秘めた想い
「して、婿殿の様子はどうじゃな?」
ジュゼッペは自分に茶を差し出してくれた、自身の補佐官であるバルディオに尋ねた。
「彼なら今日は下働きをしていたようですよ。五の刻頃まで仕事をした後は、カルセと一緒に街へ出かけたようです……失礼ですが、猊下。あの者は一体何者なのですか?」
「む? 婿殿のことが気になるのかの?」
「そりゃあ、気になりますよ。私もカルセとは、彼女が猊下の養女になった時からの長い付き合いですからね、言ってみれば彼女は妹みたいなものです。その妹がどこの誰かもしれない男と親しくしているんですから、兄代わりとしては気になるのは当然ですよ」
真剣にカルセドニアのことを気にかけているらしい補佐官に、ジュゼッペはにこりと笑みを浮かべた。
「お主が気にかけてくれるのは儂としても嬉しいが、婿殿という存在が目の前に現れた今、もうカルセを止めることは誰にもできんよ。一度目標を見定めたあやつは、たとえどんな障壁が立ちふさがっても乗り越えて……いや、打ち壊してでも突き進むじゃろう。これまでがそうだったようにの。それはお主もそれはよく知っておろう」
「確かに……あれで彼女は過激なところがありますからね」
これまでの彼女のことを思い出したのだろう。バルディオは苦笑を浮かべた。
「そんなことを聞かされたら、尚更彼が何者なのか知りたくなったじゃありませんか」
「ほっほっほっ。悪いが今はお主にも婿殿のことは詳しくは言えん。ただ、遠い異国から来たとだけは言っておこうかの。そして、カルセはその婿殿と出会うために、今まで努力してきたのじゃ」
「そう……ですか……。でも、そうなると、彼はどうするでしょうか?」
「……モルガー、か……」
密かにカルセドニアに想いを寄せている一人の男を思い出し、ジュゼッペは顔を顰めた。
街でカルセドニアとの買い物を終えて、辰巳は彼に宛てがわれた客室に戻って来ると、ふらふらと寝台へと倒れ込んだ。
本来、下級神官は宿舎で寝起きするのだが、数日後には一軒家へ引っ越す予定の辰巳は、ジュゼッペの厚意で最初に案内された客室をそのまま使わせてもらっているのだ。
スプリングの効いたマットレスなど望むべくもないこの世界では、マットレスの代りにしっかりと乾燥させて揉み解した干し草を袋状のシーツの中に詰めたものが敷布団代りに使われている。
更に贅沢な品物になると干し草ではなく羽毛などをシーツの中に詰めるが、それは貴族などの裕福な者たちだけが使用する高級品である。
こうしてベッドに寝転ぶ度に、干し草独特の香りが全身を包んでくれる。しかも、この客室のベッドに用いられている干し草の中には、疲れを取る効果のある香草が混ぜられているらしく、毎晩ぐっすりと眠ることができるのだ。
その干し草ベッドの上で大の字になりながら、辰巳が思い巡らせるのは彼と一緒にこちらの世界に来たベッドとギターのこと。
それらの二つはジュゼッペが保管してくれているらしく、数日後に辰巳とカルセドニアが移り住む家の準備が整い次第、そちらに搬入してくれるらしい。
今まで愛用してきたベッドにはもちろん愛着があるが、こちらの世界のこの干し草ベッドも気に入り始めた辰巳は、果たしてどちらを今後は使おうかと贅沢な二者択一に悩まされたいた。
とはいえ、本日は神殿での下働きの初日である。慣れないことと原因不明の疲労などもあり、ベッドに寝転んでいるうちにいつしか辰巳はうとうととし始める。
「……いかんいかん。せめて風呂ぐらいは入ってから寝ないと……」
半ば眠りに落ちかけていた意識を強引に引き戻し、辰巳はよろよろと客室を後にした。
サヴァイヴ神殿の一角には、住み込みの神官用の広い浴場がある。
この浴場は高司祭以下の者が全員が使用する大浴場であり、当然ながら男女別に分かれている。
最高司祭や大司祭ともなると各自の個室に小さいとはいえ浴室があるし、神殿の外に邸宅を構えている場合も多いので、この共同の浴場を使用することはまずない。
ちなみに、神殿内における身分は、上から最高司祭、大司祭、高司祭、司祭、侍祭、上級神官、下級神官の順である。
この内、最高司祭は各教派に一人だけ存在し、大司祭は各地の神殿の長となる場合が多い。地方の小さな礼拝所ともなると、高司祭どころか司祭が責任者となっている場合もよく見かけられる。
この浴場の湯は、神官の中で〈火〉系統を持つ魔法使いが持ち回りで沸かしているそうで、当然ながらカルセドニアにもこの役目が時々回ってくるらしい。
脱衣所で着ていた服を脱ぎ、タオル──というより手拭に近いものだけを持って辰巳は浴場に入る。
神官は神に仕えるというその役目上、身体を清潔に保つことが義務づけられている。そのため、日が沈んだ後の時間帯は、一日の疲れと汚れを落とすために浴場を利用する者は多く、浴場はとても混雑していた。
そんな者たちに混じって、辰巳は浴槽にじっくりと浸かる。世界は変わっても、風呂の心地よさだけは一緒だな、なんてことを考えていると、不意に彼の名前を呼ぶ声がした。
「あれ? タツミか? おまえも風呂に来ていたのか?」
声に反応して振り返ってみれば、そこには昼間厨房で出会ったバースという下級神官がいた。
彼は無遠慮に全裸を晒しつつ、人懐っこい笑みを浮かべながら辰巳の横に身体を沈めた。
「バースも来ていたのか?」
「ああ。一日の仕事の疲れを癒すには風呂が一番だからな」
バースに言われて周囲を見回して見れば、確かに皆気持ちよさそうに風呂に浸かっている。
「ふーん。この国でも風呂は親しまれているんだな」
「お? ってことは、おまえの故郷にも、やっぱ風呂はあるのか?」
「ああ。風呂には毎日入るよ。中には昼間でも入る人もいるな」
「そりゃまた贅沢な。風呂なんて湯を沸かすのが大変だから、一日の中でも限られた時間にしか入れないのがこの国の常識だぜ?」
指先でパネルを操作すれば簡単に湯が沸かせる日本と違い、こちらでは大量の湯を沸かす方法は限られているため、一日の内でも限られた時間にだけ風呂に入るのだろう。
そのため、その限られた時間に人が押し寄せるので、こうして大浴場が混雑するというわけだ。
「でもまあ、こうして毎日風呂に入れるんだ。いろいろと厳しい修行や作業なんかも多いけど、神官になって大正解だな」
「ってことは、神官になる前は毎日風呂に入れなかったのか?」
「ああ。俺は地方の小さな村の出身だからな。この王都のように大衆浴場なんてなかったから、身体を洗うのは川しかなかったんだ。だから、こうして毎日風呂に入るのは俺の夢の一つだったんだぜ」
湯の中で身体を伸ばしながら、バースは夢が叶ったためか幸せそうな笑みを浮かべる。
「そういや、タツミはいつからこの神殿に? 最近まで全然見かけなかったよな?」
「俺がここに来たのは二日前だな」
「へーそっか、やっぱりな。でもこれからは何かと一緒になるだろ? 改めてよろしくな」
「あー、そのことなんだけど……」
辰巳は、近々神殿を出て一軒家に移る予定であることをバースに告げた。
「おいおい。こっちに来ていきなり一軒家暮らしだとぉ? そういや、タツミには姓があるみたいだし、もしかして故郷では貴族の家の出か?」
バースの口振りからして、この国では平民には姓はないのだろう。
「俺のいた国では、平民でも姓があるんだよ。だから別に俺は貴族でも金持ちでもないさ」
ばしゃばしゃと湯で顔を洗いながら、辰巳はバースと同じように湯の中で身体を伸ばす。
やはり、日本人にとって風呂はなくてはならないものであることを、辰巳はしみじみと実感する。
「でもよ、タツミ? 一軒家暮らしってことは……一人暮らしってワケじゃないよな?」
湯の中で弛緩しきっていた辰巳の身体が、一瞬でぴきーんと硬直する。
そして、そんな辰巳の様子を見て、にやにやと意味有りげな笑みを浮かべるバース。
「ほほぅ。その様子からすると、やっぱり一人じゃないんだな? で? 相手は誰だよ? やっぱ、この神殿の人間か?」
「い、いや、その……」
果たして、ここでカルセドニアの名前を出していいものか、と辰巳は悩む。
昼間のボガードの様子からして、一緒に暮らす相手がカルセドニアだと知れば、おそらくバースも驚くに違いない。そして、この浴場には彼以外にも多くの人間がいるのだ。
その中で自分がカルセドニアと一緒に暮らすことが知れれば、ちょっとした騒ぎでは済まないかもしれない。それぐらいカルセドニアが特別な存在であることは、既に辰巳も承知していた。
どう言ってこの場を誤魔化そうかと湯の中で汗を流しながら必死に考える辰巳の肩を、バースは「判っているから皆まで言うな」と目で語りながらぽんと叩いた。
「ま、引っ越しして落ち着いたら、一度俺をその家に招待してくれよな? で、その時に改めて嫁さんも紹介してくれ。あ、何だったら、引っ越しの時に手伝ってやろうか?」
「あ、ああ。了解だ。その時は頼りにさせてもらうよ」
何とかこの場をやり過ごせたことで、辰巳は再び湯の中で身体の力を抜いた。
その後はバースと取り止めのない話をしながら、身体や頭を洗ってから彼と一緒に浴場を後にする。
ちなみに、世間では石鹸も高級品に類されるが、神殿では下級神官も石鹸の使用が許されていた。
身体を拭いて服を着る。そしてバースと連れ立って廊下へと出た時、辰巳たちはとある人物とばったりと出くわしてしまった。
「あら、ご主人様? ご主人様もお風呂だったのですか?」
濡れた髪を手拭で拭きつつ、そう声をかけてきたのはもちろんカルセドニアであった。
湯に浸かって薄桃色に上気した頬や濡れたままの髪が、今の彼女を普段よりも一層艶めかしいものに変えている。
そんなカルセドニアの姿を見て、どくんと辰巳の心臓が一際強く鼓動した。
「あ、ああ。チーコも風呂だったんだな」
どきどきと激しく鼓動する心臓の音が聞こえるのではないか、と変な心配をしながら辰巳が応えを返せば、カルセドニアは少し恥じらうようにやや顔を俯かせて言葉を続けた。
「あ、あの……ご主人様さえよろしければ……後でお部屋をお訪ねしてもよろしいでしょうか? これからの……ご一緒に暮らす上でのこととか、いろいろと相談したいことがあって……あ、その時に私が焼いた焼き菓子とお茶を一緒にお持ちしますね。それとも、お茶よりもお酒の方がよろしいですか?」
「あ、い、いや、お茶でいいよ」
「承知しました。では、後ほど」
辰巳が了承してくれたことが余程嬉しかったのか、カルセドニアはぱあああっと輝くような笑みを浮かべて一礼すると、足取りも軽くその場を後にした。
彼女のそんな様子を微笑ましく思いながら、辰巳が自分の部屋へ戻るために振り返れば。
そこに、驚きで目を見開いたまま固まっているバースの姿があった。
「な、なあ、おい、タツミ…………今のって……《聖女》様……カルセドニア様……だよ……な?」
「あ、ああ、うん……そ、そうだけど……」
「い、今のおまえと《聖女》様のやり取りからして……おまえが一緒に暮らすのって……まさか……」
さて、今度はどうやって誤魔化そうか。いや、さすがにもう誤魔化すのは無理だろうなぁ。
そんなことを考えながら、辰巳は深々と諦めの溜め息を吐いた。
浴場から出ていくあの男の背中を、どうしても厳しい目で見てしまう。
心の中で猛り狂う炎を、彼は必死に抑え込む。できることならば、今すぐにでもあの男を殴り倒し、首を絞めて息の根を止めたいところだが、周囲にこれだけ人がいてはさすがに行動に出るわけにはいかない。
聞くつもりなどなかったが、つい聞いてしまったあの男の話。
あの男と同じような年頃の、下級神官らしいもう一人の男との会話の中から聞こえてきた、とても無視できそうもないあの話題。
そう。
あの男が近々一軒家に移るという、あの話題だ。
神官が一軒家に移るという意味を、彼も熟知している。そして、あの男が一軒家に移る時、誰と一緒なのかも。
サヴァイヴ教団の最高司祭であるジュゼッペ・クリソプレーズが、自ら異国より招いたあの男。
しかも、そのジュゼッペがあの男を躊躇うことなく「婿殿」と呼んでいる。
つまりあの男は、カルセドニア・クリソプレーズの結婚相手として、祖父であり、養父でもあるジュゼッペがわざわざ異国より招いたのだ。
彼はジュゼッペのことをサヴァイヴ教団の最高司祭として、心から尊敬しているし敬愛もしている。そして、その養女にして《聖女》とまで呼ばれるカルセドニアもまた、彼にとっては尊敬する相手であった。
だがそれ以上に、彼はカルセドニアのことを一人の異性として、これまで長い間秘かに愛してきたのだ。そのカルセドニアを、どこの誰かも定かではない男に奪われていいはずがない。
彼はぎりりっと奥歯を噛みしめる。その音が聞こえたのか、近くで湯に浸かっていた同僚の一人が、不思議そうな顔で彼の方を振り向くが、彼が誰なのかを知ると慌ててその視線を逸らした。
このまま黙ってカルセドニアを奪われてたまるものか。あの男とカルセドニアの間にどのような関係があろうとも、そんなものは自分には関係ない。
心の奥底で荒れ狂う炎が更に高温になるのを感じながら、男は自分でも気づかないうちに暗い暗い笑みを浮かべていた。
心から愛するカルセドニアを、自分の腕に抱き締めることを想像しながら。