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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第88話「あたしが芙美さんに同情されるんじゃ、なんか、逆じゃん」

 内藤(ないとう)叶音(かのん)が机の上に載せた手製のマフィンにも、新城(あらしろ)芙美(ふみ)はあまりかんばしい反応を示さなかった。

「今日はいらない。あんまり、食欲ない」

 叶音の部屋の床に両手をつき、天井を仰ぎながら芙美はつぶやいた。その表情に、いくぶん疲れのようなものが見える気がして、叶音はテーブル越しに芙美に顔を近づける。

「どしたん。調子悪い?」
「そうじゃないけど」
「晩ご飯入る?」
「平気だって」

 芙美の両親は多忙で、ちょくちょく夜にも家を空ける。そういうときに叶音の家の夕食を相伴するのが、初等部のころからの習慣だ。

「それともダイエット? 今からじゃ夏には間に合わないよ?」
「私がそんな気の利いたことするように見える?」
「ぜんぜん」

 いうだけはいってみたけれど、叶音自身も信じていたわけではない。けれど、芙美が立ちのぼる甘い香りを我慢する理由が、ほかに思いつかなかった。いつもなら、芙美の食べ過ぎを叶音が諫めるくらいなのだ。

「でも、痩せとかなくて大丈夫? 水着とか入る?」
「水着なんか使うあてないよ。叶音さんもでしょ?」
「どうかな。家族で田舎の海水浴場行くくらいかね」

 枯れたことをいって、ふたりでため息をつく。
 昔から叶音は、海や水着があまり好きではなかった。精一杯に着飾った自分を見せることは好きでも、そうした装飾をすべてはぎ取った素肌の自分を見せつける気にはなれない。
 幼なじみの芙美には、こんな力の抜けた自分も見せられるけれど。

 ひとまず、マフィンに手を付けるのはあきらめた。芙美は手を伸ばす気がなさそうだし、彼女の前で自分だけ食べるのはいかにも浅ましい。そんなことのために、わざわざ作ってきたわけではない。
 テーブルの脇に置いたペットボトルから、叶音はカップに冷えたアップルティーを注いで、芙美の前に差し出す。芙美は無言で、カップを両手で受け取るために身を起こした。

「ありがと」

 カップを包み込むように両手で支えるその様子は、慎重な彼女らしいな、と、いつも思う。あたたかい飲み物でも、冷たいものでも、季節や種別を越えて、なんでも同じ仕草だ。
 その、丸っこくて爪の小さい両手を見ると、叶音はふしぎと、安心する。

 こくん、と、冷たい紅茶をひとくち飲んだ芙美は、カップをテーブルに置き、かるく腰をずらしてクッションの上に戻した。

「夏休み、どうする?」

 芙美がおもむろに、つぶやく。彼女は両肘をテーブルに乗せて、叶音の顔をのぞき込むように顔を傾ける。

「今年は予定決めときたいよね、なる早で」

 芙美の、からかうような、しかしトゲを潜ませた声音に、叶音は一瞬、目をそらしてしまう。
 去年の夏休みは、芙美に申し訳ないことをしてしまった。彼女の潤んだ瞳が揺れていたのを、思い出すたびに、叶音の胸まで揺さぶられるようだった。

「……そうなあ」

 ため息のような声でいって、波打つ紅茶をごくりと飲み下した。のどを冷たいものが通り抜けて、一瞬、咳き込みそうになる。
 カップをそっと置いて、ふう、と気持ちを落ち着かせ、あらためて芙美と向き合う。

「夏祭りはどうするんよ」

 駅南の古い市街地にひっそりと建つ神社で開かれる祭りが、この街の夏のいちばんのイベントだ。ほとんどの店が閉じている商店街のあたりも、その日だけは屋台と人ごみで盛り上がる。
 山のほうで行われる花火は、翠林の校舎からだとよく見えるので、しばしば生徒が夜中に学校に忍び込んで、いい場所を占拠すべく血で血を洗う争いを繰り広げるという。

 とまれ、その夏祭りは、翠林の生徒にとっても一大イベントであることは間違いなかった。

「……今年は、叶音さんは?」
「先にそっちが教えてくんない?」

 自分からあんなふうに言っておいて、人から喋らせるなんて、すこし意地が悪い。芙美のそういう態度は、やっぱり叶音に甘えているのだろう、と思う。そのあたりは、昨年からぜんぜん成長していない。

 去年の夏祭り。
 ひとりで出店をめぐり、花火も見ずに家に帰って、芙美は部屋でずっとふてくされていた。
 夜中に戻ってきた叶音を、芙美は涙目で睨んで、そして結局、何も言わなかった。
 約束なんてしていなかった。でも、芙美はきっと、叶音はいっしょに行ってくれるものと思い込んでいたのだろう。
 悪いのがどっちだったのか、叶音はいまでも、わからないでいる。

 芙美は、そんな叶音の心に針を刺すように、細い声で告げた。

「るなさんに誘われてる」
「……いいじゃん」

 芙美と西園寺(さいおんじ)るなは、叶音の知らない間に親しくなっていた。この間は、いっしょに映画も観に行ったらしい。芙美が叶音以外の同級生と仲良くなることは、これまではあまりなかったし、素直に喜ばしく思っていた。
 そして、芙美の夏祭りの予定を、叶音より先にるなが埋めている。

「行けば? るなさんといっしょなら、楽しいっしょ」
「叶音さんは暇なの?」
「今年は、たぶん」

 去年、夏祭りをいっしょに過ごした近衛(このえ)薫子(かおるこ)は、今年は家族旅行で街を離れるのだという。ヨーロッパの北の方に涼みに行くらしい。なんともスケールの大きい話で、叶音にはいろんな意味でついていけない。

「そうなんだ」

 芙美はつかのま、途惑ったような顔をした。間を持たすように、ゆっくりと紅茶を口に含む。ぬるくなった紅茶に顔をしかめつつ、芙美はなぜか、申し訳なさそうに叶音の目を見つめた。

「別に、るなさんと3人でもいいんじゃないの? ある意味、いつも通りだし」
「……やめとく。ふたりで行ってきなよ」
「でも」

「あたしが芙美さんに同情されるんじゃ、なんか、逆じゃん」

 滑り出た声は、自分でも思いも寄らないくらい、強い音を持っていた。かすかに語尾が上ずって、何か、押さえきれないものがあふれてしまったのを感じ、叶音はとっさに、口に手を当てて、唇を閉じる。
 その様を、芙美はずっと、まっすぐ見つめていた。
 そして一言。

「……同情なんてしてないよ」

 肩をすくめ、芙美は紅茶を飲み干した。あごを上げ、こくん、とのどを脈打たせて、飲み物をすっかりおなかに流し込み、芙美は勢いよく立ち上がった。

「今日はもう帰る」
「晩ご飯は?」
「その辺で食べるよ」

 あっさりと宣言して、芙美は外へ出て行く。外食なんて慣れていないはずなのに。いや、それとも、るなと遊んでいるうちに、ひとりで外でご飯を食べるのさえ慣れてしまったのだろうか。
 とっさに何と言っていいか分からなくて、叶音は思いついた言葉をそのまま口にしてしまう。

「あんま食べると、浴衣、入らなくなるよ」

 ドアの向こうに消えかけていた芙美の顔が、一瞬だけ、振り返った。
 舌を出して、わざとらしいくらいに赤目を見せて、思いっきりユーモラスな表情で、芙美はきっぱりと言った。

「よけいなお世話だよ!」
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