この星空に約束を
べたべた恋愛同好会企画「告白」編の作品です。
正直、文字数が大幅に超えた中篇になってしまい、削りに削って、少し展開がおかしくなってます(汗
はぁ……失敗したなぁ。
まぁ、書いてしまった以上は投稿します。酷評をお待ちしております。自分でも納得出来てない作品ですので。
―――私には、好きな人が居ます。
「いらっしゃいませ」
柔らかい珈琲の香りと、鈴の音がドアを開けると迎えてくれる。
「おや、香雪さん。いらっしゃい」
そのお相手の方が、この人。
「こんにちは、香月さん」
梅雨の頃、学校帰りに雨宿りのつもりで立ち寄ったことがきっかけの、今は受験勉強に利用させてもらっているカフェのマスターさん。初めてお店を訪ねてから、もう少しで半年。
「いつものでいいのかな?」
「お願いします」
私はこのお店の常連になった。何度も何度も足を運ぶのは、お店の雰囲気がのんびりとしていて、落ち着く静けさがあって、温もりがあるから。
香月さんはゆったりとした時間の流れを大切にする人で、その時間は私にとって、香月さんへの距離を縮める為だったのかもしれない。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
「だいぶ寒くなってきましたね」
「香月さんから頂いたマフラーが大活躍ですよ」
隣の椅子に掛けられたマフラー。先月の私の誕生日に、香月さんから頂いたプレゼント。
「実は女の子の好きそうなものって良く分らなくて。気にいってもらえて良かったです」
香月さんの微笑みに、胸が温かくなる。
「香月さんに頂いたものですから。大切に使わせてもらいます」
もうすぐ師走。少しずつ街中が赤と白に彩られていく中で、ここはいつもと変わらない、けれど変わったものもある。
「今度ツリーを置こうって思ってるんですが、今度、一緒に選んでくれませんか?」
「え? そ、それって……」
香月さんの何気ない一言に、私は急に顔が熱くなってきた。
「デートのお誘い、というやつですね。 ……あ、勉強で忙しい時期ですね」
忘れてました、と香月さんが笑む。
「そんなっ、だ、大丈夫です。行きます。行きたいですっ」
私と香月さんだけの店内。急に恥ずかしくなった。香月さんが私を驚いたように見ていたから。
「あっ……すみません」
「いいえ。では、今週末くらいにどうですか?」
「は、はいっ」
私はカウンターの端をお気に入りの場所として、毎日約二時間、お店で時を過ごす。その生活パターンが続くにつれて、香月さんの穏やかで優しい人柄に、この人と一緒にいられる時間が私にはとても幸せで、一緒に同じ道を歩いていけたらどれだけ幸せだろうと、受験勉強をする傍らでちょっぴり想像して笑ってしまう。
「どうかしましたか? 楽しそうですね?」
「え? あっ、えっと……」
グラスを洗っていた香月さんが笑顔を見せてくれる。その笑顔に恥ずかしくなった。だって、お客さんとマスターさんだった始まりが、少しずつ常連とマスターになって、今は……
―――お付き合いをしています。
夏の終わりに空が少しずつ静かになる頃、香月さんはお誕生日を迎えて、私はプレゼントを贈った。手紙を添えて。
「受験生をからかってはいけないですね」
そう言って笑う香月さんの笑顔はいつも私を魅了する。素敵な人を好きになって良かったと、顔が熱くなる。
「―――ぇほっ!」
静かな空間を破る咳。香月さんだった。私に背を向けて、口を握った手で隠しながら。
「大丈夫ですか?」
「……風邪、かもしれないですね」
「無理はしないでくださいね?」
「こんなに可愛い彼女に心配してもらえただけで治りますよ、きっと」
「も、もぅ……」
カァと体の中から何かが熱く流れて、香月さんをまともに見られなかった。
それから一時間と少し。
「香雪さん、そろそろ切り上げた方が良いかもしれないです」
十一月後半ともなると早い時間でもすっかり暗くなっていた。
「すっかり早くなっちゃいましたね」
「ゆっくり出来る時間も少なくなるのは、残念ですね」
「はい……」
暖房で暖まったマフラーを取る。ほんのり珈琲の名残香が首筋から香った。
「香月さん、風邪は引き始めが大変ですから、早く休んでくださいね?」
私に笑みを返してくる香月さん。きっとすぐに良くなるだろう、この人を疑うことはなかった。
それから日付を捲るカレンダーは、もう十二月を越えた。もうすぐ冬休み。。受験生の私にはあまり関係ないけれど、賑やかさを増す町の様子とは裏腹の星空の瞬きに、気分だけはやはり浮かれてしまう。
「すっかりクリスマス一色になりましたね」
それでもこのお店に流れる空気は、時の流れを知らないようにいつもと同じ。温かくて、少しだけ私の好きなものがお店を彩ってる。
入り口の近くにある少し大きいクリスマスツリー。イルミネーションが綺麗に輝いていた。この前香月さんと、その、デートをした時に、ゆっくりと二人で選んだもの。私のお気に入りがまた一つ増えた。
「勉強の方はどうですか?」
いつもの席で、いつもの香りと温もりに包まれて、参考書を開く。クリスマスに期待している中でも、どうしても離れないのは受験。受験生だから、ここにでも来ない限り、日常の中であまり浮かれることはない。
「大丈夫、と言えれば良いんでしょうけど、まだまだ不安ばかりです」
「それでもこうして頑張っているのはすごいですよ」
香月さんは二十七歳。私とほぼ十歳差。でもそのお年でお店を持つことは、私にはそれの方がすごいことのようにしか思えない。
―――いつか、私も、一緒に……
考えただけでも恥ずかしい。けど、そんな日が来たならどれほど幸せなことなのか、想像すると笑顔を抑えられなかった。
季節はクリスマス。。実はこの日の為に、香月さんにとマフラーを編んでみた。受験勉強との併用で、随分前から、付き合い始めて少し経った頃から編み始めた。私の誕生日にマフラーを頂いたのは少し意外だったけれど、これで今度は私がプレゼントをすれば、お揃い、なんて考えるのが楽しかった。
「すみません、クリスマスなのに、いつものようにしか出来なくて」
「気にしないで下さい。私は香月さんと一緒にいられるだけで良いんです」
今日だけは特別な日。初めて恋人と言う方と迎える聖夜。受験勉強もあるから、今日もいつもと同じ下校の寄り道。香月さんもいつも通りのお店の営業。
「僕からのプレゼントです」
「あ、それなら私も……っ」
香月さんがカウンターからクリスマスケーキと共に、綺麗なラッピングを施した小さな箱を渡してくれた。私も急いでバッグの中からラッピングした袋を取り出す。
「これは、マフラーですか。もしかして、手編み、ですか?」
「は、はい。あんまり上手な方ではないんですけど……」
市販品の方が綺麗なのは理解している。
「嬉しいですよ。香雪さんの気持ちが入っていてとても温かいです……っ」
「そんな……」
下を向いてしまう。恥ずかしいけれど、受け取ってもらえたことが嬉しい。香月さんの咳にも気づかないほどに。
「私も、あけても良いですか?」
「気に入ってもらえるかは分からないですけど」
そんなことはない。香月さんに頂いたものはどれも素敵なものばかり。この日常すらそうなのだから。
「わぁ……」
それは、ペンダントネックレス。小さなクロスに星のような宝石が輝いている。
手のひらの上で光り輝くペンダントを、愛しさにそっと握り締めた。
「っ……っ」
「大丈夫ですか?」
口に手を当てて咳き込む香月さんに、意識がスッと戻る。
「すみません」
「いえ。香月さん。その咳、この前からあまり良くないみたいですね……」
先月から香月さんは会話の終わりや途中に小さな咳を漏らしていて、ずっと気がかりだった。
「一度、お医者様に診てもらってはいかがですか?」
「えぇ、そうですね……。ところで、そのペンダントには意味があるんですよ」
「え? 意味、ですか?」
「そのペンダントには、持つ人の思いと贈り人の願いが込められているんです」
話が急に変わったけれど、その話に意識を持っていかれてしまう。
「香月さんの願い、ですか?」
「香雪さんの幸せを願うことが、僕の願いです」
穏やかな雰囲気に、香月さんの言葉が私の胸の中に深く響いた。
「私の、幸せ……」
そっと開く手のひらのペンダント。私の中に響く言葉に、宝石が輝いた。
―――私の幸せは、貴方と一緒にいることです。
恥ずかしくて言葉には出来ないけれど、私が込める思いは、その一つだけ。私はそれで十分。
クリスマスが終わって、新年を迎えた。けれど、私は周囲のムードと言うものよりも気になることがあった。
「今日も、お休み、なんだ……」
元旦の日、日の出前に香月さんと二人で、近所の神社に私の合格祈願と初詣に出かけた。小さな神社で、参拝に来た人も少なかったけれど、私は香月さんからのマフラーをつけて、香月さんは私のマフラーを付けてくれた。嬉しいという幸せな思いで満ちた新年の始まり。胸のペンダントの効力がいつも私に幸せを運んでくれる気がした。
でも、香月さんは社に抱負を願いかけて居る時も、何度か咳を堪えていた。それがすごく不安だった。平気だという香月さんの表情は、きっと辛かったんだと、今になって思う。
「連絡、取れない……」
センター試験まで数日。ぶ雰囲気なんてない。けれど私は毎日三学期に入ってからも立ち寄った。【一身上の都合により、当面の間、閉店させていただきます】。その張り紙の掛けられたドア。日に日に募る不安。不通の香月さんの携帯番号。何も教えてもらえなかった。何もしてあげられることが出来ない。一緒にいることが幸せだという私の思いは、届かない。ただ毎日不安で、勉強どころじゃなかった。
それからセンター試験が終わって、落ち着きを取り戻せた日。心の中では挫けそうになっていた私に、思いもかけない光景が映る。張り紙のない、いつものお店が静かに北風の中にあった。
「いらっしゃいませ。……あっ、香雪さん」
「……香月、さん」
その瞬間、泣きそうだった。
いつもの珈琲の香り。ゆったりとした穏やかな店内。カウンターの中に立つ、香月さん。すぐには言葉が出てこなくて、私は一生懸命この状況を理解しようと考えた。
「寒かったでしょう? いつもの席へどうぞ」
「あ、はい……」
何事もなかったかのような、香月さんの笑み。ここにあるいつもの全て。私が望んでいたものが、夢のようにあって、どうしたら良いのか分らなくて、恐る恐るカウンター席についた。
「すみませんでした。何日も連絡もせずに」
夢じゃないのだと、現実の香月さんがいて、私がここにいるのだと、その一言に知る。
「あ、あの……」
聞きたいこと、言いたいこと、沢山ある。なのに、この空気を好む私には、どうしても踏み込むには勇気が足りない。
「香雪さん、今日は少しお時間を頂いても構いませんか? 閉店後にお願いしたいのですが……」
笑顔の香月さんとは違う、真剣で力が消えていくような言葉に、喉が動く。
「平気です。いつでも構いません」
「……ありがとうございます。遅くなるようでしたら僕がお送りします」
香月さんの笑みは、久しくの温もりのせいなのか、少し違和感を覚えた。それでも香月さんはお店のマスターでお仕事中。邪魔するわけにもいかず、私は二次に向けてこれまでと同じように、それでもどこか違うものを感じながらその時まで、参考書と香月さんを見つめた。
時計の針が数回一周を繰り返して、店内に静けさが訪れる。外は真っ暗で、少しだけ不安のような焦りに近いものを感じた。
「すみません。遅くなってしまって」
「いえ、それよりも、あの……」
笑顔の香月さんに、やはり不安が過ぎり続ける。何度も口に手を当て咳き込み、時折辛そうに一旦奥の方へ姿を消す香月さんに、待つ間が辛かった。
「お体の具合、良くないんですか?」
「あ……いえ……」
私の前へ歩いてきて、少しだけ近くなる距離に温もりを求めて思わず立ち上がる。
「どうか、したんです、か?」
笑顔がなくなる度に、謂れのない不安と恐怖に支配されてしまう。
「香雪さん」
「は、はい?」
以前は名前を呼ばれるだけでも温かな幸せを覚えたけれど、今だけは緊張と言う思いだけ。
「……大切なお話があります」
それでも変わらない香りを纏う店内は、あまりに静かで、何かが重たくのしかかってくる。
流れた時が、消えた。止まった時間が、動いた。
「これ以上……僕に、関わらないで下さい」
私の前に立ち、私をその瞳に映す香月さんの言葉は、聞こえない気がして聞き返そうと思った。けれど、その言葉はどんな囁きでも、聞こえてしまった。聞きたくない言葉を。
「僕と、別れてください。出来れば、今日限り、ここへは来ないで、もらえませんか」
全身が凍りつき、その寒さに体が震えだした。
「まっ、待ってください……どうして、ですか……っ」
何日も貴方を待っていました。いつも不安で恐かった。けれど貴方がここへ戻ってきて下さったことが、どれほど私を満たしているのかを伝えようと思っていたのに。
「あ、あのっ。わ、私、香月さんに嫌われるようなことを……」
「違いますっ。違うんです……」
「え?」
―――っ!
その瞬間。香月さんが酷く咳き込んだ。私が初めて見る、香月さんの崩れ落ちる身体。支えを探して伸ばした手が、テーブルのナプキンを床に散乱させた。拾うなんて考えることが出来なかった。
「え……? ……っ、せ、誠一さんっ!」
咳と言うには酷すぎる苦しみの声。胸と口を押さえて膝から落ちる誠一さんに駆け寄った。
「誠一さんっ! 大丈夫ですかっ? しっかりしてください」
何が起きたのか、私の大切な人に何があったのか、ただ恐くて、声をかけ、触れて良いのかすら分からなかった。
「誠一さ―――っ!」
意を決して手を差し伸べる私に、まるで触れるなと言うように、誠一さんが制する。
「へ、平気、です。……少し、むせただけです」
「む、むせただけって……」
私にはとてもそうは見えなかった。誠一さんは口を隠すように私を見上げ、立ち上がろうとして、体が少しよろめいた。
「誠一さんっ」
―――え?
誠一さんの体を支えた瞬間、口元から離れた誠一さんの手に、赤いものが付いていた。。
「……誠一、さん?」
感じたことのない震えと恐怖に、誠一さんの手を恐る恐るとった。それは紛れもない血なのだと、誠一さんの唇に残る色に、言葉がなかった。
「びょ、病院っ。今っ、救急車をっ」
どうしたら良いか分らず、とっさに出てきたその言葉に慌てて立ち上がる。
「……香雪さん、落ち着いてください」
落ち着いていられるはずがないのに、誠一さんは私よりもずっと落ち着いて立ち上がった。
「病院へは、行きましたから」
そんなことよりも、と誠一さんはお水を私に求め、コップに水を注いで戻った。その間もずっと体は震えていた。
「……ありがとうございます」
壁に寄りかかり座る誠一さんの力のない笑顔は、好きじゃなかった。
「病院、では、その、何と?」
誠一さんが私を見て、視線をそらせた。
「風邪でした……では、信じてはもらえませんよね」
「当たり前ですっ。こんな時に冗談は止めてくださいっ」
つい、感情が溢れ出した。
「本当は、何と言われたんですか? もしかして……」
「肺がんと、言われました」
―――え? 誠一さんは何を……?
私の全てが、停止した。
「末期で手術も厳しく、根治の見込みも難しいそうです」
誠一さんは他人事のように静かに私に言った。
「それ、は、もう……治ら、ない、と言うこと、です……か?」
「……はい」
聞きたくなかった、恐ろしい言葉。私は何も言えず、突然のことに、涙で視界が揺らいだ。体が震えて、声も震えた。
「だ、だから、ですか?」
震える手で、救いを探すように誠一さんのまだ微かに赤の残る手のひらを包み込んだ。
「だから、別れてください、と。もう来ないでって、そう言うこと、ですか……?」
見上げた誠一さんの顔は、靄がかかるようにはっきりと見えなかった。
「僕にはもう残された時間はありません。一緒にいると辛い思いをさせてしまうだけです」
誠一さんの諦めの笑みに、もう自分を抑えられなかった。何日も待ち焦がれた人が、目の前にいる。それだけだった。
「っ! こ、香雪、さん……何を……?」
唇から伝わる確かな温もり。その行為に感じる熱さは何よりも私の胸の中から全身を満たした。
「誠一さんは……私の気持ちを、考えてくれていません」
キスをした。嬉しいのか、悲しいのか、涙だけが気持ちを高める。
「考えました。最後までこのままで良いのか、何日も。それでも、僕には貴方と共に在れる未来がない……負担を強いるだけなんです」
きっと、誠一さんはこれまでの間、私には分らない、苦悩と絶望を味わったのかもしれない。けど、私だって同じなんて言えないけど、悩んでた。それをなかったものにしようとする、誠一さんの言葉は、もう何も聞きたくなかった。
「負担だなんて、決め付けないで下さい」
初めて訪れた時から始まった温かな思いを伝えたい。私が私でいられる誠一さんと一緒に過ごしたい。それが私の幸せなんだから。
「私は……誠一さんといられることが嬉しいんです。傍にいるだけで、私は幸せなんです」
「香雪さん……しかし……」
「そんな言葉は要りません。お願いですから、私に、傍にいさせてください」
これ以上、哀しい言葉は聞きたくなかった。辛い思いをするのは、誠一さんの傍にいられなくなること。私は一緒にいるだけで良い。
誠一さんの小さなため息が、抱きついた私の髪を撫でる。
「誠一、さん?」
「ダメですね、僕は。きっと貴女に酷い傷を与えるでしょう。それでもこうしていることに幸せを感じてしまう」
背中に回された誠一さんの腕に、私から力が抜けていく。胸の中はこうも幸せなものなのだと、いつもの笑みを見せてくれた誠一さんに、私の中から愛しさが溢れた。
それから、月日は長いようでそう長くはなかった。
私は学校が終わってから誠一さんを手伝い始めた。好きな人と同じ時を過ごせる幸せが何よりの宝物だった。
誠一さんは日に日に悪化する体に、悲しむことも荒れることもなく、心から嬉しそうに笑う。をれを見ているのは辛い。でも、誠一さんがそう努めているのであるなら、それを支えるしか出来ない。
「誠一さん、今日はもう閉めちゃいますね」
誠一さんは、椅子に腰を下ろして、ただお客さんと静かに言葉を交わす。いつものことなのに、私には哀しかった。まるでお客さん一人一人にお別れをしているように見えたから。けれど、誠一さんの笑顔の前で、私は努めた。
誠一さんが笑顔なのだから、私もそうあるべきだと、言い聞かせて。
「香雪さん、いつもありがとうございます」
「どうしたんですか? 私は好きでやっていますから、平気ですよ」
静かな店内で食器の片づけをしていると、誠一さんが笑顔で私に言う。それがむず痒くて、私もつられて笑顔になる。
「貴女と出会えて、僕の傍にいてくれたことがですよ」
キュンと、痛くない胸の締め付けが嫌じゃなかった。少し恥ずかしいけれど。
「誠一さん……」
冷たい水が、少し温かく感じる。
「自分でも驚くほどに自然に、貴女とは会話が出来ました。拙い会話から、色々なことを話せるようになった頃でしたね、香雪さんからこの手紙を頂いたのは」
「誠一さん、それ……持っていらしたんですか?」
誠一さんが取り出した一通の手紙。それは見覚えがあって急に恥ずかしさで顔が熱くなる。
「僕が女性から頂いた、初めての手紙ですから」
誠一さんが手紙を取り出して、思わず恥ずかしくなる。誠一さんの初めての女性ということと、手紙の内容のどちらかは分らなかったけれど。
「せ、誠一さん、何を?」
「香月誠一様」
ドキッとした。誠一さんが手紙を取り出し、それを私の前で開き、口が文字を追い始めた。
「突然のお手紙、失礼します」
「せ、誠一さんっ。だっ、ダメです」
思わず誠一さんの手から、手紙を取り上げる。
「……ダメ、ですか?」
「は、恥ずかしいですから」
「では、読むだけでは、ダメ……ですか?」
「く、口には出さないで下さいね? 約束ですよ?」
小さく肯く誠一さんに、私は手紙を誠一さんに差し出す。すごく恥ずかしいけれど、大切に持っていてくれたことが嬉しいと思うほうが強かった。
誠一さんは受け取った手紙に視線を落としたままで、私は残りの仕事に戻る。
【香月誠一様
突然のお手紙失礼します。今日は香月さんのお誕生日と言うことでこのようなお手紙を書こうと思いました。お誕生日おめでとうございます。いつも美味しい珈琲とケーキをありがとうございます。
香月さんはどこか私と似ていて、香月さんと過ごす時間は、私の日々をとても充実させてくださいます。
それで、今日、このようにお手紙を書かせていただいたのは、香月さんに伝えたいことがあったからです。
香月さんと過ごす時間が増えるたびに、このままずっと香月さんといられる時間があるなら、どれほど幸せなことだろうと最近はよく考えてしまいます。もし、香月さんに今、心に決めた方がいないのでしたら、私と、お付き合いしていただけませんでしょうか? お返事は急ぎません。私はいつでも構わないので、この気持ちを先にお伝えしたく、お手紙を書かせていただきました。】
そんなことを書いたような覚えがある。恥ずかしくて、何度も途中で書くことをやめ、けれど直接言える強さはなくて、緊張しながらやっと書いた手紙。
「香雪さん」
「……は、はい?」
振り返ることが出来なかった。静かに手紙を畳む音がして、背中で返事をした。
「僕は……あなたと出逢えて、良かった。沢山の、宝物を、ありがとうございます……」
背中から伝わるキュンとする温かな言葉に、私は水洗いする食器を滑り落としそうになった。
「わ、私も、そうです。誠一さんに出会えて、本当に嬉しかったんです。ですからこれか、ら、も……」
振り返った時、覚悟していたことが現実として、ほんの一瞬で、来た。
「誠一、さん……?」
したりと手すりから垂れた誠一さんの手。床に落ちた手紙。眠りに落ちたように俯く顔。穏やかで、心地良い夢に浸るような表情に、一瞬、眠ったのかと思った。
「え? ……だって……今まで……」
そっと、誠一さんの顔に手を当てる。温もりはあるけれど、吐息がいつまでも私の手に触れることはなかった。心臓が恐ろしさに強く脈打つ。感じたことのない怖気に全身に鳥肌が走った。
「そんなっ……誠一、さん……誠一さんっ」
溜まっていた涙が流れ落ちたことにも気づかなかった。何度誠一さんを起こそうとしても、体が大きく動くだけで、もう何も戻ってこなかった。
「わかっ、て……いたん、ですね……」
私の手紙を最後に。誠一さんはそれを知っていたから、これを最後に見た。散々泣いた後に私は、酷い後悔に支配された。誠一さんは分っていたことなのに、私は気づくことが出来なかった。ただ、いつものように恥ずかしいと思っていただけなのに。
「私……私……っ」
伝えたかった。伝えるべきだった。誠一さんは私の告白を、最期に持っていった。なのに、私はそれを直接伝えてあげられなかった。言うべきだったのに。
その後も沢山泣いた。立ち直るなんて出来なかった。
亡くなった人は星になると、昔聞いたことがある。だから、私の大切な誠一さんは、きっとこの星空の一つの輝きとなって、私のことをいつも見守っていてくれると、悲しみを紛らわせるように、私は日常に取り残された。
「ママぁ、ただいまぁ」
「お帰りなさい、香一。おやつはお部屋においてあるからね」
「はーい」
「あ、香一。パパにただいまは?」
手にしたカウンターに置かれた写真。
「パパ、ただいまぁ」
「はい、よく出来ました」
香一が帰ってくると、お店から家の中へと駆ける。ようやく落ち着きを取り戻した頃には、あの子はもう幼稚園にまで大きくなった。あの子が私の全てを持っている以上、私はきっと誠一さんのことを愛していくと、今は香一の胸にあるペンダントに込められた想いに、私も願いを込めた。そこに私にはない、あの人がいる。私たちの子は、これからも輝き続けるのだから、それを守る為に、私はこうして誠一さんのお店に立ち続ける。
伝えられなかった誠一さんへの好きという気持ちが今、私の全てを支えている誠一さんとの子へ、愛していると告白することが、私が私でいられる幸せな時間。