燦々と降り注ぐ昼下がりの強い日差し。それとは反対に涼しく頬を刺すような風。とある年の冷夏。一日、また一日と日が過ぎるごとに、その風は涼しいものから肌を刺すような冷たいものへと変わってゆく……。そんな寒さに川沿いの道を歩いている少年は思わず身を震わせる。まだ八月だというのに彼は長袖を着ている。にも関わらず身を屈めながら歩いていた。だが、それは少年だけではない。横を通りすぎていく者達も皆、長袖を着ながら寒そうに歩いているのだ。
(今年の夏はおかしい……)
誰もがそう思うような考えを巡らせていると、ほとんど変わることのない川のせせらぎの音の中に、違う音が聞こえる。水の中に何かをゆっくりと入れたような、そんな些細な音。少年はその音がどうしても気になり、川の方へと視線を移した。
(なんだろう、あれ……)
そこにあるのは黒くうごめく何か。その『何か』の先端からは、水に向かってピンク色の何かが出ては消え、出ては消えて。そんな単純な動きをしているその『何か』に彼は興味を持ち、近付いてゆく。靴が大きい石や小さい石を踏んで、じゃり、じゃり、という小刻みに石同士がぶつかる軽快な音が辺りに小さく響いた。
やがて近付くにつれて、その『何か』が犬だと言うことが分かってくる。そしてピンク色の何かは犬の舌のようで、どうやら水を飲んでいたらしい。ぴちゃぴちゃと鳥肌の立ちそうな音を出しながら水を飲んでいるその犬と少年との距離が、だんだんと縮まっていく。そして、水を飲んでいる黒い犬の隣に少年はしゃがみ込んだ。
その犬は気付いているのかいないのか、水を飲み続けている。少年はそれを全く気にせずに犬を良く見てみる。犬にしては体の大きさが普通の犬とはあまりにも違う気がした。足も大きく、若干だが足の爪が毛の中から覗いている。黒色の毛並みは綺麗に手入れされているようで、見ただけでもふさふさしていそうな感じが伝わってきた。
親からは野良犬にやたらと触るなと言われていたものの、その気持ちよさそうな毛並みを見ているだけでは何故だか惜しい気がした。その為か、その大きな犬に比べたら小さいその手を、黒い犬に近付けていく。すると、その気配を感じ取ったのか、犬は水を飲むのを止めて、少年に顔を向ける。……青い瞳が彼を見つめていた。だが彼はそれに少し驚いてしまい、出した手を思わず引っ込めてしまう。
すると黒い犬は顔を元の位置に戻して、ただじっとする。その青い瞳は、別に何処かを見つめているわけではなく、ただ遠くを眺めているようだった。少年はまた手を伸ばす気がおきなかったものの、その犬が気になってしょうがなかったので、固い石の転がる地面にゆっくりと座り込んだ。
しばらくすると、黒い犬は遠くを見つめるのを止めて、少年の方を眺め始めた。彼はもう一度と思い、手を黒い体にそっとのばす。犬は特に反応もせずにその手を受け入れた。
(すごいふさふさしてる……)
少年はその毛をゆっくりと流れに沿って撫でた。すると、今まで全く表情に変化の無かった犬は、気持ち良さそうに目を細める。気が抜けてしまったのか、その犬はゆっくりとしゃがみ込んだ。それと同時に犬の黒い頭が少年の膝の上に置かれた。
(飼い犬なのかな。何だか人に慣れてる感じがする……)
そう思いながらも、体を撫で続ける。少年は何だか嬉しいような、すがすがしいような気持ちになった。だが少年はここでふとあることを思い出す。
(あ、そうだ。友達の家に行く最中だったんだっけ……)
少年は犬のふさふさの毛を名残惜しそうに撫でながら、ゆっくりと立ち上がった。それと同時に、犬は申し訳なさそうに膝から退く。その表情はなんとなく彼を心配するような感じだった。
「じゃあね。……また、会えるといいね」
少年は言葉をあまり理解していない犬だとは分かってはいながらも、別れの言葉を告げて静かに歩き出した。犬はそれを黙って見送る。彼の姿が見えなくなるまで……。
少年の姿が見えなくなると、犬は川に沿って上流へ向かって歩き出した。その姿は空気に溶け込むようにゆっくりと透けていき、やがて消えていった……。
――数日後、彼はあの黒い犬のことが気になって、もう一度あの川に行くことにした。今回は友達と遊ぶ約束もしていないので、長い時間あの犬と一緒に居ることが出来る。そう思うと、少年は気を弾ませた。その所為か、足取りも何となく弾んでいる。そして、あの犬とあった川に着いた。
少年はすぐさま道路のガードレールから身を乗り出して、黒い影が無いかを確認した。
(……ん?)
あの水を飲む黒い犬の姿は無く、代わりに年をとったお爺さんがそこに立っていた。そして手には白いユリの花が握られていて、白髪のお爺さんはそれをゆっくりと川のそばに置いた。その表情はどこか悲しげで、シワだらけな顔が余計にシワだらけになりそうな、そんな顔をしていた。
気付くと彼は既にそのお爺さんの元に走り出していた。大声で呼び止めると、お爺さんはゆっくりと振り向いて少年を笑顔で出迎えた。
「何だい?」
やんわりとした声、しかし悲しげな声を含ませながらお爺さんはゆっくりと言った。少年は訊ねる。
「あの、この花は一体なんですか? 何故ここに?」
久しぶりに使う敬語が間違っていないか、一語一句確かめるように丁寧に彼は言った。すると、お爺さんはまた悲しげな表情をした。そして口をゆっくりと開く。
「そうだねぇ……。ここで死んでしまった黒い犬さんの、供養のための花だよ」
それを聞いて、彼は何故か強く背を叩かれたような感じになる。例えるならば授業中、不意に指を差されるような、そんな感覚……。少年は恐る恐る訊ねた。
「……その犬が死んでしまった日は……いつ、なんでしょうか」
お爺さんは少し黙り込むと、軽く空を見つめてから口をゆっくりと開く。
「確か、五年前の今日……だったかな」
「え……」
少年は思わず声を出してしまう。何故なら彼があの黒い犬に出会ったのは最近だから。……算数が出来ない幼い子でも分かる。
(あり得ない……)
驚く彼をお爺さんは怪訝そうな目で見つめる。少年は思い切って言った。
「あの……最近、ここで、その……」
……言葉が出ない。ここで最近会いました。なんて、そんなの馬鹿げていると思われる。だが事実、自分が見て撫でたのだから、言うしかない。何故か少年はそう思った。決心を心の中で決め、彼は喉に力を入れて言った。
「黒い犬を見たんです。……ここで」
それを聞いて、お爺さんは目を見開く。やはり馬鹿げている。恐らく子供の空想話にしか取ってはくれないだろう。少年はそう思うと恥ずかしくなり、そこで口を閉じてしまう。だがそのお爺さんからくる一言は、少年の予想していたものとは違った。
「そうか……会ったのか……やはり用心深い犬だ……」
「どういう……意味ですか?」
お爺さんは悲しそうな表情を無くし、何故か顔をほころばせている。少年はそれを不思議に思い、聞いた。お爺さんはゆっくりと口を開いた。
「他に誰かが川に落ちないように見張ってたのかもしれないね……」
お爺さんはそう言うとゆっくりと振り返って歩き出した。そして、少年に手を軽く振った。彼は、川の前で立ち尽くしていた。
――数分間、少年はそこでじっと川を見続けた。何故黒い犬が自分に見えたのか……。何故あの犬はここに居たのだろうか……。そんな考えを、少年は頭の中で巡らせていた。しかしどんなに考えても答えは見つからず、少年はとうとう立ち上がり家路に向かった……。
「ただいまー」
少年は家中に響かんばかりに声を出した。すると、居間のほうから同じように声を家中に響かせて返事が返ってくる。
「おかえり。でも……案外早いのね。友達の家に遊び行ったんじゃないの?」
「違うよ、ちょっとね……」
少年はそう言って、畳の上でくつろいでいる母親の隣に座る。母親は怪訝そうな顔をしながらも、『ふーん』と軽く相槌をうった後、黒いブラウン菅テレビに視線を戻した。午後は主婦が好きそうな番組が多数放送しているため、母親はそれに夢中になっている。しばらくの間、少年は母親と一緒にその番組を見ていたが、突然口を開く。
「ねえ。お母さん……」
「何?」
母親はテレビに視線を向けながらも返事をする。少年は続けた。
「近所にある川の事なんだけどさ……。五年前、何かあった?」
その瞬間、母親の表情が暗くなる。そして、リモコンを持ってテレビを消した。視線は少年だけに注がれた為、彼は少したじろいだ。母はそのまま口を開いた。
「あの川、五年前の……丁度今日に台風が来て、増水してね。そんな川に遊びに行った子供がいたの」
少年は生唾をゴクリと飲んだ。母親はそのまま続けた。
「勿論、その増水した川でその子は溺れてね……レスキュー隊も駆けつけたけど、川の流れが予想以上に強すぎて、川の木にしがみついているその子には、救助用の浮き輪が届かなかったの」
母親は淡々と話していたが、まるで思い出すかのように軽く上を見ながら話すことも。少年はただ黙って聞いていた。
「けれどね。その時偶然そこにいた黒い野良犬が川に飛び込んでね。その子に向かって泳いで行って、浮き輪が届くようにしてくれたの。それで、その子は助かったんだけど……」
「……?」
「……その犬は途中で流されてしまってね……。後日、捜索隊がその犬を探したんだけれど……」
母親はそこで言葉を詰まらせる。少年は心配そうに聞いた。
「……見付からなかったの?」
母親は首を横に振る。
「いいえ、見付かったわ。……ぐったりとしてて、瀕死の状態で……。すぐに動物病院に運ばれたんだけど……」
母親はそこで話すのを止めてしまった。……その意味を、少年は理解する。そして、彼は立ち上がった。
「何処に行くの?」
「近くの花屋さんに……。お花、添えてあげないと……」
その言葉に、母親はいつの間にか出ていた涙を拭って言う。
「……そうね。そうしてあげた方が、供養になるわね。ちょっと待ってね、お金、出すから」
そう言って母親は千円札を持って来た。そのお札を少年はしっかりと握り締めて外へと出た。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
母親はそう言うと、まだ小さな彼の背中を悲しげに眺めていた。
少年はお爺さんと同じユリの花を買い、川に来ていた。そして、お爺さんが置いた花の上にそのユリの花をそっと置いた。彼は小さい両手を合わせて、ゆっくりと目を瞑った。しばらくして、目をそっと開き、立ち上がる。少年はあの黒い犬が何故あそこにいたか、そしてお爺さんの言ったことの意味が分かったような気がした。
「ずっとここを見守っていてね……」
少年はそう言うと、その場を去っていった……。
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