六章 過去の記憶の呼び戻し方
「この国の夜は眠らない、と聞いていたが、本当だな。」
アルは、隣を歩くシュテルへ言った。
「はい。とても眩しいです。」
異国の言葉で書かれた、色とりどりのネオン。行き交う車のテールランプがいくつもの尾を引き、どこへ向かっているのか分からない人々が、思い思いの方向へ歩いている。
アルとシュテル、リリヤの後ろから、とぼとぼとキリもついて来ていた。アルは、キリを港に残して来ることも考えたが、なぜか、一人にしようとするとそれを嫌がった。自らの意志を示そうとするあたり、いくらか、ショックから立ち直ったようにも見えたが、それでも、元のキリとはほど遠い落ち込みぶりだ。今も、懐に隠し持ったリボルバーを握っているのか、シャツの裾から手を突っ込んだまま歩いている。
道端で、今にも吐きそうな男に眉をひそめながら、リリヤが言った。
「この程度で驚かないでよ。そこまで田舎者じゃないでしょ、アル。だいたい、夜に眠らない私達の言うセリフじゃないわよ、それ。」
「ふん。僕はお前と違って、夜は寝るんだ。」
「ああ、そうだったわね。」
面白くもない、という風に言って、リリヤは前を見た。大通りを進んだ正面、奥の方に、巨大なビルがある。それは奇妙な形で、全面ガラス張りの内部に、構造材たる鉄骨がむき出しで見えている。人間の骨格がそのまま透けて見えるような姿を想起させた。
「あれよ。」
リリヤが指差して言った。
「こんな街中に建っているのですね。」
シュテルが言うのを聞いて、アルは、
「僕らと違って、隠れ潜む必要もないからな、奴らは。しかし、あのガラス張りの建物じゃ、日差しが差し込んで落ち着かないだろう。何を考えているんだ。」
と、感想をもらした。
光を嫌う吸血鬼は、たいてい地下に本拠を構えたがる。それが、堂々天にそびえ、しかもガラス張りとは。吸血鬼目線で見れば、冗談に近い。
「外からはそう見えるけど、中には光が差し込まないように偏光ガラスと反射板が入ってるのよ。一歩入れば真っ暗よ、あそこは。」
「手の込んだことをする。」
しかし。アルは周囲を見回した。ハンマーヘッドの本拠が近いのである。入港してからここまで、かなり警戒しながらやって来たのだが、拍子抜けするほど、妨害も追跡もない。まるで、アル達を招き入れようとするかのような対応に、かえって不気味さを感じた。
リリヤも同じことを考えているようで、
「何考えてるのかしらね、あの人達。散々、アルを抹殺せよ、なんて命令出しておきながら、いざここまで来たら、何の反応もなくなるなんて。私達がここに来てること、気づいてないのかしら。」
と、首をかしげる。
「それは考えにくいが・・・。」
アルは言い淀んだが、その可能性は否定できなかった。気づかれてないのだとすれば、都合がいい。このまま、あの骨ビルへ乗り込むだけだ。
「けど、油断はできない。なにせ、三十血だからな。」
そうアルが言うのへ、リリヤは首を傾げた。
「ん? ミソジ? 何それ? 誰が?」
「知らないのかリリヤ? 自分ところのボスのことだろう。」
「スパニダエ様が? 知らない。というか、三十路って若すぎよ。そんなわけないじゃない。」
吸血鬼にとって齢、三十とは若造もいいところ、まだ子供のようなものだ。
アルはリリヤに言った。
「そっちの三十路じゃない。三十血。純血の吸血鬼三十人が、スパニダエと対立したときの話だ。スパニダエ一人で、三十人を血祭りにあげたという伝説だよ。」
「さ、三十人を・・・!」
純血の吸血鬼が三十人もそろえば、小さな国の軍隊にも匹敵する破壊力をもつ。さながら、純血の暴威、というところだが、それを一人で倒してしまうなんて、半端な力じゃない。
「へ、へぇ。スパニダエ様って、そんなに凄かったのね・・・。」
アルは、ふん、と鼻で同意しながら、
「その凄いスパニダエ様のところへ、これから乗り込もうというんだ。やめるのなら今の内だぞ、リリヤ。」
と、リリヤへ言う。リリヤは、見るからに虚勢を張って言った。
「な、何よ。その程度の話で、私が怖じ気づくとでも思ったの? 行くわよ。行くわ。こんなところで引き返せないわ。」
「その割に、膝が震えてるぞ。」
「震えてない! こ、これは、その、おトイレよ!」
「どうだかな。」
「本当だってば。あ、あー、オシッコモレチャウワー。」
それを聞いていたシュテルは、
「なぜ片言なのです、ミス・リリヤ。」
と冷静に突っ込むものだから、
「我慢してるから! ちょっと待ってなさいよ、あんた達!」
そう言って、リリヤは手近なデパートに駆け込んで行った。
リリヤの後ろ姿を見ながら、シュテルが言った。
「緊急だったのでしょうか。」
「いや、怖いだけさ。それが当然だ。」
そう言いながら、アルは恐怖という感情が、自分の中では薄いということを感じていた。なぜかは分からなかったが、死に対する諦観、潔さというものが、アルの中核にはあった。なるようにしかならない。アルは、こうした、死への諦めがいつ頃から始まったものなのか、思い出そうとして、やめた。思い出した結果、悲しい気分になるのが目に見えていたからだ。垣間見えた少女の幻影を振り払うように、アルは星のない夜空を仰ぎ見た。
目的のビルへ近づくにつれ、あるいは、時間が遅くなったからか分からないが、急に人気が少なくなった。午前一時を回っていた。
ビルの入り口を遠目に見る場所まで来て、アル達はタバコ屋の陰から様子を伺う。
「誰も・・、いないみたいね。」
リリヤがつぶやくように言った。アルもうなずく。ビルの入り口前は広場になっていたが、植え込みの陰にも、正面ロビーにも人の気配はなかった。
リリヤが再び言った。
「どうするの、アル。見張りはいないみたいだけど、このまま正面から行くつもり?」
「・・・・。」
正面から、というのはあまり取りたくない案だった。スパニダエに会うという目的の前に、やはり邪魔には入られたくない。地下から侵入できないものだろうか・・・。アルがそう思案していたとき、いきなり背後から声がした。
「わざわざこんなところまで来るなんて、なかなかいい度胸ですね、みなさん。」
はっ、と振り返れば、端正な顔立ち、人を小馬鹿にしたような笑み、見覚えのあるその容姿は、
「デュースタ!」
リリヤが、かびて毛の生えてしまったパンでも見るかのように顔をしかめて、その名を呼んだ。
「長旅、お疲れさまです、と言いたい所ですが、どういうことです? 我々から逃げるならまだしも、本拠地に迫るとは。つかまって酷い目にあいたいとでも? その気持ち、分からないでもないですがね。」
酷い目にあっている自分を想像したのだろう、デュースタの顔がほころぶ。
おかしな表情を浮かべるデュースタに対し、怪訝な顔でアルが言った。
「分からないでもない? どういう意味だ? いや、意味なんてどうでもいい。シュテル、リリヤ。」
捉えるぞ。二人にそう言って、アルが身構える。シュテルとリリヤもうなずいた。
にぃぃ、とデュースタの嗤いが深まる。
「そうきますか。私を捉えて、どうするつもりです?」
アルは、
「人質にする。」
と言うのだが、デュースタはますます面白そうにして言った。
「人質、ですか。ああ、人質ね。ええ、ええ。まぁ、そういう選択肢も、ありますかねぇ。」
いらついたアルが、デュースタに言った。
「そうだ。文句があるのか。」
「文句はありません。ただ、人質に取る意味がありますかね。どうせ、私のような下っ端がつかまったところで、上の方々は私にお構いなしで襲ってくるでしょうからね。盾ぐらいにはなるかも知れませんが、それ以上の効果は期待できないでしょう。」
「む・・・。」
アルから視線を向けられたリリヤも言った。
「・・う、確かに。だいたい、デュースタ。あんたこそ、堂々と姿を現すなんて、どういうつもりよ。一人なんでしょ。」
周囲にデュースタ以外の気配はない。
「ええ。一人です。あなた方とまともにやれば、明らかに不利でしょう。」
そこまで言って、デュースタは携帯をスーツの内ポケットから取り出しながら言った。
「おっと、失礼。・・・私です。ええ、おりました。はい。承知いたしました。」
短い会話を終え、携帯をしまう。
「皆さんをご案内します。どうぞ、こちらへ。」
呆気に取られるリリヤが、デュースタに言った。
「ど、どういうことよ。今の、誰?」
「スパニダエ様ですが、何か?」
「え、ちょ、何で直電とかかかってくるわけ?」
信じられなかった。ハンマーヘッドの幹部でさえ、スパニダエとの直接の会話はそうそうできないと聞いている。まして、自分の眷族程度にすぎないデュースタが、なぜスパニダエと直接。驚いたのもあったし、リリヤは嫉妬すらしていた。
デュースタは、涼し気な顔で、
「なぜと申されましても。スパニダエ様の直名で動いておりますから。おや、嫉妬ですか、リリヤ様。組織を裏切られたあなたなのですから、嫉妬するのはお門違いでありましょう。」
と言ってのける。
「ぐ・・・!」
悔し気に唇を噛むリリヤだが、何も言い返せない。
「ではこちらへ。」
慇懃な態度で誘うデュースタに、アルとシュテルは顔を見合わせた。それから、歩き出したアルに向かって、リリヤは言った。
「ちょっと、アル、ついて行くつもり?」
「ああ。」
「また、罠かも知れないわよ。」
紫外線に焼かれた痛みをリリヤは思い出しながら言った。
「罠かも知れないが、しかし、奴が僕達の前に単身で姿を現したのも事実だ。本拠にこれだけ近ければ、数にものをいわせて襲うこともできただろうが、それもしない。わけがあるんだろう。」
「それはそうかも知れないけど・・・。」
躊躇するリリヤへ、シュテルが言った。
「虎穴に入らずんば、虎児を得ず、と言います。ミス・リリヤ、ここは進むべきかと。」
「う・・・ん。」
迷いのないシュテルの目に見据えられ、リリヤはうなずかざるをえなかった。
ビルの中は、リリヤの言う通り、深い闇だった。入り口の自動扉が閉まった途端、屋外の一切の光が遮断され、黒一色で塗りつぶしたような暗さだ。
吸血鬼であるリリヤやアル、目に増光機能を持つシュテルは普通に歩くのだが、キリが一人、おたおたと片手を前に突き出して進みあぐねていた。その様子を見たシュテルが、キリの手を取りながら言った。
「こちらです、キリさん。」
「・・・・。」
シュテルに手を引かれ安心したのか、キリはすぐに落ち着きを取り戻した。生真面目にまっすぐ歩くシュテルと、とぼとぼと手をつないで歩くキリの二人を見て、リリヤは、
「なんか、姉妹みたいね、あの二人。」
と先を行くアルに言った。
「姉妹・・・。似た者同士ではあるだろうな。」
人間ではない、というところが、だ。まるで姉と妹、いや、シュテルがしっかり者の妹で、キリが姉とすれば、しっくりくるのか。
デュースタがエレベーターのボタンを押すと、扉はすぐに開いた。
「それでは、リリヤ様、アルドゥンケルハイト様、そしてお二方。こちら、最上階への直行エレベターとなっておりますゆえ、こちらにお乗りください。」
デュースタはそう言って、扉の脇に控えている。
「あんたは来ないの?」
リリヤが問うのに対し、デュースタは慇懃に礼をしながら答えた。
「ええ、私はここまででございます。」
「あ、そ。」
四人がエレベーターに乗って、扉が閉まりかけるところで、デュースタが付け加えるように言った。
「リリヤ様、それではまたいずれ。私を、きつく縛り上げてくださることを期待しておりますよ。」
そこまで言い終えて、ぴた、とエレベーターの扉がしまった。
アルが、
「縛る・・・。お前達、そういう関係だったんだ・・。」
と言うのに対し、リリヤは暗闇の中でもはっきりと分かるほど赤くなって、
「ちが・・・! あの野郎。違うのよ、別にそんな・・・。あいつがただ、勝手に変態なだけよ。」
リリヤは言ってしまって、はっ、となった。眷族に変態がいることは隠しておきたかったのに。アルは苦笑いをしながら言った。
「勝手に変態、な。そんな者を眷族にしているお前の趣味も、相当だぞ。」
「うぅ。いや、違うの、そうじゃなくて。」
「違う? あいつだけじゃなく、お前も同類と言うのか、リリヤ。」
「違うったら。最初は分かんなかったのよ。ただのイケメンだと思ってたし、血を吸われたがってるみたいだったから・・・。そしたら、あれだもん。私のせいじゃないわ。」
「おまけに、かなり優秀みたいだしな。」
「う・・・。」
リリヤは痛い所を突かれた。スパニダエと直接のパイプを持っているあたり、デュースタは組織内におけるリリヤの序列を、既に大きく越えていると言っていい。
赤面するやら悔しいやらで、リリヤが涙までこぼしそうになったところへ、シュテルが言った。
「マスター。このエレベーター、随分上に上がるのですね。」
「あん?」
唐突にそんなことを言われたものだから、もう少しリリヤをからかってやろうとしていたアルだが、調子を外された。わざと、か? 泣きそうなリリヤを見かねて、シュテルがわざと話題を変えたようにも思えた。
やはり、シュテルは変わった、とアルは思う。以前のシュテルなら、こんな風に話に割り込んでくることはなかった。
「・・・ああ、そうだな。」
言われて見れば確かに、さっきからエレベーターは上昇し続けたまま、いっこうに目的の階まで着かない。そもそも、このエレベーターには現在の階数を示す表示も、行き先階を選択するボタンさえもなかった。完全な箱、扉の閉まった密室状態である。かすかにうなるモーター音が頭上から聞こえてくるが、本当に昇っているのか、疑わしくなる。何の表示もないエレベーターは、時間の感覚や、方向感覚を麻痺させた。この箱ごと、どこか砂漠の真ん中へ放置されたとしても、扉が開くまではそれに気づかないことだろう。
「・・・・・・。」
リリヤもアルも、沈黙した。
「・・・・・・。」
それにしても、長い。ビルの高さは、外から見る限り、五十階近くもあっただろうか。高さはかなりあったのだが、それにしても、エレベーターに乗ってから、もう十分近く経っている。いくらなんでも、長過ぎだった。エレベーターがよほど遅いのか、あるいは、時間の感覚を失っているのか、さすがにアルも、リリヤへ言った。
「リリヤ。前にも来たことがあるんだろう。こんなに時間がかかるのか?」
「前に私が来た時に乗ったのは、別のエレベーターだったから・・・。これは初めてよ。」
リリヤもそう言いながら、少し不安な表情を見せた。
このまま、エレベーターの中に閉じ込められる、という罠にかかったのかとアルやリリヤが思い始めた時、ようやくエレベーターが止まった。ゆっくりと扉が開いた途端、むっ、とする湿気と、濃密な植物の匂いが流れ込んで来た。
「なんだ、これは?」
エレベーターを一歩でたアルが、思わず声を上げた。
鬱蒼としげる熱帯性の木々が、所々に置かれたかがり火に照らされて葉の影を落としている。しん、と静まり返ってはいるものの、一呼吸ごとに感じる葉と土の甘い匂いが、直物の圧倒的な存在感を示してた。
一言で言って、
「ジャングルね、これは・・・。」
リリヤがつぶやいた。十メートル以上ある天井と、植物で隠れてしまった壁、所狭しと熱帯性の植物が生い茂るその様は、さながら熱帯植物館だ。
シュテルが、興味深さそうに周囲を見回しながら言った。
「これは・・・、建物の中でしょうか。床も土のようですが。」
「ビルの中なのは間違いないだろう。フロア四階分相当の床を抜いて、この空間を造り出したみたいだ。おまけに、土まで敷いている。スパニダエの趣味か。」
リリヤは、
「こんなところがあるなんて、知らなかったわ・・・。噂にすら聞いたことなかったのに・・。」
と言って、驚いている。キリも、きょときょとと辺りを見回して、落ち着きがない。
植物の間を縫うようにして、狭い小道が奥へと続いていた。
「行くぞ、シュテル。」
「はい、マスター。」
アルとシュテルが歩き出すのについて、リリヤとキリも後に従った。
雰囲気はジャングルそのものなのだが、動物の気配が一切ない。鳥や獣の声が響いてもおかしくない場所だけに、かがり火の炎が揺らぐのみの沈黙が、かえって不気味だった。
しばらく進むと、鋲が穿たれた鉄の扉の前に出た。
「ここに入れってことかしら・・。」
そう言うリリヤに向かって、アルが言った。
「だろうな。シュテル。」
「はい、マスター。」
シュテルは言われて、扉についた環状の取っ手をつかみ、引っ張った。が、扉はびくともしない。シュテルはさらに力を込める。ずぶ、とシュテルの足が、土の床にめり込んだ。相当な力を加えているようだが、扉はまったく開く気配がなかった。
「か、固いです、マスター。」
「待て、シュテル。壁ごと崩れかねない。押してみたらどうだ。」
「はい。」
扉を押すシュテルだが、まったく動かない。そこへ、意外なところから声がかかった。
「横へ・・・。」
え、という顔でアル、シュテル、リリヤが振り返った。今のは確かに、キリの声だった。なんだかずいぶん久しぶりにキリの声を聞いた、と皆思った。
アルがキリに言った。
「ここに来たことがあるのか、キリ。」
こくん、とキリがうなずいた。
アルは、
「そうか。」
とだけ言った。なぜか、キリの声を久々に聞いてアルは少し嬉しかった。ハンマーヘッドの人造人間が自己存在の意味や意義について悩もうと、それはアルにとって関係のないことで、どうでもいいことですらあった。けれど、一切口をきかなくなったキリを見ていると、胸がちくちく痛むのである。くだらない感傷として、頭の中から追い払おうとしたのだが、さりとて、うまくいかない。アルは自分の感情が手に余るような気がして、落ち着かなかったところへのキリの一言だった。
アルは傍目にも上機嫌で、シュテルと、それからリリヤ、キリに言った。
「よし。キリ、手伝ってくれ。リリヤもだ。扉を動かせ。」
リリヤが口を尖らせて言った。
「ちょっと、女子ばっかりにやらせて、自分は何もしないつもり、アル?」
「力じゃお前達に敵わないんだ。できる者ができることをする。それが僕の方針だ。気に入らないならどこへとでも行くんだな。」
ハンマーヘッドを裏切った身で、リリヤに行くあてなどない。
「分かったわよ。まったく。」
ぶつぶつ言いながら、リリヤはシュテルとキリに加わって、扉を横にスライドさせる。
ごこ、という重い響きが聞こえたかと思うと、扉は横に移動して奥へと続く廊下が姿を現した。通路の真ん中には真紅の絨毯が敷かれ、等間隔で壁にかかる蝋燭が、ほの暗く廊下を照らしている。
廊下を進むにつれ、背後にあった熱帯の湿気は急速に薄れ、四人の足音だけが、渇いた音となってこだました。徐々に空気が重くなるような感覚を、リリヤは覚えた。冷たい水の中へ頭からつかり、水面の光が見えているにも関わらず、水底の方へと引きずられるような、名状しがたい焦燥と不安が、廊下を支配していた。
突き当たりに来ると、木製の扉が行く手を阻んでいた。全面黒檀の扉には、蔦や花、葉っぱをモチーフとした彫刻が一面に刻まれ、重々しい瘴気が内からにじみ出ている。
「ここね。」
リリヤが、生唾を飲み込んでそう言うのを聞きながら、アルは扉を押し開けた。
きしんだ音が室内に響き渡った。内部は薄暗く、天井から吊られたシャンデリア状の鉄枠に、幾本もの蝋燭が灯る以外に、光源はない。ゆらめく明かりに照らされた、長方形の大きなテーブルの向こう側に、背もたれをこちらに向けた椅子がある。
その向こうから、手を叩く音が聞こえてきた。ぱん、ぱん、ぱん、といかにも気だるげで、人を馬鹿にしたようにも聞こえるし、重たい腕をわざわざあげて、懸命に手を叩いているようにも聞こえる。
アル達四人は顔を見合わせて、椅子に近づいた。椅子の裏から声がする。
「よぅく来た。ここまでの道のり、長かったろう。」
アルが、一拍置いて答える。
「お前がスパニダエか。」
「そう。その通りだ。私がスパニダエだ、アルドゥンケルハイト。まさか、お前の方からこっちへ来るとは思っていなかったぞ。鼠のように逃げ惑うばかりと思っていたが、そうでもなかったな。まぁ、勇気ある鼠、というところか。」
アルがむっとして言い返そうとするのだが、それより先にシュテルが声をあげていた。
「マスターは鼠ではありません。訂正しなさい。」
「くくっ。主を侮辱されて怒るあたり、よくできている。鼠と言ったことは謝ろう。リリヤ。お前は結局裏切ったな。」
急に言われたリリヤは、身を固くして息を呑んだ。スパニダエは、そんなリリヤに構わず言葉を続ける。
「ドジではあったが、一途なところを見込んでもいたのだが、その一途さゆえに、アルドゥンケルハイトに従ったと。若いな。」
「も、申し訳ございません、スパニダエ様。しかし、私にはこれ以外の選択が・・・。」
「やめよ。言い訳など聞いても無意味だ。それがお前の選択というのならば、その選択の責任を最後まで負うんだな。もちろん、落とし前はつけてもらうが。キリヤナクもだ。従順に育てよときつく言っておいたのに、やはり裏切るか。」
「う・・・。」
と、うめくように返事をしたキリは、うつむいて床を見つめた。スパニダエはため息をつきながら言った。
「揃いも揃って、情けない。これが俺の人望の限界と言われればそうかも知れないが、もう少し骨のある奴らと思っていただけに、残念だよ。人望、いや、エンボウと言うべきか。」
エンボウ・・・?
アルが何のことかと、その言葉を頭の中で一度繰り返す内、椅子が、ゆっくりとこちらを向いた。
その姿にアルは、いや、シュテルも、リリヤも、キリまでも、驚きの表情を露にした。
猿だった。
種としてはチンパンジーに類するか、とにかく、「猿」が縦縞のグレイスーツをぴったりと着こなし、椅子に身体を埋めるように座って、両手を胸の辺りで組んでいるのだ。両の目が燃えるように赤く、黙した表情は賢者の様相だ。
「俺に猿望があれば、裏切らなかったのではないか。リリヤ、キリ。」
スパニダエはその目で、ひた、とリリヤ、キリの二人を見つめた。蛇に蛙が睨まれれば、動けなくなるとも言うが、まさにその状態だった。スパニダエという猿蛇に、リリヤ蛙とキリ蛙は睨まれたまま、一歩たりとも動けなくなった。その目線からは、凄まじいプレッシャーが放たれている。
アルは固まったキリとリリヤを横目に見ながら、スパニダエに言った。
「裏切ったというのなら、どうするんだ。ここで始末をつけるとでも言うのか、スパニダエ。」
「始末をつけるつもりなら、とっくにやっている。俺には優秀な部下がいくらでもいるからな。顔を見たかったのだよ。」
「顔だと? 僕の顔を見たかったと言うのか。」
「いいや。お前じゃないよ、アルドゥンケルハイト。俺が見たかったのはシュテルの顔だ。復讐者の顔だよ。」
「・・・?」
今、確かに復讐と言ったか。アルにはそう聞こえたのだが、シュテルが僕に復讐を・・・? まったく理解できないことだった。
「でまかせを言うな。その程度の陳腐な嘘で、混乱させるつもりか。無駄だぞ。」
そう言うアルへ、スパニダエは、にぃい、と口端を広げて笑った。その顔だけは、猿そのものの、野卑な獣性をあらわにしたものだった。
「でまかせではない。ハグヴィラの報告にもあるしな。」
「ハグヴィラだと?」
意外な名が唐突に出たものだから、アルは思わず聞き返した。どうしてあの婆の名が・・・。アルは一つの可能性に思い当たり、冷や汗が背中をつたうのを感じた。スパニダエの口からその名が出るということは。
「おっと。まだばれてはいなかったか。」
スパニダエが言った。
「ふふん。あの婆も、生身のくせしてなかなかの器だ。気づかなかったか、アルドゥンケルハイト。」
「くっ・・・!」
悔し気に、アルは唇を噛んだ。
「どういうことでしょう、マスター。」
隣から、シュテルが訊いた。
「・・・スパイだ。ハグヴィラの奴、僕に従うふりして、情報をハンマーヘッドに流していたんだ。」
スパニダエは、ぱん、ぱん、ぱん、と大仰に手を叩くと言った。
「その通りだよ。ハグヴィラは俺達に、お前を売ったんだ。くく。その様子じゃ、今の今まで気づいていなかったようだな。アルドゥンケルハイト。血を吞まんのは勝手だが、人は疑っておけ。嘘をつきそうにない人間ほど、巧妙な嘘をつく。」
長年仕えていたハグヴィラが、実は長年自分を欺き続けていたと知ったアルは、自らの迂闊に怒りを感じた。もちろん、裏切ったハグヴィラを憎む気持ちもあったが、何より、のうのうと騙され続けていた自分に腹が立った。
アルは、腹立ちまぎれにスパニダエへ言った。
「シュテルの復讐とはどういうことだ。いったい誰に復讐すると言うんだ。」
「お前だよ、アルドゥンケルハイト。お前への復讐だ。」
「な・・・に・・? 僕への復讐だと?」
「ふふ。その様子だと、何も知らないようだな。ウルスラ・バゥム。シュテルの生前の名だ。曾祖母はソフィア・バゥムという。お前に血を吸われた挙げ句、殺されたそうじゃないか。」
「!」
スパニダエの口から出たその名は、アルにとってあまりに意外だった。ソフィア。アルが昼の世界を覗いていた時に出会った、あの少女の名が、スパニダエの口か出たことに、アルは動揺した。ソフィアとの日々は、誰にも語ったことがない。アルの胸中にのみ収められた、幻想とすら化した思いであったはずなのに、なぜそれをスパニダエが・・・。
スパニダエは、混乱するアルに構わず、続けた。
「ソフィアは若い身ながら、結婚して子を孕んだようだな。だが、子をなしてすぐ死んだ。お前に無惨にも殺されたのだ。ウルスラ、つまりシュテルは、曾祖母の受けたおぞましい恐怖と死に対する復讐を果たさんと、お前のところに迫ったんだよ。あと一歩のところで力尽き、そのまま身元知らずの旅人として、葬られたようだがな。ハグヴィラもよく調べたものだ。」
アルは、シュテルの顔を見た。シュテルが僕へ復讐を・・・。信じられないことだったが、生前のシュテルについて、一切を知らないアルだった。シュテルが何のためにアルのいた村へやって来て、野垂れ死に同然で命を落としたのか、その理由はいくらでも存在する。だが、アルへの復讐という理由を、否定する材料など何もなかった。
シュテルは無表情のまま、じっ、とアルを見つめている。その表情は、シュテルとして、生まれて間もない頃に戻ったかのようだ。無機的で、冷たく、固く、およそ感情というものが存在しない顔。シュテルが今何を考えているのか、アルにはまったく分からなかった。まさか・・・。
「アルドゥンケルハイト・フォン・ロートライヒ。」
シュテルが、アルの名をフルネームで口にした。シュテルが、アルのことをそのように呼ぶのは、初めてだった。
嫌な予感が、アルの脳裏をよぎった。シュテルに生前の記憶など、残ってはいない。いや、残ってはいないはずだ、という確信的推測をしていたに過ぎない。記憶が完全に消えたのではなく、ただ、思い出せないだけという可能性は、十分にあった。
シュテルの表情に、信じられない変化が起こった。仮面のように冷たい顔へ、見る間に、ひとつの感情が浮かび上がったのだ。
怒りだった。
シュテルが「怒る」ということ自体、アルには信じられなかった。いや、それはもはや、シュテルの顔ではない、ウルスラ・バゥムの、死に至る前の少女のそれだ。
怒りの表情をあらわにしたシュテルは、鋭い言葉をアルへ投げつけた。
「ロートライヒ。私を死の安寧から呼び起こし、よくもこの身体をもてあそんでくれたな。お前にとっては皮肉なことだが、しかし、私は感謝もしている。こうして、再び復讐の機を得たことに。」
「シュテル・・・。」
アルには、その一言を発するのがやっとだった。あのシュテルが、僕を「お前」と呼ぶ。並の事なら動じないアルも、シュテルにそう呼ばれたことは、ショックだった。
シュテルは冷たい響きのある言葉で続けた。
「我が曾祖母の恨み、今ここで果たさせてもらうわ。」
ち、違う・・・。僕が、ソフィアを殺した・・?
アルは、喉まで出掛かった否定の言葉を口に出すことができない。ソフィアを殺したとはどういうことだ。直接、手をかけるわけがない。ソフィアは病気で死んだと聞いている。僕が関わったことと、ソフィアの死が、強引に結びつけられたということか・・・。つまり、僕と関わったから病気が悪化し、死に至ったと・・・?
アルの中で、ソフィアの笑みと、死の床にある青ざめた顔が重なった。
「僕が・・・?」
殺したというのか。僕が・・・。
「う、嘘だ! 嘘だ、嘘だ、嘘だ! 僕がそ、ソフィアをなんて・・、そんな・・・。」
アルは完全に自分を失っていた。認める事実がないのならば、否定すればいい。だが、アルにはそれができなかった。親しい者を失うという経験をするには、当時のアルは若過ぎた。重い衝撃は未だに、アルの心へ深く根ざしている。
たじろぐアルへ、しかし、横からリリヤが力強く言った。
「アル! しっかりしなさいよ!」
「リリヤ・・・。」
自分の言葉に反応した、アルの顔を見てリリヤは驚いた。いつもの、どこに根拠があるのか知れない自信に満ちた顔は完全にどこかへ行ってしまい、弱々しく、おどおどした顔つきのアルだ。リリヤへすがるような目をすらしている。
リリヤはアルへ言った。
「どういうこと? そのソフィアって子が誰なのか知れないけれど、あんたが・・・?」
おかしい。リリヤには、アルがソフィアを手にかけたという話自体が、信じられない。吸血鬼は生きた人間の血を吸うことはあっても、いたずらにその命を奪うことはない。もちろん、そこは個人の性格によるし、ヒトに対する圧倒的な優位性を、命を奪うことで確かめたがる輩もいないではなかったが、そもそも吸血鬼は殺人鬼ではない。
「違う! 僕は、ソフィアと、あの子と仲良くなって、一緒にいたけれど、殺してなんか・・!」
アルはリリヤの襟をつかみ、うつむいた。
うつむいたアルの表情は、リリヤからは見えなかったが、寂しいような、悔しいような想いがリリヤを襲った。そのソフィアという者が、アルにとって大事な存在だったことは確かみたいで、嫉妬、その二文字が胸の内に湧き起こったが、すぐにそれも消えた。
リリヤは、アルの肩を両側からつかんで、静かに言った。
「違うのなら違うのよ、アル。大事な人だったんでしょ。」
こくり、とアルがうなずく。
「だったら! 復讐されるなんて、おかしいじゃない。それは違うと、シュテルにも分かってもらわないと。」
「リリヤ・・・。」
アルがリリヤへ顔を上げたときだった。
「おのれら、危ないわ!」
アルとリリヤ、二人をまとめて脇へ押しやり、シュテルの突撃を受けたのは、キリだった。
シュテルの腕から繰り出された重厚な一撃を、キリは両手で受け止めている。
「シュテルちん、相変わらずいいパンチじゃわ。」
キリは言って、にやりと笑った。
「この・・・! 邪魔をするか!」
どっ、と風圧を感じさせる蹴りを出したシュテルだが、キリは一歩飛び退ってその蹴りをかわした。立て続けに出される突きと蹴りを、キリはかろうじていなしながら後退するのだが、ガードをすり抜けた何発かがキリの身体に突き刺さる。
「ぐぬ!」
キリはさらに飛び退くと、懐の中からリボルバー(ジェシカ)を引き抜いてシュテルへ向けた。
「頼んじゃら! ジェシカ!」
キリが引き金を引く。三発、ほとんど同時に発射音が聞こえるほど、連続して撃った。シュテルの足へ弾丸が命中する直前、シュテルはそばにあった椅子を盾に防ぐ。分厚い樫で作られた椅子は、低くくぐもった音をたてながら弾丸の貫通を阻止した。
シュテルは身を防いだ椅子を、力任せにキリへ投げつける。撃った直後のキリは、かろうじて身をよじり、椅子の直撃を避けた。
アルがシュテルに向かって叫んだ。
「シュテル! やめるんだ!」
シュテルは、椅子を避けて体勢を崩したキリへ迫り、繰り出す徒手攻撃で、脇目もふらず押しまくりながら、アルへ言った。
「今さら何をやめろと!」
シュテルの拳がキリの顎を捉えた。
「んがっ!」
という呻き声を残して、キリが壁まで吹き飛ぶ。とどめを刺そうと突っ込むシュテルへ、横からリリヤが飛び蹴りで入った。
どん、という鈍い響をたて、防ぐシュテルの腕へ、リリヤの蹴りが命中していた。
「力づくで片をつけようとするのを、やめろと言ってるのよ。」
リリヤが言うのだが、シュテルはそれを無視して、その足をつかむと壁に向かって投げ飛ばす。
「きゃっ・・!」
凄まじい音をたて、リリヤが壁にめり込んだ。バッテリーモードに入っていないにも関わらず、この力・・・。シュテル自身の身体が、自らの過剰な力で傷つかぬよう、無意識の内に力を自制するよう調整していたのだが、その自制が解除されている。そうとしか思えないパワーだった。
既にシュテルの拳は、キリへの激しすぎる攻撃で、所々血が滲んでいた。リリヤとキリが立ち上がれないのを見届けて、シュテルはアルへと向き直った。
「この時を待っていたのよ。我が曾祖母の受けた苦しみ、死をもって償わせる。」
冷然とシュテルが言い放つ。こうなることを、まるで予想していたかのように、スパニダエは獣じみた笑みを、知性がある分、野生の猿よりはるかにどす黒いその笑みを、口元に浮かべて、シュテルとアルの対峙を見つめている。
アルは燃えるような視線をシュテルに向けた。
「僕はお前の曾婆さんを、ソフィアを殺してなどいない。」
「嘘よ。お前に血を吸われ、苦悶の内に死んだのよ。」
「そんなことを言うのは誰だ?」
「家族の誰もがそうだと信じてる。」
「それが間違っていると言っているんだ、シュテル。」
「私をその名で呼ぶな! 私はウルスラだ!」
「違う! お前はシュテルだ。僕の片腕だ!」
ぎっ、と二人は睨み合った。
アルからすれば、シュテルが生前の記憶を取り戻したところまでは、まだ受け入れられる。だが、ソフィアの死について誤解されたことだけは、受け入れがたく、許しがたい。その誤解は、アルの青春そのものの否定と侮辱を意味した。
アルは静かに、シュテルへ言った。
「どうしても、間違いを認めないと言うんだな。」
「認める間違いなど、存在しない。」
「・・・分かった。」
アルはそう言って、うつむく。うつむいたと同時に、アルはシュテルへと跳躍していた。睨み合っていた視線を、アルが外した瞬間だった。アルと対峙していたシュテルに、一瞬、意識の上で隙ができた。アルはその隙を突いた。
アルが牙をむき出す。シュテルの両肩を抱きかかえるようにして、その首筋へ、発達した犬歯をアルは突き立てた。数十年ぶりの吸血だった。
「この・・・! 何をする!」
シュテルがそう叫んだ時には、アルの牙が深々と刺さっている。一瞬の痛みの後、凄まじい快感が全身をつらぬき、電撃のようなその感覚が去ってからは、人肌と同じ温かさのゼリーに包まれたような恍惚が、シュテルの身を包んだ。
「う・・・、あ・・。」
身体から力が抜け、シュテルは膝をついた。膝をつくと同時に、イメージの奔流がシュテルの中へ流れ込む。
「やめろ・・!」
シュテルの抵抗も虚しく、大量のヴィジョンが次々と押し寄せた。
暗闇から垣間見る外の世界。白日の下、燃え上がる同胞。駆け回る少女。名も知らぬ青い花。そして、少女の笑顔。
連なるイメージは、少女の笑顔で埋め尽くされた。微笑み、時には大きな口を開け、少女はよく笑った。古びた写真でしか見たことのない曾祖母が、まさにその少女であるとシュテルが気づくまでに、少し時間がかかった。
破顔、笑面、笑顔、解顔、とにかくあらゆる顔で少女は笑った。そして、豊かな表情にまったく共通するのは、幸せだということだった。シュテルにはそのヴィジョンが信じられなかった。いや、むしろ信じたくなかった。だが、それらはあまりにもリアルで、あまりにも生々しく、温かい手触りまで感じられるほど、優しい。
アルがシュテルの首元から牙を離すと、シュテルは我知れず、涙を流していた。涙の意味は分からなかった。ソフィアを失ったアルの悲しみであるのか、アルと離れなければならなかった、曾祖母の、ソフィアの悲しみであるのか。悲しむ自分が、アルのような、ソフィアのような、不思議な錯覚がシュテルの頭を占めた。
シュテルの脳裏を満たしていた、ソフィアの思い出、ソフィアへの想いが引き潮のように去った後、残ったイメージは、まるで、砂でできた島だった。四方を海に囲まれ、草も木も、石さえもない、小さな砂の島で、シュテルは膝を抱えて座っている。そんなイメージが、シュテルの中に湧き起こった。
水平線の端から端まで、三百六十度を囲む蒼い海には、波一つ立っていない。凪いだ海に四方を囲まれた静寂に、シュテルは怯えた。静まり返って鏡のような平面が続く海から目を逸らすように、シュテルはうつむくと、自分の両の掌を見つめる。白く細い手が、自分の存在の弱々しさと、儚さを物語るようで、シュテルは悲しくなった。
声が聞こえる。自分の名を呼ぶ声だ。ウルスラ、と最初は聞こえたような気がした。だが、違う。シュテル、と二度、呼ぶ声が聞こえたかと思うと、こう続くのである。
行くぞ、シュテル。
はい、マスター。
思わず、反射的に応えたシュテルはその瞬間、我に返った。
目の前にアルの顔があった。ひざまずいて、間近でシュテルの顔を覗きこむアルの顔は、いつもとまったく変わらなかった。少し不機嫌そうに黙って、隠れていない片目でじっと、まっすぐに見つめてくる。
シュテルがウルスラだった頃の記憶は、ぼんやりとではあるが残っていた。だが、シュテルになった後の、アルと共に在った日々の記憶が鮮烈に蘇るにつれ、ウルスラは物陰に身を潜めるようにして、シュテルの中から静かに消えて行った。
「マスター・ロートライヒ・・。私は・・・?」
きょとんとした顔で座り込むシュテルを見ながら、ほっとした、安堵の表情を懸命に出すまいと、あえてしかめっ面をしてアルが言った。
「戻ったか、シュテル。上々だ。」
シュテルは、自分の首筋に生暖かいものを感じた。触れると、血が少し流れている。
アルをよく見れば、みなぎるような力が、その全身から溢れ出すようだった。ほとばしる猛気は、飢えた野生の虎を思わせた。
ぱん、ぱん、ぱん、と間延びした拍手が聞こえる。
なかなか目にすることのできない余興を堪能したでもいった風に、スパニダエは満足そうな口調で言った。
「あのままシュテルにひねられるかと思ったが、血を吸うとは。テンペレートの名が泣くか?自らの主義を曲げた気分はどうだ? 破戒の感想は?」
アルはスパニダエを睨んで言った。
「破戒だと? 戒めとして血を吞まなかったわけじゃない。ただ、そうしたいと思ったからそうしていただけだ。」
「血を吞まなければ、ヒトになれるとでも思ったか。ソフィアに近づくことができたとでも? 滑稽だな。そしてリリヤ!」
壁にめり込んだまま、頭だけ動かし、アルとスパニダエのやり取りを見ていたリリヤへ、スパニダエは唐突に言った。
「猿に言われたくはないと、今そのように思っただろう。」
「い、いえ・・、そのようなことは・・・。」
「ふん。お前は組織を裏切ったのだ。今さら従順を取り繕う意味もなかろう。」
「・・・・。」
アルドゥンケルハイト、と言いながら、スパニダエはアルに向きなおる。
「血を吞んだ以上、もはやお前をテンペレートだと追及する意味もなくなった。いや、お前らとの諍い自体、さしたる根拠のないものだがな。報復に報復を重ねた結果、泥沼におちいっただけなのだ。争う理由や大義など、あってないようなものだ。アルドゥンケルハイト。組織として、お前を追うことはもうやめてやろう。」
「ずいぶんとあっけないんだな。やめてやる、という上から目線が気に入らないが、やめると言うなら僕もそれを否定はしない。」
「ただし。」
スパニダエは一旦言葉を切り、そして続けた。
「リリヤとキリヤナクを殺せ。今、この場で。それが条件だ。」
「何?」
「裏切り者には、その責を負ってもらう。このまま放免というわけにはいかぬ。犯した罪に対し、罰を下すのは組織の長として当然だろう。」
「・・・・。」
アルは、リリヤとキリを見た。二人を殺す・・・。リリヤとキリは、無言でアルの方を見つめている。シュテルの血を吸った今、アルとシュテルで同時にかかれば、できないことではなかった。だが。
「それはできない。」
アルは、スパニダエに向かって、断言した。
スパニダエは、意外なことを言い出す、といった顔をしながら、
「できない、だと? お前は自由になる機会を捨てると言うか。俺の部下達は優秀だからな。追うとなったら、世界中どこにいようが、追い詰めるぞ。」
いらついた調子を声に含ませながら言うのである。
アルは、スパニダエを見据えながら、言った言葉を訂正する。
「すまなかった、スパニダエ。できない、とは正確な言い方ではなかった。誰がお前の命令など聞くか、このボケ猿が。」
アルがシュテルをちらと見た。シュテルが応えてうなずく。
同時に、アルの身体が一瞬で霧となった。精神を集中するまで数秒の間が必要なものなのだが、アルの霧化は一瞬だった。
スパニダエに向かって、弾丸のようにシュテルが突っ込んだ。
迎えるスパニダエは、
「このアホぅ共が。」
そうつぶやいて、跳躍した。高い天井まで瞬時に飛び上がり、さらに天井を蹴ってシュテルの後ろを取る。まるで、硬質のゴムボールを固い廊下へ打ち投げたように、上下三次元を反射したその動きは、リリヤの目ですら、追うのがやっとだった。
シュテルの背後を取ったスパニダエが、ぬらぬらとした不気味な声で言う。
「シュテルぅぅ。生前の仇を討つ絶好の機会を、お前は逃したのだぞ。お前が自らの命まで賭した、曾祖母殺しの仇討ちをお前はしなかったばかりか、その命に従うとはなぁ。」
シュテルは振り返らないまま、スパニダエへ言った。
「マスターは私の曾祖母を殺してなどいません。血を吸われた瞬間、はっきりとそのことが分かりました。あれほどまでに暖かで、楽しげな曾祖母の笑みを受けた相手が、いたずらにその命を奪うなど、考えられません。」
「シュテル。お前は勘違いをしている。血を吸いながらお前に見せたのは、アルドゥンケルハイトが創り出した幻影だ。吸血鬼の親愛表現が何か、お前は知っているのか。血を吸うことだ。好意を抱いた相手、愛した相手へ吸血鬼が何をするのか。血を吸うのだ。自らの眷族とするのだ。それが、吸血鬼の最高にして唯一の、愛情表現だ。アルドゥンケルハイトはソフィアを愛した。だから、血を吸ったのだ。身体の弱かったソフィアは、そのショックで死んだ。眷族になりきれなかった。血を吸われて命を落とすなど、珍しくは─。」
「黙れ!」
シュテルは、シュテルとしてありえないほどの激情をあらわに叫びながら、スパニダエに向き直った。
「幻影を創り出そうとしているのはお前だ! マスターの想いをこれ以上愚弄するならば、私がお前の息の根を止める!」
「・・・・・・。」
シュテルのあまりの勢いに、スパニダエはぱっく、と口を開け、文字通り目を丸くしてから、嗤った。いびつに歪んだ笑みは、邪悪そのものだった。
「・・・・っく。くく。」
スパニダエの直上で、アルが霧から実体化する。アルの突き降ろす拳を、残像を残さんばかりの勢いで避けたスパニダエは、なおも嗤っている。
テーブルの上に四つ足で乗り上がると、スパニダエは、
「は、は、は、は、は、は!」
激しく嗤うのだった。
「幻影を創り出そうとしているのは俺か。くく。確かにそうだなぁ、シュテル。自らの信じられない真実など、等しく幻影に過ぎない。お前が俺の言うことを幻影と言い切るのなら、もはや俺に語る言葉などない。」
どとん、どととん、とスパニダエは四つ足のままジャンプし、テーブルを鳴らした。
「どつきあいで真偽を決するのも、一興! ばらばらになった四肢を、後悔する間もなく死ね!」
今度は、残像すら残らない。スパニダエが、その場から消えたかと思うほどの速さでシュテルへ向かって跳び、丸まった身体をそのままシュテルへ叩きつけた。
両腕で身を守る余裕すらなく、シュテルが壁際まで吹き飛んだ。
「シュテル!」
叫ぶアルに対して、スパニダエが向かう。猛然と薙いだスパニダエの腕は、さながら重機のごとくアルの身体をひしげた。
「ぐぁっ!」
スパニダエは、続けざまにアルを殴りつけた。高速の弾丸が連射されるかのような突きを全身に受け、アルは反撃の機を一瞬たりとも与えられないまま、後退して行く。
「はははぁ! どうした、アルドゥンケルハイト! お前もこの程度の力か。もっと楽しませてくれないと困るぞ!」
調子づいて拳を繰るスパニダエへ、しかし、その背後から衝撃が走った。
シュテルの前方回転飛び膝蹴りが、スパニダエの後頭部を捉えたのだ。
「ぉお?」
という、疑問符つきの声を上げながら、スパニダエが前のめりになる。攻撃の手がやんだその機を逃さず、アルはシュテルの後ろに回ると、バッテリーモードのスイッチを入れた。
「やれ! シュテル。」
「はい、マスター。」
甲高い駆動音を響かせながら、シュテルがスパニダエへ一気に詰める。攻撃するシュテルの背後から跳び上がりざま、アルはスパニダエの頭上から、シュテルは正面から、同時にスパニダエへ攻撃を加えた。
シュテルの飛び膝蹴りから体勢を立て直しつつあったスパニダエだが、正面と上方からの同時攻撃をまともに受けた。
シュテルの肘をみぞおちへ、アルの飛び蹴りを顔面に浴びせられたスパニダエは、たまらず後方へ飛び退く。だが、シュテルはスパニダエのスピードへ追いつき、さらに水面蹴りを放った。
足を払われたスパニダエの背後で、霧化したアルの身体が実体化すると同時に、強力なフックを打ち出した。水面蹴りで浮いたスパニダエの身体がアルのフックを受け、空中で五回近くも回転した後、地に這いつくばる。
直後、ぱっ、とその場からジャンプしたスパニダエは、アルとシュテルに挟まれた状態から素早く抜け出る。
「ふはっ! 凄まじい連携だな。」
大してきいてもいない様子で、スパニダエが言った。
「ふん。お気に入りのスーツであったが仕方がない・・・・。」
スパニダエは大きく息を吸い込むと、その全身に力をこめた。
「ぬぅぅぅぅ・・・!」
見る間にスパニダエの肉体が膨張した。スーツのボタンが弾け飛び、生地が裂け、その身体は元の体躯の三倍近くにまで巨大化した。それにつれて、放たれる威圧感が圧倒的に増している。
「・・・!」
凄まじいプレッシャーに、思わず後ずさりそうになるアルへ、シュテルが小さく言った。
「お気に入りのスーツならば、脱げば良かったのではないでしょうか。」
アルは、
「ふっ。はははっ。その通りだ、シュテル。スパニダエめ、考えの至らぬ奴だ。」
と、思わず笑った。
ずん、という重々しい一歩を踏み出しながら、スパニダエは一段低くなった声で言った。
「笑っていられるのも今のうちだぞ、アルドゥンケルハイト!」
そう言ったと同時に、スパニダエは椅子やテーブルを蹴散らしながら、アルとシュテルに迫る。太い丸太のような腕を力任せに振り回すのをかろうじて二人は避ける。力任せではあるが、その腕の振りは目で追いきれないほど速い。
腕が伸びたかと錯覚するようなスパニダエの突きを、アルは正面から受けた。
「ぐっ・・・!」
「マスター!」
シュテルの気が一瞬、アルの方へ逸れる。その隙をスパニダエは逃さなかった。ぼっ、という鈍い空気の切り裂き音を立てながら、シュテルの身体をスパニダエはつかんだ。その手はもはや、シュテルの細身を片手でつかめるほどに大きい。
「は、放しなさい!」
もがくシュテルだが、スパニダエの毛深い手はびくとしない。
「放すものか。墓の中へ戻るがいい、我が手の内にて。」
「・・・・!」
スパニダエが手に力を籠める。腕の上腕二頭筋が山のように盛り上がり、強烈な握力がシュテルの身体をしめあげた。
「う・・・ぁ・・!」
シュテルがうめき声をあげた時だった。厚い被膜の風船を割ったような、渇いた衝撃音が響いた。硝煙の消え切らぬ銃口をスパニダエに向けたまま、キリが言った。
「シュテルちんから手を放せやぁ、このサルがぁ。」
弾丸(357マグナム弾)インパクトの瞬間、眉間に弾を受けたスパニダエは、どっ、と仰け反り、シュテルをつかんでいた手を思わず放す。
よろめいたところへ、リリヤがスパニダエの右からローキックを、アルが左から側頭部へ、同時に蹴りを入れた。
「がぁあ!」
痛みの咆哮をスパニダエがあげる。蹴りの衝撃で、スパニダエの身体が時計回りに回転した。
ずずん、とフロア全体を揺さぶるような地響きをたてて、仰向けに倒れたスパニダエの腹部へ、シュテルがだめ押しの一撃を放った。天井まで跳び、蹴った反動で加速しながら、突き降ろしの右拳を打ったのだ。
スパニダエの身体は床を突き破り、3フロア分下へ落ちてようやく止まった。
スパニダエの腹の上に立ったシュテルは、静かに言った。
「スパニダエ。私はマスターの右腕なのです。腕は主を裏切りません。マスターにとっての真実は、私にとっても真実なのです。曾祖母、ソフィア・バゥムの死はマスターによるものではありません。私の恨みは、私の一つめの死に際して、終わるべきだったのです。」
「・・・・・。」
す、とスパニダエの肉体が元のサイズに戻った。
「一つめの死、か。二度目の生を与えたアルドゥンケルハイトは、さしずめお前にとっての神か、シュテル。」
「神とは少し違います。マスターは、アル様は私の主であり、お守りするべき存在であり、同時に、守ってくださる方なのです。アル様といる限り、私の不安や苦しみはどこかに消え、安心だけが残るのです。力強い勇気に満たされるのです。」
「それを神と呼ぶのだがなぁ。まぁいい。お前達との戦い、久方ぶりにたぎったぞ。これ以上争っても、醜いすりつぶし合い(’’’’’’’)になるだけだ。やめるが頃合いだろう。」
スパニダエは、大穴の開いた床から下へ降りてきた、アル、リリヤ、キリの三人へ言った。
「ハンマーヘッドはお前を追うのをやめよう、アルドゥンケルハイト。そして、リリヤ、キリヤナク。お前達は、どこへなりと行くがいい。私の眉間に銃弾をぶちかまし、問答無用で蹴り飛ばすような奴らだ。これ以上命令を訊かせようとしても、無駄だろう。」
スパニダエの言葉に、いったいどこから出て来たのか、デュースタがひょっこり現れて言った。
「よいのですか? スパニダエ様。これだけの裏切りを働いておいて、無罪放免とは。あなたの估券に関わりますよ。」
「估券だと? つまらないことを言うものよ、デュースタ。こいつらは、俺に抗う力を示したのだ。これ以上むきになってつぶしたところで、大人げないだけだろう。」
さらりと言うスパニダエだったが、アルにはそれが、嘘ではないと感じられた。
僕たちをつぶす。結局スパニダエは、準備体操程度の力しか出していない。本気を出せば、このビルごと吹き飛ばしかねない力があるはずなのだ。
「大人げない、ですか・・・。そのようにおっしゃるのなら、私はもう何も申しませんが。」
その姿の相手から、大人げないとか言われても、という台詞を眉間のあたりに滲ませながら、それでもデュースタは、素直にスパニダエの言葉へ従うようだ。
アルはスパニダエに言った。
「・・・・その言葉、本当か?」
「ふはは! 嘘をついてどうする。もう追わない、と言って安心させてから、後背を突くか? ありえんな。そんな小賢しい真似、趣味に合わん。」
スパニダエはあっさりとそう言った。趣味に合わない。確かにその通りだった。今のスパニダエを見ていると、だまし討ちをするような、いや、だまし討ちが必要な余裕のなさなど、微塵も感じられない。そんなことをせずとも、気が向きさえすれば、いつでもアルやリリヤを血祭りに上げることができるのだ。スパニダエの言葉に偽りはなかった。
「・・・分かった。」
アルはそう言って、踵を返した。もうこんなところに用はない。
「シュテル、行くぞ。」
「はい、マスター。」
「リリヤ、キリ、お前らもだ。」
言われたリリヤは、なおもスパニダエの方をちらちらとうかがっていたが、攻撃してくる気配はないと見て、アルに言った。
「分かってるわよ。今行く。」
キリは、
「おおよ。それじゃスパニダエ様、またいつの日か。それと、デュースタ。うちはお前を好かん。いつか殺る。」
そう言い残して、アルとシュテルの後に従った。
デュースタは、相変わらず人を小馬鹿にしたような笑みをその顔に張り付かせたまま、
「どうぞ。やれるものならね。」
と、怒るでもなくキリに言って、それから、リリヤに視線をやった。
「リリヤ様。寂しくなります。何かを踏みにじりたい衝動に駆られたら、いつでも私をお呼びくださいね。地の果てまでも行き、そのおみ足の下に這いつくばらせていただきますから。」
「キモ。踏みにじりたい衝動って何よ。あんたなんて絶対呼ばないわ。せいぜい・・・。」
おサルの相手でもしていることね、と言おうとしたリリヤだが、さすがに恐ろしくて、その言葉は喉から上へは出なかった。
「・・・。ふん。二度と会うことはないから。じゃ。」
ひら、と手を振ってリリヤは、アル達の後を追った。
デュースタは、笑みを歪ませながら、スパニダエへ言うでもなく言った。
「行ってしまいましたね。つけますか?」
「いや、いらん。アルドゥンケルハイト!」
スパニダエは、暗闇の奥へと消えたアルへ向かって叫んだ。
「たまには手紙でも寄越せ。メールでも構わんぞ!」
すぐさま、アルが返事をした。
「誰が出すか! ハグヴィラの居場所が分かったら僕に知らせろ!」
土下座で謝らせてやる、という最後の言葉と共に、アル達の気配が消えた。
「ふん。この俺に命令するとは、いい度胸だ。」
スパニダエが、嬉しそうにも見える顔で言った。
この猿は、とデュースタは考える。常に孤独なのではないか。ハンマーヘッドの首魁として君臨し、恐怖と圧力で統率された組織を率いている限り、トップの座にある孤独は時に、アルのような、怖じけない対抗者というものを欲するのかも知れない。
「デュースタ。」
突然、スパニダエは振り向きもせず言った。
「俺のことを分かったつもりでいるなよ。」
「は・・、いえ、何のことでしょう?」
さすがのデュースタも笑みが凍りつく。読まれた? 背中に冷たい汗がはうのを、デュースタは感じた。
スパニダエは、
「く。まぁ、いい。そんなところも含めてのお前を引き立てたんだ。せいぜい役に立て。」
そう言い残し、部屋の奥の扉へと消えて行った。
「そのつもりにございます。」
デュースタは慇懃に礼をしながら、この猿には「まだ」敵わない、そう思わずにはいられなかった。
スパニダエが姿を消して後、フロアに開いた大穴を見上げて、デュースタは一人つぶやいた。
「修理にはしばらくかかりそうですねぇ、これは。」
しかし、風通しがよくなって、このままでも悪くはないか。そんな風にも考えるのである。