少女の依頼
風呂から出た俺は、夏用ジーンズと白いTシャツに着替え、一階へと降りていく。
階段から玄関まで、一直線に繋がっている廊下。その右側が事務所であり、左側がリビングだ。浴室から追い出した二人が、早くも朝飯を食べているのか、かちゃかちゃと食器の鳴る音が聞こえる。
「はよーっす」
木製のドアを開き、リビングに入る。
「遅いぞ、タカヒロ! 待ちくたびれたわ」
「……先にいただいています」
白いサマードレスを着たルートゥーと、半袖のメイド服を着たユミエルが俺を出迎える。
どうやら、今日の朝飯はベーコンエッグらしい。それぞれの皿に、はみ出しそうなベーコンと、目玉焼きが二つ、のっかっていた。
「早起きしたんだ。ちっとはゆっくりさせろよ」
椅子に座りながら、愚痴を漏らすふりをする。本当は悪夢を見て飛び起きただけなんだが、まあ、わざわざ教える必要もないだろう。
こいつらのことだ。一人寝が怖いなら、添い寝をしようか? と迫ってくるに決まっている。ルートゥーは元より、ユミエルも淫魔に悪い影響を受けているからな。油断を見せれば、『喰われて』しまう。
この歳で子どもなんて作りたくないし、結婚なんてまっぴらごめんだ。何かにつけて夫婦や家族で過ごすとか、悪夢としか思えない。
俺は一人でぶらぶらしていたいんだ。自由万歳。独身最高。束縛されるなんて、フリーライフ(自由な人生)の主人としてあってはならないことだ。
「おっ、このパン、美味いな。クラリスさんとこで買ってきたのか?」
「……いえ、私が焼きました」
「お前が焼いたのか。へー、よくできてるな」
だけど、朝晩と、温かい食事を作ってくれる人がいるのは、素直にありがたい。
ユミエルのおかげで、服やベッドシーツはいつも清潔だし、部屋にはチリ一つ落ちていない。靴はピカピカ、風呂場はカビ知らず。おまけに、疲れた時は肩まで揉んでくれる。
あいつに任せておけば、万事いいようにしてくれる。まったく、ユミエル様々だ。
が、それとこれとは話が別で、いくら家事をしてくれようが、子どもを作ったり、結婚したりする気は更々ない。
そもそも、ユミエルはうちの住み込み家政婦だ。家事をするのが仕事であり、あいつに対する正当な報酬も支払っている。
だから、その仕事ぶりに感謝こそすれ、迫られるがままにゃんにゃんいたすつもりはない。俺は今のままの距離感が気に入っているんだ。
「なあ、タカヒロ? 今日の仕事は午後からだと聞いたぞ? ならば、しばしの間、我の寝室で親睦を深めんか?」
「って、考えてるそばから、距離感を崩しにかかるな!」
白い素肌が目にも眩しい黒髪のロリ龍人ちゃんが、おもむろに俺のひざに乗って、しなだれかかってくる。
こら! デリケートゾーンに侵入しつつある手をどけなさい! お前の立ち入りは許可されていない!
「……ご主人さま? サボりはいけませんよ」
ああ、ワーカホリックメイドさんの目が怖い。
ユミエルの表情が変わらない顔は、見る者によってその意味合いが大きく変わる。今の俺にとっては、般若のようにも見えてしまう。
「ほら、ルートゥー。さっさとどけ。仕事がなくても仕事しなくちゃいけないのが社会人って奴なんだ」
「我と結婚すれば、働かなくともよくなるぞ? 山に帰れば、金銀財宝がいくらでもある。タカヒロが望むなら、養ってやろうではないか」
「俺はヒモか! ったく、馬鹿言ってないで外で遊んでこい。今日は地中海の友だちに呼ばれてんだろ?」
「おお、そういえばそうだった。シーサーペントの連中に宴会に呼ばれているのだった」
ぴょんと俺のひざから飛び降りたルートゥーは、てててっと軽い足音を立ててリビングを出ていった。
きっと、私服用のドレスから、他所行き用のドレスへと着替えるのだろう。あいつが持ちこんだ数々の衣装によって、俺んちの一室はウォークインクローゼットと化している。
本当は空いている三階の部屋全部、衣装部屋にされそうだったんだが、それだけは何とか止めさせた。もしもれんちゃんや優介の部屋までドレスで埋めてしまえば、あいつらが帰って来た時に唖然としてしまうだろう。
だから、衣装を収める部屋は、一室だけ! この条件が飲めなければ問答無用で追い出すと伝えているため、今のところは混沌龍の侵略を防げている。
「では、行ってくるぞ。夜には帰る」
「はいはい、行ってらっしゃい」
見送りをせがまれたので、ルートゥーの後に続いて屋上庭園に出る。
フリルたっぷりのブルードレスに着替えたルートゥーが、ばさりと翼を羽ばたかせ、ふわりと空へと浮かび上がる。さすが混沌龍。龍人の姿をとっていても、空を飛ぶのはお手の物ということか。
「おお、そういえば! イヴェッタから、こういう時はおでかけのキスをするという話を聞いたぞ。さあ、来るがよい。熱烈な口づけを交わそうぞ」
「アホなこと言ってないでさっさと行け」
後ろ手に屋上のドアを閉め、俺は振り返らずに階下への階段を下りていく。
ったく、イヴェッタさんときたら……ロリっ子どもに変なことを吹き込むなと、一度ビシッと言っておかなくちゃいけないな。
「さて、午前中は何をするかな」
とんとんと階段を下りながら、今日の予定について考える。
午後からは荷運びの仕事が入っている。それが終われば、港で水揚げの手伝い。最後はエルゥんとこで実験のサポートだ。
……何気にすることが多いな。これはちょっとめんどくさいかもしれない。
バランスをとるためにも、午前中は休んでおいた方がいいんじゃないか? うん、そうした方がいいな。
仕事を探して駆け回るよりも、英気を養ってから、万全の状態で午後の労働に臨む。これが、労働者としてあるべき姿だろう。
「そうと決まれば……」
「……そうと決まれば、何ですか?」
「うっ!?」
一階へ向かっていた足を止めて、再び階上へ上ろうとした。だが、二階の洗面所からぬっとユミエルが現れて、俺は思わず凍りついてしまう。
「……そうと決まれば、仕事を探しに行こう、ですよね? ご主人さま」
階段の上から俺を見下ろす、お仕事大好きメイドちゃん。その目は心なしか冷たく、右手にはいつの間にか短鞭が握られていた。
その先端を左手でギュッと引っ張っては、パッと放すユミエル。その度に短鞭は柱にぶつかって、ピシリ、ピシリと乾いた音を立てる。
つい最近、不思議な力でレベルアップを果たしたユミエルが本気を出せば、『ピシリ』では済まないだろう。肉が弾けるような幻聴が聞こえ、俺の体はぶるりと震える。
「……さあ、事務所へ行きましょう。することがなければ、帳簿の整理を手伝ってください」
「はい」
階段を下りてくるユミエルに連行されて、俺はすごすごと一階の事務所へと向かう。
「……では、これと、これと、これをお願いします。私は、先に家事を終えてきますね」
「うっ、マジかよ……」
そして、事務所内の滅多に使わない俺の席に腰を下ろすと、机の上にどさどさと山のように帳簿が積まれていく。
顔を上げると、そこには無表情のユミエル。その右手には、まだ短鞭が握られている。つまりは、これを片付けろということなのだろう。
読み書き計算は、俺がユミエルに教えたぐらいだ。帳簿の整理も、一つぐらいなら余裕でこなせる。
ただ、この量はよろしくない。見ただけで頭が痛くなってきそうだ。いかんな。こんなことなら、仕事を探しに行ってきます、と外に出りゃよかった。
後悔先に立たずとはまさにこのこと。一度仕事を与えられたからには、逃げ出すこともできない。斥候職のくせに逃亡失敗とか、何やってんだ、俺は。
……まあ、ぐだぐだ言っててもしょうがないか。さっさと片付けて、昼休みの時間を伸ばすとするかな。
腹をくくって、帳簿の山に改めて向き合う俺。そして、エプロンのポケットに短鞭を仕舞うユミエル。こうして、今日もフリーライフの一日は始ま――。
「タカヒローーーっ!!」
りそうで、始まらなかった。
仕事にとりかかろうとした俺の決意を遮るような形で、一人の少女が事務所の玄関から飛び込んできた。
引き締まった大きな体。ベビーブロンドの髪の毛。浅葱色のTシャツに、茶色い短パン。
そして、わんこのような垂れ耳と、腰から生えたふさふさとしたしっぽ。
この子の名前は、クルミア。下級区のブライト孤児院に住んでいる、犬獣人の少女だ。
「タカヒロ、タカヒローっ!」
クルミアは、俺の顔を見るなり、ラグビー選手顔負けのタックルをかましてきた。椅子に座ったままの俺は避けることもできずに、大きなわんこの突撃を受けてしまう。
「うぐっ……お、おいこら、クルミア。いきなり何だ」
十歳の誕生日を迎えて、孤児院の年長組の仲間入りを果たしたクルミア。声帯がしっかりしてからは、言葉もうまく喋れるようになったし、まんぷく亭で働くようにもなった。
それに伴い、人目もはばからずに甘えてくることも少なくなっていった――と、思っていたんだが。
ここまであからさまに甘えてくるとはな。背中に回された手にはギュッと力がこもって、胸まで押し付けてくる。おまけに、足まで絡めてくるし、俺の肩をべたべた濡らすし、本当に困った奴だ。
……って、んん? 何で肩が濡れているんだ?
「タカヒロ、タカヒロぉ」
「何だ、お前、泣いてるのか?」
どうにも様子がおかしいと思って引きはがしてみたら、クルミアの奴、ぼろぼろ涙をこぼして泣いていやがった。
「どうした、またケビンと喧嘩でもしたのか」
「ちが、ちがう、の……」
涙で言葉を詰まらせながら、クルミアはふるふると首を横に振る。
「朝っぱらからミケロッティの気持ちわりー笑顔でも見たか」
「ちがう、の。ちがうぅぅぅ」
また泣きだしてしまった。大きな体の幼女わんこは、俺の胸に泣きっ面を擦りつけるようにして、くぐもった泣き声を上げた。
困ったな。いつもにこにこ笑っているこいつがここまで泣くのは珍しいことだ。俺には院長先生みたいな包容力なんてないから、どうやって泣き止ませていいのかもわからない。
とりあえず、背中を撫でてはいるが……さて、どうしたもんか。
「そもそも、ゴルディはどうした? お前が泣いてるのに、何で近くにいないんだ?」
そうだよ。クルミアの姉代わりみたいなあのゴールデンレトリバーは、どこをほっつき歩いているんだ?
孤児院でも、小さな子が泣いていたら飛んでいって慰めていただろう。それが、クルミアだけをほったらかしにするとは思えないんだが。
「ゴルディ、の……」
ようやく顔を上げるクルミア。その顔は涙とよだれでぐちゃぐちゃに汚れて、悲しそうに歪んでいた。
ふと、嫌な予感が頭をよぎる。
泣きじゃくるクルミア。ここにはいないゴルディ。もしかすると、という気持ちが、みるみるうちに膨らんでいく。
「ゴルディの、元気がないの。あさご飯も、食べてくれないの」
その予感を辿るように、クルミアが不吉な言葉を口にする。
「お、お母さんが、【ヒール】使ったけど、おきてくれなくて」
予感が確信へと変わっていく。クルミアの言葉が、一つの事象としてまとまっていく。
「このままじゃ、ゴルディが死んじゃう! タカヒロ、たすけて」
「ゴルディが、死ぬ?」
言葉にして、改めて事態の重さを知る。
あの犬が、死ぬだと? いや、まだそうと決まったわけじゃない。たまたま、調子が悪いだけなのかもしれない。
「おこづかい、ぜんぶあげるから、ゴルディをたすけてぇ……!」
依頼のつもりなのだろうか。ポケットからわずかばかりの銅貨を取り出したクルミアが、それを俺に押し付けてくる。
「と、とにかく、ゴルディに会いに行こう。ここにいたままじゃ、何もわからん」
クルミアの手を押し戻し、俺はブーツに足を突っ込む。
そうだ。ここでうだうだしていても、何が起きているのかを知ることはできない。治療を行うにしても、肝心のゴルディを見なければ何も始まらない。
だから、俺はまだぐずついているクルミアの手を引き、孤児院へと向かう。
「そういう訳だ。後のことは頼んだ!」
「……かしこまりました。万事お任せください」
右手を胸に当て、ペコリと頭を下げるユミエル。
そんな頼りになるメイドを背にして、俺はクルミアを連れて駆け出していった。
活動報告にて、イラストレーターの森繁さんからいただいたイラストを紹介しております。
ぜひ、チェックしてみてください。