藤棚の下、満開の夢
心狂わせた女性が、夢の中に出てくる。
初めは週に一度程度だったのが、三日おきになり、一日おきになり、ここのところは毎日である。どうかすると、昼寝をしている時にも顔を出す。
夢子という名の女性だ。私よりも二つ年上で、昔はたいそう美しかった。顔にはあどけなさが残されているというのに、仕種、喋り方、目付きの到るところに艶めいたものを漂わせ、にも関わらず本人はそのことに気付いている様子はなかった。
その夢子が昔のままの姿で現れる。
目を覚ますと少年じみた切なさに胸が締め付けられ、六十年も昔の恋に改めて溺れそうになる。七十八にもなって、私はどうかしてしまったのだろうか。
「呼ばれているんじゃないのか?」
詳細は伏せ、そのことを二人酒の席でぽつりと漏らすと、舌の癌を歯医者に早期に発見された親友は、楽しそうに笑った。よせよ、と応え、酒を一本奢った。
「そういえば、あいつなんだが」
また一人、親しいものが逝った話を聞く。周りの同世代が次々と病で他界していくのを見たり聞いたりすると、水底から見上げていた筈の月は今、現実的な姿を持って頭上で煌々と輝き、その光が自分にも射し込んでいるのだと感じる。
「少し、痩せましたか?」
妻にそう尋ねられた時には驚いた。どうだろう、と応じた。体重計に乗る習慣はない。それでもふとした瞬間、自分の身の軽さに驚くことがあった。
今日もまた、夢子が出てきた。
私も彼女も昔のままだ。二人で喫茶店に入り、スパゲッティナポリタンを食べている。粉チーズをたっぷり振りかけ、化粧気のない唇を赤く染めながら、夢子は幸福で自由な人のように私を見て笑う。しかし私は、笑い返すことが出来ない。
夢子の本心が分からない。夢子には男がいる。
しかもその男は、夢子の母親の再婚相手なのだ。夢子は抱え切れない秘密を持ち、悩んでいる。苦しんでいる。だから私を必要としている。自分が夢子に深く愛され、求められている訳ではないことを、夢の中の私はよく承知している。
「おいしい」
夢子が笑う。合わせて私もどうにか笑う。窓の外を大勢の通行人が行き交っていた。皆、白っぽい半袖の服を着ていた。夏のようである。何の加減か時々、強烈な光が窓ガラスに当たって砕ける。その度に、眩しさに目の奥が微かに痛む。
「隆くん」
夢子に呼びかけられ、窓の外から視線を転じる。滑らかな舌でぺろりと唇の周りを舐めとってから、夢子は夏の光の中で目を細め、微笑みかけてくる。
「隆くんと、こうやってる時が一番幸せ。何にも考えないでいられるんだもん」
音が絞られ、蜂の羽ばたきのようにしか聞こえない曲が店内には流れていた。私は夢子に見つめられていることに耐え切れなくなり、視線をテーブルに落とす。
それでも夢子は視界の端で、にこにこしながら私を見ている。私の本当の気持ちを知っていることを知らないでいようとする、夢子が。彼女が。
「ずっと一緒にいようね。約束よ」
私は顔を上げ、曖昧に笑った。また、目の奥が痛んだ。約束しなければ、私たちはずっと一緒にはいられないのだ。そうやって言葉で確かめなければ、私たちは。
闇の中で、ふいに目を覚ます。
一瞬、そこがどこか分からなかった。妻が隣のベッドで軽い寝息を立てている。起き上がり、読書灯をつけて目覚まし時計を手に取る。深夜三時十八分。冷気が走り、冬の寒さにそびやかされる。全身に汗をかいていた。風邪を引きそうな程だ。
これまでにない現実味を帯びた夢だった。寝間着を探しながらふと考える。この寝室を覆う闇は夜の闇ではなく、一枚の黒いベールに過ぎないのであり、その向こう側には夢子がいて、スパゲッティナポリタンを食べているのではないか、と。
そして自分はその対面に腰掛け、混乱した思いの中、言葉や想いや過去や未来を押し殺した儘、美しい夢子の笑顔を見つめ、苦しく笑っているのではないか、と。
それこそ、あの冬の日のように。
『こうやっていると、何だかこれまであったことが全部嘘みたいに思える。初めからずっと、あなたと二人っきりで生きてきたような気がするの』
夢子と二人で旅行に出かけたのは、私が浪人生の一九五六年の冬のことだ。
海辺の小さな町に行き、昼の間はぶらぶらと冬の浜辺を歩き回った。人気のない浜辺で寒さに震えながら、流木に腰をおろし、何事かを二人で話した。天気はあまり良くなかった。時折、雲間から漏れる薄日が、辺りを灰色に見せていた。
「旅館に戻りましょ」
夢子に手を取られ、宿に戻る。宿の人間は二人を夫婦のものとして扱った。夢子はそういうことに慣れていた。崖の縁に立つ古びた旅館に仮名を使って部屋を取ったのも夢子なら、宿帳に架空の住所を記したのも夢子だった。
「これも全部、隆くんのお陰なの」
旅に出る二週間ほど前。夢子は川端と二度と会わないこと、関係を断つことを私に約束した。川端は夢子の母親の婚約者で、仙台にある老舗の木工芸店の次男坊だった。夢子の母親より五つ上の四十五歳。ほっそり痩せた、長身の紳士だった。
「あなたが好きよ。あなたがいなかったら私、どうなっていたか分からない」
夢子は旅の途中、何度もそう繰り返した。あなたとやっていくわ、と。一緒に生きていきましょ、と。青森のご両親にも、いずれ挨拶にいくわ、と。
一浪していた青森出身の私は、父や親せきの勧めもあり、母娘二人で暮らしている、遠縁に当たる仙台の吉名家に春から下宿していた。医学部を受験するため、そこから東北大学受験に強いと噂の、市内の予備校に通った。
吉名家の庭には大きな古い藤棚があった。夢子の曾祖父の代からある藤棚で、藤の木の幹は幾重にも固く絡まり合い、そこに流れた歳月を物語っていた。
初めて夢子の家を訪れたその日、藤の花は満開だった。母親に挨拶をし、鞄を部屋に置いて庭に向かう。私は二つのものに打たれる。夢子は見事な藤棚の下のベンチに腹ばいになり、うるさそうに蜂を手で追い払いながら本を読んでいた。
『あぁ、いらっしゃい。あなたが隆くん?』
足音に気付いた夢子が本から顔を上げる。藤色の影が落ちた夢子の顔に、その時、あるかなきかの微かな笑みが浮かんだ。途方もなく、優雅な笑みだった。痛みを伴ったざわめきのようなものが胸に広がるのを、どうしようもなかった。
「ふふ、何にもない部屋ね」
二人で宿泊した旅館の部屋は、広いだけが取り柄の、床の間も広縁もない殺風景な部屋だった。テレビもラジオもない。暖房は部屋の中央に置かれた炬燵と、年代物の電気ストーブだけ。畳の上にごろりと、電話機が置かれているのが寒々しい。
陰鬱な旅館の中、それらのものはそれぞれに独自の言語を持ち、言葉を発しているかのようだった。夢子が悪戯に微笑みかけ、私は情けなく、苦しく笑う。
本当に、色々なことがどうしようもなかった。
『私ね……隆くん。信じられないだろうけど、私もあの人のことが、好きなの。どうしようもないの。苦しいくらいなの。どうしたらいいのか……分からないの』
夢子の母親が風邪を引き、臥せっていた秋の夜。川端と夢子の間に起きたことを、私は問い質さなかった。聞きたくなかった。忘れたかった。
薄い水色のカーテンを開ききると、潮風を受けて汚れ放題になった窓ガラスの向こうで、冬の海が荒れていた。内線で連絡を取り、五時頃から酒を飲み始めた。
「おいしいね」
炬燵に入って夢子と二人、熱燗の酌をし合った。初対面の頃に抱いた、家事の手伝いをしながら気ままに暮らしている地主のお嬢さん、といった印象が、その朗らかに笑う夢子の表情を見ると、少しだけ返ってくる。
その顔が私は好きだった。だからだろうか。共に暮らす中で、無邪気に笑う夢子の風情の中に、時折、微かに思いつめたような大人びた翳りが覗くのに、気付いたのは。だからこそ、あの夏に、夢子は私に秘密を打ち明けたのだろうか。
『あの人が、私のこと、好きだって。どうしようもないって……。ずっと誰かに聞いてもらいたかったの。言いたかったの。でもこんな話、誰にも出来ない』
現実感を失ってでもいるかのように。どこかぼんやりとした、捉え所のないものが、よく瞬く澄んだ夢子の瞳の奥に漂う。初恋が終わる音を、私は確かに聞いた。
それなのに――
「静かね」
毛布にくるまり、抱き合ったまま、二人は崖に当たって砕ける波の音を聞いていた。初めてではないことは、分かっていた。川端のことは忘れよう。忘れるんだ。
川端が夢子を抱いていたとしても、夢子が川端と共に母親を裏切っていた事実があったとしても、何一つ自分には関係がない。自分にそう言い聞かせる。
「こうやっていると、何だかこれまであったことが全部嘘みたいに思える。初めからずっと、あなたと二人っきりで生きてきたような気がするの」
大きな波の音が響き、窓ガラスが震えた。うん、とだけ答えた。
「ずっと一緒にいたいわ。いてね」
当たり前じゃないか。
「約束よ」
あぁ、約束する。
「私がお婆さんになってもよ」
もちろんだよ。
「信じていいの?」
うん、信じてよ。
それから身動きもせず、また二人で波が砕ける音を聞いていた。夢子が両手をつき、覆い被さって来る。夢子の目に張られた温かい膜が、光った。水蜜桃のように産毛の目立つ頬を、零れた雫が濡らす。どうして泣いているの、と尋ねた。
「分からないわ」
そう、彼女は答える。
悲しいの?
「いいえ」
それじゃ。
「多分、嬉しいの」
そう。
「えぇ、」
おばさんは、何にも気付いていないんだ。心配いらないよ。
「でもきっと、あの人……お母さんと別れるわ」
仕方ないさ。
「私のせいで、お母さん、また、一人になっちゃう」
誰のせいでもないよ。それにおばさんには、君と僕がいるじゃないか。
「そうね。本当にそう。私と、あなたがいるものね」
うん、そうだよ。
夢見るように、悲しむように、夢子は笑った。
――それから三日後、夢子は私との約束を捨て、川端と共に姿をくらました。
母親には短い手紙が残されていたが、私にはなかった。
夢子の母親は半狂乱になり、正気を失って病院に運ばれた。数日で退院できたが、快活な筈の人に虚ろな表情が続き、口を開けることが少なくなった。年明けた二月、雪の降る日に母屋の納戸の梁に縄を渡し、縊れた。私が発見した。
辛いことや悲しいことが沢山あったが、どうにかその年、大学には受かった。
いつか夢子が戻って来るような気がして、立派な医者になると両親や親族に約束し、精神の病すら疑われ検査されながらも、私はその家に住み続けた。両親に肩代わりしてもらった家の代金を医者になってから支払い、名義も自分のものにした。
納戸だけは取り壊された。夢子の母親の自殺は内々のこととして処理し、表向きには足を滑らせたことになっている。事実は私の妻も、息子も娘も知らない。
今の家族が何も知らないように。あの後、川端と夢子がどうなったのか。どこで暮らし、何をしているのか。夢子は幸せだったのか、不幸だったのか。生きているのか死んでいるのか。そういったことを私は知らない。調べることもしなかった。
何も知らない儘に、新しい春が訪れる。
夢子が夢に出てきてから、もう半年近くが過ぎた。最近、現よりも夢の世界の中にいることの方が多くなった。だから今日も、私には海鳴りの音が聞こえている。
海鳴りに耳を澄ませば、そこにはもう現実の風景は何一つなく、爪先は炬燵の温もりの中にあり、視線の先では夢子が儚げに微笑んでいるのだ。人の夢のように。
「ずっと一緒にいたいわ、いてね」
何十年も前と同じ科白が聞こえてくる。夢子の声だ。
そして私は、ここで夢子を手放してはならないことをよく知っている。一夜明け、宿を出て、列車とバスを乗り継いで仙台に戻った途端、夢子は川端の元に行ってしまう。永遠に私から、藤棚の下から、この家から離れてしまう。
海だよ。そう私は言う。
二人で海の中に沈もう。いつまでも二人でいよう。
「冷たくないかしら」
平気だよ。抱きしめ合っていれば、直ぐに温かくなる。
「そうね」
怖い?
「いいえ、ちっとも」
ならどうして泣いているの。悲しいの?
「ううん。多分、嬉しいんだと思う」
そう。君がそう言ってくれると、僕も、嬉しいな。
私はそれから夢子の体を抱きしめた。夢子の体は冷たい。自分の体も冷えている。窓の外では小雪が舞っていた。おかしいな、今は春なのに。そう思った時、どこか遠くで、誰かが自分の名前を呼んだ気がした。聞いたことのある女性の声だ。
懸命に、私の名を呼んでいる気がする。そこに壮年の男の声と、女の声が混じった。お父さん、と叫んでいる。泣いている。それが誰の声か思い出せない。
どうしてだろう。まわりが酷く騒がしい気がする。うるさいな、夢子が嫌がるじゃないか。夢子は騒々しいことは嫌いなんだ。頼むから静かにしてくれないか。
「隆くん」
と、夢子が囁いた。
「海の中に行くわ。もうどこにも行きたくない。二人でいたい」
うん、僕だってさ。
私は言い、今度は自分から夢子の手を取った。するとずっとこうやって、夢子と二人だけで生きてきたような気がした。受験を終え、大学を出て就職してからも、結婚してからも、子供が生まれてからも。ずっと、ずっと、二人で……。
二人は並んで色の褪めたカーテンの前に立ち、潮風に汚れた窓を開けた。ぐろぐろとした水面。沈むのは簡単だ。二人でそこから宙に身を躍らせればいい。
「それじゃ、いきましょうか」
うん。
気分はことの他よかった。体は軽く、何よりも手には夢子の手がある。
本当は分かっている。いや、分かってしまった。これが夢に過ぎないことを。だが現実は何一つとして今の自分には関係がなかった。夢子と川端の裏切りを関係ないと言い聞かせたあの日よりも自然に、今の私にはそう思うことが出来ていた。
闇の中では小雪が舞い続け、寄せては砕ける波の音が聞こえている。しかし夢だと自覚した途端、その音もいつしか間遠になり、私の視界は光に眩まされる。
記憶は意識の底にやわらかく、羽のように降り積もる。
巨大な光が溶けた先、藤棚が紫の雫のように滴る、あの日の庭が現れた。
あぁ、と急速な理解が光を射した。眩しいような。どうして人間には、こんなにも深い喜びが与えられているのだろう。それこそ、眩しいような。
そうだ、夢子。夢だ。だから何も終わりの日にいなくてもいいんだ。出会った日に戻ろう。そして、藤棚の下で一緒に夢を見よう。蜂なら僕が追い払うから、君は何の心配もなく本を読んでいればいい。それに飽きたら、一緒にまどろめばいい。
そこには川端もいない。翳りとも憂いとも無縁だ。川端が君に告白をして困らせたりもしない。どうしようもならなくても、いいんだ。記憶の懐で僕らは一緒だ。
「私のこと、恨んでないの」
何故、そんなことを聞くんだ。いや、私の意識だ、私の夢だ。私がそう尋ねさせているんだ。人生の裡には、ある期間にはそういう思いを抱いたこともあった。だが今は、そんな風に思うこともない。悲しいんだ。だからこそ、嬉しいんだ。
『ずっと一緒にいたいわ。いてね』
今度は僕から言うよ。ずっと一緒にいよう。いや、ずっと一緒にいられる生き方をしよう。ここからなら、やり直せる。ずっと一緒に、ずっと、一緒に……。
私の意識はそこで急速に薄れ始める。
静かで満ち足りた、茫々と広がる心地よい闇に呑まれていった。それでも最後に、夢子が憂いを忘れた子供みたいな顔で、微笑んだ気がする。翳りを無くしたあどけない顔で、笑った気がする。ありがとうと、そう言葉を残した気がする。
さようなら、と。そう……。
咲き誇る藤の下に夢子を見つけたあの日から、どれだけの月日が流れただろう。それでも夢子の記憶は私の中に、水のごとく、流れるように連なっていた。
夢子の訃報が届いたのは、縋りついた娘の声に目覚めさせられた、翌々日のことだった。藤棚の下に一度その姿を見たきり、夢子はもう現れなくなった。
残された私は一人、無限に嬉しくも悲しくも思いながら、ベンチに腹ばいになり、煩わしい蜂を追い払って、藤棚の下で今も夢を見ている。