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十字架の下で

 初めは、病気なのかと思った。


 性質の悪い病に罹って、体力を消耗しているだけだと思っていた。


 だが、ゴルディを一目見てわかった。痛みやダルさに苦しむのではなく、ランプの灯がじりじりと消えていくような儚さ。これは、病気なんかじゃなくて――。


「ゴルディ、タカヒロが、来てくれたよ! もうだいじょうぶだよ!」


 クルミアが、孤児院の床にうずくまるゴルディの体を揺する。その懸命な姿に、俺は真実を告げることを躊躇ってしまう。


 寿命だ。ゴルディは、天寿を全うしようとしているんだ。


 この言葉がどうしても口から出ずに、俺はただ立ちつくすばかり。


 思い返してみれば、ゴルディはクルミアが孤児院に預けられた時から一緒だったと聞いた覚えがある。十歳の少女が赤ちゃんの頃から、すでに成犬だったと。


 それなら、すでに十歳は越えているだろう。十一、十二……下手をすると、十三歳よりも上かもしれない。


 昔、愛犬家の優介から、「小型犬は長生きするけど、大型犬は十歳ちょっとで死んでしまう」という話を聞いたことがある。それが大型犬の限界なのだと。


 ゴルディは、そこに達してしまったんだ。寿命というロウソクの芯がなくなろうとしているんだ。だから、こうして消え入ろうとしている。


 悪いことじゃない。これは自然の摂理なんだ。誰だって寿命からは逃れられない。むしろ、ゴルディは十分長生きした方だ。


 俺は、そういった『理屈』でゴルディの死を認めることができる。しょうがないことだと、納得することができる。


 だけど、まだ子どものこいつに――ゴルディと姉妹同然に生きてきたクルミアに、そういった理屈やルールを押し付けても、こいつは絶対に認めようとしないだろう。


 きっと、他の誰が諭しても、結果は同じはずだ。たとえ、クルミア以外の誰もがゴルディの運命を受け入れたとしても、こいつだけは否定の言葉を繰り返すだろう。


 力なく薄目を開いたゴルディを、何とか立たせようとしているクルミアを見ていると、ありありとその場面を思い浮かべることができる。


 だから、俺は、少し離れたところでクルミアの様子を見守る院長先生のように、言葉一つかけられずにいた。


「タカヒロ、ゴルディ、元気がないよ。お薬でなおすの? スキルでなおすの?」


 クルミアの問いかけには、当然、答えられなかった。


 真実を告げるのは、この上なく簡単だ。ゴルディは、寿命で死ぬんだ。それは変えられない運命なんだ。


 クルミアが認めようが、認めまいが、とりあえずそう告げればいい。諦めろと、ゴルディの死を受け入れろと言えばいい。後は時間が何とかしてくれる。大人になるにつれて、自然と『死』を理解するようになるだろう。


 誰だってそうだ。大人になればなるほど、わからなかったことがわかるようになる。呑み込めなかったことが呑み込めるようになる。


 そして、世の中にはどうしようもないことがあることを知る。それが、大人になるということなんだ。


 そういった意味では、ゴルディの死は通過儀礼のようなものだ。少女が大人になるために、避けては通れないことなんだ。


 だから、告げればいい。ゴルディは寿命で死ぬよ、と。病気じゃないんだから、治すことなんてできないよ、と。


 告げるだけ告げれば、後はクルミアの問題だ。こいつ自身が何とかすることになる。そうすれば、わざわざ俺が思い悩むこともないだろう。


 クルミアの成長のためにも、それが一番いい。


 何度か躊躇いはしたが、もっともらしい理論で自分を納得させた俺は、つっかかりながらもクルミアに真実を告げた。


「あの、な。ク、クルミア。ゴルディは寿命なんだ。お婆ちゃんだから、もう生きられないんだ」


「っ!?」


 絶望と驚愕が入り混じったクルミアの顔。視界の端では、申し訳なさそうな顔をしたルードスさんが頭を下げていた。あの人は優しい人だから、かえって真実を告げられなかったんだろう。


 ――いや、違うな。院長だけじゃない。この孤児院の奴らは、下手にクルミアとゴルディの繋がりの強さを知っているから、どうしても言い出せなかったんだ。


 先ほどまで、言うか言うまいか迷っていただけに、その気持ちはよくわかった。だから、彼らを責めるつもりは毛頭ない。


「ちがうよっ!? ゴルディ、わたしより、ちょっとだけしか生きてないもん! おばあちゃんじゃないもん!」 


 予想通り、クルミアが現実を否定し始めた。下級区には犬を飼うような裕福な家庭は、あまり存在しないからな。『怪我や病気、空腹で死ぬ犬』というものは見たことがあっても、『老衰で死ぬ犬』というものを見たことがないのだろう。


 だが、事実は事実だ。こいつがいくら否定しようが、現実は変わらない。


「いや、お前みたいな犬獣人と違って、犬は十歳ぐらいしか生きられない。ゴルディは十歳以上生きているんだろ? だから、もう寿命なんだ」


「ちがうーーーっ!!」


 吠えるように、クルミアが大声を上げた。


「ちがう、ちがううう……!」


 すでに腫れぼったくなっていたまぶたを押し上げるように、ぼろぼろと涙がこぼれ出す。


 わかっていた。クルミアが泣くのはわかっていた。ゴルディの寿命を告げれば、こいつが泣くのはわかっていた。


 だけど、認めなくちゃいけない。ゴルディの死を受け入れなくちゃいけない。だから俺は、淡々と事実のみを語る。


「違わない。ゴルディはもうすぐ死ぬ。それは、当たり前のことなんだ」


「ううっ、ううううううう……!」


 横たわったゴルディの背に顔をうずめて嗚咽を漏らすクルミア。


 すると、先ほどまで動こうとしなかったゴルディが顔を上げて、ゆっくりと、でも何度もクルミアの腕や顔を舐める。


 慰めているのだろう。今にも死にそうなのに、ゴルディは自分よりもクルミアのことを気にかけていた。


 痛い。胸が痛い。俺はもしかすると、してはいけないことをしてしまったのではないか?


 いや、違う。必要なことだ。誰かが言わなくちゃいけないことだ。俺は、正しいことをしたんだ。


 それでも、今のクルミアとゴルディの姿を見てはいられず、俺はふらふらと孤児院の子ども部屋を出ていく。


 途中、子どもたちの悲しそうな顔を見た。大部屋や食堂で、みな一様に悲痛な顔でうつむいていた。


 クルミア以外には、ゴルディの寿命について知らされていたのだろう。いつもすまし顔をしたニャディアでさえ、ほろりほろりと涙を流していた。


 俺はそれを横目で見ながら、どこへ行くでもなく歩を進める。俺自身も、少なからずショックを感じていたのだろう。やがて、裏庭が見えるバルコニーに辿りついた時、自然とその場に座り込んでしまった。


「すみません……」


 しばらくの間、歓声の絶えた裏庭を眺めていると、後ろから声がかかった。ふり向けば、そこには院長先生が立っていた。


「いいんです」


 事情がわかっているから、お互い、一言で済ませることができる。それでもルードスさんは、何度か俺に頭を下げた。


 それから、しばしの沈黙。時おり聞こえてくる微かな音は、子どもたちのすすり泣く声だろうか。


「他の子には、もう話していたんですね。ゴルディの寿命のこと」


 沈痛な雰囲気に堪えられず、先ほど、少し気になったことを尋ねてみた。


「ええ……クルミア以外には、伝えることができました。ただ、あの子だけにはどうしても……」


「でしょうね。クルミアとゴルディは、特に仲がよかったから」


「いえ、それだけではないのです。あの子と一匹は……いいえ、あの二人は、二人で一人なのです」


「二人で、一人?」


 仲がよいだけではない。それ以上の繋がりがあると、ルードスさんは語る。


「クルミアはゴルディが孤児院に連れてきた、という話はしましたね?」


「はい、前に聞きました」


「その時、ゴルディは死にかけていたのです。寒さと空腹で、その命を散らそうとしていたのです。しかし、ゴルディは赤ん坊のクルミアを見つけ、教会の戸を必死に掻き、吠えました。あの子が知らせてくれなければ、クルミアは誰にも気づかれずに凍死していたでしょう。ゴルディは、死に瀕しながらも、クルミアのことを心配していたのです」


「そう、ですか」


「ゴルディはそれからもクルミアに愛情を注ぎ、母や姉のように見守り続けました。そしてクルミアは、自分と同じようにゴルディを大切にしました。ミケロッティの件で食べるに困っていた時も、ご飯を半分こするから、ゴルディを追いださないで! と言ったんですよ。食いしん坊のあの子が……」


 目の端に浮いた涙を指でそっとぬぐい、ルードスさんは話を続ける。


「あの二人の絆は、他の誰よりも強いものでした。だから、私はどうしても、それを断つことができませんでした。ゴルディにさよならしなくてはいけないと、あの子を諭すことができませんでした」


 そこまで語り、とうとう堪えられなくなったのか、ルードスさんは両手で口元を覆って、嗚咽を漏らし始めた。


 大人の女性の涙を前に、それでも俺の頭に浮かぶのはクルミアとゴルディのこと。


 あの二人の絆。二人で一人という言葉の意味。欠けようとしている半身。喪失感に捕らわれた少女。老犬の、どこか悟った瞳。


「せめて、心の準備をさせてあげたかった。突然の別れを迫るのではなく、ある程度の猶予をクルミアにあげたかった。司祭になっても、私はまだまだ無力です」


 やがて、泣き止んだルードスさんが、自嘲を口にして去っていった。


 それでも俺はじっとバルコニーに佇み、ただ一つのことを考えていた。


 やるか? やらないか? 『力』がある俺にとっては、できるできないの話ではない。それを行う意思があるかどうかの話だ。


 もしかすると、残酷なことなのかもしれない。問題の先送りなのかもしれない。それでも、俺は――。


「検索」


 集中すると視界に浮かぶシステムメニューにアクセスし、


「命の妙薬――エリクサーの材料と精製方法」


 具現化させた@wikiを大きく開いた。






「さっさとお前の心臓をよこせぇぇぇっ!!」


「ギイイイイイイイイ!!」


 陽の光が届かない迷宮の奥底で。


 俺は、レベル230のボスモンスター、エレメンタル・キマイラと戦っていた。


「出せよ!! 抵抗すんな!!」


「ィィィィィィオオオ!!」


 五大元素を操る獅子頭の化け物に、ナイフを突き立てる。そのままぐるりと弧を描くように脇腹に穴を開ける。


 飛び出る鮮血。だが、俺は怯まず、キマイラの『中身』に手を伸ばす。


「ううううううおおおおおおおおおおおおおっ!!!!」


 ぶちぶちぶちと、血管と筋肉、神経が千切れていく音が聞こえる。


 声にならない絶叫も、振り回される剛腕の風切り音も、魔法のブレスが俺の体を焦がす音も、何もかもが聞こえてくる。


 それでも俺は、力の限りにキマイラの中から腕を引き抜き――同時に、心臓をえぐり出した。


「はあっ! はあっ! はあっ!」


 さらさらと魔素の粒子となって消えていくエレメンタル・キマイラ。


 だけど、俺が両手に抱えた心臓は、消えることなく微かに脈打っていた。


「これで、材料は、揃った」


 息を途切れさせながら、俺は頭の中でエリクサーの材料をチェックする。


 いくつもあるエリクサーの精製パターン。そのBケース。必要な材料は、『深山の霊水』、『ユグドラシルの葉』、『高純度触媒』――そして、『キマイラの心臓』。


 材料集めに、イースィンド国内を駆け回った。山を登り、茂みをかき分け、国王の狩猟場も突っ切った。そして、仕上げに、封鎖された迷宮に挑んだ。他の魔物は全て無視して、最下層のBOSSだけを狙った。


 かつて、れんちゃんや優介と巡った材料集めの旅を、たった半日で駆け抜けた。体はボロボロで、貴重な回復薬やアイテムを湯水のように消費した。


 強引ではあったが、おかげで、日が変わる前に最後の材料を入手することができた。


 でも、これで終わりじゃない。グランフェリアに帰って、エリクサーを精製しなければ……。


 迷宮を【脱出】で抜け出して、俺は王都に向けて走り出した。


「こういう時に限ってカンスト連中がいないとか、何の冗談だよ」


 道中漏らすのは、レベル250仲間への愚痴ばかり。


 混沌龍と化したルートゥーの背に乗れば、五分とかからずグランフェリアに着くだろう。メリッサと手分けをすれば、もっと早く材料が揃っただろう。


 だけど、二人とも、今日に限って王都を不在にしていた。前者は飲み会、後者は巡回診察だ。


 なんてタイミングの悪さだ。まるでゴルディの死に運命が味方しているかのようだ。時間の経過とともに、嫌な予感ばかりが浮かんでくる。


「いや、まだだっ! まだ夕方だ! まだ間に合う!」


 まだ日は出ている。そんなに時間は経っていない。それを頼りに、俺はカンストレベルの身体能力を全開にして走り続ける。


 でも、夏空に浮かぶ太陽は、着実に地平線の彼方へと沈んでいって――。


 結局、グランフェリアに着く頃には、すっかり日は落ちてしまっていた。


 魔法の灯りで煌々と照らされる大都会。しかし、灯りが届かない暗闇は粘りつくような黒で、それが俺に『死』を連想させる。


 一度、確かめに戻った方がいいんじゃないか? ゴルディの様子を確かめた方が――。


「駄目だ。急ごう」


 揺れる心に活を入れて、俺は屋根から屋根へと飛び移っていく。


 今、材料を抱えたままゴルディの元に行っても、俺ができることなんてない。時間のロスになるだけだ。俺が今すべきことは、エリクサーを作って、ゴルディに飲ませること。間違えちゃいけない。


 中級区の城壁を飛び越え、俺は自宅を目指す。いや、正確には、自宅の傍にある道具屋を目指す。高度な薬を精製する施設を備えた、道具屋〈アップル・バスケット〉を。


「すみません、アリーシャさん! 工房を貸してください!」


 閉店しようとしていた道具屋の女主人に、駆けてきたままの勢いで頭を下げる。


「あら、タカヒロちゃん。どうしたの? 困り事? いいわよ、遠慮なく使って」


「ありがとうございます!」


 おっとりとした栗色の髪の女性に再び頭を下げて、俺は店の奥に進んでいく。


 勝手知ったる何とやら。何度か手伝いをするうちに、俺は道具屋〈アップル・バスケット〉の構造を把握していた。


 ここでなら、すぐにでも製薬にとりかかれる。そう思って、工房に飛び込んだら――。


「あれ? タカヒロくん?」


「やあ、こんばんは」


 アリーシャさんを若くしたような女性と、ゆったりとした中華風の服を着た老人がいた。


 この店の後継ぎたるミーシャさんと、ルートゥーの知り合いの老龍さんだ。二人は、工房中心の大釜を前に、何やら薬品を作ろうとしていた。


 きっと、アップル・ポーションの改善に取り組んでいるのだろう。熱心なのはいいことだと思う。でも、この一瞬だけは、俺に設備を貸して欲しい。


「すみません、俺に先に薬を作らせてください!」


 我ながら厚かましい願いだとは思った。


「うん、いいよー」


 でも、ミーシャさんは笑いながら快諾してくれた。


「あ、ありがとうございます!」


 彼女に礼を述べて、俺はバッグの中から材料を取り出していく。


 難しいことじゃない。冒険者時代、何度も作った薬だ。超級の薬に比べたら、失敗なんてあり得ない。


 だから、急ぐ。今は時間が最大の敵だ。大鍋に『深山の霊水』を注ぎ、すり潰した『ユグドラシルの葉』を『高純度触媒』で溶かす。両者を一度混ぜ合わせ、強火にかける。


 そして、沸騰したところで、『キマイラの心臓』を入れる。早く溶けろ、早く溶けろとひたすら念じながら、俺は鍋をかき混ぜる。


「エリクサーか。誰かの寿命が尽きようとしておるのかね?」


「っ!?」


 そっと耳元に囁きかけられる言葉。振り返れば、老龍さんが穏やかな顔でほほ笑んでいた。


「え、ええ。そうです」


 興味深そうに鍋の中身を見つめるミーシャさんに聞こえないように、同じような音量で返す。すると、老龍さんはしばらく俺の瞳をじっと見つめ、また、口を開いた。


「一時しのぎに過ぎんが、それでも飲ませるのかね?」


 まっすぐに見つめるその瞳に、俺はうっと言葉に詰まる。


 だけど、俺は決めたんだ。ゴルディにエリクサーを飲ませるって。だから、俺はしっかと老龍さんを見つめ返す。


「それでも、ある程度の猶予をあげたいんです。突然な死に、みんな心の準備ができていない」


 答えはない。老龍さんは、イエスともノーとも言わない。ただほほ笑んで、俺の目を見ているだけ。


 そんな彼の視線に居心地の悪さを感じ、ふっと目を逸らすと――ちょうど、釜の中身が激しく沸騰して、凝縮していった。


「できあがったのう。さあ、持っていきなさい。急いでおるのじゃろう?」


「は、はい」


「よくわからないけど、頑張ってね!」


 ミーシャさんが、手慣れた動作で大釜の底に残った液体をすくい、瓶詰してくれた。


 まだ温かな、ほのかに金色に光る液体。それを受け取って、俺は道具屋〈アップル・ポーション〉を後にする。


 あのレッド・ドラゴンは、何を言おうとしたのだろう? 気にはなったが、ようやくエリクサーができあがった喜びの方が上回った。


 これで、ゴルディの寿命を延ばせる。ちょっとだけだけど……クルミアが、別れを納得できるだけの時間ができる。


 もう少しだけ、あの二人の時間が続く。それが叶うことが自分のことのように嬉しくて、俺は思わず笑顔を浮かべていた。


 待ってろ、クルミア。待ってろ、ゴルディ。今、エリクサーを持っていくぞ。


 中級区を抜け、下級区の屋台通りに沿って走り、俺は下級区の孤児院を目指す。ほどなくして、暗闇の中に浮かびあがる純白の十字架が見えてきた。


 ゴルディはまだクルミアの部屋にいるのだろうか? それとも、大部屋でみんなに囲まれているのだろうか?


 居場所をいくつか思い浮かべながら、俺は孤児院の敷地内に踏み込んだ――すると、教会部分の扉の前に、目的の人物がいた。


 大きな十字架の下で寄り添うように、クルミアとゴルディが丸まって寝ている。泣き疲れてしまったのだろう。クルミアは、俺が近づいても目を覚ます気配はなかった。


 まあ、いい。今はゴルディだ。ゴルディにエリクサーを飲ませるんだ。


「ほら、ゴルディ。エリクサーだ。これでもっと生きられるぞ」


 目だけで俺を見上げてくるゴルディに、エリクサーを差し出す。そして、瓶のふたを開けて、中身をゴルディに飲ませようとした。


「えっ? お、おい、飲めよ。嫌がるなって」


 しかし、ゴルディは激しく嫌がった。


 匂いのせいじゃないだろう。エリクサーに味はない。水のように飲める薬だ。


 なのに、何でこんなに嫌がるんだ?


「毒じゃないって。ほら、飲めるだろう? お前も飲めよ」


 手のひらに垂らして、ゴルディの前で飲んでみせる。


 それでも、ゴルディは嫌がるばかりで……焦った俺は、無理矢理にでもエリクサーを飲ませようとした。


 だが――。


「あ、ああっ!?」


 エリクサーの瓶は、顔を激しく振ったゴルディに弾かれ、地面に落ちてしまった。


 慌てて拾い上げるも、中身は全部土に吸い込まれてしまっていて――。


「ああ……」


 力が抜け、へなへなとその場に座り込んでしまう。


 途端、それまでの疲れがドッと押し寄せ、俺はがくりとうなだれた。


「何でだよ……」


 よかれと思ってしたことを、全否定された気分だ。まさか、エリクサーを弾かれるとは思わなかった。


 普通、動物の方が「生きたい!」という本能は強いもんじゃないのか? 自殺したりするのは人間だけで、動物ならみんな一秒でも長く生きようとするもんじゃないのか?


 だったら、エリクサーを――命の妙薬を飲めよ。飲めば確実に寿命が延びる。もっともっと生きていられる。


 なのに、何でお前は嫌がるんだ……なあ、ゴルディ。


 うなだれたまま、横目で老犬を見る。すると、ゴルディと目が合った。


 先ほどから、じっとこちらを見つめていたのだろう。ただまっすぐに俺を見つめるゴルディ。


 心なしか、その目は老龍のものに似ていた。まるで、子どもを見るような、どこか慈愛に満ちた目と――。


「そういう、ことなのか」


 俺は子どもだったのか? そう問いかけると、ゴルディはふっとクルミアに視線を向けた。


 泣き疲れて眠るクルミア。ゴルディとの別れを嫌がって、泣き喚いた子ども。俺も、そいつと変わりないということなのか?


 あんなに必死になったのは、クルミアのためでも、孤児院の奴らのためでもなく、自分のためだったということなのか?


 親しい犬の死が認められなくて、それを先延ばしにしようとした。肝心のゴルディの意思を無視して、無理矢理エリクサーを飲ませようとした。


 何てことはない。覚悟ができていなかったのは俺だったんだ。嫌だ嫌だと喚いて、エゴを押し通そうとしたんだ。


 いや、誰かのためとか、大義名分を盾にしただけ、もっと性質が悪いな。まるで駄々っ子だ。


「すまんな、ゴルディ」


 賢い老犬の頭を撫でると、ゴルディは気持ちよさそうに目を閉じた。


 そのまま、俺はゴルディを――そして、傍らで眠るクルミアを撫で続ける。


 突然の死に心の準備ができていない? よく考えれば、『死』ってそういうもんだ。心の準備なんてできるはずがない。


 俺たちがするべきことは、結果としての死を受け止め、別れの戸惑い、悲しみを乗り越えること。それだけなんだ。


 先延ばしなんて、何の解決にもなりはしない。それを知っているからこそ、シスターも叶わぬ願いであることを前提に、「心の準備」について語ったのだろう。


 それを真に受けちゃって、まあ……今年の春で21歳になったけれど、俺もまだまだ子どもだということだ。


「ゴルディ、気持ちいいか?」


 返事代わりだろうか。「うん」と言うように、しっぽがぱたりと揺れた。


 やっぱり賢い犬だ。だからこそ、己を犠牲にしてもクルミアを助けようとしたし、心穏やかに天寿を迎えようとしているのだろう。


「お前は賢いな……犬ってみんなそうなのか?」


 そういえば、昔、地球にいた頃、優介にこんなことわざを聞いたことがある。


 子どもが生まれたら犬を飼いなさい。

 子どもが赤ん坊の時、子どもの良き守り手となるでしょう。

 子どもが幼年期の時、子どもの良き遊び相手となるでしょう。

 子どもが少年期の時、子どもの良き理解者となるでしょう。

 そして子どもが青年になった時、自らの死をもって子どもに命の尊さを教えるでしょう。


 イギリスのことわざだそうだ。


 犬は、子どもの守り手に、遊び相手に、理解者になり、最終的にはその身をもって、大切なことを教えてくれるのだという。


「まさに、お前のことだな」


 ゴルディはクルミアの命を救った。ゴルディはクルミアの一番の遊び相手だった。ゴルディはクルミアの話は何でも聞いた。


 そして、最後は延命を良しとせず、命の尊さを教えようとしている。


 犬なのに……いや、犬だからこそ、ゴルディはクルミアのパートナーであり続けた。はいはいしていた赤ん坊が、自分で立って歩けるまで、見守り続けたんだ。


「お前のおかげで、クルミアは頑張れてるよ。まんぷく亭でも、看板娘の座を脅かそうとしているんだぜ」


 ゴルディとクルミアを撫でながら、俺は星空を見上げる。


「明るくて、元気で、人気者で……へこたれても、あいつはすぐに立ち上がるんだ」


 夏の夜空には天の川がかかり、月の光にも負けずにキラキラと輝いていた。


「お前がいなくなっても、こいつはきっと大丈夫だ。俺みたいに精神的にヤワじゃない。きっと、立ち直れるさ」


 無数の光に優しく照らされて、俺たちは十字架の下で静かな時を過ごす。


 聞こえてくるのは、遠く離れた屋台通りの喧騒と、孤児院からの生活音。それと、クルミアの静かな寝息だけで……。


「なんだ? ゴルディ、お前……寝ちゃったのか?」 


 動かなくなったゴルディを、それでも優しく撫でながら、俺はそっと囁いた。


「おやすみ、ゴルディ」


 翌朝、ゴルディの体はすっかり冷たくなっていた。




さよなら、ゴルディ。

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