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短いです。タイトルからホラーっぽい感じを受けるかもしれませんが単なるエッセイです。軽いです。
恐怖絵画
作:佐藤河岸



「もう二度その顔を見たくない」

と思うような絵画は、私にはない。
小説や漫画、映画なんかは「もう二度と見ない」と決めた作品はあるが、絵画については、そう思ったものは一度もなかった。
専門家や絵画をこよなく愛する人に比べればまだまだだろうが、この歳にしては私は大分多くの絵を見てきた方だと思う。「別にまた見るほどのものではない」というものはあった。どうにも印象に残らない、自分の趣味には合わない絵だ。それだって「見たくない」ほどではないし、今見たらまた変った感想があるかもしれない。

逆に「また見てみたい」と思う作品はたくさんある。
その絵の中の情景がはっきりと想像でき、その空気や匂いも感じられるもの。色づかいやそこに描かれた人物の表情がたまらなく魅力的なものもある。かつてその作者が同じキャンバスの前に座っていたのかと思うと、いてもたってもいられなくなるような、不思議な高揚感を味あわせてくれる。
その中で、今もう一度見たいと思うのは、幼いころ見た抽象絵画である。
別に美術館や絵画展などで出会ったわけでなく、地方の公民館で何度か見かけただけのものだ。
両親が演劇サークルのようなものに入っており、その練習にいつも同じ公民館が使われていた。まだ留守番させるような歳ではなかったため、私と兄はだいたいそこに連れて行かれ、練習の間はロビーで遊んだり本を読んだりして過ごしていわけだが、そこに掛けられていた絵が私は恐ろしくてたまらなかった。
それは、色合いの暗い地味な抽象画だった。
かなり幼かったためはっきりとは覚えていないのだが、首と四肢がないマネキンのような女の身体が描いてあり、それが真ん中から縦に白と赤で色分けしてある。
ただのっぺりと分けてあるわけでなく、その絵の具がどろりと下の方まで垂れているような表現で、その様子が何ともいえずおどろおどろしく、背景も黒っぽい緑の暗澹としたもので、不快な印象を受けた。公民館の入口に飾ってあり、来るたびに目に入る。遊んでいる間も見ないようにしようと考えていたが、そう思えば思うほどついちらちらと目をやってしまう。

恐ろしい、不快だと思うのになぜ私はその絵に魅せられてしまったのだろうか。
それは明るいさわやかな口当たりのものではなく、気味の悪くいやらしい、人間の狂気を感じさせるようなものだった。それなのにまた見たいと思わせる何かがあり、そこに私は知らず知らずのうちに惹きつけられていたような気がする。
他人にとってその絵は特に怖くもなんともない、ただの油絵でしかないかもしれない。
恐怖を感じる対象は人によって違う。人間の内臓が写実的に描かれているものが気味が悪いと思う人もいるし、ウジ虫がご婦人の口から湧き出て蠢いているものを不快と思う人もいるだろう。ゴーストがいる絵が気持ち悪いわ、なんて人もいるかもしれないし、暗い荒野に立ちすくむ男の見開かれた瞳に、底知れぬ恐怖を感じる場合もあるかもしれない。
それはやはりその人が苦手とするものが描かれているから恐ろしいと思う、というのもあるが、それが不快だと思うのは、心の奥底にある醜い「何か」を見せつけている感じがするからなのではないか。
「気持ち悪い、嫌な絵ね」
と眉をひそめ、自分はいかにもそんな絵を好まない、常識人であるとアピールしてはいても、実際はどうしようもなくそれに惹かれているからこそ、そんな強い感情を表してしまう。自分でも気がつかなかったような嗜好が、それによって抉り取られる。上品な格好をして、可愛らしい声で笑い、アウトサイダーには侮蔑を忘れない、そんな「普通」のふりをしているあんたらにも、こんな下品で醜い感情があるんだぜとその絵は囁いて来る。

では私はあの女の絵に恐怖を感じる理由は何か。
広いロビーに兄と二人きりで、演劇に夢中になった両親が私たちを置き去りにするかもしれない、という寂しさがそれと結びつき、恐ろしさを倍増させたのかもしれない。それとも、両親のささやかな楽しみさえ許せない、いつでも自分に意識を向けていて欲しいという独占欲、その自分本位な醜さをその絵の底知れない印象と心の中でダブらせていたのかもしれない。

人を明るく楽しい気分にさせる絵が優雅な歌声であるなら、人に恐怖を感じさせる絵は長い絶叫であると私は思う。
その気違いじみた叫びの中、いったいどれほどの感情を汲み取ることができるのか。それが切実なものであればあるほど、人の心に残りうるものになる。たとえそれが一見無機質で、感情がないように見えたとしても、低いうなり声をあげゆっくり迫ってきて、思いもよらない場面でそれが蘇り、人をやるせないうすら寒い気持ちにさせる。

私が「怖い」と思ったあの絵は、別に有名な作家が描いたわけでなく、田舎の公民館に飾られたいして多くの人の目に触れられるような作品ではなかった。
だからと言ってそれが駄作であると決めつけることはできないが、ほとんどの人にとって印象の薄いものであったことは確かである。しかし私は、あの絵にまた会いたいと思うし、影響を受けている。これからもきっとあの絵は人気のないリビングと、そこで行った数々の遊びと感情とともに私の頭の中に残り続ける。
あの作品のこめられた感情は何だったのか。今も静かに何かをささやき続け、私のような子供に恐怖を与えているのか、それとももうどこにも存在していないのかもしれない。

私もあの絵のように誰かの心に残る何かを作り出すことができるだろうか。
狂気の絶叫が人の心の中に一生巣食うことができるものであるとしたら、そんなものを創造するような繊細さ、才能は私にはない。このまま誰の目にも触れず、私の中にあるものが消えてなくなってしまうのかと思うと、ただただ恐ろしく、胸がやけるような気持ちになる。明日死んでしまうかもしれない。終わりはいつやってくるかわからないのに、何も形にしていない。長い生活の怠惰の中、情熱はうやむやにされ「そんなことも考えてたっけ。結局チャンスがなかったんだよ」と言い訳をして、何もかもなかったことになってしまうのか。これこそが私を創作に向かわせる唯一の弱よわしい叫びである。人によっては些細なことで、鼻で笑われてしまうようなものかもしれない。誰からも見向きされず、才能のかけらも感じられないつまらないものだとしても、私は叫ばずにいられないのだ。脳の中で文字は蠢き、常に私に呼びかける。「早くそれをやれ!」口から手から虫が湧いて蛾にならず干からびて死んでいく。それをみているだけで、何もできない。なにもしないのだ。


私が今、一番恐ろしいと感じるのは、不気味な女の絵でも、グロテスクな人間の絵でもなく、普通の家庭に育ち、普通の家庭を作り、普通に死んでゆく人間の描かれた絵なのかもしれない。






















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