「最後の審判」後の世界を巡る神学的フィクション
一
昼とも夜ともつかぬ薄暗い石造りの街、アパートメントの一階の部屋、使われていない暖炉の前、落ち着いた模様のペルシャ絨毯の上に、婦人と坊やが足を崩してじかに座り、大きな絵本を広げ、婦人がそれを読み聞かせていた。
絵本には星の散らばる宇宙の図がカラー写真で描かれている。
「宇宙はビッグバンによりはじまりました。ビッグバンがはじまるまでは、なんと時間すらなかったのです。ほんの小さな素粒子の時代があって、しばらくして恒星ができはじめ、宇宙はどんどん大きくなりました。そのほんの片隅に太陽系が生まれ、チリやガスが集まってできたのが……。」
婦人が答えを促すかのように坊やを見る。坊やは手を叩いている。婦人は次のページをめくりながら続けた。
「そう。地球です。地球は四六億年前にできました。やがて、ほんの小さな生命が現れます。はじめから人間やゾウさんやキリンさんがいたわけではありません。小さな生命から、進化と呼ばれるものによって様々な生物が生まれて、……そして消えていったの。」
海の中で三葉虫が描かれているページをめくる。
「ガオッ。恐竜さんの時代もありました。大きな大きな恐竜さんも、やがて滅びてしまいます。そして、小さな哺乳類が進化してやがて現れたのが……。」
またも婦人が答えを促すかのように坊やを見た。坊やは胸を叩いている。
「そう。人間です。人間はこのような宇宙の誕生を知り、進化の秘密を暴き出し、何億年も先のことを予言しました。しかし……。」
婦人はまたも坊やを見る。婦人は笑顔を作り次の一言を吐き出した。
「突然、ラッパの音が鳴り響いて、全部、終ってしまいました。」
坊やが「やあ」と声を揚げた。
「人間は科学によって滅ぶのでもなく、多くの人が不遜にも馬鹿にすらしていた最後の審判の日を迎えたのです。ビッグバンも進化も全部終りです。それらは現実感があるように創造されたに過ぎなかったのです。」
絵本には多くの人が地面より起き上がる光景が描かれている。
「死から復活した人々は、しかし、初めての光景に驚き、何が起こるか震えて待ちました。ある人は天国に、ある人は地獄に送られたとも言います。けれど、この街では人々が待ち続けています。」
絵本にはその街の姿が描かれていた。どこか昼か夜かよくわからず陰鬱だけれども、窓からは明りが漏れているのが、人々の生活がそこにあるのを表していた。
「今日、そこに『旅人』がやって来ます。彼は神様の命により死後の世界をめぐることになっているのです。さあ、もう近づいてきましたよ。」
次のページをめくろうとしたのとほぼ同時くらいに、玄関の扉をノックする音がした。ページをめくる手をとめ、「はーい」と返事をし、婦人は扉のほうに向かった。扉の向こうから声がする。
「こんにちは。『旅人』です。」
婦人は扉を開けた。
「お待ちしてました。」
外には中世の修道僧のように一つなぎの服を頭から被って帯をしめた男が立っていた。頭巾をぬぐと、ヒゲをたくわえ、少し薄汚れているようにも見えたが、その笑顔には不思議と清潔感があった。
「少し話を伺いたいだけです。」
「でも、今、主人は出掛けております。」
「いえ、あなたのお話を聞かせていただきたいのです。」
「そうですか。あなたのような聞き手でしたら、留守に男の人を家に入れても主人に怒られることはないでしょう。どうぞお入りください。」
暖炉のある部屋に『旅人』は通された。そこには坊やが座っていた。
「こんにちは。坊や。元気にしているかい。」
婦人が台所のほうから語りかける。
「ソファに座っててください。あと、ジュースでいいかしら。コーヒーもいれられなくはないのだけど。」
「おかまいなく。ジュースで結構です。すぐに出ていきます。ほんの少し確認することがあるだけです。」
婦人はジュースとお菓子を持って部屋に入った。『旅人』は座って会釈する。婦人は坊やを招き寄せて椅子に座らせてから、『旅人』に対面してソファに座った。
「確認したいことというと何でしょう。」
「この街で復活したあとのことを私のほうで記録しておこうと思ったのです。」
「大事なことなの?」
「私が旅を続ける上では。」
「何からはじめたらいいの?」
「少し恥ずかしいこともあるかもしれませんが、最後の審判のラッパが鳴ったあとからのことをお話し下さい。」
「そうねぇ。」
婦人はよく覚えていないと言わんばかりに目を細めて俯いてから、『旅人』から視線を逸らして壁のほうを見たり、ときに坊やのほうを向いてあやしたりしながら答えた。
「ラッパが鳴ってよみがえったとき、私は裸だった。でも気にならなかった。街は確か最初からこんなだったけど、街を歩いている人の中には裸の人が多かった。」
「ちょうど未開人が裸であるように?」
「そうね。ぼうっとしている間にずいぶん時間が過ぎて、少しずつ裸でない人が増えてきて、気付いたら私も服を着ていた。」
「襲ったりはされなかった?」
「ここの街にそんな人はいないわ。でも、そうね、はじめからそんなことは起きないという確信みたいなのと、そうなったらそういう世界なんだからどうなってもしかたがないみたいな気持ちと両方あったかな。」
「坊やは?」
「坊やも気付いたらいたのよ。泣いて、ほっとけなくて、困って乳首を吸わせてみたらミルクが出たのには驚いたわ。そして、あぁ、私はこの子と暮らしていくんだって悟ったの。私のほうは何も食べてなくても平気だったから、そういうものかと思っていたんだけど。不思議ね。誰かに何かをあげることがこんなに幸せだなんて。」
「その間、ずっと道にいたのですか?」
「そういうことになるわね。あんまり意識していなかったわ。そのあたりのこと、よく覚えていないの。そうこうしているうちにあの人がやってきて、私はこの家に住むようになったわ。坊やの成長をみるともうあれから何ヶ月も経っているのね。でも、そんな実感はないわ。」
そしてしばらく沈黙が続いた。『旅人』はジュースに軽く口をつけ、その後、口をつけた部分をぬぐった。
「そうですか。いえ、聞きたいことはそれだけだったのです。ところで、今は幸せですか。」
婦人は坊やを抱きながら笑顔で言った。
「幸せよ。」
『旅人』も笑顔になって言った。
「もうすぐご主人が帰って来ますね。」
「えっ、もうそんな時間かしら?」
「私と話すと時間が早く過ぎるんですよ。……なんてのは嘘ですが。その、ご主人と鉢合わせするのは気まずいので、玄関じゃないところ、そう、そこからお邪魔していいですか。」
「そこって……。」
『旅人』は廊下に出て何もないところをまるで額縁でもつかむかのようにして、足をその向こう側に送ると足が消えた。
「まぁ、便利ですのね。」
「それでは失礼します。」
そう『旅人』が言うか言わないうちに玄関の扉が開いた。『旅人』が次元の狭間から覗いていると、玄関から光が四方八方に漏れ出した。人の形をした光が家に入ってきたとき、家は、その世界は、光に包まれたように見えた。
婦人の名前はイブ、旧約聖書の創世記の最初で罪を犯した女である。「ご主人」は天国の何者かであるが、『旅人』にはその名を語ることを許されていない。坊やは、元は誰だったのか、それは『旅人』にもわからなかった。
二
あるオフィスビル、その一室のドアのノブに『旅人』が手をかけたとき、中から怒鳴り声が聞こえてきた。
「お前はなんで、こんなこともできないんだ。ここにいて何年になる。……。何! とっとと出て行け。もう一度、直してこい。」
『旅人』はドアから手を離して却くと、中から若者が飛び出てきて俯いて足早に去っていった。
中から男が開きっ放しのドアを閉めに来た。
「扉を閉めることすらできんのか。ったく。」
そういったところで彼は『旅人』に気付いた。
「あっ、これはお客様でしたか。みっともないところをお見せしてすみません。」
「いえ、それはいいんですよ。でも、出ていった若者をほっておいていいんですか。」
彼は禿げた頭を手でかきながら言った。
「いつものことなんですよ。困ったことです。ところで、御用は何ですか。」
「少し話をしたいと思いまして。」
「私と? 話を? まぁ、とりあえず中に入ってください。」
「それでは失礼します。」
『旅人』を部屋に迎え入れて、男はドアを閉めた。部屋は少し散らかっているが、中央に筆記用具が転がっているスペースがあって、書類が積まれている机は、いかにも仕事が出来そうな雰囲気を醸し出していた。
「ええと、はじめての方ですよね。ヨハンソンと申します。あなたは?」
「『旅人』と申します。」
「お名前は? 何とお呼びすればいいのでしょう。」
「『旅人』とお呼びください。」
ヨハンソンは苦虫をかみつぶしたような顔をして言った。
「では、『旅人』さん、お話があるとのことでしたが……。」
「あなたが見ている夢の話です。」
「夢ですか?」
「心当たりありませんか?」
ヨハンソンは少し驚いた様子を見せた。
「確かにこのところ変わった夢、同じ夢をずっと見ていますね。それが外目にわかるのですか。おたく、占い師か、何かで?」
「占い師ではありませんが、似たようなものですね。神がお選びになったのでやってきました。それと、『このところ』というのは間違いですね。『ずっと』のはずです。自分をごまかしているのかもしれませんが。」
「神ですか……。」
ヨハンソンはネクタイを少し緩めて席に座った。
「あの、話の途中ですが、失礼して座らせていただきました。何か気分が悪くって。」
『旅人』は気分が悪いというのを聞いて心配げに眉をひそめた。
「少し話を早くしますね。その夢というのはどこかで溺れている夢ですね。暗い海のようなところをずっと溺れて苦しんでいる……。」
「そうです。何か心理学的に有名なものなんですか。とても神だなんて……。」
「単刀直入に申しますが、あなたはすでに死んでいて、水責めの罰を受けているのです。」
先ほどの怒気はどこへやら、ますます気分が悪そうになってやっとのことで聞き返した。
「なんですって。私が死んでるって何を言っているんだ。」
『旅人』はヨハンソンの脇に立ち背中をさすってやりながら答えた。
「そうですね。今、しばらく奇跡が起こって水責めが止まります。変化が起これば、本当のあなたが目を醒ますはずです。リラックスして、眠っても大丈夫ですよ……。」
ヨハンソンは席に座ったまま眠りに落ちた。
ヨハンソンは見渡す限りの海の上に浮いている。今日は先ほどから突然、波も穏やかになり息ができる。それで目醒めたのだ。
「おや、目醒めた?……のだったかな。」
ヨハンソンはさっきまで見ていた夢のことを思い出した。『旅人』と名乗るおかしな男と会う夢だった。そこでは自分は死んでいると言われたのだった。
「何をわかりきったことを……。」
そうだった。彼は、とっくの昔に死んでいて、最後の審判があって復活したとき、この水責めの地獄に割り当てられたのだった。
地獄に来た最初は、ただ苦しくてあえいでいるだけだったが、奇妙なもので、その苦しみにも少しずつ慣れ、しばらくしたころ、彼は眠ることができるようになった。眠りの中で、彼は生活をし仕事をしている夢を見ている。夢だからその日によって違うはずだが、このところ同じところで生活している夢を見ていたようだった。
その夢に『旅人』がやってきた。彼は何を告げたかったのだろう。
「何、ヨハンソンさんに、それが夢であることを教え、ちょっとした救いをもたらそうとしたのです。」
背後から突然、呼びかけられた驚いた。あの『旅人』が小舟に乗って彼の前に現れたのだ。
水に苦しむ人影を見ることはこれまでにも何度かあったが、この地獄に小舟に乗った人を見るのははじめてだった。もちろん、こんなに穏やかな海も地獄に来て以来、はじめてだった。
ヨハンソンはあえぎながら『旅人』に語りかける。
「どうやって。ここに。」
「ちょっと特別扱いしてもらってここにやって来ました。こうすれば早く伝わるだろうと思って。でも、もうこれで十分ですね。引き上げます。」
「ちょ、ちょっと……。」
言う間に、小舟は遠のいていき、それと同時に雲が出てきて再び嵐になりはじめた。波に飲まれ息ができなくなったヨハンソンは、意識が遠のくのを感じた。
ヨハンソンは、うたたねして舟をこいだところで目が醒めた。
「ああ、いや、むむ……。」
少し寝呆けてから、かたわらにいる『旅人』の手を取って言った。
「これが夢なのか。」
「そうです。あなたはこの世界で水泳ができませんね。」
「ああ。」
「あなたが人より水を怖がるのも、本当の自分が水責めを受けているからなのです。」
ヨハンソンは寝汗をぬぐいながら、一人つぶやくように言った。
「中国古典の『荘子』だったか。自分が胡蝶になった夢を見ていたのか、胡蝶の見る夢が自分なのか。確かそんな話だった。」
『旅人』は部屋の隅にあるヘッドフォンの付いた装置に触りながら尋ねた。
「この会社は昔、睡眠学習のシステムを売っていたようですね。『胡蝶の夢』はセールストークか何かだったのでしょうか? 睡眠学習……夢の中で特定のことが習えるなら、夢を記録することができれば、夢の共有も可能になる。……きっとそうですよね。」
「ああ、そんな売り文句もあったかな。未来への投資というわけだ。でも、そんなたわごと誰が信じるかってんだ。今じゃ睡眠学習なんて売り物にもしていない。」
「でも、神はそのアイデアに目を留められた。人は予知夢を解いてもらうために占い師に頼ってはなりません。夢を使って人をコントロールしてはいけません。それらは魔術です。しかし、夢は技術的に共有できるかもしれない。その発想は魔術ではないとお認めになられたのです。」
「まさか、この世界はただの夢でなく共有された夢だとでもいうのか。」
「そのまさかです。」
ヨハンソンはバンと机を叩いて立ち上がった。
「どうやってそれを確かめる! 他人の見ている夢なんてわからない。さっきみたいな芸当が何かあるのか。そうかあちらの世界で目醒めている状況で会うのか。」
「思い通りにならないことがあるから夢でないということはありません。自分に知らない細部がわかるから夢でないということもありません。そしてあなたがたはあちらの世界ではコミュニケーションができません。ですから、これが共有された夢であると証明する客観的な方法はありません。」
ヨハンソンは手のひらを開き、大きなジェスチュアで訴える。
「じゃあ、意味がないじゃないか。そもそもどうしてこれが夢だと、俺に教えた。知らなければ地獄の苦しみからほんの少しの慰めのあるこの世界で満足できたんだ。」
「奇跡を感じることができるはずです。いろいろな奇跡が日々起こっています。そのうちのいくつかについてあなたは、これが奇跡だ、と感じることができるようになっています。それが死後の世界の証です。」
「ああ、そうなのか。どうも偶然が重なることが多いと思っていたんだ。何かの導きのようにも感じていて、つまりそれは俺の信仰心だと思っていた。これが死後の証だったとは……。」
「ここに住む他の人々は、遅かれ早かれそのことを教えられていきます。神がそれを望むときに。」
ヨハンソンは一息ついて机の上に腰かけた。
「教えられた俺は、どこかの宗教団体にでも入ればいいのか。」
「いえ、違います。あなたは先ほど、若者を怒鳴りつけてらっしゃいましたね。」
「ああ、そうだな。思えばあいつも地獄仲間ってことなんだな。もう少し考えてやらないとダメってことか?」
「いえ、違います。あの若者は『実在』しません。あの若者は元は誰かの夢としてここに来ていたのですが、すでにこの世界を去って別の世界にいます。」
ヨハンソンは目を見開いた。
「はぁ? じゃあ、俺は影みたいなものに怒っていたわけだ。」
「ええ。実は、あなたはあちらの世界で目が醒めたときにここで怒っていたことを何度も悔いています。しかし、地獄で悔いるからこそ、こちらの世界に来たときまた同じことをやってしまうのです。」
「そうなのか。じゃあ、俺が怒るために怒っているだけで、誰かが悪くて俺は怒っているんじゃないということなのか。」
「ええ。怒る意味はありません。」
笑顔を作りながら『旅人』は続けて言った。
「ねぇ。ヨハンソンさん。しょせん夢であるとしてもこの夢はヨハンソンさんにとっていい夢ではありません。現実感のあるお仕事の夢ではなく、例えば、人を助ける、そういう存在になってみてはどうです。」
「俺は死んでまで現実感にとらわれていたということか?」
「いい場所を知っていますよ。そちらに移られてはいかがです?」
ヨハンソンは天井を見上げてから、『旅人』のほうを見た。
「人に頼るのは敗北のように感じていた。でも、そうじゃないんだな。死んでまでそんなことにこだわっていてもしかたがない。『天使』だから信じるのではなく、あなたを信じる気になった。まるで奇跡がそうであることがわかるように。ヨシッ、移ろう。よろしく頼むよ。」
二人は部屋を出ていった。
三
『旅人』は『棺』に手をかけて蓋を開けた。中には白装束の男が眠っていた。旅人がまぶたの上を撫でると男は目を醒ました。
『旅人』が語りかける。
「こんにちは、パウエルさん。起きられますか。」
パウエルは半身を起こして、周囲を見まわした。照明は足元で光っているらしいが、まわりは暗くてよく見えない。自分は黒い棺のようなところに入れられていたようだ。目の前の男以外は、他に誰もいない。
パウエルが尋ねる。
「ここは一体どこですか。」
「パウエルさん。ご自分が一度死んだことは覚えてらっしゃいますか。」
パウエルは何かまずいことに巻き込まれたような気になった。
「えっ、何ですって?」
「確かパウエルさんは、交通事故で亡くなったんでしたよね。肉体の記憶にはあまり残っていないかもしれませんが、霊的には覚えているはずです。」
「そんなことは心当たりもありません。」
「まぁ、しかたがありませんね。パウエルさんは生前、無神論者と公言してらしたから。」
パウエルは自分が無神論者だと言っていたことを思い出した。そして、そのことを痛烈に悔いたことがあることも。あれはいつだったか、そうだあれは交通事故で死んですぐ……。
「あれ? どういうことだ。自分が死んだようなことを覚えているぞ。」
「ああ、やっと気付きましたか。こういう問答で、長い時間を過ごすこともあるのです。あなたが死んでから長い時間がたって、最後の審判になり、皆の肉体が復活したのです。」
「ええっ。そんなことまで可能だったんですか? じゃあ、私は復活した体なんですね。ここは天国? 地獄には見えないが……。」
『旅人』はヒゲを撫でながら語る。
「そこのところは微妙なところなのです。復活した体か。答えはイエスです。でも、生きている肉体そのものではありません。天国か、地獄か。答えは地獄です。無神論者には地獄が待っていると聞いていたでしょう。でも、あなたは地獄なのにそれほど苦しんでない。実は、復活していたのに見捨てられたかのようにずっと眠り続けていた。そのことが、まさに地獄の罰なのですが、わかりかねるでしょう。特にあなたのように目が醒める機会に恵まれては。」
「ああ、そうなんですか。その口振りだと目が醒めたことに何か意味があるようですね。今から罰がはじまるということですか。」
「いえ、違います。あなたは無神論者であると公言しながら、本心では神に救いを祈ったことがありますね。」
「ああ、そうだったかもしれません。私は自分勝手なヤツでした。」
「そのことに善い報いをもたらそうという神の御意思です。」
「はぁ、では私はどうなるのでしょう。」
「一つ仕事をしてもらいます。人助けの仕事です。」
「別に、断わるのでもないのですが、断ったらどうなるのですか。」
「再び眠って頂きます。そして、この世界が終るまで目醒めることはないでしょう。」
「そうですか。人助けということなら、やってみたい気もします。」
「では、起き上がって付いてきてください。」
パウエルは起き上がって、周りがよく見えるようになった。周りはただっ広い暗い空間に棺が規則正しく並べられていた。ここまで広い部屋だと、棺の数は数千はあるように思われる。
パウエルが尋ねた。
「これは何ですか。ここはどこなんです。」
『旅人』からは意外な答えが帰ってきた。
「ここは宇宙船の中です。宇宙船といってもある星全部が一つの宇宙船になっていて、この星はこのような部屋で無数に埋め尽くされています。一つ一つの『棺』は生命維持装置になっているはずでした。ただ、この宇宙船は神の創造の予定に入っていたものの結局使われず、今、こうして未完成のまま無神論者達のための地獄の施設として転用されています。」
「じゃあ、この棺一つ一つに人が眠っているのですか。」
「そういうことです。開けてのぞかないでくださいよ。彼らにもプライバシーがありますから。」
死んでプライバシーが考慮されることに少しおかしみを感じながら、パウエルは『旅人』のあとを付いていった。何分か歩いたかのように感じたが、部屋の隅に来ると、目の前に自動式のドアがあった。
『旅人』が語りかける。
「この扉の向こうで皆が待っています。数名でチームを組んで救助を行っていただきます。パウエルさんは、今回がはじめての参加ですが、他の方はそうではありません。いや、実のところを申しますと、他の方の数回前の記憶というのはある意味『捏造』で、このこころみ自体が今回がはじめての可能性もあります。しかし、たとえそうであっても『はじめてでない』ということに嘘はありません。嘘ではないようになっています。」
「はぁ、なんだかわからないのですが、私はとにかく経験者にまじって何かをするのですね。」
「そうです。素直な方は好きですよ。」
『旅人』は自動扉の前に立った。扉が開いた。
扉の中ではさっきまでの光景とは一変して明るく白い部屋で、意味不明な機械のパネルがいくつもあった。中央のところに何か大きな装置があって、二・三人がそれを囲んでまばらに立っていた。
「真ん中にあるのが、立体映像装置です。あそこにとある自殺者の映像が映りますから、それに呼びかけて救いに導いて欲しいのです。」
「自殺を止めればいいのですね。」
「いえ、それはもう不可能な情勢です。むしろ、信仰に導いて死後の安らぎを得させてください。さぁ、映りますよ。」
部屋が暗くなるとともに、中央の装置にビルから落下している人が、スローモーションのように映った。さらに周りを見ると二・三人しかいなかった影が、十数人に増えている。
『旅人』が説明する。
「お気付きのようにこの十数人が参加者の人数です。この装置は他の場所にある同様の装置とつながり、他の場所の救助人の立体映像も表示されています。先にここにいた二・三人の他に彼らと共同して救助にあたります。やり方は他の人を見てください。習うより慣れろです。」
他の人は口々に自殺者に声をかけはじめた。ひたすら死ぬなと声をかける人、救いがあることを説く人、自分の失敗を語る人、いろいろだった。
パウエルは『旅人』に尋ねる。
「こんなにいろいろ言って自殺者には届いているのですか。」
「彼の目に耳に、この立体映像のようにはっきりとした我々の姿は届いていません。でも、心に霊として通じることができます。より深い地獄に落ちることのないよう、心を尽くして言葉をかけてください。」
パウエルはひるんだ。どう言葉をかけていいか最初わからなかった。だから、とにかく一人よがりかもしれないが、自分が今、救助に向かうことになったその驚きを表現しようとした。
「私は神をいないものとして死んでしまった。今、よみがえってみてそれを後悔している。こんなふうになるとは思ってもみなかった。君には、助かるというチャンスがあるらしい。どうなるのかはわからないが、できれば改心するべきだ。」
そうして声をかけていると、自殺者の体が白く輝きはじめた。
『旅人』がパウエルに声をかけた。
「白く輝いているのが見えるでしょう。あの方は救われたようです。最後まで声をかけ続ける必要はありません。最後のひどい光景が映りますから目をそむけていてください。」
パウエルはそのまま見つめ続けた。ドンと音が鳴って肉体がおかしなふうに曲がったところで、パウエルは目をそむけた。『旅人』を含めて何人かが前に出て、自殺者をおおった。「たぶん、大丈夫ですよ」という声に、パウエルが、おそるおそるそこを見ると、モザイクがかけられていた。
『旅人』が顔をそむけがちなパウエルに語る。
「はじめてで状況がよくわかっていない中、なかなかがんばりましたね。彼はより深い地獄に行かずに済みました。神もお喜びになっています。あ、どうしました?」
『旅人』が声をかけたのはパウエルとは別の方向へだった。
終りの場面のあと、向かい側でずっと俯いていた男が突然立ち上がった。
「もういやだ! こんなことをして何になるんだ。」
そういって、彼の後ろの自動扉から飛び出して行ってしまった。
『旅人』は手早く、立体映像を消しながら、向こう側の別の『旅人』に語りかけた。
「早く追いかけてください。パウエルさん、そしてそこの方、ここに残して行くわけにはいかないんで一緒に付いて来てください。」
部屋を出ると、さっき走り出した男が『棺』を開け、そこの中の人の首をしめようとしているのが見えた。
「早く止めないと!」
もう一人の『旅人』が男を羽交い絞めにしたところ、『旅人』が首をしめられた人の様子を確かめた上で、『棺』の蓋を元に戻した。
『旅人』が男に問い詰めた。
「どうしてこんなことをしようとしたんですか?」
「いくら自殺者に呼びかけたってあんなものは映像に過ぎない。救ったことにはならないんだ。」
「そんなことはありません。」
「それに比べて、ここには、棺の中には、肉体がある。それを救ってやったほうが何倍もいい。ここは死後の世界だ。だから、ここで殺してやれば他の世界に行ける。こんな陰鬱なところで過ごすより、どこか違うところにやってやったほうがいいんだ。」
「確かにここは死後の世界、しかも、地獄ですが、ここで死んだ霊は本人の咎でもないのにより深い地獄に落ちることになります。あなたがやろうとしたことはやはり人殺しの罪なのです。」
「もう死んでる者に、殺すも何もあるか……。」
男がうなだれて抵抗する力を緩めたところで、『旅人』はまぶたの上に手を置いて眠りにつかせた。男の体をゆっくり横たえる。
『旅人』がもう一人の『旅人』に言う。
「彼は長くこの仕事をやっていた。彼は徐々に自殺者に影響されたのかもしれませんね……。とにかく、彼はあとで運びましょう。今はとりあえず残りの方を元の場所まで送り届けましょう。」
『旅人』はパウエルに立体映像装置のある部屋に戻るように促した。
パウエルは『旅人』に尋ねた。
「こんなことはよくあることでは……。」
「もちろん、ありません。異常事態です。驚かれたでしょう。我々も驚きました。」
『旅人』はその部屋の別の出口を開けて、そこから出るように促した。パウエルは指示に従い、『棺』だらけの部屋に出た。
「あの方はどうなるのですか。」
「今回のことは、無知や錯誤が引き起こした罪です。慈悲のある対応がなされることでしょう。落ち着くようであれば、今後もこの仕事を続けるかもしれません。ただ、おそらくは別の場所に行くことになるでしょう。」
「『より深い地獄』ですか?」
「いえ、私には正しい裁きはできませんが、だいたい同じくらいの深さのところでしょう。」
「気になっているのですが、『より深い地獄』とは何ですか?」
「よりむごい、より苦しい地獄というのとは少し違います。そこは天国の光がより届きにくいところなのです。太陽の光が届きにくいところでは作物が育ちにくいものですが、同じように救いから遠ざけれるのです。まぁ、しかし、詳しいことは神のみぞ知るという領域のことがらですね。」
パウエルは、元の『棺』に着き、横たわった。『旅人』が蓋を閉めながら語りかける。
「これから今回のような仕事を続けていただきます。あの男のように虚しくなっておかしな考えにとらわれることもあるかもしれません。そのときは我々に言ってください。何か策を講じることができるはずです。」
「今日の体験は最初から最後まで驚くことづくめでした。」
「次回はもっと落ち着いて対応ができると思います。そのときにはもっと質問をしていただいて答えることもできるでしょう。今回その時間がなくなったことをお詫びします。」
「質問ですか。眠っているうちに考え出したりできるのかな。」
「難しい質問ですが、次回、目が醒めたときには今よりも活発な会話ができるでしょう。」
「それでは、何と言ったらいいのかな……今回はお伴していただいてありがとうございました。」
「いえ、こちらこそあなたにお伴できてよかったです。それでは、おやすみなさい。」
「おやすみなさい。」
『棺』の蓋が閉じられると真っ暗になった。パウエルはさほど疲れていたわけでもなかったが、すぐに深い眠りに落ちた。
四
ここ、惑星ル・カインは、砂漠の星。街はそれぞれ透明なドームで覆われ、街と街を透明なチューブがつないでいる。
街の外れのバス停に少年が立っているところに、二人乗りの小さな車が止まった。中から現れたのは『旅人』だ。
『旅人』が声をかける。
「やあ、カイル君、首都の礼拝所に行くんだろう。乗ってくかい?」
カイルと呼びかけられた少年は、『旅人』とすでに顔馴じみのようだ。
「乗せて行ってください。助かります。」
カイルを車に乗せてすぐに出発した。車は自動運転のようだが、『旅人』はハンドルを握っている。その動く感触がおもしろいらしい。
「お兄さんの出発を見送るんだね。辛いね。」
「ええ。僕は今でも反対です。こんなわけのわからないプロジェクトにどうして兄は志願する気になったのか。」
「いや、立派なことだよ。歴史を確定させていくことは、存在を確定させていくことなんだ。いずれこの星のためになるだろう。」
「そんなふうに断言できる人の数は多くありません。やはりあなたは導かれた者……いや、神からの『旅人』らしいから、導くほうの人なんですかね。兄の決定を思うと、私には信仰は恐ろしいことのように思います。」
「信仰を真剣に受け取めるのは善い徴候だ。お兄さんと同じ道を歩まなくていい。でも、信じる人になりなさい。」
カイルは憮然とした表情で、フロントガラスに映る景色を眺めた。
車が礼拝所に着いた。礼拝所は宇宙船の発着所を兼ねている。ル・カインから宇宙へ行くには物理的な推進力のほかに祈りが必要とされた。祈りがなければ天圏に到達してもそこを移動できないのだという。
礼拝所に入る階段を昇って入口をくぐると広い待ち合い室があり、正面の奥に講堂があった。『旅人』とカイルが講堂に行こうと歩きはじめると向こうから、老人が一人、近付いてきた。互いに一礼したあと、老人が二人に話しかけた。
「やぁ、よく来たね。カイル君。お兄さんのお見送りだね。お兄さんを困らせるようなことがないようにね。こちらの方は、例の『旅人』さんだね。お待ちしていました。」
『旅人』が答える。
「外からやってきました『旅人』です。興味深い話を伺っております。惑星ハ・アベルでしたか。私も知らないわけではないのですが、そちらから詳しい話を教えていただけませんか。」
「わかりました。講堂のほうへ行ってお掛けください。カイルくんはどうしますか。」
「彼も一緒に来させて話をさせてください。時間をもらうよ。いいね、カイルくん。」
「ええ、わかりました。」
講堂で話を聞いた。
惑星ル・カインが惑星探査に乗り出したのは千年以上前のことだという。彼ら自身もどこかの星からやてきたという伝説があるが、それは歴史以前のこととされている。
七十年ほど前、大きな発見があった。ある恒星系にハ・アベルという人が住める惑星が見つかったのだ。しかし、そこは彼らの「科学」力では観測はできるが行き来はできない星であることがわかった。正確には行くことはできるが帰ってくることはできない星であることがわかったのだ。
やがて、決死隊が結成されて、ハ・アベルに人が送り込まれた。そのとき不思議なことがル・カインに起こったのだ。ル・カインの歴史書が書き換わり、どうも他の事物も影響を受けたようなのだ。
当初、そのことはニュースとなって、熱狂が続いたが、やがて、歴史書が書き換わったことは人々の記憶違いという説が強力となり、すべては記憶違いとして処理されるに致った。
老人は語った。
「しかし、真実は最初のニュースが正しいのです。記憶は霊の支えがあるためか、すぐに書き換わることがなかっただけで、ハ・アベルへの干渉は、ここル・カインへの歴史の干渉であったようなのです。その後、信仰組識が記憶の書き換えに抵抗する体制を整え、何度か決死隊を送り込みました。すると、影響を受けた時代は様々ですが、ル・カインの歴史が改変されたのです。」
『旅人』は尋ねた。
「つまり、ハ・アベルはル・カインの昔の姿だというのですね。」
「単純に言えば、そのように考えるしかありません。時空の壁こそ我々の行き来をはばむ壁だったのです。我々はハ・アベルに干渉するなら自らを破壊しないように注意しないといけません。」
そこにカイルが口を挟んだ。
「過去に直接、干渉しているとは限らないでしょう? ル・カインがハ・アベルに干渉したのを見て何者かが、ル・カインに干渉したのかもしれません。」
老人と『旅人』は顔を見合わせた。『旅人』が答える。
「おもしろい着想だ。神のなさることは偉大だからね。そういうこともあるかもしれない。」
老人は、『旅人』とあとで会う約束をしてその場を離れた。
カイルは話を続けた。
「そもそもこの星の科学には祈りが欠かせません。でも、どうもそれは本物の科学でないような気がします。僕は、そもそも僕達が巨大な何者か……神なのかな?……の夢なんじゃないかと考えることがあります。誰かの夢だから、祈りが通じるのでしょう。」
『旅人』が微笑んだ。
「ここは誰かの夢の世界ではない。確かにそういう面もあるかもしれないが、君は単なる夢ではない。肉体がある。それは私が約束しよう。」
「肉体があるってどういうことですか。」
「肉体は、最後の審判の際には復活し、裁きにあう。」
「僕達の伝説では、最後の審判という裁きがあって、本来は、洪水で死んだ人がこの星に肉体を得たとあります。」
「肉体を得た者の世界には最後の審判がある。再び、いや三たび、ある。」
「それでは『最後』じゃないじゃないですか。」
「最後の審判で復活した肉体と、このような世界の肉体は別のものだ。前者は永遠の裁きの対象となるが、後者は、誰かの夢のようなものが神の特別な恩恵により肉体を持ったもので、その世界で死に、最後の審判を待つことになる。『このような世界』にとっては終りに一度、最後の審判があるのみだ。」
「それは世界全体が復活するということですか。」
「そうではない。現に真実の世界、そんなものがあったとしてだが、……それとこの世界はまったく違う物になっている。似た部分も多少はあるが、言ってみれば別の世界、別の宇宙だ。君は、この世界のことだけを考え、しっかり生きればいい。」
「『生きる』ですか……。」
カイルは少し考えてから、『旅人』に尋ねた。
「兄はどうなるんですか。ハ・アベルに決死隊として向かう兄は、『生きる』ことになるのですか。」
「この世界とは違った摂理で生きる。それも一つの生き方だ。」
「それは死んでいるということではないのですか。」
「難しい質問だ。」
『旅人』はあとは答えをはぐらかしながら、時間を待った。
礼拝所の奧の祈祷所にやってきた。カイルの兄、ヨクタンが司令官に敬礼したあと、『旅人』とカイルのほうに近付いてきた。
「『旅人』さん、先日は興味深い話をありまとうございました。ますますこの任務の重要性が理解できました。カイル、これからは寮生活だな。しっかりやれよ。」
ヨクタンとカイルは二人暮らしで、祖母が死んでからはヨクタンがカイルの面倒を見てきた。
「兄さん、机の上に時計があったけど、これが形見ってこと。いやだよ、こんなの。」
「ヨクタンは、時計技師として選抜されたそうだね。時計は技術は古い技術もギリギリ残っていた分野だ。おもしろい選択だと思うよ。カイル、今のその時計をしっかり霊に記憶しておくんだよ。」
ヨクタンは二人に敬礼した。カイルが泣いていたので、ヨクタンも少しもらい泣きしたようだった。
発着場でヨクタンが宇宙船に乗るのをガラス越しに見ながら、『旅人』はカイルに話しかけた。
「さっき、この星の科学が本物の科学じゃない気がするって話してたね。確かに、この星には、本来、物理的には不可能な物がある。それを少し違うと思うのは、理性があるからなんだろうね。理性は『真実の世界』での実感をもとにつくられているから、この世界では何か齟齬を感じとるのかもしれない。でも、人の理性は十分、可塑的だから問題はないはずなんだが……。」
「僕は、兄さんの気持ちがわかる気がする。この命が嘘に近いものでも、命をささげるという心は真実だろうから、真実に殉じるのが正しい行為、実践的な信仰なんだと思う。」
「この世界は、神がお認めになった世界だ。嘘じゃない肉体がある。それにヨクタンが志願したのも心の真実のためだけではない。この星はいってみれば、今、歴史を作っているんだ。はっきりとした歴史ができ、現実感が確定的になれば、非物理的要素もなくなって落ち着いていくかもしれない。科学的真実のためにもヨクタンは志願したのだよ。」
宇宙船が旅立って行った。カイルも『旅人』も祈りに参加した。
カイルを送ってヨクタンと二人で暮らしていた部屋まで『旅人』はやって来た。カイルは語る。
「これからは学生寮での寮生活になるんですね。食事、どうしますか。軽く何か作りましょうか。栄養バーだけでいいならもちろんありますが……。」
『旅人』は答えた。
「今は配給制の栄養バーがある。凝った料理というのも存在する。これらがちゃんとした資源から働いて生産されるようになり、つじつまを合わせる日が来る。」
「えっ、何かの預言ですか。今はつじつまが合ってないんですか?」
強がりに微笑むカイルを、『旅人』ははげましているつもりなのだ。
「カイルくん、ハ・アベルを目指さないでも、ここだけでも、なせることはいろいろあるんだ。ここで肉体として生き死ぬことも大事なんだよ。これからよく考えなさい。」
カイルは台所から勉強部屋に移って、あの時計を見た。時計はなぜか輝きを増していた。
五
竹林を抜けたところに寺があった。『旅人』が靴を脱ぐのをイヤがると、庭にまわって縁側に座るよう促された。寺の和尚の名は天鶴という。下男なのか弟子なのか、清次という男が寺の雑事をこなしている。
「すると、お前さんは死んで霊が別のところで産まれることはあるが、それは転生ではないというのじゃな。」
天鶴の問いに『旅人』が答える。
「ここは地獄で本来の肉体は罰を受けているのです。そこから夢の体として他の世界に生き、その世界で死ねば、元の罰に戻る。そしてそこから別の夢の体、例えば赤ん坊の体に向かうことはあります。しかし、そこの夢の体の罪で産まれる場所が異なるようなことはないのです。裁きはすでになされているのですから。」
「ここは地獄のようなものだというのには頷くが、夢の体とやらでの行いで本来の肉体の状態が変わるということはないのかね。」
「それは多少はありますが。」
「それならば、長い目で見れば救いはあるということじゃ。それになんじゃ、夢の体が肉体を持つときはまた別の話、ということじゃったろう。その肉体が死んで最後の審判、じゃったか、それを待つ間、霊はどこにおるんじゃ。」
「地獄の罰に戻っているものと思います。」
「はっきりせんのう。戻ってきたものはじゃあまた別の世界に転生することはないんじゃな?」
「いえ、その、別の夢の体を持つこともあります。」
「だとすると霊が分かれるのかのう。部分霊というやつじゃ。」
「そうなりますか。」
「死なないかぎり夢の体から本来の肉体に戻ることはないんじゃな?」
「いえ、そうではありません。」
「ということは、生き霊も可能ということか。」
「ある面から見れば、そう見えることもあるかもしれません。」
「生き霊が体にあるということは憑依みたいなもんか、守護霊のようなもんか。」
「いや、そこは何というか。肉体が最後の審判の対象となるということが大事なのです。」
「お前さんの言うことははっきりせんで、信じ難いのう。」
天鶴はお茶のお代わりを持ってくるよう清次を呼んだ。
清次は二人分のお茶のお代わりを持ってきて、それを天鶴と『旅人』に渡し、帰ろうとしたところを天鶴が呼び留めた。
「今日は少し変わった修行をしようと思う。清次も見ていきなさい。」
清次が「はい、先生」と言ってかたわらに正座した。
「今から儂は生き霊として過去に転生し、戻ってくることにする。」
『旅人』が尋ねる。
「過去にですか。それは転生と呼べるのですか。」
「霊は過去に行くことはできませんかな。」
「それは難しいところです。可能なのかもしれません。」
天鶴は手を合わせて、何かの経というより呪文のようなものを唱えはじめた。
「むにゃむにゃ。ハッ。儂は今、猿になって木の上に寝そべっておる。」
『旅人』があっけに取られていると、清次が尋ねた。
「先生は何をご覧になっていますか。そしてどうなさりたいのでしょう。」
「雌猿どもが争っておる。儂はそれにイヤ気がさして雌とは交尾しない生を生きとる。自分がもっと強く、戦うことが巧みなら、もっと子孫が増やせたのにと夢に描いとる。そうこうしているうちに無為のまま、猿として死んでしまった。」
『旅人』が怒気を荒げる。
「人として生を受けたものがどうして動物などに生まれようとするものですか。動物は人に支配されるものです。神が人を支配するように、人は動物を支配するのです。動物は動物で神から与えられた生を懸命に生きているのです。子孫が増やせたらなどと考えず、自然にまかせているのです。」
清次が『旅人』をたしなめる。
「あなた、動物が人より劣るとなぜ考えるのですか。すべてのものは霊を平等にもって転生しているのです。先生、言ってやってください。先生!」
天鶴は合わせた手をさすり、さらに呪文のようのものを唱えた。
「むにゃむにゃ。儂は猿として死んでさらに過去に向かって転生しようとしておる……。むにゃむにゃ。ハッ。儂はアメーバとなった。アメーバとなって縄張りを広げようとしておる。今、枯れた木を覆い、食いかかったところだ。」
『旅人』はまた声を荒げた。
「アメーバ! ひょっとして単細胞ではなく、群れで一つの霊を共有しているのですか。何たる罰当たりな。」
今はアメーバのはずの天鶴が答える。
「先にお前さんは、赤ん坊や子供が最後の審判のときどうなるかについてあいまいな答えをしとった。」
「ええ、そのときの状態で判断されたり、もしくは他に移されてそこで生きたのちに審判にあうのかもしれないと答えました。」
「多くの赤ん坊の霊が一つの霊として育ち死ぬことがあるのじゃ。そのように儂はアメーバの多くの細胞を一つの霊として生きているのじゃ。」
「それは、私の知るところではありません! なんでそんな風に断言できるのですか。」
「儂はアメーバとしても存分に生きて、生物の進化に協力し、死んだ。そして見よ。むにゃむにゃ。ハッ。その進化によりなった体に、ここにこうしてこう再び転生して来たのじゃ。」
「そんなむちゃくちゃな。アメーバのような霊もあるかわからない物からどうやって霊が集められるのです。その転生の秩序を誰が守るというのです。神はアメーバの霊も天から迎えに行くというのですか。」
清次がチャチャを入れる。
「あなたの言う神には不可能なことなのですか?」
「神は全能です。しかし、それを人の意志で望むことは神を試すに近い罪となるでしょう。」
天鶴はお茶をすすった。
「清次もよかったら、お前ようにお茶を持って来なさい。」
清次が一端お茶を下げ、今度は三人にお茶を配ったところで、天鶴が口を開いた。
「今度は普通に未来に転生しようかの。」
清次が軽口をいう。
「先生の未来と言えば、涅槃に達しているでしょうか。」
「ほっほっ、そうじゃなぁ。涅槃にいるべきところじゃが、涅槃の境地から地上を哀れんで菩薩となろう。そして菩薩として過去に向けても善い結果を残そうとしようか。おっと、その残照が今の儂ということになろうかのぉ。ほっほっほっ。」
『旅人』は苦々しいという顔をして言い放つ。
「涅槃とはつまり天国のことでしたね。天国に行った者は地獄をかえりみません。それは天国に導いて下さった神の御念慮を無視する僭越な行為です。」
清次が言う。
「神は慈悲深いんじゃなかったんですか。それか、天国に行く善人には慈悲深さは必要ないということですか。」
「罰は罰で厳粛なものなのです。それは受ける価値のあることなのです。」
天鶴が答える。
「ほう、そこまで言えるものなのかのぉ。大したものじゃ。そこは納得できるのぉ。」
『旅人』はそう言われて、むしろ「しまった」という顔をした。そして言った。
「天国に行ったものが地獄に行ったり、人として生まれた者がアメーバになろうとしたりすることは、世界をやがて無秩序に向かわせます。無秩序は神と反対にあるものです。」
「誰かの秩序ではないということも儂には大事なことのように思えるがのぉ。」
清次が天鶴の後ろにある杖を指して言った。
「今、あの錫杖をこの畳の上で打てばどうなりましょう。」
「ほう、うーむ、埃が立つのう。それとも立たぬように掃除していると申すか、清次よ。」
「いえ、その埃こそ、平面にあったものの次元を一つ上げた姿、新たなる秩序への導きなのでございます。」
「そうか、うーむ、うーむ。清次、埃は立てずに歩くものだ。無理に埃を立てた責任、汝に問うて良いか。」
「わたくし、その埃を過去に転生させ、先ほどの先生のアメーバに協力し、進化を促してみせます。」
「これっ、清次ごときにそこまでできるか。ほっほっ、『旅人』さん、冗談が過ぎまして、申し訳ありません。」
しかし、『旅人』は真剣な顔をして答えた。
「神には次元を上げることなど造作もないでしょう。錫杖のたてた埃が霊となり、過去へ下り、何か生きる物の祖先となる。そのようなことも可能なはずです。」
天鶴は、困った顔をして俯いた。そして『旅人』が落ち着くよう声をかけた。
「ここは天国ではありえまいが、天国のように落ち着いたところでしょう。争いといっても口先だけじゃ。平和に暮らしていくことが一番ですからな。」
「先生、過去と未来に転生なさった、ということは今、現在にも転生可能なのでしょうか。」
『旅人』の熱情に辟易していた天鶴は、清次の申し出に乗ってみることにした。
「うーむ、では、やってみるかのう。一人黙って小説を読む者に転生してみよう。彼がおもしろくもないと思うものをおもしろいと評価するように意識を集中させて……どうじゃろう?」
「先生、そんなことなら、その者のところに行って、おもしろいことを説いてやったらいいじゃないですか。それが彼の為になることですよ。」
「どうも、そのほうが徳があるようじゃ。これはハメられたかのう。『旅人』さん、どうやら、儂は清次にやられたようじゃ。」
『旅人』は真剣な顔をしたまま答えた。
「聖霊は促すだけです。信仰によってのみ、その現れを知るのです。どのようにかして現れ、心に響いたこと、それは大切なことなのです。」
天鶴と清次が困った顔をして見合っているところを、『旅人』はさらに続けた。
「あなたがたはまるで何でも知っているかのような顔をする。ひょっとすれば、ここは天国か、というぐらい落ち着いてらっしゃる。しかし、あなたがたがさっきお認めになったようにここはどちらかと言えば地獄だ。あなたがたが本当に転生しているなら魂は焼かれていっているのだ。そして、今のあなたがたには何と言っても肉体がある。この世界には終りがある。ずっと未来に転生していけるわけではない。」
ゴォォンと鐘のような低いラッパのような音がした。それは腹から、むしろ「霊」から響いたような音だった。『旅人』は二人に告げた。
「さあ、その最後の審判のときがやって来たのです。」
清次は反発した。
「何をまた、そんなことを。いきなりそんなことがあるはずがない。肉体が復活するようなことなどあるものか。あの音はどこかで鐘が落ちでもしたのだろう。」
しかし、天鶴の意見は違った。『旅人』のほうに向かって言った。
「いや、儂は信じるぞ。ほれ、今、やって来てお前さんの後ろに立ったのは、儂のじい様じゃ。」
六
路地裏の雑居ビルの狭い階段を昇ったところに雀荘「南風」はあった。『旅人』がその扉を開けると、そこには宇宙が広がっていた。
「あら、ごめなさい。貸し切りよ。」
雀荘の真ん中にあたるはずのところに麻雀卓が宇宙に浮かぶように置いてあり、四人が席についていた。その四人のうちの紅一点の黒い長い髪の女が、『旅人』に声をかけたのだ。
『旅人』は答える。
「いえ、あなたがたに用があってここに来たのです。しかし、何ですか、ここは。」
女が眼鏡を直しながら答える。
「だって、ここで宇宙創造が行なわれているのよ。それに似合ったいい景色でしょ。」
残りの三人のうち、白髪の髪の長い眼鏡をかけた若そうな男が、その言い方を制した。
「宇宙創造だなんて大袈裟だな。そんなこと言ってたら、また、唯一神様に怒られるぞ。宇宙の運命を話し合い、取り引きしてるぐらいに言ってくれよ。」
牌をツモりながら、丸レンズのサングラスをかけた辮髪の男がイラ立たしげに言った。
「うるさい奴らね。この局で半荘が終るから、それまでおしゃべりはなしよ。」
牌を捨てたところを、黒い濃いストッキングを頭から被ったような覆面男が言った。
「ふぉふぉふぉふぉ、ロン。」
サングラスの男が嘆く。
「あちゃー、私の世界は運に見離さているね。小さくなるばかりよ。」
女が『旅人』に語りかける。
「さすが『旅人』ね。ちょうど半荘が終るときに来るなんて。」
「いや、偶然です。ゲームまで監視してやいませんよ。」
「でも、偶然って大事なことよ。神様の介入の隙を作ってるってことだから。やはりあなたがここに来たのは神様の強い導きってことね。一体、何がはじまるのかしら。」
「何、この世界、いや、この世界群がどんなものか観察しようとしているだけですよ。余計な介入をする権限は私にはありません。」
女は少し真剣な表情を作って言った。
「私、結構、今の世界に愛着があるのよ。これをどうにかされたら困るわ。」
『旅人』が言う。
「その、もし良かったら自己紹介していただけますか。ついでに、それぞれが管理している世界のことまで。」
白髪の若そうな男が言った。
「じゃあ、まず僕から行こうか。」
『旅人』がそこに割って入る。
「おお、あなたのことは知ってます。神の魔獣レヴィアタン。竜となったサタンに対し、あなたがレヴィアタンを召喚・同化することで、力を拮抗させ神を早くに勝利に導いたため、このような『地獄』の余裕が生まれたのだと聞きます。」
「もうずいぶん昔のことのような気がするな。僕のことはとりあえずレヴィと呼んでくれ。唯一神は最後の審判のあと、複雑な『地獄』を創られた。そこでは肉体が罰を受けたまま、別のところで霊を持ち、肉体を持ち、そこでチャンスが与えられることもあるという。それはまるで肉体を犠牲にした魔術ではないか、と僕はケチを付けた。このあたりはあいまいなのだが、このような『地獄』を創るという決定がなされたとき僕は魔術でレヴィアタンを召喚・同化できていた。そして、その功績をもって同志者を募り、魔法世界を認めていただけないかと唯一神にかけあったのだ。」
「おお、不思議なことです。それが認められたのですね。」
「そうだ。ただし、唯一神がないがしろにされないようにという条件付きで。魔術者が世界を統べるということになれば、その魔術者が一番偉いとされてしまう。そうならないようにする一つの方策が、この麻雀大会なわけだ。魔術ではなく、偶然こそが、根本のところを支配するというわけさ。少なくともウチの世界では、魔術者の誰が一番偉いかはわからないようになっている。その上で念には念を入れているのさ。」
「あなたの管理する世界は、どのような世界なのですか。」
「一口で言えば、テレビの中の世界さ。地獄は永遠の火に包まれるという言い伝えがあったね。テレビの映像というのは言ってみれば、火に映る姿なのさ。テレビに映っていることを前提にしないと全ての物が生きられない。そんな世界なんだよ。」
「難しいですね。そして、それが魔法の世界なんですか。」
「詳しい話が聞きたけりゃ、あとから僕のところに遊びに来ればいい。」
「では、お言葉に甘えましょう。」
女が口を開いた。
「レヴィはすごい自信ね。『旅人』を世界に迎え入れても怖いことが起こらないと考えているんですもの。」
レヴィが答える。
「神には何だってお見透しなんだから、隠したってしょうがないよ。」
「でも、隠そうという意志は尊重してくださるかもしれないわ。」
『旅人』が尋ねる。
「あなたは?」
「私はアシェラっていうの、よろしくね。私の世界では、地獄往きを増やさないような、それでいて魔法世界らしい世界を築いているわ。」
辮髪の男が口を挟む。
「その女は自分の師匠を殺して食ったヒドい女ね。」
「それは中傷だわ。無理に食べさせられたのよ。師匠が敵に負けたとき、その知識を当時の王様が惜しんで殺すのをやめさせようとしたんだけど、知識だけならその弟子に受け継がせますからって、師匠を殺してその脳を見習い魔法使いだった私に無理矢理食べさせたのよ。」
『旅人』が言った。
「むごい話です。」
「でも、それで魔術に必要な、知性・霊性・権威のうち権威が私のものとなり、偶然、霊性でも神秘的合一を果たして強い魔法力を得たの。」
「神秘的合一とは何ですか。」
「私の霊が転生してきた以前の世界、そこは戦争で、私は子供で、城壁都市の中にいた。食料がなくなって、まず私が教師だったおじいさんの肉を食べ、やがて、子供の私も食べられるという経験をしていたの。師匠を食べることで、その世界での記憶が呼び醒まされ、あのころの犠牲者達の怨嗟の念を魔法力として引き出せるようになったのよ。」
レヴィが口を挟んだ。
「しかし、それはうさんくさい話だな。自分の転生前の存在をそこに同定しただけじゃないのかな。」
「あら、この『地獄』の世界にはひどい戦争はないっていうの? その逆よ。そして霊が別の世界を経験している可能性があるのも事実だわ。」
「うーん、君と師匠の話にしてもそうだが、魔術における因果関係というのは微妙なもので、何が原因かを問うのは難しく、結果を見て判断するしかないことが多い。」
「あら、なら魔術のために人を食うのを許していいの? ちゃんと理由付けを行うのが知性よ。権威のために地獄を恐れない連中よりはよっぽどマシなはずよ。」
「まぁ、その微妙なところを神様がお認めになられたということなんだろうけどね。君の世界はどちらかと言えば『悪夢』のようなもののはずだったのに。」
『旅人』が質問を戻す。
「それで、アシェラさんの世界は魔法世界らしい世界ということでしたが、どういう世界なのですか。」
辮髪の男が口を挟む。
「女の管理する世界など決まってるね。美容整形の世界よ。」
「それも中傷だわ。権威は、男性は白髪に、女性は若い容貌に宿るというだけのことよ。選ばれた者だけが魔法使いになり、魔法に適した限られた物に魔法が使える。いくらお金持ちが望んだって、霊性に合う方法がなければ若さを保つことはできないわ。昔は、騙して霊性に合うといってむごい方法を売り込む黒魔術師もいたけど、かなり正確に霊性に合う方法を判定できる霊性判定装置ができてからはそういうこともなくなったわ。」
「霊性判定装置ねぇ。霊性切断装置の間違いじゃないのかな。」
アシェラはレヴィを無視して続ける。
「若さを保つ魔法は植物を媒介にしてしか得ることはできないの。私が若さを保っているのも専用の果樹園を保ち続けているからよ。他にも私のクライアントで若さを保っている人がいるわ。でも、嫉妬が大敵ね。植物を焼かれたり、病気にされたり。魔法使いに対する攻撃もあって、権威を落とすために、中傷をしかけられることもあるわ。今、みたいにね。だから、私、権威があっても普段はとってもおとなしくしているのよ。」
『旅人』が尋ねる。
「黒魔術師とやらは根絶されたのですか。」
「彼らと戦うのも私の属するギルドの仕事のうちよ。地獄を恐れない連中だから、現世でむごい罰を受けさせないといけないのがイヤなところなんだけど、できるだけむごくない方法を使えるよう日々、進歩しているわ。」
レヴィがチャチャを出す。
「おお、ギルドとは、陰謀の匂いがするね。生ぬるいんだよなぁ、そういうところ。ちなみに麻雀に負けると君の世界はどうなるんだったけ。」
「植物に病気が広まるのよ。」
『旅人』は次に辮髪の男に自己紹介を促した。
「私の名前は鯤ね。私の世界は、前の二人みたいに複雑なものじゃなくて、生き物を切って、札を貼って、つなげればくっつく、それだけの魔法ね。」
「それで何ができるのですか。」
「腕を失った男が、貧しい男の腕を買って替わりにくっつける。それぐらいね。」
「ヒドい話です。」
「科学はそんなに発達させてないね。医者は薬じゃなかったらお札しかやらないね。病気についても、他の生物にくっつけてみれば治るとか言ってる医者もいるが、そんなのは嘘ね。ただの実験よ。私はそんなの効かないと知ってるから言ってあげるんだけど、聞かないね。」
「あなたは尊敬されていないんですか。」
「ときどき、不老不死を疑われたり、お札を売って貯めた金を狙われて、襲われることがあるよ。八つ裂きにされたり、食われたこともある。そういうときは、そこの二人、レヴィとアシェラの二人のお世話になって復活するのよ。死んでは生きかえってるおかげで、年くってるヒマもないね。」
アシェラが口を挟む。
「何度か介入させてもらってるわ。鯤さんの世界の連中は、なかなか金払いがいいのよ。鯤さん以外の方々の相談にも時々乗ってるってわけ。」
「ヒドいやつらね。次の半荘で痛い目見せてやるね。」
『旅人』が哀れむ。
「いつも大変な目に会われて、イヤになりませんか。二人のように、もっと力が欲しいと思ったりはしませんか。」
「弱くても生き残る。これ大事よ。」
しょぼんとした鯤を見て、レヴィが口を挟む。
「鯤さんの実力はおそらく我々以上だよ。謙遜していらっしゃる。僕達は何だかんだ言って若いんだな。」
アシェラが口を挟む。
「でも、鯤さん、あなたの世界で、若さを得るための移殖手術が横行してるわ。あれはなんとかしないとダメよ。」
「ダメだったら、病気でも、はやらせるつもりかね。ほっといてくれよ。そういうときは魔法は効かないように、すでにしてあるね。迷信はほっとくよりしかたないね。」
『旅人』が聞く。
「鯤さんの場合、麻雀で負けたらどうなるのですか。」
「お札の値が下がるね。大損よ。普段、お金使って面倒みてるのを減らさないとだめになるから困るね。」
『旅人』は覆面男のほうを向いた。
「そして、あなただ。あなたは一体、何者なんです。」
「ふぉふぉふぉふぉふぉ。」
アシェラが説明する。
「この方は、ノウさん。麻雀で必要な用語は話すけど、それ以外はただ笑うだけよ。お話をなさらないわ。」
「それでどんな世界が管理できるというんです?」
「ノウさんの世界は、黒い泥でできた沼ばかりが広がる世界、そこに魚みたいな人が棲んでいるの。そういうもの達が存在できるのが魔術なのか、そういうものが私達とコミュニケーションできるということが魔術なのかよくわからないわ。暗黒魔術と呼ぶ人もいるけど、悪ではない印象が私にはあるわ。ただ私達には無秩序に思えるだけ。」
『旅人』は半ば怒った顔でつぶやく。
「なぜあなたがこういうところに現れたのか、あなたの世界をなぜ神がお認めになられたのか、私にはわからない。」
「ふぉふぉふぉふぉふぉふぉ。」
「ノウさんが麻雀に負けたときは、沼が陸と海によって侵食されるということだったはずよ。」
「ふぉふぉふぉ。」
鯤が『旅人』に言った。
「私らはもう少し麻雀打つよ。見ててもいいけどやりにくいね。」
『旅人』が答える。
「では、私は席をはずしていましょう。終ったら大声で呼んでください。」
『旅人』は部屋にある宇宙の片隅をぐいと持ち、そこから身を乗り出してどこかに消えてしまった。
アシェラがつぶやく。
「噂に聞いていたけど『旅人』さんもわりと正体不明なのよね。」
四人による麻雀大会が終り、『旅人』はレヴィと同行することになった。
「この街は、好きな街じゃないけど、治安が良くて便利だからね。住まいというよりアジトを用意してある。そこに行こう。」
「歩いてですか。」
「地下鉄がある。」
明らかにこの街の風景に似合わない二人が連れ立って地下鉄の駅に降りて行く。
「この世界は基礎世界にかぶさるように魔霊層という魔法世界が広がっている。基礎世界に実生活があるのだが、魔法世界の人間はいつも魔霊層を重ねて物を見ている。だから、魔法世界から見れば立派な見なりなのに、基礎世界では病人がジャージを着ているだけでしかないような服装もある。流行なのかもしれないが、私は感心しない。逆に魔霊層から基礎世界に働きかけがないわけでもない。現に我々が目立つ格好なのに注目されないのは魔法がかかっているためさ。」
「どうして基礎世界の服装が気にならないのでしょう。」
「ギャップがあるほうが魔力が強いという自己顕示さ。あとテレビ映りを悪いようにしておけば、勝手にテレビに映されて難にあうこともないという計算もあるのかもね。」
「この世界はカメラがたくさんありますね。」
「気になるかい。この街は基礎世界にある姿を曝してるカメラが多いが、魔霊層に属する目立たないカメラも多い。逆に屋内にはテレビだらけさ。必ずといっていいほど家にはテレビがある。テレビの形をしてない魔霊層のテレビもあるしね。」
地下鉄が来て乗った。地下鉄内ではしゃべらないのがレヴィのマナーらしい。改札を出て階段を昇り、ほんの少し行ったところに、レヴィのアジトのあるマンションがあった。
「どうも良い家具がないと落ち着かなくってね。良い家具を置こうとすると多少、広い部屋が必要になる。でも、いかにも高級マンションというのは住んでる人間がいけすかなくて好きになれない。そうして探し当てたのがここさ。本当は外見にもこだわりたいのだけれど、内装だけで満足している。みすぼらしくって恥ずかしいが、まぁ、中に入ってくれ。」
「家に魔法はかけないのですか。」
「防犯も兼ねて目立たないようにはしてあるさ。それとも何かい、ツタをはわせるなりネオンサインがあったほうがよかったかい。悪趣味なのは嫌いじゃないが、自分の寝床にそういうことはしたくないね。」
部屋に入るとアンティーク家具に囲まれて大きなテレビがあった。
「ソファに腰かけて……おっとテレビはまだ着けないでくれよ。先に説明がある。」
レヴィが紅茶を持ってきて、二人はソファに並んで座った。
「レヴィさんの世界は、確か、テレビの中の世界……でしたね。」
「ああ、基礎世界と魔霊層では見た目が違うという話をしたが、基礎世界にまったく根拠なく魔霊層に何かが存在することはとても難しい。不可能ではないが魔力が大量に必要なので、根拠がないように見える場合には、何か種が仕込んであるのが普通だ。」
「基礎世界とギャップがあるほうが魔力が強いということでしたね。」
「しかし、魔力を使わなくても派手に魔法を使った演出ができるところが、この世界にある。」
「それが、テレビ……というわけですね。」
「この魔法世界には四つの大きな流派がある。動物派、ロボット派、電影派、霊性派。動物派は、わかりやすく言えば、動物がタレントに化けてテレビに出たりする奴らだ。動物派のテリトリーの中には細菌類も含まれると言えば、その広がりがわかるだろう。ロボット派も似たようなもの、中身がロボットなだけさ。自動車なんかはロボット派のテリトリーだね。電影派は、ディスプレイだけでなく眼鏡や目のレンズに像だけを結ぶ魔術存在だね。ロボット派の亜流とも言えるが、テレビの世界では大きな存在だ。霊性派は、霊的に人の思考に直接、像を見せる。魔力がいるわりには、効果に個人差が大きく、この派が出てくるところには古い霊格が潜んでいることが多い。」
「その四つの流派がテレビとどう関係しているのですか。」
「権威を争っている。つまり、自分の派に有利なようにテレビの情報を操ろうとしている。ただ、基礎世界、さらにそのテレビ番組を共有する以上、ある程度は協力関係も必要なわけだ。」
「うーん、複雑ですね。」
「いや、実際、どんなことをやってるか見たほうが早い。この時間ならBSのチャンネルでショッピング番組があるだろう。わかりやすいから、その番組を見てみよう。」
レヴィがリモコンを操作すると、ちょうど腕時計が売られていた。
「何の変哲もない腕時計なわけだが……。ちょっと値段のところを手で遮って見てみてくれ。」
「おや、画面全体が暗くなりましたよ。」
「まぁ、たいていのショッピング番組は値段のところに仕掛けがあって、本物と複製品が同時に売られていることが多い。それがちょっとした操作で示唆されるわけだ。テレビに嘘があったり、テレビ以外の情報を別回線でやりとりして物を売ったりしてはいけないという規制がある。でも、逆に言えばテレビに載っている情報を魔術的な目で見ていって、正しい指示に辿り着ければ本物が安く買えたりするわけだ。」
「規制はあまり役に立ってないということですね。」
「もう少し説明するためにこの眼鏡をかけてくれ。」
フチに青・赤・緑・黄の四色のボタンがある眼鏡を『旅人』はかけた。
「あっ、いろいろ表示が変わりましたよ。ところどころ色がドギツクなったり、浮いているように見える項目があります。時計の輝きも変わりました。」
「見るということは見られるということでもある。テレビを着けるとこちらの映像も向こうがアクセスできるようになる。ただ、プライバシーのためにモザイクがかかるよう魔法がかかっている。そしてついでにテレビから魔法的視聴覚を鈍磨させるようなノイズが出るようになっている。そのノイズをなくすのがこの眼鏡なわけだ。」
「テレビを遠くから見ていたほうが良い物に見えることがあるというのはそういうわけですか。」
「他の世界ではどうだか知らんが、この世界では大いにありうることだね。この眼鏡も本物を買おうとすれば、いろいろ手続きが大変なんだよ。しかも、四色ボタン付きなんて、かなりレアなんだからね。」
「この四色ボタンというのは何なのですか。」
「例えば赤いボタンを押してごらん。動物派の視聴覚要素が強調されることになる。彼らは霊性に敏感だが、数字や文字に弱い。アナウンサーが動物である場合は、そこから特殊な符丁を受け取ることもある。動物に対しては、簡単な電話番号でアクセスできるようにしているが、霊性の正しい声や正しい符丁で注文しないと本物へのアクセスへ得られなかったりする。」
「なるほど。」
「青いボタンはロボット派だね。彼らはマイナスの時間を生きたことがあるという伝説があって、特殊な価値観を持っており、複製品の一部に高い価値を見出したりする。一方、彼らは霊性に鈍感で、本物のすごみや魔法的価値はわからない。アナウンサーがロボットである場合は、そこから特殊な符丁を受け取ることもある。複製品の情報を見たいならこのボタンを使えばいい。」
「ふむ。」
「黄色いボタンは霊性派で、赤ボタンに近いが複雑な数値も扱える。緑のボタンは電影派で、青いボタンに近いが本物もかなりわかるような表示になっている。」
「他の者はこれをボタンなく見ているということですか。」
「そうなるね。あっ、今、アナウンサーが表示されたね。目を見てごらん。隈がかかってて、霊的にこちらをにらんでいるような気がしないかい。」
「そういえば、そうですね。」
「僕達が本物の四色ボタン付き眼鏡を持っているらしいことをつかんで、こちらを観察しだしたんだよ。うっとうしいからチャンネルを変えよう。」
急にうらめしそうになったアナウンサーの視線を横に、チャンネルが切り替わり、戦争ドキュメンタリーが映った。
「何ということだ。この戦争の映像は本物だ。今、人が殺そうとされている。」
「基礎世界では戦争再現のセットに過ぎないが、魔霊層ではリアリティを持たせるため、実際の戦争状況に介入して、そこから霊性派や効果強調の電影派が活躍して伝えている。本物をこういうところでも求めるのがこの世界の悪い癖だ。」
「私は目の前に人が殺されるのを見てほっておくわけにはいきません。」
「おい、ちょっと。」
レヴィが止める間もなく、『旅人』は空間の枠を使んでテレビの中に入っていった。
テレビに『旅人』らしき人物が赤十字の旗を持って停戦を呼びかけている。
場面が切り換わり、『旅人』がインタビューに登場した。
「赤軍の暴挙は知っていましたが、停戦の呼びかけには応じるかもしれないと……。」
レヴィが「見ちゃいられない。」と次の場面に移るところで、テレビの裏から『旅人』を引っ張り上げた。
「君は無茶をするなぁ。」
「しかし、これで何人かが救われたはずです。いずれ亡くなる命だとしても今救えるその機会に出会ったなら、救うべきなのです。そういう場面に立ち会うことができるとは、この魔法世界は無限の可能性を持っていますね。なお、その後のインタビューは私の意志ではありません。私の意志に反したことをしゃべらされました。」
「放送作家の魔力さ。テレビの中で彼らに逆らうのは難しいんだよ。元の意志に反するインタビューを流すなんてお手のものさ。」
レヴィが「参った」という顔をして、しかし、笑いながら言う。
「この番組は僕達には刺激が強そうだから、チャンネルを変えよう。おっ、ちょうど、原発震災からの復興のニュースがあるね。」
「あれはヒドい震災でした。」
「原発事故は、基礎世界にも大きな影響があったけど、この魔霊層を含むテレビの世界ではとんでもなく大きな影響があったんだ。」
「放射能を持つ原子が散らばったんでしたね。」
「もちろん、それ自体の毒性も問題だったのだが、同時に物質的にまたは霊的に毒性のある他の物も大量に散らばった。むしろ、放射性原子にはそれらの毒がどれくらいどこにあるかの示標としての側面があったぐらいだ。」
「でも、除染は放射性物質を対象にしていましたよ。」
「そこでうまく立ち回って毒性を少なくするのに金を使わせるのに成功したところもあれば失敗したところもあった。基礎世界では問題が少なかったとの報道だが、魔霊層では電影派など遺伝子に強い影響を受け子に奇形が生じたり、ロボット派などではその財産価値が減るなどの影響が出たらしい。」
「奇形ですか。人間の奇形に関してしか関心がなかったので、そのあたりは知りませんでした。」
「陰謀論も盛んだ。震災の時期は、ちょうど、ブラウン管テレビが主流だったアナログ放送から、パネルディスプレイが主流のデジタル放送へ切り替えが進んでいるときだった。ブラウン管テレビでは霊性派がもっと力を持っていたから、彼らには不満がまだ残っているという。霊性派に言わせれば電影派の陰謀だし、電影派に言わせれば霊性派の逆恨みだという。」
「今、このニュースでは二人の子供が玉入れの競技で争ってますね。」
「あれは、電影派の奇形が生じた子をロボット派が補うか、動物派が補うか、どっちがうまくやれるかで競っているんだ。こういう競技をもっと盛大にやって技術発展を促そうというのがオリンピックということさ。」
レヴィはさらにチャンネルを替えた。今度は討論ショーのようだ。
「このチャンネルの番組は見ものだよ。今日、僕が麻雀に負けたから、この地域ではこのチャンネルの基礎世界と魔霊層とのリンクが切れるんだ。リンクが切れる前にこのチャンネルから逃げださないと魔法的には死ぬことになる。」
そうレヴィが言い終るうちにテレビでパネラーの一人が発言した。
「原爆こそ、最後の審判のラッパの音ではなかったか。」
別のパネラーがたしなめる。
「死後の裁きはそんなあいまいなものじゃありません。」
しかし、四色ボタン付き眼鏡で見るとその二人のパネラーは雑霊を遺して魔法的にはそこから立ち去ったようだった。
レヴィが説明する。
「あの二人は安全策を取って、他のパネラーに暗に警告しながら、チャンネル全体から逃げ出したのだろうね。さっきも言ったように、モザイク付きだけどここも見られてるから、僕の発言に反応したのさ。でも、他のパネラーは、正体の知れない者の発言によってでは、チャンネルごと撤退するようなコストのかかるマネができない。今、ここがどこか、僕達は何者か慎重に探っているところさ。」
『旅人』がけわしい顔で言った。
「子供も出てるじゃないですか。ここがどこかはっきり伝えるべきです。」
「プライバシーに関する音声は自動的にカットされるようになっている。」
「ならばこうするまでです。」
そう言っていきなり『旅人』は服を脱ぎ、眼鏡を外し、全裸になった。
「おい、注目を集め過ぎだ。が、それでも、ここがどこかは伝わらないぞ。」
「外はカメラだらけだと言いましたね。こうするのです。」
そう言って、『旅人』は玄関を出て全裸のまま外に飛び出してしまった。
『旅人』はそこら辺を全裸で走り回ってレヴィの家まで戻って来ると、レヴィの家では「放送警察」が待ち構えていた。
レヴィが謝る。
「すまない。そこまでしては、この世界では警察のやっかいになる他ない。必ず助けに行くからひとまず捕まって欲しい。」
『旅人』は、警察の護送車に乗せられ留置所に行き、そこから精神病院に転送された。その精神病院にレヴィはやって来た。
「やあ、身元引受けに来たよ。書類上は、君の兄ということになっている。」
「お世話になります。ところで、子供達は助かりましたか。」
「ああ、皆、必死に逃げ出したよ。僕は逃げ遅れた者が魔法的に死ぬのは運命のように考えていた……。」
「魔法的に死ぬと一部はここに送られてくるようですね。そういう人と何人か会いました。」
「そうだな。基礎世界で、実際に死ぬ者もいるが、精神に異常を来たすだけで済む者もいる。」
「私はすぐに出られるのですか。」
「なんとか交渉してみたんだが一週間は、いてもらうことになる。」
「そうですか。それぐらいなんでもありませんよ。しばらくこの世界のここに留まることにします。」
「せめてものつぐないにDVDを持って来た。これを上映してもらうようにも頼んである。あとでそれを見て欲しい。宇宙の物語だ。」
「わかりました。何が描かれているのか楽しみです。」
DVDでは、宇宙創世の物語にことよせて、ファンタジーとして魔霊層のことまで基礎世界のフォーマットでキチンと説明されていた。
最後の場面で、おじいさんの博士が出てきた。それは霊性においてレヴィその人であることが『旅人』にもわかった。博士は宇宙を自転車に乗って旅をする。
博士が地球に残った人々に声をかける。
「私は世界を管理するのに疲れてしまった。でもまだ死ぬわけにはいかない。眠ることにするよ。グーグーグー。」
すると、DVDを見ている『旅人』以外の人達が騒ぎだした。
「やった。俺達の自由だ。あいつは邪魔だったんだ。」
博士が目を醒ましてつぶやく。
「あら、少し眠っている間に地球は混乱しちゃったな。誰か私を次ぐ人は出て来ないのかな。もう少し眠ってみよう。グーグーグー。」
「おい、あいつが目を醒ましても何も言えないようにしてしまおう。俺にいい考えがある。」
博士の自転車がだんだん小さくなって遠くに行ったことを示していた。そこで目を醒ましてつぶやく。
「ア…ア…、電波ガ…トドカナイ…オヤ、ロボット達ガ騒ガシイゾ…世界ノオワリ…世界ノオワリ…。私ガ逃ゲテシマッタ……。」
『旅人』は皆に語りかけた。
「どうしてあの方の気持ちをわからないのです。この世界などあの方の一暴れで崩壊してしまうのですよ。魔法世界なんてものが認められるのが奇跡に近いのだから、その根本をひっこ抜かれても文句は言えません。あなた方は、ラジオ技術を間違って使用しているのにどうしてそんなに浮かれていられるのですか。」
七
初老の男性が、二個の木のハンガーを使って踊っている。
始めは、鳥の羽、絵で見る天使の羽のように背中にハンガーをつけ、それを上に移動させて鹿の角のようにし、今度は下げて胸の前で交差させてゴリラのような動きをした。次は、ノドを棒で支えて、馬かキリンのふり、そして腰に羽を生やしたようにして鶏かダチョウのふり、片方を口に片方を背に持ってきてペリカンのふりをした。同様の動作が続いているところに『旅人』がやってきた。
「リーさん、それは何ですか。」
リーという名らしい初老の男性が答える。
「動物の踊りだ。健康のためにやっているんだ。天使が失った羽をどこに付けるかで動物達がいろいろ試しているという『天使算』という物語だ。」
「リーさんは、一人暮らしでいろいろ家事をこなしているんですから、そんな適当な運動、効果ありませんよ。」
「いちいちうるさい男だ。今日もいつもの話かね。」
「ええ、そうです。今日こそ決心してもらいますよ。」
リーは、生前、旧約聖書で書かれているようにユダ王国を滅ぼさないと約束しながら結局滅ぼした神が「唯一神」であるわけがないと思い、そう公言していた。その神を唯一神と信じることは、本物の「唯一神」を信じないことと等価であると信じていたのだ。そのことが罪であるとして最後の審判ののち、この「地獄」に彼は生きている。
リーは『旅人』に語る。
「実際、最後の審判のラッパが鳴り響いて自分が復活したのには驚いた。唯一神への信仰は正しかった。でも、その神が聖書のあの神であるとはまだ納得がいかないんだ。」
「納得できなくてもいいのです。神様からあなたを天国に招くよう仰せ付かっております。」
「天国に行ったら納得できるようになるのかね。」
「天国に行けば体も霊も変化します。しかし、変化したから納得するわけでもなく、麻薬のように意志に反して納得するわけでもありません。しかし、あなたは納得するようになるでしょう。」
「俺の仲間には唯一神自体への信仰をなくし破滅した者もいる。」
「破滅できるほどの自由を神はお与えになっているのです。」
「神は自由にまかせているのか。最後の審判のラッパを聴き、ここまでの奇跡ができるのを見て不思議に思う。そういう人々になぜ唯一神は、何もしなかったのか。私にはどういうことかわからない。」
「神の業ははかりがたいのです。」
「唯一神が広まる前には、多神教の神々への信仰があった。最後の審判がはじまったときにそういう神々への信仰も残っていた。そのことの意味もこの先、納得できるようになるのか。」
「そういう部分があればこそ、唯一神がイスラエルからはじめたことが納得できるのです。」
「意外だな。神々への信仰は否定されるとばかり思っていた。」
「否定されます。しかし、ある意味で肯定できるように世界を創造されています。例えば、地獄でならば、悪夢でならば、魔術が使えることがあるかもしれません。そのように、神々を信仰したことを後悔とともに肯定しうるよう存在する者もあるでしょう。」
「複雑だな。この複雑さも予想外のことだった。」
「神は欲張りな方なのです。多くを救おうとなさっているのです。」
「でも、俺は間違った。俺がそう簡単に救われるのは間違いじゃないかとも思う。」
「あなたのような者は実は数少ない。あなたはこのままだと一人きりだ。」
「俺は一人でもいいんだよ。」
『旅人』はリーの手を取った。
「あなたのようにお話の上手な方が、一人、この世界に留まっているのはそれだけで損失なのです。淋しいのも地獄の苦しみの一つですよ。地獄の苦しみから抜けたいと思いませんか。」
「それが地獄と知って留まろうとしてはいけない。天国があると確信して、なおもそれを目指さないわけにはいかない。昨日、風呂に入っているときそんなふうな考えが頭に浮かんだよ。」
「そうです。その通りです。」
「それが正直というものなのだろうな。俺は正直であろうとしてきた。」
リーは『旅人』の手をどけながら言った。
「わかったよ。負けたよ。天国に連れて行ってくれ。」
『旅人』はリーに目隠しをして、道を降らせた。降り道が終って道を昇り始めたとき『旅人』はリーに声をかけた。
「目隠しを外します。とても眩しい光が見えるでしょう。でも、太陽の光と違ってずっと見つめていても目がつぶれない光です。しばらく、耐えて見てください。」
目隠しを外したリーは手で光を遮りながら、薄目で天国を見た。薄目でもとても眩しかったが、徐々に目を開いていっても目は痛くならなかった。
そこには新約聖書の『ヨハネの黙示録』に描かれた天国=エルサレムが建っていた。
リーは『旅人』に語った。
「こんなことをいうのは罰当たりかもしれないが不安だ。光に焼け溶けてしまうんじゃないかとすら思う。」
「あなたの不安は、信仰が不完全であることの不安です。誰でも神の前には不完全なものです。自信を持ってください。」
「思えば『地獄』に来てから孤独だった。だから誰かに見せるために天国を目指したのではない。それでもたった一人の人間でもそこを目指すことに意義があると説く者が現れた。それで決心ができ、回心もできたのだと思う。それこそ、そこが天国であるという証だろう。私は神を信じたい。」
リーは天国への道を登って行った。
八
『旅人』は病院の一室らしきある部屋に一人の男を連れて来た。部屋には旧世代のゲーム機Xbox360があった。
『旅人』が男に言う。
「さあ、あなたのやりたかった鎧を脱がせるゲームがあります。これで遊びたかったのですね。」
そのゲームは『ソウルキャリバー4』だった。
男が答える。
「私は通信対戦とかには興味がありません。対戦ゲームを遊ぶ友人もいません。でも、幸いにこのゲームにはキャラクタークリエイションという鎧の着せ換えや着色でキャラクターを作る機能があります。これで遊びたいと思います。」
何日かしたあと、『旅人』は男のもとを訪れた。
「何かできましたか。」
「世界を創造しました。世界を二次創作したのです。」
「狂ってる。着せ換えで遊んでいたのにどうして世界を創造できるのです。」
「神は多神教の神々を救うその依り代を求めていらっしゃるのです。その物語を二次創作したのです。」
「そんなわけありません。しかし、とにかく説明してもらいましょう。」
「はじまりは『バビル二世』なのです。そのロデムは何だろうと考えるうちにこれはル・アダムと読めることに気付きました。アダムは旧約聖書の創世記に出てくる最初の人類の名前で、アダムは同時に塵から創られた大地を表します。それに定冠詞らしきものを付けるということは、地球も表すと考えました。そう考えたとき、私の心に浮かんだのは、むしろ『∀ガンダム』のロランらしき人物で、ただその後ろ姿の髪は青く、結って風にたなびいていました。しかし、いろいろやっているうちにロランというよりは初代『機動戦士ガンダム』のアムロのようになってしまったのです。それがはじまりです。」
「なんですか、それは。『バビル二世』や『ガンダム』とやらは、アニメやマンガなのですね。ちょっと私の頭の中を調べてみてやっとわかりました。そういう言及は時代とともに廃れてしまいます。全国的な再放送が難しい世の中ですから、すでに忘却されようとしているとも言えます。同じ地域の同世代の者にしかわからない話題なのですよ。わかっていますか。それを神々の依り代だなんて無理にもほどがあります。」
「しかし、物語に結び付けられているから、象徴としては豊かなのです。もし、私の言及が後世に残るなら、それによってその作品の情報が残ることになるかもしれません。そうなれば、元の作者にも得なことでしょうから、そこに二次創作としての成功がありうるのです。」
「二次創作は得か損かで合法性が決められることがらではないのですよ。」
「では、こういう言及はダメなのですか。」
「こういう言及が本になっていると仮定しましょう。幸い、文章の引用は合法的にして良いことになっていますし、タイトルやちょっとした紹介は著作権に触れる物ではありません。しかし、続編と受け取られるようなものにまで創り上げてしまっては同一性保持権の侵害になることがあります。」
「それぞれの作品の次の作品となることはありえません。自分としては二次創作のつもりですが、仮に本となっている場合は、厳密には二次創作と呼ぶほどのことはなく、象徴的な言及に留まっていると思います。大きく次の時代、次のどこかの世界の時代を創ることはあるかもしれませんが。」
「まぁ、それらの心配はなくていいのでしょう。それに別に許可があれば、この言及に画面写真や作品画像が添え付けることも可能です。もし、そういうもの、例えば、『ソウルキャリバー4』での各二次創作キャラクターの写真や、当時のアニメや特撮、マンガ等の紹介画像が付いていれば、この言及は、文章の引用以上の権利処理がなされているということでしょう。」
「本当ですか? ならば安心して続けましょう。」
「長くなりそうですね。」
「『バビル二世』から二人目は敵のヨミです。ヨミは男ですが、女として夜見姫という名前で作りました。別にリリスという名も与えます。リリスはユダヤ教の伝説でイブの前にアダムの妻となり、その後、呪いによってか悪魔となったものです。『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイを意識して作りました。幽霊体の悪魔のように肌の色を光を通すような闇を感じさせる白にしました。」
男は続ける。
「三人目はロプロスです。ロプロスは人間登場以前の『知性』をも象徴しており、それは恐竜が鳥へと進化したところの秘密などを象徴しています。女として作りました。名前としてはノット・プラス、プラスでない指向で進化を促す者といったところです。私にとって遠い存在を表す赤髪のキャラにしました。」
男は続ける。
「四人目はポセイドンです。ポセイドンはフォールス・オーディンで、偽の神といった意味になると考えました。しかし、神であると騙すのではなく、現れない唯一神に代わって神の責任を負おうとする者としてむしろ善性の者と考えて作りました。ヒゲのおじいさんで、夜見姫と同じ神性を象徴する水色髪を持たせています。」
男は続ける。
「次はバビル二世本人が来るべきところですが、そうせず、五人目と六人目に『超人ロック』からロックとナガトを作りました。超能力者のロックは私にとっては別の世界からシンボルを通してこの世界に超能力を通じて介入してくれるものなのです。ナガトは銀河皇帝で銀河コンピュータの存在と結びついています。ロックは本来、男ですが女のイメージで作りました。作ったときその鎧を『新世紀エヴァンゲリオン』の初号機をイメージして色付けをしました。ロックまでのキャラは、男には女の剣術流派、女には男の剣術流派を割り当て、少し両性偶有的になっていたのですが、ナガトは男で男の剣術流派を持つストレートな者にはじめてしました。」
男は続ける。
「ロデムからロックまでが第一世代、第二世代として先に挙げたナガトを作り、次に『魔法のプリンセス ミンキーモモ』からモモ、『バイオレンスジャック』からジャック、『宇宙の騎士テッカマン』からアンドロー梅田、『GREY』からグレイを作りました。モモは空モモで、ロプロスを継いでいます。グレイは、機械化を受け容れいろいろ捨てていくという感じを出したかったのですが、その結果、『ストリートファイター4』のC.ヴァイパーのイメージと重なりました。グレイは『新世紀エヴァンゲリオン』の二号機的位置付けだとも考えています。」
『旅人』がここでやっと口を挟んだ。
「第一世代、第二世代というのは何ですか。第二世代は第一世代の子供なのですか。」
「生殖的にできた子供ではありません。ただ、霊的に前の世代との交流・交配の結果、次の世代に子のように生まれていると考えます。」
男は続ける。
「第三世代は、『ラ・セーヌの星』からシモーヌ、『ふしぎ魔法 ファンファンファーマシィー』からポプリちゃん、そして『超人バロム・1』からバロム・1、ただし、バロム・1が二人の子供が変身して一人のヒーローになるのにあやかって、一人のバロム・1というヒーローに二つの印象の違うキャラを作りました。その一方のバロム・1は人間じゃない肌の色を持っていて、どこか別世界から来たことを思わせます。さらに第三世代を続けて、『新世機エヴァンゲリオン』から零号機にあたる者を作りました。男性キャラの女性キャラ化はこれまで何どもやっていましたが、女性キャラの男性キャラ化は零号機が初めてでした。零号機といっても綾波レイにちなんでいるからそう呼んでいるわけで、色合いは、初号機のカラーリングに近いです。」
男は続ける。
「第四世代は、『となりのトトロ』からトトロ、『赤毛のアン』からマリラ・カスバート、『UFO戦士 ダイアポロン』からダイアポロン、『X-MEN』からウルバリン、『ジャングル黒べえ』から黒べえ。黒べえはおそらく男キャラだが美型の女キャラに作りました。黒べえの別名はB.Bすなわちビッグ・ブラザー、小説『1984』の監視者から名付けています。『新世紀エヴァンゲリオン』の三号機にあたります。」
男は続ける。
「第五世代は、『コスミック・バトン・ガール コメットさん☆』からコメットさん、『新世紀エヴァンゲリオン』から量産型エヴァ、『仮面ライダー スーパー1』よりスーパー1、『六神合体ゴッドマーズ』からロゼ、そしてオリジナルキャラのかなみ。他の『新世紀エヴァンゲリオン』のものと違って量産型エヴァは、他のヒーロー枠を使って出しています。最後のかなみは私が上で作った『新世紀エヴァンゲリオン』の各号機の『最終形』を描こうとしたもので、量産型エヴァのキャラを元に作りました。これが最初のロデムであるアダムに対するイブとして私が出した答えになります。」
『旅人』が言う。
「それで終りですか。キャラクターを並べたところで、何も伝わりませんよ。」
「例えば、男か女かに注目してください。第一世代から第四世代までは各世代で男女のバランスが取れています。そこまではまた男女同数になってます。第五世代までで二十五のキャラとなるのですが、奇数なので一人、男か女かが余ります。男一人または女一人余るよりも、女三人余ったほうが力を合わせやすいだろうと、第五世代は男一人に女四人になっています。各世代の各キャラクターを左から右に、世代を縦に並べたときの縦の列にも注目してください。夜見姫から量産型エヴァの列は女のみになっています。ロプロスからスーパー1の列は、ロプロスのみ女で他は男となっています。ポセイドンからロゼの列は、ロゼのみ女で他は男となっています。ロックからかなみの列は、零号機のみ男で他は女になっています。これは意識してこうなったわけではありません。順に作りながら男女の数は意識しましたが、縦の列は、偶然そうなっていたのです。」
「でも、それが何を意味するかはよくわからないのですよね。」
「そうです。」
「あなたの中には何か意味が、物語が生まれたのかもしれない。でも、あなたはそれを表現できなかった。そんなものは依り代にはなれないでしょう。」
「このキャラクターを使って対戦することを神事としていって欲しいのです。」
「誰がそんなことをしてくれるというのです。目を醒ましなさい。あなたは時間をかけさえすれば、優れた物をいつか創れると思っていました。ですが、できたのはせいぜいこの程度のものです。これではあなたが心の底では夢見ていた特別な注目を浴びることなどできません。」
「じゃあ、私がこのゲームにかけた時間は無駄だったというのですか。」
「すべての努力が報われるわけではありません。神の救いというのも、努力に対してなされるというのとは少し違うのです。あなたは怠惰でした。怠惰を責める地獄は特にありませんが、今後、もっと他人に対して何か勤勉な行いをして、怠惰を埋め合わせようとしなければ、あなたは見捨てられたままでしょう。」
「ゲームをしているうちは狐独を忘れられましたが、私はまた狐独に戻るのですか。集団の中にいて、私は狐独なのです。」
「あなたに対する救いは今のところこの程度なのです。すみません。しかし、あなたがこの『地獄』で変わる必要があるのです。今回、私はむしろ甘やかしてしまったのかもしれませんね。」
男はゲーム機の置かれた個室から追い出され、集団生活の大部屋に移された。
九
雪国の一建家。引越しの準備をしているところに『旅人』はやってきた。『旅人』は家の中に通してもらい少女の部屋を訪ねた。
『旅人』は少女に話しかける。
「はじめまして、マイア。お父さんの友達の『旅人』です。今日はマイアの話を直接、聞きたくて来ました。引越しの準備が忙しいところをごめんなさい。」
マイアが答える。
「『旅人』さんはじめまして。引越しの準備はもうすぐ終るところよ。私の話が聞きたいなんて、一体、何かしら。」
「お父さんと意志が霊によって働くかどうか話をしたそうだね。」
「そんな話? でも、あの話ね、わかったわ。」
「意志は霊にどのように影響されているのか? 意志の動きは脳の動きですべて説明できるのではないか? 科学によって、意志の動きが脳の動きですべて説明できたとき、霊は存在しないようになるのか?……といったところです。」
「お父さんの話では、科学が意志を脳の動きで説明するようになったとしても、霊は神の記憶のようなものとして存在しうるということだったの。」
「もう少し詳しく教えて欲しいな。」
「神が生前の人を覚えるとき、服は何を着ていたか、どういうところを歩いていたか、どういうものを食べていたか、ということにはじまって、内臓の動きや脳の中のニューロンの動きまでも、正確に覚えてらっしゃるということ。それは神の中の人の記憶は完き人そのものでありうるし、もっと何かが付加された人の理想状態のようなものかもしれない。そうであれば、意志が脳の働きで示されたとしても、それ以上の霊の働きが神の記憶の中であり、意志を持ちうるということになるわ。」
「なるほど。説得力がありますね。マイアはそれに賛成したのですね。」
「反対っていうのかな。それはありえるとも思うのよ。でも、そうじゃない在り方でも霊はありうると思ったの。」
「それはどんな?」
「人が死んだときにね。神様がやって来てくれるの。そして、用意してきた霊的肉体に脳の反応を移し替えてくれるの。霊的肉体をもって霊として生き、意志も維持できるようになるの。神様はいちいち一人一人にそんなことはしないと考えちゃダメなの。」
「そうですね。人の親は人が産まれたときに後の子供が想像しえないような手間を引き受けているものです。神も人が死後の世界に新しく『産まれる』ときには、人が思ってもいないような手間を引き受けてくださるのかもしれません。」
「それでね。大事なことは、意志の働きが脳の働きで説明されるようになったとしても、神の記憶モデルはもちろん、霊的肉体モデルも反駁することはできないの。そして、もっと大事なことは、科学的に意志の働きを脳の働きで説明できるようには未だなっていないってことよ。」
「そうですね。意志は常に外からの働きかけとせめぎあっていますから、脳の働きを単純に切り出すことはいつになってもできないかもしれません。そして、霊の真実は、神の記憶モデルと霊的肉体モデルの中間にあるのかもしれないし、どちらにも似ていないのかもしれません。」
「そう。なかなかパパはわかってくれなかったけど、最後には納得してもらえたのよ。うれしかったわ。」
「そういう会話が家庭でできるというのはなんと幸せなことでしょう。お父さんはそうして最近、転向され、そして、引っ越すことになったのですね。」
「それが引越しのキッカケだったの? 知らなかったわ。」
「おっと、口が滑ってしまいましたか。」
『旅人』は、少女の部屋に残された木彫りの像を指さして尋ねた。
「あれは、何ですか。」
「神様よ。正確には天使様かしら。」
「マイア、偶像崇拝はいけません。家具を造った残りの木から彫られたのがその像なのです。家具はいらなくなったら燃やされ、炎と消えます。一方で、その像は、女の子から救いを迫られる。これはおかしなことじゃありませんか?」
「あの像は神様そのものではないわ。像を通して天使を拝むの。それは、それを通して結局、神様を拝んでいるのと同じことだと思うわ。神様にはそのことが伝わらないの?」
「神様もそれはわかっています。でも、そういうことは嫌われるのです。わかっていても嫌いなことは、マイアにもあるでしょう? 例えば、蛇や蜘蛛は好きですか?」
「いいえ、見たくもないわ。」
「本物そっくりの蛇のおもちゃがあるでしょう。おもちゃとわかっていても、それを嫌い、触れたくないと思いませんか? それと同じです。」
「なるほど。わかったわ。でも、他のお気に入りのおもちゃと同じで、その像を燃やされるのは、悲しいことよ。それもわかってはもらえないの?」
「いえ、今の私は燃やすことまで命じられてはいませんよ。でも、それは置いて行きましょう。」
「わかったわ。でも、私がもう少し大人だったらきっと蛇や蜘蛛のおもちゃを見ても平気だと思うわ。」
『旅人』を通じて神はこのことを知り、恥じたわけではないが、心に留められた。
十
大衆食堂に『旅人』は立って並んでいた。前の男がカウンターの女に文句を言っている。
「天然物の鮭の切り身が安くなるって書いてあったから、前回、頼んでおいたら、なんだよこれ! 天然なのは切り身の皮の部分だけじゃねぇか。」
女がクレームに反論する。
「あらっ。皮の上に3Dプリンタで肉を成形していくってすごい技術なのよ。それがこんなに安いなんてやっぱりお値うち品よ。安全・安心の人造魚肉のうえに、焼き魚は皮で決まるって人も多いから、ちっとも詐欺じゃあないわ。」
前の男が引き下がったところで『旅人』は注文をする。
「この栄養たっぷりソイレント・シェイクというのをお願いできますか。」
すると意外なことにカウンターの女が小声で『旅人』に話しかけた。
「あら、お久しぶりね。『旅人』さん。」
「どこかでお会いしましたか。」
「私、アシェラよ。姿はかなり変わってしまったけど。」
『旅人』は薄目で女を眺めてから、驚いた様子で言った。
「本当だ! 前ほどの強烈さはなくなってしまったけど、この霊のパターンはアシェラさんです。一体、どうなさったのです。それにこんな世界で会うとは。」
「話はあとで。今、代わりの人を頼むから、席に座って待っててくれない? いろいろ話したいことがあるわ。」
『旅人』が食堂の席に座って、味気ないソイレント・シェイクを飲み干したころ、アシェラが彼の前にやってきて座った。
「ああ、なんと言えばいいのかしら。永遠すら過ぎたその先の未来で巡り合う……相手が『旅人』さんじゃなかったら、さぞロマンティックだったでしょうに。」
「その、アシェラさんは変わられましたね。」
「まずは、この黒い肌ね。私の世界は、そして私は永遠の火の罰を受けたの。でも、そこから私は誘われてこの世界に転生してきた。前と違って同じ肉体ってわけにはいかず、肉体を乗り換える転生をしながら、このところずっとこの世界にお世話になっているわ。永遠の火の記念として私が選んでいるのがこの黒い肌ってわけ。」
「永遠の火ということなのにどうして今も焼かれているわけではないのですか。」
「ゼノンのパラドックスのアキレスと亀の話、知ってる? 足が早いことで知られるアキレスもゆっくり動く亀に追いつけない。なぜなら、亀がある地点Bに達したとき、前の地点Aまでアキレスがやってきているとすると、アキレスが地点Bに達したときは必ずその間にその先の地点Cに亀は達しているから。それがずっと続く……というものよ。これは等比数列の無限和が有限の距離に収まることで説明できるの。無限の距離とはまた別に無限個の等比数列が作れるってこと。無限つまり永遠にもいろいろ種類があるのよ。」
「うーん、詭弁のように思いますが、私もそういうことがありうると考えてきました。最後の審判は有限の時間内に必ず訪れるとしても、その間に無限個の級数が取れるように、無限の罰の時間が埋めこめると考えるのですね。」
「そういうこと。へー、話わかるじゃない。」
「でも、実際にそうだと証言する者に会ったのははじめてです。何かの導きなのかもしれません。」
「あと、私の変わったところと言えば、ところどころ戦争で体をなくしててサイボーグ技術で補っていることね。実はこれ鯤さんが使っていたお札の応用なのよ。細部においては魔法なの。」
「おそろしいことです。この世界が魔法にも基づいていることは薄々は感じていましたが、やはりそうでしたか。」
「この世界には支配神がいて、それがときどき替わるの。唯一神は絶対的に別にいるんだけど、春分点が黄道の十二星座をくるくる回るように、支配神にはくるくる役目が回ってくるの。あるときはゼウスの時代、あるときはバアルの時代、ってね。古代の神々が復活していることになっているわ。私の名、アシェラは、唯一神の配偶神とされたこともある女神の名だから、この世界に惹きつけられたのね。」
『旅人』はその話を聞いて眉をひそめた。
「私にはおぞましいことのように思えます。こんなことまで神がお認めになるとは以前には思いもしませんでした。」
「あら、神様に逆らう言葉のようにも聞こえるわね?」
「いえ、決してそういうことではありません。」
「でも、そのほうが頼もしいわ。」
「ん? ということは、私相手に悪だくみですか? やめてくださいね。」
「私が今やってる仕事は……、食堂のおばちゃんというのは仮の姿よ。本当の仕事は、二つあるの。一つはサイボーグ技師ね。これは優れた魔法使いじゃないと結局いい仕事ができないから、難しい仕事は私に回ってくるようになってるの。もう一つは、ここでは言えないわ。研究室に来て。」
食堂を出て、少し行ったところに駐車場があった。そこからアシェラの車で十分ぐらい行ったところに彼女の研究室があった。中に入るとロボットのがらくたのようなものがそこらじゅうに散ら張っていた。
机の上には義手らしきものが置かれていた。『旅人』がそれを見ているとアシェラが話しかけた。
「それは遺伝子にお札のような効果を付与することで魔法を目立たなくしたサイボーグ技術の見本。新発明なのよ。」
「魔法が目立たない必要はあるのでしょうか。」
「一つに魔法は嫌われているからね。それと、魔法がないと量産できないと思われてるより、魔法がなくても量産できると思われている物に実は魔法が必要というほうが、魔法を高く売り込めるのよ。」
「あくどい商売のように思います。」
アシェラが話しを切り換えた。
「ところで、支配神達が魔力を貯めるために戦争を起こしているのはわかる?」
「そうなのですか。」
「彼らは古代神よ。人を犠牲にするのを何とも思ってないわ。でも唯一神の手前、戦争を装ってるの。」
アシェラが続ける。
「そこまでして造っているのが、『世界コンピュータ』よ。」
「何ですか、それは。」
「神は共有夢などに出資されて肉体をともなった新しい世界ができる。これまでは存在できるかあやふやな世界も出資の対象になってきた。しかし、世界コンピュータができてしまえば変わるわ。世界コンピュータで存在不可能と判定された世界には、もう神は出資されなくなってしまうの。」
「そうなのですか。でも、それはどちらかといえば、神……唯一神の利益となる話に聞こえます。」
「そうよ。しかし、神々は、世界コンピュータの中に彼らの世界を再現することを取引条件としているの。」
「それで皆、満足するのですか。」
「私はいやよ。魔法世界は総じて存在があやふやな世界なの。その火を消したくないのよ。だから、世界コンピュータができるのを邪魔する組織を作った。それが私の第二の仕事よ。」
「邪魔をする……というのはテロでも起こすつもりですか。」
「世界を平和にするのよ。そうすれば神々は犠牲をささげることができなくなる。」
「それは遠大な計画です。」
「平和が目的なの。神々の目的をくじくことでもあるわ。ねぇ、『旅人』さん、あなたも協力してもらえないかしら。」
アシェラは『旅人』を見つめた。『旅人』は目を逸らさず答えた。
「残念ながら、そこまで積極的な介入は私の仕事ではありません。」
アシェラは肩を落とした。
「そう、残念だわ。ギリギリまで粘ってみたつもりだけど、しかたないわね。」
キーーーン。
「研究所のサイレンが鳴ったわ。侵入者よ。私への審判の時が近付いたってわけね。」
「それは大変です。」
「さっきのお願いはなしにして、これが最後のお願いよ。もし私が殺されるようなら。私の霊をどこか別の世界にかくまって。」
『旅人』はマイアが持っていた木彫りの像をそっとふところから出した。
「へぇ。あなたがそんなものを持っているなんてね。これは少しは信用できそうね。」
五、六人の侵入者がやって来た。その人数を前にしては『旅人』は応戦できず、空間の枠をつかんで外に出た。
侵入者がアシェラと話す。
「さっき何者かがいたようだが、どこに行った。」
「知らないわ。」
「シラを切るとためにならんぞ。」
「どこか見えないところに行ったのよ。」
「ふざけたことを。」
バンッ。銃声が鳴り、アシェラの頭が打ち抜かれた。そのとき『旅人』はそっとアシェラの霊を木彫りの像に移した。
『旅人』は霊の入った像を携えて世界の外に出た。そして、そこではアシェラの転生が不可能であることを確かめた上で、その像を燃やして灰にした。
十一
街角を歩いている『旅人』は、目の前で人が死んだことにショックを受けるとともに、後悔の念にかられて憔悴した様子だった。
『旅人』はつぶやく。
「私は正しいことをしたに違いないが、自分自身の内心をだました。」
『旅人』はふとゲームセンターに立ち寄った。そこにはおかしな動きをする若者がいた。目を細目にし、両手の指で枠を作って右から左に動かしている。
『旅人』が若者に尋ねる。
「失礼ですが、何をなさっているのですか。」
「光魔法です。光を意識に転写してその光の残像をあちらからこちらに移しているのです。わからないでしょう? ほっておいてください。」
次に若者はマンガを読みはじめた。見ていると、ときどきページをわざと飛ばしてはまた元のページに戻るという読み方をしている。
『旅人』が若者に尋ねる。
「またまた失礼ですが、それに何か意味があるのですか。」
「時魔法です。ページが離れて会えない者が会えるようテレパシーの交信を助けているのです。狂ってると思いますか? ほっておいてください。」
次に若者はゲームをやり出した。溺れている者を救うゲームだった。そのゲームの指示に若者は大袈裟に反応している。
『旅人』が若者に尋ねる。
「そこまでしなくても。相手はただのコンピュータゲームですよ。」
「神々の世界に時間をささげているのです。神々の世界は今やゲーム上に移されて、プレイの時間だけ再生されることを待ち望んでいるのです。さぁ、ここまでこの世界にとって本質的でない『ダミー行動』をとればデバッグが必要という目印になったはずです。」
「デバッグというとプログラムの間違いで起こるエラーを直す作業だったように記憶していますが。」
「そうです。この世界は神の他にプログラムに支配されています。そのプログラムに特別な介入を許すのです。ただし、誰の介入を許すかは先に光魔法で指定しました。さぁ、デバッグモードに突入しますよ。」
そういってる間に、世界が止まった! 街を歩く人の歩みは止まりシーンと周りが静まりかえり、電子音だけが響いている。
そこに空間を引き裂いて、空中に六人乗りのミニバンが現れた。中から男が声を掛ける。
「呼んだのはお前かい。それともあちらのおっさんか。二人同時とは珍しいな。とにかく、仕事をする気があるんなら、付いて来い。デバッグモードが終る前に早く車に乗りな。」
若者が『旅人』に語りかける。
「あなたがまだ動けるとは驚きです。魔法に参加していたように見えなかったのに。」
「異次元作用系の現象には慣れているのです。事態は飲み込めませんが、あなたはかなり思い詰めてる様子でした。よろしければ、手助けさせてください。私も付いていっていいですか。」
「私には何とも言えませんが、この場面を見てどこかに行かれるよりも付いてきてもらったほうが安心です。」
ミニバンの男が叫んだ。
「話はまとまったかい。早くしてくれ。」
若者と『旅人』はミニバンに乗り込んだ。ミニバンが出発すると、デバッグモードは終ったらしく、世界は前の通りに動き出した。
ミニバンは高速道路らしきところを走っている。
ミニバンの男が声をかけた。
「俺の名はギャレットという。よろしくな。そっちは。」
若者が答える。
「カールです。」
『旅人』が答える。
「『旅人』です。」
「『旅人』とは変わった名前だな。ところで俺達の仕事はどういうものかわかって呼んだんだよな。」
カールが答える。
「時間ドロボウですよね。空間から突然介入し、本物である必要のない物、その役割りを終えた物を複製品に変えていく……という。」
「そうだ。俺達はサタナエル様から仕事を請け負って時間ドロボウをしている。」
『旅人』が口を挟む。
「サタナエル! 堕天使サタンが回心した名というサタナエルとは! ここはそういう世界なのですか。」
「詳しいことは知らんね。ただ、世界コンピュータのせいでどこも『本物』の霊性が不足するようになって、そのリサイクルが必要となった。その仕事を無償で引き受けているのがサタナエル様で、さらにサタナエル様がお金を払って我々を雇ってくださるというわけだ。」
カールが真剣な面持ちでギャレットに言う。
「仕事はきっと真剣にやります。でもお給金の前借りとして、まず、一人の女の子を助けて欲しいのです。彼女を助けるには時間ドロボウに頼るしかない、そう思ったからこそ噂でしか聞いたことのなかった時間ドロボウに近付いたのです。」
『旅人』がカールに尋ねる。
「女の子は仲の良い子なのですか。あと、じゃあ、光魔法や時魔法というのは、あのとき使っただけなんですね。」
カールが答える。
「ドロア、女の子の名前ですが、は僕の幼馴染です。魔法はネットで情報を知って、練習は何度かしましたが、デバッグモードにまで行ったのは今日がはじめてです。」
ギャレットが言う。
「そのドロアちゃんだって? その女の子を助けるのは俺達の仕事じゃない。そういうことに俺達のミニバンは使えない。」
カールが言う。
「ドロアは、革新の処女なんです。」
「なんだって! どうしてそれを早く言わない。お宝が手に入るかもしれないぞ。」
『旅人』が尋ねる。
「『革新の処女』とは何のことでしょう。」
ギャレットが答える。
「この世界には神的パワーを持って生まれたかわいそうな二人の女性がいる。それが『王の嫁』と『革新の処女』だ。王の嫁は、時間の正しい位置を忘れたがゆえに未来や過去を覗き見ることができる。そこで歴代の王は、彼女を嫁として側女として迎えることで絶大な権力を揮っている。革新の処女は、彼女と結婚した者に発明品をもたらす。しかし、発明品を届け終った瞬間に死んでしまうって話だ。」
『旅人』がカールに尋ねる。
「ドロアが革新の処女だということになったのはどういういきさつですか。」
「王家の方が突然やって来てそう告げたのです。ドロアを側室にもらっていく……と。何か重要な革新が次に起こるはずだからというのです。」
「サタナエル様の情報だと、次の革新はサイボーグ義手のようだ。複雑そうな技術だ。これをお前が手に入れたって、産業化なんて無理で、俺達に盗まれるのがオチだぜ。この世界には発明なんてものはなくなって久しい。新しい物はみな『革新の処女』が持ってくるってわけさ。それを技師や魔法師が解析して世界に広めていくんだ。それができない者のところに本物が置かれたら、そっと俺達がそれを複製品に替えて、本物を別のチャンスがある者のところに持っていく。世界はそうやって成り立っている。」
カールが言う。
「いえ、ドロアに革新をさせる前に救い出し、あとは僕がずっと革新なしで面倒を見るつもりです。協力していただけませんか。」
「協力って言ってもなぁ……。結婚の近付いた革新の処女を探せるかと言えば、答えはイエスだ。でも、今はお宝レーダーにも引っ掛からないんだよ。もう誰かのプライバシー領域にあるのだろうな。プライバシーを侵害してまでは基本、探せないんだよ。残念だったな。」
「そんな……。」
『旅人』が二人に割って入る。
「サイボーグ義手というと心当りがあります。この灰はある霊のこもった像を焼いてできた物なのですが、その霊が、そのサイボーグ義手の発明者かもしれません。発明者の権利は強いと聞きます。この灰があれば、発明者の権利によってプライバシーの権利の弱い部分は突破できるのではありませんか。」
ギャレットが言う。
「そんな都合のいい話があるものか。が、まぁ、聞いてやるよ。灰をミニバンの物質判定装置に入れて……。あぁ、サタナエル様ぁ。」
ギャレットが通信をしはじめる。ナビの画面にアニメ調の銀髪の人物が表示される。
銀髪の人物、おそらくサタナエルが答える。
「なんだ。」
「今、物質判定装置に入れているのが、発明者らしいのです。それがあるから、今度の革新の処女の位置を教えて欲しいということなのですが。」
「珍しい申し出だな。だが、検討してみる。……。わかった、どうもそのようだ。今、位置を教える。」
「それで革新による宝を盗むのではなく、死ぬ前に救い出したいとのことなのですが。」
「わかった。そちらの事情は検討の段階で把握した。救い出すことについてもそれを仕事として認めよう。健闘を祈る。」
通信が切れた。
ギャレットが言う。
「驚いたな。位置がわかったよ。これは王宮の一室だ。」
カールが言う。
「じゃあ、救いに行ってくれるのですね。」
「ああ、今、聞いた通りだ。しかし、何で救うのまで認めてくれたのかなぁ……。」
『旅人』が口を出す。
「王宮ということなら『王の嫁』もそこにいるのですね。ならば、いっしょに救い出しましょう。」
「そんな無茶な。」
「その仕事は私がやります。このミニバンで遠くに運ぶのだけ手伝ってください。」
「まぁ、チャンスがありそうならな。」
王宮では仮面舞踏会が開かれていた。そこに若者と『旅人』が紛れこむ。王宮の一室からドロアが連れ出されるのが見えた。
カールがつぶやく。
「しまった。遅かった。」
「どうも祭儀場に向かっているようですよ。追いましょう。」
「なんてことだ。今日、結婚式を挙げるつもりなんだ。結婚式に仮面舞踏会なんて非常識な。側室ですぐに死んじゃう予定だからなのか。」
「死を目前にする者は恐れるものです。少しでも緊張を解きたいのかもしれません。」
「『旅人』さんは彼らの肩を持つんですか。」
「いや、そういうわけではありません。この状況だと、少し大胆に行くしかないようですね。光魔法を使っていてください。時魔法と神々へのささげものは私がなんとかします。」
そういって『旅人』はどこかに行った。
カールがあたりをキョロキョロしていると、式がはじまった。見ると段上に神父として立っているのは、『旅人』である。
カールはとにかく光魔法をはじめた。右の光を目に焼き付けて、左の光まで持っていく。これで鍵は開いたはずだ。
『旅人』が式辞を読み上げる。
「汝、健やかなるときも、ともに励み……あっ、ページを読み飛ばしてしまいました。」
そのとき祭儀場のすべてが止まった。ミニバンが空中から現れる。
ギャレットが叫ぶ。
「このデバッグモードの時間は短い。さぁ、早く!」
『旅人』とカールがドロアをかかえて、ミニバンに乗り込んだ。そうするかしないうちにミニバンが出発。祭儀場は、花嫁が突然消えたことに騒然となった。
ミニバンは高速道路のような道に出た。
カールが言う。
「うまくいきましたね。でも、あんなに早くデバッグモードになるとは、驚きました。神々へのささげものはどうしたんです。」
『旅人』が答える。
「私が神々への式辞を読んだことが、そのスジに大変受けたのでしょう。」
ギャレットが言う。
「そのスジって。あんた一体何者だ。」
「『旅人』です。混乱に乗じてもう一仕事しなければなりません。ちょっと車を止めてください。」
止まったミニバンから出た『旅人』は空間をつかんで足を入れた。
ギャレットが言う。
「あんたすごいな。装置なしで次元間移動ができるのか。ますます何者だ。」
『旅人』は、そこから異次元を走って、『王の嫁』の部屋の空間からニョッキリ侵入した。そこには美しい『王の嫁』がいた。
「驚かせてすみません。しかし、ここから逃げるお手伝いをしようとやってきたのです。」
『王の嫁』は微笑して答えた。
「あなたが来ることはずっと以前からわかっていました。それがいつかはわからないまま、ずっと心待ちにして来ました。でも、警備は厳重ですよ。どうやって逃げるのです。入って来たときのようにどこからともなく逃げられるのですか。」
「あいにく次元移動は一人用なのです。特定の場所どうしをつないだりはできるのですが、ここはそういうことのできる場所ではありません。しかし、外は仮面舞踏会で浮かれていました。仮装の準備を持って来ました。」
そういって、空間からゴソッと鎧を取り出した。
「ある男によると『ジャングル黒べえ』のキャラクター衣装です。露出が多くて申し訳ないが、これで逃げましょう。あっ、着替えに衝立ても出しましょう。」
そういって衝立ても空間から取り出した。
『王の嫁』が着替え終ったところで、彼女の元の衣装と衝立てを空間の向こう側に投げ入れた。
「魔法を使ってくださいと申し上げたら、『うらうらべっかんこー』と言ってあかんべぇをしてください。それでは急ぎます。部屋を出ますよ。」
部屋を出るといきなりお付きの者に出会った。
「まぁ、どうしたのです。その格好!」
『王の嫁』が答える。
「ジャングル黒べえです。少しの間、楽しみたいのです。許可はもらっています。」
「でも、今、賊が入ったらしくて大騒ぎになっています。多くのお客様は余興として楽しんでおられるようですが。」
『旅人』が促す。
「ここで魔法です。」
「うらうらべっかんこー。」
「まぁ、はしたない。少しの間ですよ。」
そう言ってお付きの者は去った。
次に衛士に会った。
「どなたか知りませんが、侵入者がありました。ここから先は行けません。」
『旅人』が答える。
「侵入? これはエヴァンゲリオン三号機、むしろ侵入されているのはこの方なのです。」
『王の嫁』が言う。
「うー、乗っ取られた。乗っ取られた。」
衛士は言った。
「まぁ、冗談はそれぐらいにしてください。くれぐれも気を付けてくださいよ。」
衛士は去った。
中庭の扉の近くには記者達がいて、『旅人』と『王の嫁』をとり囲んだ。
「中で何が起こっているんですか。」
『旅人』は語った。
「この方は偉大なるビッグ・ブラザー、監視者である。お前達を調べに来た。」
記者達は動揺した。
「ビッグ・ブラザーだって、これがあの? ビッグ・ブラザーに栄光あれ!」
そういって記者達は道を空けた。
二人は中庭に出た。
『旅人』は言う。
「私は光魔法とやらが今一つわかりません。しかし、この星明かりを動かしてみたいと思います。一つの光を取って、右から左へ持っていく……。」
すると、キキーッとするどいブレーキ音が鳴って、ミニバンが空間上に現れた。
ギャレットが言う。
「なんだ。今のデバッグモードは、かなり大きなバグが発生した様子だったぞ。これでは本物のデバッグ要員も来てしまう。『旅人』さん、早く乗ってくれ。」
ミニバンは高速道路のような道を通っている。
ギャレットが言う。
「ここまで来れば安全だ。ちょっと止まって『お宝』の確認をしようか。」
パーキングエリアに止まって、五人、皆が車から降りた。
『旅人』が『王の嫁』に促す。
「元の服に着替えましょう。その服は少し刺激が強過ぎるようです。」
『旅人』は空間から彼女の元の衣装と衝立てを取り出して渡した。
その間にカールが皆にお礼を言う。
「どうも皆さん、ありがとうございます。先ほどからドロアと話していましたが、私達は結婚しなくても二人で力を合わせてこれから生きていきます。」
『旅人』が、喜びつつもこれからの運命を思って少し沈んでいる二人に声をかける。
「いや、結婚なさるといい。革新の処女の呪いは今、解いてあげましょう。ドロアさん、こちらへ。」
「はい。」
ドロアを横に立たせところで、『旅人』はドロアの頭の上から、アシェラを焼いた灰を振り掛けはじめた。
ドロアがそれを両手で受け留めていると、灰が光り出し、手の中の灰は、ガラスの靴に変わった。
ドロアが言う。
「まぁ、どういう魔法なのですか。でも、この靴は私の足にはちょっと大きいようです。」
「それを履くべきなのは彼女です。」
そう言って『旅人』は着替え終った『王の嫁』を呼び寄せた。彼女にガラスの靴を履かせるとピッタリだった。
『旅人』は言う。
「このガラスの靴で、時間を守ることができるようになるでしょう。あなた方の正体はシンデレラだったのです。二人で一つの存在だったのを神々が分けたのです。『王の嫁』はシンデレラとして、これから天国に住んでもらいます。『革新の処女』だったドロアさんは、カールと結婚して幸せになってください。」
『旅人』が指を鳴らすと、どこからともなく、かぼちゃの馬車がやって来た。
「さあ、シンデレラはかぼちゃの馬車に乗ってください。」
彼女は馬車に乗って出発した。天国に向かうのだろう。
カールは言う。
「ああ、これで結婚できるのですね。何とお礼を言っていいか。」
ドロアも言う。
「私、最後にこんな風に夢がかなうなんて思ってもみませんでした。」
『旅人』が言う。
「最後ではありません。これから始まるのです。私には複雑な愛欲のもつれは理解できませんが、このような純真な愛ならば、喜んで祝福できます。」
そこにギャレットが割って入った。
「喜んでいるところ申し訳ないんだけどな。時間ドロボウとして働く契約はまだ有効なんだ。これからしっかり働いてもらわないとな。」
『旅人』が言う。
「その心配はいりませんよ。『革新の処女』と『王の嫁』を救い、その呪いを解いたことに関し、先ほど、サタナエルからクレジットの入金がありました。」
ギャレットが驚く。
「なんだって。あっ、本当だ。こいつはすごい額だぞ。」
「あなたの額とは比べられないほどの額が、私には入金されています。サタナエルは報酬を山分けにするタイプではなく、努力に応じた支払いをするタイプのようですね。」
「しかし、契約は契約だ。働いてもらわないと……。」
「私とカールは、このクレジットを使って、自分自身を身請けします。ドロボウ稼業なんてものは、働けば働くほど借りが増えていくものです。ギャレットさんにはもう遅いかもしれませんが、得たクレジットは身請けのために使うのが一番なのですよ。」
ギャレットは悔やしがった。
「畜生!」
カールは『旅人』に礼を言った。
「何から何までありがとうございました。今後は時間ドロボウのことは忘れてまじめに働いて彼女を支えるつもりです。」
『旅人』はその世界を去った。振り返るとたくさんの天使達が何とかしようと、その世界に関与していた。デバッグモードの介入の光は出たり入ったりして、まるで火が燃えているようだった。その世界の姿はまるで、何者か……サタンか、イエスか……が十字架で燃やされているようだった。
そして『旅人』は天国への道を歩いて行った。彼は疲れていた。地獄の豊かさに圧倒されていたからだ。
天国に帰り着いて『旅人』は驚いた。天国は地獄の何倍も豊かだったのだ。彼はそれに気付いていなかっただけだった。彼は旅に出されてはじめてそれに気付いた。彼は旅に出された理由を納得した。
こんにちは。JRFです。
この作品は、私の病的体験をヒントに書かれたものです。唯一神の宗教であるユダヤ教・キリスト教・イスラム教は、天使を認めることがあっても、他の「神々」の存在を認めません。キリスト教の福音が全世界に届いた現在、そして考古学上の神々に対する発見が続く現在、唯一神を中心にしながらも一方で神々へ思いも認めて欲しいという願いを私は持ってきました。その願いを一つの形にしたのが本作です。
死後の世界は、旧約聖書ではほとんど言及がありません。新約聖書でも死後の復活などへの言及はさほど多くはありません。そういうところが宗教の中心ではなかったのでしょう。本作はしかし、死後の世界に焦点を当てて描いています。実際の死後の世界がどうであるかは私は知りません。原理的には、生きている者が書いたどの本にも死後の世界の正しい知識などないはずです。ただ、私はある時、最後の審判がすでにはじまっているという妄想にとりつかれました。つまり、言ってみれば、私達は生きているが半分死んだようなものだ、そういう世界を過ごしているのだ、と妄想したのです。その妄想を物語に落とし込んだため、死後の世界が中心の物語となりました。
キリスト教で死後の世界を描いた先人の仕事としてはダンテの『神曲』を挙げねばならないでしょう。また、死後の世界かどうかははっきりしませんが、最後の審判を描いたものとして新約聖書の『ヨハネの黙示録』が挙げられます。『神曲』の具体的で落ち着いた記述に、『ヨハネの黙示録』の狂った感じをあわせたところを、本作では狙いました。うまくいっていれば良いのですが……。
筆を進めるうちに転生をも扱うことになりました。その点は、今、流行の異世界転生モノに本作がなってしまったという面もあります。時代精神に私が乗っかってしまったということでしょうか。
六節に出てくるキャラクターのレヴィ・アシェラ・鯤は、八房龍之助のマンガのジャック&ジュネ シリーズや『宵闇眩燈草紙』のキャラクターをヒントにしました。また同節の最後に出てくるDVDは、『宇宙ロマン 星に秘められた四六億年の物語』をヒントにしました。四節の砂漠の惑星はいろいろなSFへのオマージュです。他にヒントとした物は、作中にその名前が出ていると思います。
本作が執筆できたことを神に感謝するのはもちろんのこと、私の場合、両親からのいつもの援助に特に感謝しなければなりません。そして、本文を読んでこのあとがきを読んでいる方には、本文を読んで下さったことに強く感謝します。私はブログなどを通じて物を書いてきましたが、ほとんど読まれていないことをアクセス解析などから知っています。読んでくださった、そのことだけで感謝すべきであると身に沁みて感じています。
ありがとうございました。
ニ〇一六年六月 JRF、著す。