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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第86話「わたしを天使か何かと思っていません?」

「参ったね」
「参りましたね」

 ドロシー・アンダーソンと芳野(よしの)つづみは、夕立を見やりながら異口同音につぶやいた。

 自転車置き場のトタン屋根を、大粒の雨がどかどかと叩き、リズムも何もない轟音を刻んでいる。すぐそこに見える正門前の道路には、川のように水が流れている。水はけの悪い校庭は、見るまでもなく、即席の湖のような様相を呈していることだろう。
 夕立だから、そのうちやむだろうが、このぶんではしばらく帰れそうにない。

 ドロシーは長い黒髪をタオルで絞りながら、恨めしげに雨粒の垂れ幕の向こうをにらむ。

「なんでもうちょっと待ってくれないかなあ、10分もあれば帰れたのに」
「雨宿りもできない場所で降られるよりはまし、と受け取りましょう」
「つづみさんはプラス思考ねぇ」
「主の慮ることをマイナスにとらえることはありませんから」
「ふうん」

 屋根の下には、同じ境遇の生徒たちが何人も寄り集まり、口々にさざめいている。聞こえてくる言葉は、困惑と愚痴が半々というところだ。翠林の生徒といっても基本的には女子高校生で、急なトラブルには文句のひとつもいいたくなるものだろう。
 ろくに動じないつづみのほうが、特別なのだ。

「ていうか、つづみさんもずぶ濡れじゃない。風邪引くよ」

 数メートルとはいえ、急な夕立のなかを駆け抜けてきたつづみも、頭からつま先まで濡れそぼっている。あごの先から雨水がしたたり落ち、制服のブラウスも湿って下着がわずかに透けていた。
 ドロシーがタオルを手渡すと、つづみは微笑んで頭を下げ、顔にタオルを押しつける。

「ドロシーさんのにおいがしますね」
「変な言い方しないでよ」

 どうせ制汗剤の香料だ、とは思うが、そんなに汗くさいかと一瞬疑ってしまう。かるく腕を顔につけてみるが、雨のにおいしかしなかった。

「つづみさんは、汗なんてかかなそうよね」

 騒音を奏でる夕立の中を走ってきたというのに、彼女は息を切らしたそぶりもない。もちろん体育の後なんかは汗みずくにもなるのだろうし、その姿を見たこともあるはずだが、疲労困憊したつづみの姿、というのはうまくイメージできない。それくらい、ふだんの泰然とした彼女の印象は強い。
 タオルを右腕に添わせながら、つづみは小首をかしげる。

「わたしを天使か何かと思っていません?」
「……天使は飛躍しすぎでしょ。まあ、ある意味、人間くささはないよね」

 超然として、あまり感情をおもてに現さないあたり、なんとなく存在が非現実的なのだ。桂城(かつらぎ)恵理早(えりさ)初野(はつの)千鳥(ちどり)のような、人間味のあるポーカーフェイスとはまた違う。
 つづみの微笑はどこか、仏像のアルカイックスマイルのようなのだ。

「怖がったり、冷や汗かいたり、したことある?」
「それはありますよ。私だって人の子ですから」

 ぎゅっ、と、つづみの細い指がタオルを絞る。雨水がぼたぼたと、自転車置き場のコンクリの上に落ちて黒い跡を作った。
 つづみはタオルをドロシーのほうに返しながら、ふと視線を空中にさまよわせる。

「たしか、あれは初等部の……2年生のときでした」
「お、すべらない話?」

 ドロシーの言葉に、つづみは眉をひそめた。たぶん、つづみはテレビなど観ないのだろう。

「すべるかどうかは知りませんが、まあ、雨宿りの暇つぶしです。あれは初等部の2年生のとき……あのころの私は、まだわがままで、偏食が激しく、オムライスの中のピーマンを偏執的に取り除いた上、それを説諭した父に激しく反抗したのです」
「意外というか、そうでもなさそうな」

 いまだってつづみは相当頑固だし、こうと決めたら退かないタイプだ。彼女なら、親と大喧嘩してもおかしくはない。

「その結果、私は一晩、蔵に入れられたのです」
「……蔵があるの? 家に?」
「ええ。どうやら一般的な家にはあまりないみたいですが」

 翠林の生徒には、古い家柄だの裕福な家庭だのが多いし、あり得ない話ではない。ということを、10秒ほどかけてドロシーは受け入れた。

「とまれ、蔵の中で、私は一晩を過ごしたわけですが……」
「どうしたの? 幽霊でも見た?」
「幽霊なるものは存在しません」

 きっぱりとつづみは言い切った。

「死者の魂は、死後は煉獄に行き審判を受けます。そして天国か、地獄か、いずれかに向かいます。このプロセスに、地上に戻ってきて人を祟ったり呪ったりする余地はありませんから」

 生粋のカトリック教徒の家の子どもらしい見解を、つづみは淡々と述べた。その表情は、いつものアルカイックな微笑ではなく、いくぶん硬質な無表情だった。
 つづみの唇の端が、かすかに震えていたのを、ドロシーは見逃さない。

「ひょっとして、実は幽霊とか恐い?」
「だから幽霊なるものは存在しません」
「でもほら、ここは日本だし、妖怪とかお化けとか」
「とにかく存在しません」

 きっぱりと、はっきりと、いかなる反論も受け付けないという頑迷さでつづみは断言した。これ以上は突っ込んではいけないところだ、と判断し、ドロシーはうなずき、ぎこちない声で告げた。

「……了解しました」
「よろしい。話の続きですが、件の蔵の奥に、わたしは何か、光る目のようなものを見出したのです。半年以上、開かれたことのない蔵ですから、もちろん生き物などいるはずもない。だのに、暗闇の奥で、何かがこちらを見ていた」

 淡々としたつづみの声には、怪談につきものの煽りめいた抑揚はない。しかし、それだから逆に、凄みが含まれているようにも感じられる。

「完全に目が合ってしまい、わたしはしばらく、微動だにできませんでした」

 肩をすくめて、ぶるり、と身を震わせるつづみ。

「叫ぶとか、逃げるとか、ほんとうに恐いときにはそういう行動は思い浮かばないものですね。頭が真っ白になって、わたしはじっと硬直して、その目を見つめていたのです。あのときは、背筋に冷たい汗を感じたものでした」
「……泣かなかったの?」
「いえ、むしろ、目が乾ききっていました。まばたきすら忘れていたのでしょう」

 ため息交じりのつづみのひとことに、ドロシーは相槌を打てなかった。頭上から降りそそぐ雨音はいまだ激しく、生徒たちのさざめく話し声はその下に沈んでいく。ふたりの間に流れるつかのまの沈黙。
 恐怖というよりは、何か、落ち着かなくて、つい後ろを振り返ってしまいたくなるような感覚だった。

「……それで、目の正体は何だったの?」
「わかりません。夜が明けてから探ったのですが、光るようなものなんて何もなかったんですよ」

 夢でも見たのだろうか、とドロシーは思う。しかしそれは安易すぎるし、そういってしまえば何でもありだ。それは、このひとときの結末に相応しい言葉ではない。

「何だったと思う、つづみさんは?」
「さあ」

 あっさりと、つづみは肩をすくめた。あれほどお化けを否定したわりに、合理的な解釈には興味がないらしい。
 何を言っていいものやらわからず、ぽかんとドロシーはつづみの顔を見つめた。すでに彼女はいつもの微笑を取り戻していたけれど、それは、つい数分前の彼女とは別の顔に見えた。
 石に彫ったような笑みの奥に、彼女はひどく、複雑なものを孕んでいる。
 ようやく、芳野つづみが人間らしく見えてきた気がした。

「ねえ、つづみさん」
「はい」
「体、冷えない?」

 見れば、つづみの首筋も、顔も、手の甲もひどく白い。白人の血が入っているドロシーと比べても変わらないほどだ。うっすらと浮いて見える青い静脈は、彼女の体温の低さを示している。

「……いわれてみれば」

 つぶやいて、つづみはちいさくくしゃみをする。ドロシーは苦笑した。

「帰りに、ちょっとあったかいものでも飲んでいこうよ。真夏のホットドリンクも、なかなか乙なものよ」
「それなら、オススメの店がありますよ。母がここに通っていたころに行きつけだった喫茶店なのですが」
「……年代物ね」

 約束を取り付けたとはいえ、雨はまだやみそうにない。トタン屋根の向こうに見える空は、灰色に変わっている。今度は、ドロシーのほうが、すべらない話を記憶の底から探り出す必要がありそうだった。
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