはいつだって同じ顔をしていないと。
 そしてあの少女も。
 寝台に横たわるグラズアの手には、彼の軍師から手渡された紙切れ――もとい、指令書があった。
 小さく折りたたまれた羊皮紙を開くと、几帳面な文字が綺麗に並んでいる。
「……書類については、ミラーに任せればどうにかなりそうだな。厄介なのが、王家の抜け道のマッピングと、《三本の薔薇》……。ヴァニアスの紋章に似てるけど、ちょっと違うんだよな……」
 抜け道、そして、《三本の薔薇》。
 それらに共通する人物が、グラズアの脳裏に浮かび上がる。
 白銀の髪を揺らし、挑戦的なラベンダー色の瞳を持つ少女だ。
 そのテュミルが彼に向って振り向く。
 いつものお喋りが嘘のように、形の良い唇は閉じられたまま。
 挑戦的な紫の瞳が閃いて、彼の瞳を貫いた。
 次の瞬間。
 そのアーモンド型の瞳は、寂しそうに伏せられ。
 踵を返した銀髪が、風の輝きの中に融けてゆく――。
 行くな。
 グラズアが腕を伸ばすも、彼女には届かなくて――。
「ミル!」
 青年は、自身の声で覚醒した。
 夢だったのか。
 彼は天蓋へと右腕を掲げていた。
 その虚空に、あの少女の面影を見たというのか?
 グラズアはその考えを必死に否定した。
「あー!! なんでだ! なんであいつのこと、考えてるんだ、俺は!?」
「若、どうぞお静かに願います」
「うわああ!!」
 思わず叫んでしまっていたグラズアの傍に、いつの間にかラインが佇んでいた。
 ラインは、そっと人差し指を自身の唇にあてがっていた。
「ら、ラインかよ……驚かすなよな……」
「若。夜はお散歩日和ですよ」
「……良くわからんが……」
「要するに、抜け道を探すのには、夜が一番良い、と言いたいのです」
 彼はぎこちなくウインクをして見せた。
 要するに、両眼をしっかりとつむり、しっかりと開いた。
+注意+
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