片鱗
腕の半分ほどの長さに切られた丸太を立て、それに向かって手斧を振り下ろす。
振り下ろされた手斧は丸太をすぱりと縦に割り、刃が丸太の下の地面に僅かに食い込む。
二つに割った丸太を再び立て、もう一度手斧を振り下ろす。
かこーんという心地よい音と共に、半円状だった丸太が今度は四分の一の扇形へと姿を変えた。
四分割した丸太を纏めて傍らへ放り投げると、再び新しい丸太を立てて手斧を振り下ろす。
ぱかーんという快音と共に丸太が見事に割れたことを確認すると、辰巳は手の甲で額の汗を拭う。
今、彼が行っているのはいわゆる薪割り。
辰巳は昨日決心したように、神殿の下働きに精を出していた。
「……こ、これを割るんですか……? ぜ、全部……?」
目の前に山と積まれた丸太を前にして、辰巳は掠れた声でそう尋ねた。
「ああ、そうだ。神殿って所は大所帯だからな。燃料の薪も毎日大量に消費するんだ。だから薪割りは大事な仕事なんだぜ、新入り」
辰巳を神殿の裏庭まで案内した巨漢で厳つい顔の中年男性は、がははははと豪快に笑いながら彼の背中をばしんと叩いた。
突然背中を叩かれて、辰巳は思わずたたらを踏む。その際、彼が首からかけた聖印が、ちゃりっと音を立てて揺れる。
「確か……タツミとか言ったな? ほら、こいつを使え。こいつで丸太を全部、縦に四分割するんだ」
そう言って中年の男性が差し出したのは、使い込まれた手斧だ。
「四の刻になったら休憩だからな。それまでがんばりな」
そう言い残し、中年の男性はのっしのっしと大股で立ち去った。
ちなみに、四の刻とは日本時間で言えば大体正午のことである。
辰巳が自分の腕時計で計ったところ、太陽は大体六時頃に顔を出し、そしてそれから二時間ごとに各神殿は時を告げる鐘を鳴らす。
午前六時に一回、午前八時に二回と、二時間ごとに一回ずつ鐘を鳴らす回数は増えていき、午後六時に七回を鳴らした所で日没となる。
そして、それぞれ鐘を鳴らす回数に合わせて一の刻から七の刻まで呼び名が付けられている。夜間は鐘を鳴らすことはなく、特に呼び名も定められていないようだった。
カルセドニアに聞いたところ、鐘を鳴らすタイミングは日時計で計っているとのこと。また、雨天や曇天の時のためにタイマーのような機能をもつマジックアイテムがあるらしいが、このアイテムは極めて稀少かつ高価なため、最高司祭であるジュゼッペ以外には触れてはいけない門外不出の宝物で、カルセドニアでさえ実際には見たことがないらしい。
一日のサイクルは二十四時間と地球と同じらしいが、毎日午前六時に太陽は昇り午後六時に沈む。
地球のように季節による昼夜の長さの変化はないのだろうか、と辰巳は疑問を感じる。
まだこちらの世界に来て三日目なので、昼夜の長さの変化をしっかりと計測したわけではない。だが、もしかするとこちらの世界は大地が動くのではなく、天体の方が規則的に動いている天動説の世界かも知れない。
辰巳はまだ知らないことだが、こちらの世界では大陸と海は星界と呼ばれる中に浮いていると考えられている。
北と東の海の端には巨大な滝があり、どこからともなく大量の海水が海へと入り込んでおり、南と西の海の端も同じく巨大な滝になっているものの、こちらはどこへともなく海水が落ち込んでいる、というのが一般的に信じられている世界観である。
中には南と西の滝に落ちた海水が、虚無の世界を通って再び北と東から流れ込んでいる、という説を唱える賢者もいるそうだが、海の端にあるという巨大な滝を見た者は一人もいないので、それが本当かどうかは定かではない。
そして、その星界を更に超えた向こう側に、神々が住まう神界があると信じられている。
それはともかく、辰巳は山と積み上げられた丸太を呆然と見上げていた。
だが、いつまで見ていても、それで仕事が減るわけではない。辰巳は覚悟を決めると、着ている神官服の袖を捲り上げて気合いを入れた。
今、彼が着ているのは元の世界から着ていた服ではなく、ジュゼッペから支給された神官服である。
昨日カルセドニアと街に出た際に、普段着になる衣服や下着の類も何着か購入しておいたが、神殿の仕事をする時は神官服を着用する義務があるとのことなので、辰巳もこの神官服に袖を通しているのだ。
また、辰巳はジュゼッペより神官として正式に位を授けられた。とはいえそれは最下級の下級神官であるが、これで彼のこちらでの身分も一応は確立したことになる。
神殿という組織は国とは独立しているので、神殿に属するだけである程度の身分──聖職者は賢者などと同等の知識階級とされる──を有することになるのだ。
もちろん、誰でも神殿に属することができるわけではなく、本来ならばある程度の審査を通らなければ入門することは許されない。辰巳がそれらを素通りして最下級とはいえ神官の身分を手に入れられたのは、間違いなくどこかの最高司祭がその権力を行使したからだろう。
さて、と改めて丸太の山と対峙しつつ、辰巳は自分が着ている白い神官服へと目を落とした。
果たして、仕事とはいえこの白い神官服を汚してもいいのだろうか、という疑問を感じたからだ。
彼が身に着けている神官服は、下級神官のもので色は白いものの神殿内では「作業着」として認識されている。そのため、いくら汚しても咎められることはない。もっとも、汚してしまった場合は自分で洗うことになるのだが。
神官の着る神官服と身に着ける聖印は、その地位によってデザインが違う。
ちなみに、先程辰巳を裏庭まで案内した人物は、下働きの下級神官の監督役を務める上級神官で、名前をボガードという。
いつまでも悩んでいても仕方ないと割りきった辰巳は、そのボガードから手渡された手斧を何度か振ってみる。その感触を確かめた辰巳は手近にあった丸太を一本、地面に立てる。
そして、手にした手斧を軽く一振り。手斧の刃が丸太に食い込むと同時に、丸太はぱかんと見事に真っ二つに割れた。
「あれ……? そんなに力を込めていないけどな……?」
予想よりも遥かに簡単に割れた丸太を、辰巳は首を傾げながら見つめる。
「まあ、いいや。簡単に割れるにこしたことはないし」
そうして、どんどんと辰巳は丸太を割っていく。
本来、薪割りをする時は、台となる石や木に丸太を叩きつけて割るものだ。地面に叩きつけても、柔らかい土の上では上手く割ることが難しいからだ。
当然ながらこれまで薪割りなどしたことのない辰巳は、それを知らずにどんどんと地面に叩きつけて丸太を割っていく。それが少しばかり異常なことだと気づかぬままに。
途中、神殿の鐘が二回と三回鳴ったが、薪割りに集中している辰巳はそれに気づかなかった。
やがて正午である四の刻を知らせる鐘が四回鳴ってしばらく経ってから、ボガードがのっそりと再び裏庭に姿を現した。
「よぉ、新入り。どのくらい進んで……うおっ!?」
ボガードは、目の前に積み上げられた薪の山を見て驚きの声を上げた。
本日用意してあった大量の薪用の丸太が、全て綺麗に四つに割られて薪へと姿を変えていたのだ。驚くなというのが無理だろう。
「あ、ボガードさん。言われた通り、丸太は全部割りましたよ?」
積み上げられた薪の前で地面に座り込んでいた辰巳が立ち上がり、驚いて声も出せないボガードにのほほんと声をかけた。
「い、いや、全部割ったって……半日で全部割っちまったってのか……? あれだけの量を……?」
ボガードは何度も辰巳と薪の山を見比べた。
今朝方、突然彼の前に現れた一人の少年。ラルゴフィーリ王国ではまず見かけない、珍しい黒髪と黒瞳を持った少年は、本日から神殿で下働きをする新入りの下級神官だと言う。
どうやらボガードよりも上の地位の誰かから、彼の指示に従って仕事を進めろと言われて彼のところへ来たそうだ。
ボガードは、その逞しい腕を組みながらじろりと無遠慮に黒髪の下級神官を観察した。
背丈はあまり高くない。巨漢のボガードに比べれば、その身長は頭一つ以上は違う。
身体の方も細っこく、腕の太さなどボガードの半分ほどしかない。まるで女みたいな腕だな、と内心で思いながら辰巳を観察したボガードは、力仕事は無理そうだと判断して薪割りをさせることにした。
薪割りとて相当な力が必要だが、井戸から汲み上げた水運びや、毎日のように運び込まれる神官たちの食料を運ぶ重労働よりはマシだろうと思ったからだ。
こう見えて、ボガードは意外と部下思いの男だ。巨漢と厳つい顔のせいで一見しただけでは恐そうに思えるが、しっかりと仕事する者にはしっかりと報いる人物なのだ。
できそうな仕事をできそうな人物へ回す。それもまた、ボガードの仕事なのである。
そのボガードの見立てでは、辰巳の細腕──あくまでもボガードの基準で──では四の刻までに四分の一も終わらせてあれば十分だと考えていた。しかし、実際には四分の一どころか全て終わらせてしまうとは。たとえボガードと言えども、あれだけの量の丸太を半日で全て四分割することは不可能なのに。
最初こそぽかんと辰巳と薪の山を見つめていたボガードだったが、その厳つい顔に男くさい笑みを浮かべた。
「はははははは! 意外とやるじゃねえか、新入り……いや、タツミ! 見直したぜ!」
ボガードはばんばんと辰巳の肩を叩くと、その場に再び座るように促した。
「これだけの仕事をしたんだ。相当腹も減っただろ? 一緒に飯でも食おうや」
ボガードは持参していた布包みを開き、中から何かを挟み込んだパンのようなものを取り出した。
それを美味そうに頬張りつつ辰巳を見れば、なぜか彼は呆然としたように立ち尽くしている。
「どうした? 早く座って飯を食え。休憩時間だってそれほど長くはないぜ?」
「あ、いや、その……実は飯が……」
そう言いながら、困ったように後頭部を掻く辰巳。彼はこの瞬間まで、昼休みに食事をすることをすっかり忘れていたのだ。
どうやらラルゴフィーリ王国でも、食事は一日に三回摂る習慣らしい。一の刻(午前六時頃)と二の刻(午前八時頃)の間に一回と、四の刻(正午頃)前後に一回、そして七の刻(午後六時頃)以降に一回の都合三回である。
後は、五の刻(午後二時頃)と六の刻(午後四時)の間に、軽い軽食を摂ることもあるという。
それらのことを昨日のうちにカルセドニアから聞いていたのだが、それをすっかりと忘れていたのだ。当然、辰巳は昼食の用意などしていない。
困った辰巳が立ち尽くしていると、ボガードは呆れたように辰巳を見上げた。
「なんだぁ? 飯の準備をしてこなかったのか? ……となると、食堂まで行かなくちゃならんな」
神殿の一角には、神官に食事を提供する食堂がある。とはいえ、辰巳まだその食堂を使用したことがない。彼がこちらの世界に来てから、彼の食事はカルセドニアがずっと用意してくれていたからだ。
その食堂では修行の一環として持ち回りで下級神官が料理当番を務めるのだが、その食堂は辰巳たちがいる裏庭からは少々距離がある。
「まあ、おまえにやってもらおうと思っていた仕事は全部片づいちまったし、少しぐらい食事が終わるのが遅くなっても構やしないが……おまえさえ良ければ、俺のを少し分けてやろうか? ま、俺の女房が作ったモンだから、味の方は保証しないがな?」
がははははと笑うボガードは、再び辰巳に座るように勧めた。
「いえ、折角ボガードさんのために奥さんが作ったものを、俺がもらうわけにはいきませんよ。俺はこのまま食堂まで行ってきます」
「そうか? 慌てなくていいから、ゆっくり食ってこい」
ボガードに了解した旨を告げて、辰巳は食堂へ向かって歩き出した。
いや、歩き出そうとした。
辰巳が神殿内と裏庭を繋ぐ扉へと振り向いた時、彼から少し離れたその扉が勝手に開いた。もちろん、扉が勝手に開くわけがない。となれば、誰かが神殿の中から扉を開けたのだ。
扉を開けたその誰かは、扉から頭を出してきょろきょろと周囲を見回す。それに合わせて、頭の上から飛び出した一房のアホ毛もひょこひょこと揺れる。
そして、辰巳の姿を見つけた途端に、にっこりと花が咲くような笑顔を浮かべた。
「ご主人様! お食事をお持ちしました!」
「チーコ。わざわざ食事を持ってきてくれたのか?」
「はい。ご主人様がどこでお仕事をされているのか分からなかったので、あちこち探してしまって遅くなってしまいました。申し訳ありません」
ぱたぱたと辰巳へと近づいたカルセドニアは、ぺこりと一礼すると持参した包みを彼へと差し出した。
「ありがとう、チーコ。ところで、チーコはもう食べたのか?」
「いいえ、その……ご、ご主人様さえよろしければ、一緒に食べようかなー、なんて……」
ほんのりと頬を染めて、恥じらいを見せつつそう言うカルセドニア。もちろん、辰巳が彼女の提案を断る理由はない。
「うん、一緒に食べよう。あ、そうだ」
ここでようやく、辰巳はボガードのことを思い出した。彼にカルセドニアも同席していいか聞こうと思い、彼の方へと振り返る。
「ボガードさん……あれ?」
そのボガードは、口をあんぐりと開けたまま石化でもしたかのように、身動き一つせずに辰巳たちを見つめていた。
彼の手から、食べかけのパンがぽろりと落ちる。それを合図にしたかのように、ようやくボガードが動き出した。
「か、かかかかかかかカルセドニア様ぁっ!? せ、《聖女》様がどうしてタツミの飯を……っ!?」
驚きに目を見開いたボガードが、何度も辰巳とカルセドニアを見る。
一方、見つめられたカルセドニアは、不思議そうに少し首を傾げつつ辰巳に尋ねた。
「ご主人様? こちらの方は……?」
カルセドニアとて、神殿関係者全員の顔と名前を知っているわけでい。いや、どちらかというと彼女の知人は神殿でも高い地位にいる者に限られているので、地位が高くはないボガードは彼女の交友範囲からは外れていたのだ。
「ああ、今日の仕事でお世話になったボガードさんだ」
「まあ、そうだったのですか。ボガード様、主人がお世話になっています」
「しゅ、しゅじぃん……っ!?」
ボガードに対して一礼するカルセドニアと、素っ頓狂な声を上げるボガード。カルセドニアの「主人」という一言を、ボガードは「夫」という意味に捉えたようだった。
カルセドニアは「主」という意味──正確には飼い主──で口にしたのだが、この場合は誰だってボガードと同じ誤解をしただろう。
「そ、それじゃあ、タツミは……いや、タツミ様は……」
誤解のために言葉を改めたボガードの近くにカルセドニア共々腰を下ろしながら、辰巳はぱたぱたと手を振る。
「嫌だな、ボガードさん。急に様なんてつけないでくださいよ」
「い、いや、だってよ……」
「構いませんよ。俺はあくまでも新入りの下働きです。俺とチーコ……カルセドニアは別の人間なんですから」
「お、おまえがそう言うのなら……か、カルセドニア様も、それで構いませんか?」
「はい。ご主人様がそうおっしゃるのなら。私はご主人様のご意志を尊重するだけです」
「はぁ……。しっかし、《聖女》様にそこまで言わせるとは……」
ボガードは太い顎を親指でさすりながら、改めて辰巳とカルセドニアの様子を見る。
普段の凛とした雰囲気が嘘のように、恋する乙女を体現しているカルセドニアと、そのカルセドニアにあれこれと世話を焼かれながらも、それを平然と受け入れている辰巳。
今の二人の姿は、まるで長年連れ添った夫婦のようで。少なくとも、ボガードの目にはそう映っていた。
その後、三人で楽しく食事をした。
最初こそ《聖女》が同席したことで縮こまっていたボガードだったが、彼自身の細かいことには拘らない性格からか、すぐにカルセドニアとも親しくなった。
とはいえ、最高司祭の孫娘にして噂に名高い《聖女》が相手なので、普段周囲の者たちに接するよりは随分と丁寧だったが。
やがて、楽しかった食事も終わり、三人は食事の後片付けを済ませて立ち上がった。
「さて、タツミ。実を言えば、おまえさんに今日やってもらうつもりだった仕事は全部終わっちまったんだ。これからどうする?」
「他に何か手伝えることがあれば、そちらを手伝いますけど?」
「そうか? じゃあ、悪いがおまえが割った薪の四分の一程度を厨房まで持って行ってくれ。残りは薪の貯蔵場所があるからそこへ運ぶんだ。貯蔵場所は今から俺が案内しよう。で、それが終わったら今日の仕事はおしまいだ」
立ち上がった辰巳とボガードは、午後からの仕事に関しての打ち合わせを行う。
そして、ボガードと親しげに話す辰巳の姿を、カルセドニアは微笑みながら見守っていた。
「うっし! じゃあ、午後からもがんばるか!」
「はい、がんばってくだ……?」
気合いを入れるように自らの頬を両手でぱちんと叩く辰巳。そんな辰巳に激励の言葉をかけようとして、カルセドニアはなぜかその途中で言葉を途切らせた。
「どうした、チーコ?」
「あ、い、いえ、何でもありません……」
歯切れの悪いカルセドニアの様子に、辰巳は内心で首を傾げるもののあえてそれ以上は尋ねることはせず、薪の貯蔵場所を教えてもらうためにボガードの後についていった。
そんな辰巳の背中をじっと見送りつつ、カルセドニアは誰に聞かせるでもなくぽそりと呟く。
「今、一瞬……ほんの一瞬だけ、ご主人様から魔力を感じたような気がしたけれど……気のせいかしら?」