絆
濃い紫の霧の中。
ユミエルは一人、立ちつくしていた。
(私はどうしていたのだろう)
いくら考えても思い出せない。自分が何をしていたのか。どうして自分はここにいるのか。
(帰らなければ)
訳の分からぬまま、どことも知れない場所にいてもしょうがない。ユミエルは、何でも屋〈フリーライフ〉の住み込み家政婦。やらなくてはいけないことは、山ほどあった。
(ご主人さまに、ご飯を作ってあげなければ。依頼も取って来なくてはいけない。洗濯物も、干したままだった)
次から次へと、心配事が浮かんでくる。家事に、仕事に、主人の世話に。人には任せておけないことばかりだ。
(ご主人さまは、放っておけば出来合いのものばかり食べてしまう。依頼も、積極的には取って来ない。家事なんて、ルートゥーさんもしないだろうし)
ユミエルは、自分がいなければフリーライフがどうなってしまうのか、よく分かっていた。グランフェリア中級区にある三階建ての店舗兼住宅は、貴大やルートゥーに任せておけば、一月も経たない内に荒れ果ててしまうだろう。
(ご近所さまに悪く言われてしまう。ご主人さまの評判が下がってしまう)
ただでさえ、駄目店主だとか、物ぐさ者と言われている貴大だ。冒険者たちに至っては、ネズミとまで呼ばれて蔑まれている。これ以上、彼の評判を落としてしまえば、どうなってしまうことやら。
(それは、我慢できない)
主人が不当に辱められるのを、ユミエルは好まない。彼女は、貴大の悪いところもよく知っていたが、同じぐらいに、いや、それ以上に、彼の良いところも知っていたからだ。
何も知らない人間が、噂だけで貴大の悪口を言うのが、ユミエルは我慢ができなかった。だから、彼女は、歩く。紫の霧をかき分けて、前へ、前へと歩く。
しかし、霧は濃さを増すばかりで、前へ伸ばした両手の先すら見えなくなっていく。ねっとりと絡みつくような霧に、のどの奥を撫でられるような感触すら覚える。
それでも、ユミエルは、前へと歩く。自分の家を目指して。何でも屋〈フリーライフ〉を目指して。そして、主人と自分がいるべき場所を目指して。
『そんなにあの人が大事なのですか?』
「……誰ですか?」
霧の向こうから、声が聞こえる。濁ったような、反響したような、女の声がかけられる。
誰だろうか。ここに自分以外の誰かがいるのか。問いかけてみるものの、返事はこない。その上、何の気配も感じない。幻聴か何かだったかと判断し、ユミエルはまた歩き出した。
『そんなにあの人のところに帰りたいのですか?』
「……どこにいるのですか?」
辺りを見回すが、当然、目に見えるのは紫色の霧だけ。人影も、誰かの輪郭も、浮かび上がってはこない。
だが、感じる。先ほどとは違って、誰かの気配がする。自分に意識を向ける、何らかの存在を感じる。
ユミエルは、霧の中の気配に向かって、再度、声をかけた。
「……姿を見せてください。そこにいるのでしょう?」
『姿を、見せる? いいですよ。そんなに見たいのなら、見せてあげましょう』
すると、現れる影。紫の霧が濃縮するように凝り固まり、人の形を成していく。
そして現れたのは――――
「……私?」
そう、ユミエルだ。少しだけ薄くなった霧の中に現れたのは、彼女自身。まるで鏡像のように瓜二つの少女が、ユミエルの前に立っていた。
『そう、私は、貴女。貴女は、私。私は、もう一人の私』
自分はユミエルだと名乗る少女は、ほほ笑むこともせず、淡々と語る。そんな彼女を前にして、ユミエルは動揺していた。
「……魔物の類ですか?」
ユミエルは、貴大から人の姿を真似る魔物について、聞いたことがある。現れた鏡像は、それではないのか。そう疑ってかかるが、相対する少女はゆるゆると首を振った。
『違います。私は、貴女が望んだ私。力強い私。守られなくてもいい私』
「……私が望んだ、私?」
思い当たることがあった。そうだ。自分は、強くなるために、何かをしたのだった。その結果として、この場所に立っている。
だが、それ以外が思い出せない。何故、自分は強くなろうと思ったのか? そのために、どのようなことをしたのか? ユミエルには、どうしても思い出せなかった。
『簡単なことです。私は、ご主人さまのために、強くなろうと思ったのです』
「……ご主人さま」
呟いてから、そうだ、と腑に落ちる思いがした。そうだ。そうだ。自分は、主人のために、貴大のために、強くなろうと思ったのだ。
――――でも、何故? またも断絶する、記憶と想い。
自分が強くなることが、何故貴大のためになるのか。どうしてそうしようと思ったのか。頭の中を探っても、まるで今の自分のように、霧に包まれているかのように思い出せない。
分からない。思い出せない。答えの出ない思考に沈むユミエル。
そんな彼女を手助けしたのは、またも彼女自身だった。
『思い出せないのですか? では、教えてあげましょう』
霧の中に現れたユミエルは、ユミエルの目を見て、語る。大事なことを教えるかのように、真摯な口調で語る。
『私が強くなろうとしたのは、ご主人さまのため。ご主人さまを、殺してあげるためですよ』
「……ご主人さまを、殺す……!?」
驚きに身を硬くするユミエル。しかし、鏡像は彼女の強張りを解すかのように肩に手を置き、そっと耳打ちしてくる。
『おかしなことではありません。それは、ご主人さまのためなのです』
貴大のため。その言葉に、ユミエルはほんの少しながら、心の隙を見せてしまう。その隙間に滑り込ませるように、鏡像は話を続ける。
『心が脆いご主人さま。ちょっとしたことで傷つくご主人さま。何もかもを面倒くさがるご主人さま。きっと彼は、このまま生きていてもいいことなんてありません。だから、楽にしてあげるのです』
「……そんなことは」
『そんなことはない、ことはない。それは、誰よりも傍で見ていた貴女が、一番よく知っているでしょう?』
鏡像の語りかけに、確かにそうだ、と思ってしまうユミエル。初めて会った時も、貴大は傷ついていた。親友と戦った時も、彼は心を挫けさせた。
体は強くても、精神面はとても脆い。それが、佐山貴大という人物だと、ユミエルは誰よりも理解していた。
『だから、私は強くなろうと思った。彼を楽にしてあげるために。彼の命を終わらせるために。そのために、強さを求めた。そうでしょう?』
「……そう、でした」
催眠術にかかったかのように、こくりと頷くユミエル。
そうだ。そうだった。もう、貴大が落ち込む姿も、彼が涙を流す姿も、見たくはなかった。だから、殺すのだ。楽にしてあげるのだ。もう泣かないように。もう傷つかないように。
それが、自分にできる唯一の恩返し。貴大に渡せる、最大の贈り物。
『そのための力は、もう身についています。ほら、自分の手を見て?』
言われるがままに右手を上げる。すると、白かった肌は濃い青色に染まり、爪は鋭く尖っていた。
『驚かないで。貴女は望んでそうなったのです。その姿を、受け入れて』
鏡像も、ユミエルに合わせるかのように姿を変えていく。肌は青く染まり、爪や歯は鋭く尖り、側頭部には角が生える。
ああ、これが、今の自分の姿なんだ。望んで得た力と、それを振るうに相応しい姿なんだ。
ユミエルは、熱に浮かされるように、自分の頬に、変異した手を当てた。チクチクと肌を刺す爪が、何だか心地よかった。
『理解できましたか? では、帰りましょう。ご主人さまが、待っています』
「……帰、る」
霧がぽっかりと口を開き、その先に、見覚えのある光景が浮かんだ。
それは、何でも屋〈フリーライフ〉。自分たちの家であり、唯一無二の居場所でもあった。
『ほら、ここを潜って。そして、玄関を開けて。ご主人さまにただいま、と言いましょう』
「……ご主人、さま」
愛おしい響きに吸い寄せられるかのように、ユミエルはふらふらと歩いていく。
魔素に犯され、変異したままの体で。人を殺すために変化した、爪と牙を鳴らしながら。
ユミエルは、貴大が待つ家へと帰っていく――――
『そう、帰るのです。家に帰って、ただいまと言って……ご主人さまを、殺すのです』
「……分かり、ました」
その答えに、鏡像はにたりと表情を歪めた。決してユミエルが浮かべないような、いやらしい笑みで。魔性をそのまま形にしたかのような嘲笑で。
だが、その顔は、直後に驚愕で大きく歪むこととなる。
『な、ん……で?』
彼女の胸には、ユミエルが突き出した腕が突き刺さり、背中で大きく弾けた傷口からは、液状の魔素がぼとぼとと零れ落ちている。
彼女は、信じられなかった。ユミエルは力に溺れていたはず。その身に許容限界を超えるほどの魔素を取り込み、魔物へと転じていたはず。
意識を、魔物としての人格――――自分へと明け渡すのも、時間の問題だった。現に、自分の言うことを疑おうともしていなかった。
それなのに、何故? 鏡像は、醜く歪んだままの顔で、ユミエルを睨みつける。
「……ご主人さまは、」
刺し殺すかのような視線を真っ向から受け止め、ユミエルは口を開く。
「……貴女が言う通り、精神的に脆い人です」
『でしょう!? だから、だから私が!』
鏡像はもがき、ユミエルに言葉をぶつける。その言葉に、ユミエルは頷いて、言った。
「……ええ。だから、私が幸せにしてさしあげるのです」
そのままユミエルは、鏡像から腕を引き抜き、自分の居場所へと帰っていった。
その身体は元へと戻り、鏡像は魔物の姿のまま、魔素の粒子に砕けて消えていった。
帰ってきた。自分は帰ってきた。夢うつつの空間から、自分の居場所へと帰ってきた。
ユミエルは、いつかの貴大と同じように何でも屋〈フリーライフ〉を見上げ、「ただいま戻りました」と口にして、玄関の扉を開けた。
すると、右手のリビングの方から、賑やかな声が聞こえてくる。その中には、貴大の笑い声も混ざっていて、その響きに、ユミエルはホッと胸を撫で下ろした。
(よかった。すっかり良くなられたのですね)
彼女は、一週間ほど前の出来事を思い出す。常軌を逸した目で爽やかに笑う貴大。彼は狂ったように働いて、その後に、ばたりと倒れた。
もう、あのような悲劇は起こさせない。主人の害となるものは速やかに排除し、もしも主人が倒れたとしても、ただちに癒す。
そのために身につけた力だ。妖精たちから授かった力だ。今はまだ力が及ばないかもしれないが、自分にできる限りのことはしよう。更なるレベルアップも頑張ろう。
貴大の隣に立つために。本当の意味で、彼のパートナーとなるために。そのための努力を、欠かさないようにしよう。
(でも、今は)
全快したであろう貴大の、快癒祝いをするのが先だ。ジャガイモのポタージュを作ろうか。それとも、コンソメで煮込んだおかゆを作ろうか。
いずれにせよ、病み上がりだから、胃に優しいものを作らなくてはならない。そう考えながら、ユミエルは、リビングの扉を開いて――――
「先生、薬酒のおかわりはいかがですか?」
「おっ、いいねぇ~。蜂蜜を入れて、お湯で割ってくれ」
「分かっておりますわ。はい、どうぞ♪」
「んぐっ、んぐっ、んぐっ……ぷはー! あー、沁みるなあー! この薬草臭さも、癖になるわ」
「タカヒロー。つまみも食べなければ、胃に悪いぞ。ほら、我が手ずから食べさせてやろう。あ~んだ、あ~ん」
「あ~ん……んん、フレッシュチーズのカナッペか。それに、このしょっぱいのって、キャビア? 俺、初めて食ったぞ」
「そうなのか? では、もっと食べるがよい。何なら、口移しで食べさせてやろうか?」
「お、おい、よせよ。ああ、でも、酒もつまみも、うまいなあー。何だか俺、すっかり良くなってきちゃったぞ!」
「……ご主人さま。ただいま、戻りました」
「あ~、ユミエルか? お前、どこ行ってたんだ……よ……!?」
バチン! バチン! と、音を立てて迸る電流。震える空気に、ガタガタと揺れ出す椅子やテーブル。
ユミエルを中心に渦巻く風に、明滅する魔素ランプ。貴大が手に持つグラスには、ピシリとヒビが入った。
何でも屋〈フリーライフ〉のリビングに、鬼神が降臨した。貴大は、直感でそう思った。
「お、お前、ユミエル、だよな?」
姿かたちは変わっていない。声も立ち居振る舞いもいつも通りだ。だが、何かが違う。何かが決定的に違っている。
正体不明の威圧感に貴大は震えるが、ユミエルはさも何でもないかのように受け答えをする。
「……そうですよ。それ以外に見えるのですか? おかしなご主人さまですね」
彼女が一歩踏み出すと、電流も風も振動も収まったが、貴大の背筋を震わせる悪寒は止まない。いや、それどころか、ますます強まっている。
こいつは本当にユミエルか? 疑問と焦りに貴大が固まっていると、
「……ご主人さま。病み上がりだというのに、随分とお楽しみだったようですね」
「ひいっ!?」
ユミエルが、氷のように冷たい目をして、酒の瓶やつまみが散らばるテーブルを一瞥した。
「いや、これは違うんだ。フランソワとルートゥーが、快気祝いだって、色々持ってきてくれて……な、そうだよな、お前ら!?」
貴大は、慌てて、自分を囲んでいた少女らに声をかける。自分が望んだことじゃない、彼女らが全て用意したことだと、証言してもらおうという腹積もりだ。
しかし――――
「あ、あれぇ!? いない!?」
先ほどまで自分にしなだれかかっていた少女たちは、影も形も消え失せていた。まるで初めからいなかったかのように、座っていた椅子すら元の位置へ戻されている。
「……フランソワさんは帰りました。ルートゥーさんは自分の部屋へ戻りました」
「いつの間にっ!?」
少女たちは、剣呑な雰囲気のユミエルの登場と共に、逃げ出したのだ。さすが、大貴族の娘と、名高き混沌龍。危機察知能力は、人一倍だった。
「あわわわわ……!?」
孤立無援の状況に、貴大は一人、縮こまって震える。お仕置きをされるのだろうか。乱痴気騒ぎの罰を下されるのだろうか。
彼は、戦々恐々とした面持ちで、散らかったテーブルを片付けるユミエルを見つめる。
「……ご主人さま」
「は、はいっ!」
テーブルを見つめたまま、ユミエルは主人へと声をかける。それに対し、直立不動で返事をする貴大。
「……この様子なら、もう大丈夫そうですね。明日からお仕事、頑張りましょうね」
「イエス! イエス、マム!」
否定は許さない。言外にそう語るユミエルに、貴大はただ、「イエス」の言葉だけを繰り返していた。
フェアリーズ・ガーデンでパワーアップしたユミエルさん。でも、妖精さんたちは、うまくサポートできなかったので、謹慎解除はお預けだドン!
次のサイドストーリーズぐらいには、解放される……はず。
ユミエルのレベルについては、次章にて。