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  白菊横丁 作者:黒檀
八、 宿借 甲
《どろぼう猫》のアルバイト、青沼影佐(あおぬまかげさ)との待ち合わせ時間から、とうに三十分は経過していた。待ち合わせ場所を間違えたのではないかと疑ったが、渡されたメモを確認すれば、やはりここで正しいのである。それに、迷いようがない。ここは虎蔵の母校でもある《国立雨谷(あまや)大学》も雨谷地区(キャンパス)の、見慣れた正門だ。
 掃除の業務にしか現れないアルバイターの青沼影佐は、大学の後輩にあたると知れた。しかし、虎蔵は法学部・青沼は理学部であるので顔を会わせるはずもなかった。同じ地区内ではあるが、理系と文系とでは平生使用する区域も校舎も異なっている。
 無駄に広い構内は相も変わらず閑散としている。そのなかを、弁当やコンビニ袋を手にして友人と連れたって歩く学生たちが時折通る。もう昼時であるのだと気付く。ひょっとすると、青沼は約束を忘れて昼飯に出かけているのかもしれなかった。連絡を取ろうにも虎蔵は携帯電話を持っていない。
 用が用なので、青沼には忘れられては困る。それなりの額の現金が入った茶封筒を青沼に渡すよう頼んだのは、鶴屋だ。何の金かは聞かなかったが、恐らくはアルバイト代だろう。じっとりとした封筒の厚みは不穏だった。一学生が大層な儲けようである。それをいうなら、それだけの金を払って何食わぬ顔をしている鶴屋こそが常軌を逸しているのか。
 わざわざ現金を持ち歩かずとも振り込めば済むだろうと反論したのだが、青沼は口座を持っていないというのだから仕様がない。「私の間抜けぶりはあんたも承知しているだろう」と脅しをかければ、眉間に皺を寄せ、以降文句を受け付けなかった。人のことは言えないが、どこかずれている連中ばかりである。
 苛々が募りつつ腕時計を検めていると、くいと服のすそをつかむ者がある。
「あの。仙石虎蔵さんですか」
 声をかけてきたのは、もちろん青沼ではなかった。青沼であれば、鬱陶しいほどの大音量で挨拶を発し、背後から飛び掛ってくるぐらいの勢いを見せる。
 そこに現れたのは、くしゃくしゃと野暮ったい黒髪の、薄汚れた白衣を着た娘であった。上品さの無い装いに対して、顔だけは恐ろしいほど高貴に整っている。まさか女学生が現れるとは思わなかった虎蔵は、目を丸くした。記憶が確かならば、「青沼影佐」は男である。軽薄そうな装いで、足りない口調のいまどきの学生だ。ゆえに、研究室に詰めているようなナリの女が、青沼の友人だとも思えない。
 逆に聞き返すと、黙っている。白衣のポケットに手を差込み煙草を抜き出した。虎蔵にも突き出してきたが、嗜まない虎蔵は首を横に振った。彼女は意外そうに肩をすくめる。そのまま、ことわりも無く吸い始める。ゆっくりと上下する胸は、少年のように凹凸が無い。くたびれたTシャツは明らかに男物で、開いた襟首からは貧相な乳房が覗きそうだ。恥らってしかるべき箇所に全く頓着しない様子には驚かされる。
「――青沼の代理です。それ、私のです」
 煙草を口に含みなおし、骨ばった人差し指で虎蔵の懐をさす。彼女の目は、裡に仕舞った「それ」、茶封筒を見抜いているのか。妙なほどに事情通だ。とはいえ、二つ返事で現金を明け渡すわけにはいかないのだろうな、と鈍い頭で考える。代理が介在するなどとは聞いていない。確認が取れないのであれば、断るのが正しいのだろう。虎蔵は彼女の申し出を断った。
 しかし、彼女は食い下がる。
「確認するったって、その本人が来られないんじゃ確認のしようがない」
 口調が急に馴れ馴れしくなった。今度は、反対側のポケットからくしゃくしゃの紙を取り出した。
「ほら。青沼からの伝言だよ。これで信用してくれる。あんた、青沼の字くらい知ってるんでしょう」
 乱雑に丸まったままのそれを虎蔵のポケットに強引に入れてくる。そのままの手で、スーツの懐から例の茶封筒を引っ張り出してしまう。スリと遜色ない早業だ。
「ちょっと待ってくれ。それは困る。上司から青沼に渡すよう頼まれてる、君じゃなくて。返してくれないか。大事なものなんだ、私の信用に関わる」
 既に背を向けている女学生を小走りで追うのは妙に情けない。スーツ姿の男が女学生を追いかけるという構図は、どうにも不穏な絵に見えるのも確かだ。
「……しつこいな。昼休みはあんたにとっても貴重でしょう。さっさと帰ったら」
 振り向いた彼女の口からはき出された煙草の煙を、まともに浴びてしまった。突然立ち止まられたので、避ける機会を失っていた。思わず咳き込み、目からは涙が出てくる。
「そういうわけにはいかないんだって言ってるだろう。直接青沼に渡しにいくから案内してくれ。君も同じ物理科なんだろう」
 虎蔵がそのように申し出ると、女の口はぽかんと開いた。ポロリとタバコが口から落ちる。それを拾おうともしない態度は、さすがにぞっとしない。当たり前のように、靴底で火を消した。雨谷大学の構内は禁煙だったはずだが。
「あんた、知らないの。青沼はこの地区にはいないよ」
「は?」
 女はちっと短い舌打ちを放つ。
「だから、ここ雨谷町のキャンパスじゃなくて、天丘町のキャンパスにいるの」
 虎蔵にとっても、そういえば、である。雨谷大学のカリキュラムとして、一年次と二年次前半は天丘町の学舎に通う。青沼はまだ二年次であり、雨谷町のキャンパスには滅多に顔を出さないのだろう。
 天丘町はここから車で片道一時間はかかる。往復計二時間もかけている場合ではない。午後の仕事に遅れれば、鶴屋がなんと言うか。すでに時間はおしているというのに。
 虎蔵はにわかに混乱し始めた。すると、彼女は気の毒そうな表情になって虎蔵の肩を叩いた。
「まあ、青沼はこの地区の学生寮に入ってるから、どのみち夜には帰ってくる。私を信用できないってなら、夜尋ねて確かめれば」
 彼女は口頭で青沼の住所を伝えた。虎蔵もその寮は知っていたので、部屋番号を覚えるだけでよかった。
 彼女が去ってから、どうにも奇妙な話だと思いはじめた。この場合、鶴屋と女学生、どちらの立場を尊重すべきであったか。答えは明白。圧倒的に鶴屋のはずなのだが、虎蔵はあまりにもこの上司を疎みすぎている。第一、彼の話と実際に起きたこととの間では、かみ合わない点が多すぎた。女が鶴屋以上に事情に通じていたのも、謎であった。
 往々にして、鶴屋は説明が少ない。行き当たりばったりなのか、面白主義なのか。世間でよくあるように、「推して知るべし」なのか。
 それとも、単なる嫌がらせか。さもありなん。鶴屋を厭な男だとは思っていたが、かくも意味が無く幼稚な嫌がらせをするとは。昼休みを無駄にした憤りもあいまって、空の腹に響いた。

 怒りが鎮まらぬままに、虎蔵は白菊横町へ戻ってきた。
 白菊通りの坂の途中で、見慣れた人影が降りてくる。事務員の武智鉄子だ。彼女が昼時に外に出てくるのは珍しい。自分がなかなか戻らないために、代わりに使いに出されるのだろうか。虎蔵は彼女に駆け寄った。
「武智さん。どうしたんですか」
 無視されるかとも思ったが、彼女は足を止めて顔を向けた。
「午後は無い。店長が入用で外出だ。トラも帰るといい」
 それだけを機械的に告げると、すたすたと坂を下りていく。彼女も彼女で、余計な情報を与えない人種だ。
 それにしても、あんまりである。半ドンであるならば、元から連絡しておけばいいものを。そうであったなら、あの妙な女に任せずに自分が青沼に届けられた。いや、これも嫌がらせの一環なのか。
 あの女といえば、女から青沼のメモを預かっていたはずだ。スーツのポケットに確かに入っていた。
 それを確認すると、鶴屋の嫌がらせ疑惑は一瞬で消えた。あの金は確かに青沼に届けるべきものであったようだ。疑うべきは女のほうだった。自分のうかつさと間抜けさを呪うしかない。
 その紙片は、青沼の走り書きなどではなかった。
「……騙された」
 学生食堂の伝票だった。





 どうやらとんでもない失態をやらかしたらしい。どうにかして鶴屋と連絡を取らねばならないが、鶴屋も鶴屋で連絡手段を持っているはずがない。その前に、連絡先を聞いていない。
《どろぼう猫》に戻ってみたが、当然店舗には鍵がかかっていた。離れも確認したが、誰もいなかった。
 途方に暮れて、縁側に腰を下ろした。あるいは寮で青沼を待つのもいいだろう。億に一つだが、何事もなく金を受け取っている可能性もある。
「愚かな犬のように待っていても、鶴兄(つるにい)は今日は戻りませんよ」
 顔を上げれば、前触れなく屋守が虎蔵の前に立っていた。何度見ても彼女の不気味さには慣れない。久々の初夏らしい暑さにも、汗一つかかない白い肌。蛇のような薄い笑みを貼り付けた口元。赤の死装束。突然現れて突然消える。この手の存在は無視に限るが、幼子の姿のものを乱雑に扱うのも気が引ける。
「そう言うお前も締め出されてるんじゃないか。お前は銀次郎と一緒に庭で寝るのか」
 気が引けるのだが、半ば八つ当たりのような言い方になった。ところが、彼女は心底可笑しそうにくすくすと笑うだけだ。
「銀次郎様は、白菊神社におはします」
 では、お前は。
「敷地すべてがわっちの寝床ですよ」
「いくら夏に近いといって、外で寝れば体を壊す。鶴屋が戻らないなら、今晩は仙石の屋敷に来るといい」
「ご冗談を。まだ犬の餌にはなりたかないです」
 笑みが大きくなった。口が裂けそうだ。
「馬鹿を言うな。誰がお前みたいな薄気味悪い童に手を出すというんだ」
「旦那様こそ、何をおっしゃいますやら。今の『犬』ってえのは旦那様のことを指したのじゃあ、ありません」
「比喩じゃないのか。でも、屋敷に犬はいない」
「いるじゃあ、ありませんか」
 屋守は断定的な口調で言い切った。
「仙石家は、昔っからあの犬を飼ってるじゃあ、ありませんか。銀次郎様でさえ恐れる犬を。怖いから、銀次郎様はあの犬を白菊横丁に入れないのですよ。怖いから、銀次郎様は仙石の当主を飼うのですよ」
 童はわけのわからないことをいう。それが彼女の専売特許なのだろう。虎蔵は彼女の言葉を半分以上聞き流している。
 とはいえ、犬など仙石家にいただろうか。生まれてこの方、動物を飼った覚えなどない。屋守は何かと混同して話してるのではなかろうか。
「……しかし、どちらでも構わないのです、犬がいようがいまいが。わっちは横丁からは出られませんからねェ」
 童は、帯の解れに鋭い爪を引っ掛けて遊んでいる。そのせいで、魚のわたのように無様に糸が飛び出ている。かつては潤むような墨色であったと思えるその色彩も、今やドブネズミに近い。童が気の毒に思えてくる。汚らしい装いのままで、卑屈に支配された姿が。
 同情が顔に表れていたのか。屋守は、虎蔵の顔を見て皮肉の笑みを再び浮かべた。
「旦那様は優しさが過ぎますねぇ……。頭に立つものは、『慕われるよりも恐れられていたほうがはるかに安全である』と言いますでしょう」
 一旦言葉を切り、意味が判りますか。ともったいぶる。
「あなたのような方のほうが、危害を加えやすいんです。ヒトも気配も、邪な存在であるのに変わりはありませんからねェ、」
 虎蔵は深くため息をつく。君主の理論など、赤衣の童は説教をたれる相手を間違えている。少なくとも、ここ《どろぼう猫》では見習い以外の何者でもない。それの何が悪いのだろうか、最近はそう考える。そう思うにつけ、苦い表情になる。確かに仙石の家の君主ではあるのだろうが、その外ではこのざまだ。これでどうして誇り高くいられよう。
 ところで、いつまでもこの童と無駄話をしている場合でない。あの女を捕まえて金を回収しなければならない。伝票でごまかしたくらいだ、諮りがすぐに見破られることくらい見越しているだろう。とするならば、一刻も早く追わねばならない。手を拱いている間に女が金を消費してしまうかもしれない。
「お前の話も面白いんだがな、火急の用事がある。青沼の金をうっかり失くしてしまったんだ」
 縁側から腰を上げ、屋守の脇をすり抜ける。彼女は着物を口元に当て、厭に嬉しそうな声で「オヤァ」と白々しく感嘆する。
「それはそれは、一大事。『人間というものは、殺された父親のことは忘れても、奪われた財産のほうはいつまでも忘れない』、ですよ」
 踏み出した足を引っ込めた。
 棒立ちになる虎蔵に、童は容赦なく追い討ちをかける。例の癇に障る笑い声が無防備な背中に刺さる。喉に詰まる小骨にも似た、不快感。
「どうです。頭にきましたか。……ほら、ほらァ。言わんこっちゃない。優しいお心は、下僕(わっち)にふさわしからぬ態度を許すのですよ。おわかりになりませんか。慈悲とは怠惰ですよ、旦那様」
 虎蔵は駆け出していた。これ以上、屋守と言葉を交わしていたくなどなかった。

 白菊神社を囲む森は、参道を駆け下りる彼の背後で大きくざわめいた。



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