カリカリとシャーペンの走る音が、教室を支配していた。
私語もなく厳粛な、いつもの授業風景から考えれば信じられない空間がここにはある。
――それも当然か、今は試験中なのだから――。
そんな空気の中だが、俺は問題を眺めることを既に終えて、人間観察に勤しむことにしていた。
対象は、隣の席に座る前川香苗16歳。
性別は女。
スリーサイズは上から順に82、58、78。
引き締まった体は剣道部で鍛えられていて、大会でも賞をもらうほどの腕前だ。
勝ち気な瞳で鼻筋はキュっと高く、手触りのよさそうな黒髪は肩までのセミロング。
簡潔に表現するならば、凛々しい美人といったところか。
性格はそれにともなうように明るく、活発かつ活動的であり、生徒会等の役職に着くこともしばしばある。
ここまで言うと万能に聞こえてくるが、残念ながら頭の方は俺と大差ない。
それから俺との関係は……幼なじみ兼、一方通行の初恋の相手――。
「どうだった?」
「全然だめだった〜」
試験も終わって教室中で似たようなやりとりが繰り返されるなか、隣でひとりへばっている香苗に声をかける。
「香苗。お前どうだったよ?」
「……し、死んだ……赤点確実」
机にへばりついたまま絞り出されたのは、夏休み没収への嘆き。
でも大丈夫、
「俺は一桁確実だから、安心しろって」
俺もだからな。
「……全然安心できないって、それ……」
「まあいつもどおり、一緒に夏の補修生活を満喫しようじゃないかってことだ。楽しいぜ?」
残念ながら今まで楽しかったことはないけどな。
付け足したその言葉に、香苗はようやく机から上体を起こし、こちらをまっすぐに見返してきた。
呆れたような視線だが、それでもなんというか、こうして正面から見つめられると……な。
「……あのさあ香苗」
「ん? 何?」
思わず視線をそらす。だが、口はせっかくの好機を逃すまいと動いた。
「えーと、そのだな……」
「その?」
「あー、だから、うーんと……」
「……あっ、そうだごめんっ! ちょっと約束してたからまた今度にしてっ!」
「おっ、おう」
「ごめんね〜」
要件を伝えようと手こずっている間に、香苗は約束があるからと、カバンを肩にさっさと教室を出て行ってしまった。
尻切れトンボの声が、急に取り残された俺のむなしさに拍車をかける。
また今度伝えれば……っていうのは、すでに飽きるほど心の中でつぶやいた台詞か。
いい加減伝えたいのに、いざという時になってどうしても尻込みしてしまう。
「ちょっといいか?」って一言かけて連れ出せばいいのに……まあ、実際はそれからが本番なわけだが。
「はぁ……俺ってだめなやつだなあ」
「なぁ〜にがだめなのかな」
自分の情けなさに思わずため息をこぼすと、すぐ隣から気色悪い声が耳を叩いた。
「なっ!? お、お前、いつからいたんだよっ!」
振り向いて視界に映ったのは、制服を着た豚…………ならぬ、同級生の村田福美。
ぴちぴちの制服が見る者の涙を誘う、クラスでナンバーワンのウェイトをもつ女。
容姿については『残念ながら……』としか言いようがなく、あえて褒めるならば、相撲が強そうという点だけだろう。
「いつからって、最初からだよ。しっかり聞いてたよ〜」
福美はとぼけた顔をして、聞いてるこちらが無性にいらいらする声で答えた。
……くっ、最初からだと? 存在感は十分すぎるくらい大きいのに、どうして気がつかなった……。
だいたい盗み聞きなんて趣味悪「ねえ、あんたって香苗のこと好きなんでしょ?」
――――衝撃的な告白が、思考をさえぎる。
一瞬胸の辺りがひやりとして、その言葉の意味が頭に入ってきた途端、顔がカッと熱くなった。
「は、はあっ? ど、どうしてそんなことを……」
「知らぬは本人ばかりなりってねえ。あれだけばればれじゃあ、鈍感な香苗にも分かってるかも」
「なっ……!?」
とぼけようとしても、『香苗にも、ばればれ』というキーワードが無防備だった心に突き刺さる。
う、嘘だろ? あの鈍感な香苗にもばれてるだなんて……俺ってそんなに分かりやすいのか?
そして俺の戸惑いを楽しむように顔をゆがめた福美は、更にこう言い放った。
「よかったら、手伝ってあげよっか」
「……それで、どうしようって言うんだ」
「んーん、んうんんん、うんん」
「食いながらしゃべるなっての!」
それは学校帰り。最寄のコンビニの前に、俺たちは立っていた。
福美が、告白を手伝う条件として豚まんを要求してきたからだ。しかも五つも。だから太るんだよ。
こんなことに金を使うのは馬鹿らしいかも知れないが、今の俺は猫の手でも借りたい状況で、相手が福美といえど協力してもらうことにためらいはなかった。
「んー……んぐっ。……あーっ食った食った。豚まんはやっぱ最高ねー」
そうして800円は見事に福美の腹の中に消えていき、しっかりと条件を満たしてくれたようだ。
満足そうな福美が、豚まんの余韻に浸っているのを少しだけ待ってから、再び話を切り出す。
「…………それで? どうしたらいいんだ?」
「んー? 告白すればいいんじゃない?」
「それが出来ないから相談してるわけだろ」
「んー? じゃあ諦めれば?」
訂正、やはり800円は無駄だった。
「あ、諦めればって、それが出来てりゃこうしてないだろっ!」
「だからさー、ぐだぐだ言ってんじゃないわよ。それでも男?」
「男だよっ!」
「だったら、告白するなら腹くくるっ! 腹くくれないなら諦めるっ! ぶち当たって振られたらそれも仕方ないっ! ……あたしから言えんのはこんだけよ」
「そ、そんな強引な……」
「まあ、がんばんなさいな。告白するってんだったら、応援はしとくかんね」
豚は確かに言うことは言ったといわんばかりの背中を見せて、去っていった。
コンビニの前に一人残された俺が、あまりの処置に呆然とするのも気に留めず。
くそっ何が手伝うだ、あんなのただの精神論じゃないか。俺の800円を返せ。
もっとこう、告白する場面をセッティングしてくれるとか、告白の仕方を考えてくれるとか、そういうのを期待していた俺が馬鹿だったのか……?
道端に落ちている石ころを蹴っ飛ばして、むしゃくしゃしたまま歩を進めた。
教室を出たときは真上にいた太陽がいつのまにか水平線とかぶっていて、長い影が足元から伸びている。
何の気なしに、その長い影をなぞるようにして進んでいく。
そうしてそれの向かうまま行き着いた先は、幼いときによく香苗と遊んだ公園だった。
一緒にこいだブランコも、一緒に逆上がりをした鉄棒も、一緒に転がり落ちた滑り台も、すべてあのころのままで変わっていない。
もう何年ぶりだろう……小さいころはよく遊んだよなあ……今から考えれば、あのころから惚れてたんだろうか……。
そんな懐かしい感慨が、ささくれ立った心を優しく包む。
「あっ……香苗」
その公園で少し休もうかとベンチを目指すと、そこにはなんて偶然だろうか、香苗が座っている。
「ああ、こんなとこで会うなんて……偶然だね」
ベンチに一人腰掛けていた制服のままの香苗の背中は、あたりの景色に染められていた。
俺の声に振り返った香苗の顔が、何かに思い悩んでいるように見えて、夕暮れとともに視界に焼きつく。
「何で、こんなとこにいるんだ?」
いやおうなく高鳴る鼓動を抑えるように、ベンチの反対側に勢いよく座る。
夕暮れの公園で、二人きりというこの状況。告白するなら今しかないと思ったから。
「うん……ちょっとね……」
いきなり切り出すのもためらわれたので、当たり障りのない話題を振る。
何があったのかは知らないが、香苗が悩んでいるのは確かなようだ。
いつものはつらつとした表情は見えず、心ここにあらずというぼんやりとした表情を浮かべている。
「どうしようかなあ」
「何か悩み事か?」
「うん。まあ、答えは出てるんだけど。どう伝えるかがね……」
答えが出ている、か……。
「男なら、ぶち当たるのがいいそうだぞ」
何か伝えたいことがあるならな。
ただ、それは豚の受け売りだけど。
「私、女だし。…………でも、まあそうだね。ぶち当たってみるのもいいかもしれない」
何か吹っ切れたように香苗は、ベンチから立ち上がって伸びをする。
……しまった。豚の言葉の何が効いたのか分からないけど、まずい事に香苗の迷いを断ち切ってしまったみたいだ。
早く、切り出さないと……。
「――さて、それじゃあ私もう帰るから。じゃあね」
「あ、ああ。じゃあな」
こちらを振り返ってさよならを言った香苗は、今度は自分から背を向けて歩き出した。
……あー、またか。せっかくいいシチュエーションだったのに。
結局伝えられない自分が腹立たしくて、去っていく背中を眺めることしか出来ない自分の情けなさに、思わずため息がこぼれた。
『告白するんだったら腹くくるっ! 腹くくれないんだったら諦めるっ!』
このまま香苗を見送ろうとしていたとき、ふと、豚の言葉が脳裏をよぎる。
そのせいか、ここで今追いかけなければ諦めなければならなくなると、不思議とそう感じた。
胸にしみこんできたその思いを、全身で感じた。
――その後は、風にさらわれたかのような一瞬の出来事だったと思う。
足が動いた。
気がついたら、追いかけていた。走っていた。腕を取って、振り向かせていた。
振り返らせた香苗の驚いた表情がとても印象的で、そして、俺は自分が腹をくくっているかも分からないままに、
「香苗……俺、お前が好きなんだっ! 付き合ってくれっ!」
告白した。
――一週間後――
「香苗、一緒に部活いこうか」
「あ、うん……『裕也君』」
夏休み前最後の授業も終わってから、香苗には『裕也君』のお迎えが来ていた。
香苗は周りに人がいるのも気にせず、彼と初々しく手をつないで教室を出て行く。
……あーあー、手なんかつないじゃって、教室にはまだ人がいるってのにお熱いことで。
「ニシシ、本当見事に振られちゃったわね〜。『裕也君』がうらやましいことで」
「うるさい、ほっとけっ」
豚のしゃくに障るからかいも軽く流せるようになってきた、振られて一週間経つ今日この頃。
――事情を知ったのは、振られてからすぐのことだった。
どうやらあのときの香苗の約束とは、今手をつないでいった『裕也君』とやらに呼び出されていたことだったらしい。
それでそのときに告白を受けて、香苗は裕也君と付き合うことを決め、俺は「ごめん」の一言であっけなく振られたわけだ。ちゃんちゃん。
それから、件の裕也君は剣道部の後輩だそうだ。残念なことに俺はさっぱり知らなかった。
「……まったく、知ってたら告白せずに諦めてたのになあ」
「へえ、諦めてたの?」
「…………どうだろうな。やっぱり告白してたかもしれない。だめもとで」
豚に聞き返されると、自分でもそうはならない気がした。
振られたけど、それでも告白しただけで結構すっきりしてるし。あの気持ちを悶々と秘めたままでいるってのは、もうごめんだ。
ただ、香苗と話すときはまだちょっと気まずいけど。
「おおっ、振られると分かって告白とは。振られたことで男前になったねえ、あんたも」
「お前に男前って褒められても、全然嬉しくないな」
カバンを肩にかけて、教室を出る前に豚を振り返る。
『ぶち当たって振られたらそれも仕方ないっ!』
こうして吹っ切れたのも、豚のおかげかもしれないという気になったからだ。
「おい、コンビニ寄るぞ。豚まんくらいおごってやる」
「や〜り〜。特上豚まん5個と飲み物つきだかんねっ!」
「普通のやつを二個だけだっ! 調子のんな豚っ!」
そんなだから太るんだよ、お前は。
まあ、それでも悪くないと感じるのは、今日も豚まんがうまいからだろうか――。
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