法廷で証人席に立ち、被告人が語り始めた。
「あっしが人をあやめただなんて、とんでもねえこってす。裁判長様、陪審員の皆様。あっしはしごくまっとうな人間でして、十四のときに親方に奉公に入って以来、ひたすらペンキ塗りをしてきました。ウソだとお思いなら、近在の誰にでもきいてみて下せえ。あいつはまじめなペンキ職人だという答えが帰ってくるに違いありません。
先の戦争の時だってそうです。あっしは一兵卒として戦いました。小さいものだが名誉の負傷で勲章までいただいたぐらいで。
え? はい、事件の話に戻ります。すいません。もう脱線はしませんで。
あの日の夕方のこってすが、組合長から急ぎの仕事を頼まれたんです。組合長というのは裁判長様、そこの傍聴人席にいるかっぷくのいい紳士のことでして。あっしの叔父でもあるんですがね。ある橋が工事中なんだが、工事の都合でどうしても今夜中にペンキを塗ってしまわなくてはいけないという話で、その仕事をあっしに頼めないかと言われたわけです。
その前数日は雨続きで仕事にならず、身体がなまっていたこともあって、あっしは二つ返事で引き受けました。道具一式を自転車に積んで、あっしは出かけました。現場に着いたのは、夜の十一時を過ぎたころでした。よいっぱりな猫坂の町もあくびをしかけている時間で、あっしはハシゴをつたって、作業場の足場に道具とペンキ缶を運び上げにかかりました。
でもこのペンキ缶がまた重いのなんのって。建築物専用の特別仕様のやつでね、これを運び上げる苦労ときたら。ハシゴは長く、二十メートルもありまして、これがまた古びたさびたやつで、ぐらぐら揺れるんです。
でも何とかすべてを運び終え、あっしは仕事にかかりました。巨大な橋げたを丸々一つ塗り替えるという仕事だったので、朝までかかる心積もりでした。それを見越して弁当も持ってきていたので、何の問題もないはずでした。あの瞬間までは。
どうやらあっしは、晩飯のときに茶を飲みすぎていたらしいですな。それで、もよおしてきちまったわけです。だけどあっしがいたのは、高い高い足場の上です。地上へ降りるには、またあのハシゴを上り下りしなくてはならないのです。
あっしはごめんでしたね。仕事を終えて帰るときにはあと一回あのハシゴを通るわけですが、それだって嫌で嫌でたまらなかったわけですから。それをもう一回よけいに上り下りするなんて、裁判長様でも怖気をふるわれるでしょうよ。
そういうわけで、あっしは我慢して仕事を続けました。仕事は順調に進みました。でも一時間もたったころでしょうか、どうにも我慢しきれなくなってきたのです。まわりを見回して、絶望的な気分になりました。かなり進んでいたとはいえ、仕事はまだあと四分の一も残っているではありませんか。
これはもうどこかで用をたすほかありません。ハケを置き、あっしは歩き始めました。上からハシゴを見下ろすと、また怖さがこみ上げてきました。法廷の中でくだらないことを言って恐縮ですが、それこそちびってしまいそうな感じでした。そうでなくても、あっしの膀胱はもう満タンだったのです。
別の手を考えるしかありませんでした。見回してもペンキ缶は一つしかありません。しかも中身はまだ入ったままです。これでは使えません。あっしはペンキ缶を置き、足場のすみへ向かいました。そこから見ると、すぐ下に大通りが見えました。月光を受けて、舗装と電車の線路が光っていました。ですが午前二時過ぎのことです。人通りなんて影もありませんでした。あっしは、その場で用をたすことにしました。
ええ、その気持ちよさと解放感ときたら、言葉では表せないほどでした。あっしは上を向きながらいい気分でいたわけですが、下から悲鳴が聞こえてきたのはそのときだったのです。ギャーッという背骨が凍りつくような声でした。
あっしはあわてて下を向きました。そしてあの気の毒な警察官が倒れていることに気がついたのです。
もちろんあっしはすぐに降りていきました。あんまり必死だったので、ハシゴの怖さも忘れていたほどです。そして警察官に駆け寄りました。
警察官はすでに事切れていました。地面がぬれていることに気がつきました。見上げると、自分が用をたしていた足場が真上にあります。
わけがわかりませんでした。でもとにかく人を呼びに行かなくてはなりません。そばに小さな民家があり、戸をどんどんとたたいて家人を起こしました。事情を話すと、すぐに中学生の坊やが自転車に乗って警察署へ走ってくれました。
あっしは道路に戻り、死体をもう一度眺めたのです。死体は、通りの中央を走っている電車の線路の真ん中にありました。明らかに夜警中の警察官で、通りを横断しようとしてそこを通りかかったのでしょう。もう一度見上げるとやはり足場が真上にあり、道路の数メートル頭上ですが、そこには電車に電気を送るための電線がぬれたように光っているのが見えました。
そういうわけであっしは、せんえつながら無罪を主張いたします。立小便をしたことは罪かもしれないが、それで人を逮捕するという法はないはずです。ましてや、それを殺人犯として裁判にかけるなどとは」
長い論述だったが、被告人に続いて、弁護側の証人が裁判官の前に呼ばれた。やせて背が高く白いヒゲを生やし、猫坂では名の通った工学博士であったが、博士は語り始めた。
「裁判長閣下、小生はこれを純然たる事故であると信じます。被告人には殺意などカケラもなかったことでありましょう。また、足場の上から用をたしている瞬間にその下を運悪く人が通りかかろうとは、被告人には予想しえぬことです。
電車の線路の電気は、普段であれば夜中は停止されております。真夜中には電車は走りませんからな。ですがあの夜はたまたま通電試験が行われておったのです。鉄道会社の社員によれば、この通電試験は数年に一度、しかもたった数分間行われるだけのものだそうであります。深夜の塗装作業というのも、同様に数年に一度のことでありましょう。
つまりこれは、深夜の塗装作業、被告人の放尿、たった数分間の通電試験、足場の下を警察官が通りすぎるという百万分の一もないような偶然が積み重なった不幸な事故であるというのが小生の正直な感想であります。
申しそえますれば、人間の尿というのは塩化ナトリウムをはじめ様々な電解質を含んだ液体であり、その通電性たるやきわめて良好と言わざるをえません」
一時間の話し合いの後、陪審員たちが出した結論は、殺人では無罪とし、警察官の死については重過失ありとは認めたが、予見困難につき立小便をしたことへの罰金刑のみとなった。罰金の支払いを済ませ、被告人はその日のうちに釈放された。 |