続・魔法について学ぼう
「お主に教えることは何もない」
それは魔祓い師になるための座学の席で、講師であるジュゼッペが一番最初に口にした言葉だった。
講義を聞いているのは、辰巳ただ一人。贅沢にも、彼は最高司祭であるジュゼッペにマンツーマンで魔祓い師となるために必要な知識を教わっているのだ。
いや、「教わっている」のではなく、「教わろうとしていた」が正しい。なぜなら、その座学はこれから始まるのだから。
それなのに。
講師であるジュゼッペの口から飛び出したのは、「お主に教えることは何もない」という言葉。
これにはあれやこれやといろいろと心構えをしていた辰巳も、いや、辰巳でなくても思わずぽかーんと間抜けな顔を晒してしまうことだろう。
「より正確に言うならば、『魔法に関してはお主に教えることは何もない』じゃな。実を言えばの、婿殿の魔法は何かと規格外すぎるのじゃよ」
史上二人目の〈天〉系統の魔力の持ち主であり、自身の内側にある魔力──内素ではなく世界に満ちる魔力──外素を操る外素使い。これだけでも十分に規格外過ぎると言うのに、辰巳にはまだそれ以外にも通常の魔法の範囲から飛び出しているものがあった。
「これまたより正確に言うならば、お主は『魔法使い』ではなく『魔力使い』というべき存在じゃ」
「ま、魔力使い……?」
「左様。お主やカルセから聞いた限りでは、お主が使ったのは魔法ではない。魔法によく似た代物なんじゃ」
辰巳には魔法使いと魔力使いがどう違うのか全く理解できない。だが、ジュゼッペが違うという以上は何かが違うのだろう。
「以前にも説明したと思うが、魔法というものは魔力と呪文の詠唱、この二つがあって初めて魔法として機能する。それは覚えておるかの?」
「はい。確か……こちらの世界へ来た初日にジュゼッペさんとチーコから聞きました」
忘れるはずもない。カルセドニアによってこちらの世界に呼ばれたその日に、ジュゼッペとカルセドニアから魔法に関する知識を少しは聞いた。そして、その時はジュゼッペたちから魔力が全くないと言われて、酷く落ち込んだのもしっかりと覚えている。
「じゃが……カルセから聞いたところによると、婿殿は呪文の詠唱をしていなかったそうじゃな。というより、お主は呪文をまるで知らんじゃろ?」
「い、言われてみれば……」
辰巳は魔法を使う際に必要な、呪文というものを覚えたことがない。というより、書物なりなんなりに記された呪文さえ見たことがない。もっとも、こちらの世界の文字の勉強は始めたばかりで、たとえ見せられてもまだ読めないのだが。
つまり、辰巳は呪文を詠唱しようにも呪文自体を知らないのだ。
「じゃが、婿殿は確かに魔法を使った。いや、魔力を直接用いて魔法によく似た現象を引き起こした、と言うべきじゃな。そして、お主のように魔力を直接用いる者を『魔法使い』ではなく『魔力使い』と呼ぶのじゃ」
仮に魔力をガソリン、呪文をエンジンに見立ててみよう。ガソリンをエンジンに注ぎ込み燃焼させることで初めて自動車が走るように、魔力というガソリンを呪文というエンジンに注ぎ込むことで、魔法という名の自動車はようやく走ることができる。
つまり、辰巳はエンジンを積んでいない自動車に、ガソリンだけを注いでいるようなもの。これでは本来ならば自動車は走らない。
それなのに、辰巳は実際に自動車を走らせてしまった。これがどれだけ異常なことか理解できるだろう。
「過去にもお主のように魔力使いと呼ばれた者は少数ながら存在した。いや、今でも僅かではあるがお主以外にも存在しておるな。とまあ、確かに稀な存在である魔力使いじゃが、これは儂らのような人間や亜人たちに限っての話での。それ以外の生物には案外と魔力使いはおるもんなんじゃ」
と、ジュゼッペは微笑みながらそう告げた。
朝方、座学を受けるために神殿へと出かけた辰巳を見送ったカルセドニアは、新しい家の中の片づけを始めた。
彼女自身は今日は神殿での勤めはない。そのため、今日一日かけて家の中の片づけをする予定だ。
新しいこの家に引っ越したのは昨日のこと。昨日はその引っ越しの後、引っ越しを手伝ってくれたボガードやバースといった親しい人たちと、細やかながらもカルセドニアの手料理で引っ越し祝いを行った。
その祝いの席が終わった後、ボガードとバースは自宅や神殿の宿舎へと引き上げていった──その際、バースが意味深な笑みと共に辰巳に向けて親指を立てていた──のだが、引っ越し疲れと祝いの席で振る舞った酒のせいか、辰巳は思いの外早くに寝入ってしまった。
どうやら、辰巳は酒をあまり飲み慣れていないらしい。加えて、先日の怪我から回復したばかりなのだ。
辰巳が思いの外早くに寝入ってしまったため、少し寂しい思いをしたカルセドニアだが、病み上がりでもある辰巳に無理を言うこともできない。
寝入った辰巳の寝顔を一人にやにやとしながら眺めつつ、その日はカルセドニアも早めに就寝した。
そして一夜明けて今日。カルセドニアはひっそりと燃えていた。実は彼女には長年夢見てきた野望があるのだ。
「夕べはご主人様が早くに寝てしまわれたけど……今日こそは……今日こそはご主人様と……」
その長年の夢を脳裏に浮かべつつ、カルセドニアはその頬を桜色に染める。
ご機嫌に鼻歌などを歌いつつ、家の中をあらかた片づけ終えたカルセドニアは、庭先も軽く掃除しておこうと箒を片手に玄関から外へと出た。
「あら……?」
と、玄関から見える門の向こうで、この近所の住人と思しき数人の主婦らしき婦人たちが、家の方をちらちらと見ながら何かを囁き合っていた。
おそらくは、有名な《聖女》が引っ越してきたらしいということで、近所の主婦たちが集まってあれこれと噂話に花を咲かせているのだろう。
そんな主婦たちの内の一人が、外へと出てきたカルセドニアに気づいてあっと声を上げた。それが切っかけとなり、他の婦人たちも《聖女》の存在に気づく。
──そう言えば、まだご近所に引っ越しの挨拶をしていなかったわ。
そのことを思い出したカルセドニアは、笑顔を浮かべて婦人たちの方へと歩み寄って行った。
「こんにちは。この度、この家に越してきたカルセドニア・クリソ……いえ、カルセドニア・ヤマガタと申します。今後は主人共々よろしくお願いします」
と、カルセドニアは婦人たちに頭を下げる。
今、極めて重大な情報操作が行われたが、当然ながらそのことに気づいた者は誰もいなかった。
「例えば魔獣。魔獣の中には確かに魔法に似た現象を引き起こすものがおる。炎を吐いたり、吹雪を撒き散らしたりと言った具合にの。じゃが、当然ながら連中は呪文なんぞ唱えることはできん。つまり、婿殿が使った魔法──いや、魔法によく似た現象は、魔獣たちと同じ理屈なんじゃな」
なるほど、言われてみればその通りかもしれない。
辰巳はまだ本物の魔獣を見たことはないが、魔獣が人間の言葉を話すとは思えない。もしかすると言葉を話せる魔獣もいるかもしれないが、仮にいたとしてもそれはかなり特異な魔獣だろう。
「では、俺は今後は呪文を覚えないといけないわけですね?」
こちらの世界の文字の勉強に引き続き、魔法の呪文も覚えていかなければならない。果たして自分にどこまでやれるのか、どうにも不安を感じる辰巳である。
だが、やらねばならない。自分は決めたのだ。彼の大切な家族のために、必ず強くなると。そのためならばどんな努力も惜しまないと。
内心で決意を新たにする辰巳だったが、次のジュゼッペの言葉を聞いてその決意もあっさりと霧散してしまう。
「いや、それがなぁ……お主の系統である〈天〉じゃが……過去に使い手が一人しかいなかったことは話したじゃろ? それもその使い手がおったのはかなり大昔の話でなぁ。〈天〉の系統にどんな魔法があったのかという口伝は残っておっても、肝腎の呪文の方は……実は現在には全く伝わっておらんのじゃよ」
古い文献などを探せばもしかすると出てくるかもしれないが、それを探し出すには膨大な時間と労力が必要だろう。現にカルセドニアが発見した辰巳を召喚した儀式魔法も、それを発見するまでにかなりの月日を費やしている。
「え……? そ、それじゃあ……」
「うむ。婿殿は魔法使いではなく魔力使いとして、独自の方法を探しながらやって行くしかあるまいの。じゃから言うたのじゃよ。『お主に教えることは何もない』、とな」
「しかし、サヴァイヴ神殿の《聖女》様が近所に引っ越してきたとなると、何かと心強いねぇ」
「本当だね。急病人なんかが出た時には、よろしくお願いするわね」
「はい。できる限りお力にならせていただきます。でも、あまり私が勝手に治癒魔法を使うと、神殿の収入が下がってしまいますので……時々は神殿の方へも依頼してくださいね?」
にっこりと微笑みながら、カルセドニアが冗談混じりに言えば、集まっていた婦人たちがどっと笑う。
「しかし何だね。《聖女》様なんて呼ばれているから、私ゃてっきりもっとお固い人だとばかり思っていたけど……実際に話してみれば、ごく普通の娘さんだねぇ」
「えっと……ずっと神殿暮らしでこのようなご近所付き合いは初めてのことなので……実を言えば少し戸惑っているんです。でも、私がちゃんとご近所の皆様と仲良くしないと、主人に恥をかかせることになりますから」
そう言いつつ、頬に手を当てて穏やかに、そして嬉しそうに微笑むカルセドニア。
実際、彼女は人付き合いがあまり得意ではない。
彼女は、故郷の村でも両親や村人たちから気が触れていると思われてずっと冷たい目で見られていたし、この街のサヴァイヴ神殿に来てからも、ジュゼッペの養女となったことで変な遠慮をされ、彼女に親しく話しかける者はごく限られていた。
だが、この家で暮らしていく以上は、ご近所の人たちとも上手く付き合って行かなくてはならない。仮に自分が理由でご近所から孤立すると、辰巳にも肩身の狭い思いをさせてしまう。
辰巳がカルセドニアのためにがんばる決意をしたように、彼女もまた辰巳のために努力していくつもりなのだ。
「とは言え、全く助言できんという訳でもないがの」
明らかに落胆の表情を浮かべている辰巳に、ジュゼッペは悪戯が成功した子供のような笑顔で告げた。
「まずは外素を自在に操れるようになることを目指すが良かろう。今のところ、婿殿は意識して外素を集めることさえできんじゃろ?」
「そうですね……その通りです」
これまで、辰巳が〈天〉の魔力を発揮したのは一度だけ。それも半ば無意識の時である。僅かな魔力を用いた時は何度かあったが、その時も意識して魔力を操作したわけではない。
意識して魔力を操れるようになること。それが辰巳にとっての最初の課題だろう。
「儂らと婿殿ではいろいろと違うじゃろうが、参考までに儂らが魔法を使う際のやり方を説明しよう。まず──」
焦る必要はない。ゆっくりと必要な技術を、確実に身につけていけばいい。
自分自身にそう言い聞かせながら、ジュゼッペの講義に辰巳は真剣に耳を傾けていく。
「ただいまー」
七の刻──午後六時ごろ──を大きく過ぎて周囲がすっかり暗くなった頃、ようやく辰巳は新たな我が家となった家へと帰って来た。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
玄関の鍵──カルセドニアが施した魔法の鍵で、合い言葉によって開く──を開けて家に入った辰巳を、ぱたぱたと家の奥から小走りに現れたカルセドニアが出迎えた。
「お疲れさまでした。如何でしたか、初日の勉強は?」
「いやぁ、何というか、前途多難な感じだなぁ……」
これまで意識したこともない周囲に満ちた魔力を、いきなり意識しろと言われても簡単にはいくはずがない。辰巳は今日一日、ジュゼッペの指導の元で、周囲に満ちる魔力を感じ取る訓練を行っていた。
しかし、全く魔力を感じ取ることができないまま一日が過ぎた。
「誰でもいきなり魔力を感じたりはできませんよ? 私も魔力を感じられるようになるまで、最初はかなり苦労しましたから」
「そっか……そうだよな。最初から上手くいくわけがないよな」
以前、ジュゼッペがカルセドニアのことを天才と評したことがある。そのカルセドニアでも最初は苦労したのならば、自分が苦労するのは当然だろう。
もしかして自分には才能がないのかも、なんてちょっぴり落ち込んでいた辰巳だったが、カルセドニアに励まされてやる気を回復させた。
単純と言うなかれ。やはり男にとって美女の励ましは、どんな回復薬よりも効果があるものなのだ。
「今、食事の準備をしていますので、ご主人様は先にお風呂に入っていてください。もうお湯は沸かしてありますから」
風呂に水を張るのも沸かすのも、カルセドニアという魔法使いがいてくれるお陰で簡単に済ませることができる。
それどころか、普通の家庭では夜は蝋燭などの頼りない灯りしか光源はないが、カルセドニアが《灯り》の魔法を使ってくれるお陰で、家の中はどこも昼のように明るい。
「ありがとう、チーコ。チーコがいてくれて本当に助かるなぁ」
「い、いえ……ご主人様のお役に立てれば、私はそれだけで……」
「でも、チーコにばかり家のことを任せるわけにもいかないしな。俺にできることがあれば何でも言ってくれよ? それこそ薪割りでも何でもするからさ」
ぱん、と上腕筋を叩きながら辰巳が言えば、カルセドニアは急に頬を赤く染めつつもじもじとしだした。
「でしたら……でしたら、ご主人様にお願いがあるのですが……」
「俺に? うん、俺にできることなら何でも言ってくれ」
「で、では………………今晩、一緒の寝台で寝てもいいですか……?」
ぴきーん、と。
辰巳の身体が音を立てて硬直した。