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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第85話「超能力みたいに、ぴったり意味が伝わることなんてない」

 夏休みが近づいて、気持ちが浮き足立っているのはどこの誰も同じだ。たいていの生徒は、学校に来なくてもいい日が一刻も早く訪れるのを、待ち望んでいる。
 そのくせ、放課後にはいつまでも、教室に居残ろうとする。まるで、ディナーの残り香をいつまでも楽しもうとして、テーブルから離れようとしない子どものように。
 そして、あまり長居する生徒は生徒会役員がときおりたしなめにくる。取り締まり、というほど堅苦しいものではなく、むしろミイラ取りじみていっしょに部室に居座ってしまう先輩なども珍しくない。

 津島(つしま)(つぐみ)が、舟橋(ふなばし)妃春(きはる)と部室の前ではち合わせたのも、そういう日だった。

「何、もうおしまい?」

 妃春が首をかしげつつ、鶫の肩越しに音楽室の中をのぞき込む。ティーテーブルも楽器も片づけて、先輩方は一足先に帰路に就いたところだ。あとは鶫が部室の鍵を閉めて帰るだけ、という状態だった。カーテンの向こうから赤い夕日が射して、室内を染めている。音をよく響かせるために十分な広さを取った部屋は、人がいないと、ことさらがらんどうのように感じられる。

「終了。お茶もお菓子もないよ」
「そう、残念」

 おどけた声で妃春はぼやく。鶫には、そんな妃春の様子はいくぶん珍しい。もっと、”そんな賄賂をもらうために来たのではない”とか何とか抗弁するものと思っていた。
 鶫が妃春を不思議そうに見つめていると、妃春はふたたび首をひねる。

「帰らないの?」
「いや、帰るよ」

 ついてくるつもりか、と言ってしまったら、さすがに妃春は怒りそうだった。
 鶫はプラスチックの黄色い札がついた鍵で音楽室のドアを施錠し、歩き出す。当たり前みたいに、妃春がその隣にいる。
 くるくると、何気なく、鶫は鍵を指先でもてあそぶ。金属の軽い音が廊下に響く。昼間の余熱を残したような、どこかふわふわとした廊下の空気に、その固い響きが鋭利なアクセントを作っていく。
 短くて粗雑なその音が、次第に、鶫の手の中でリズムを持ち始める。さっきまで部活で練習していた曲が、頭の片隅に流れている。ビートが彼女の指先まで染み渡ってきて、関節と指先を突き動かす。
 リズムに乗れば、足取りもいくぶんかかるくなるような気がした。かかとと膝でゆるやかにビートを合わせながら、鶫は階段を下りていく。

「……そういうの、自然にできるの?」

 ふいに、妃春が訊ねてきた。つかのま内面に没入しかけていた意識が、やにわに外界に引き戻される。ちょっとつんのめるように足を踏みしめながら、鶫は妃春のまじめな顔に振り返る。

「ただの癖。できるとかできないとかじゃなくて」
「……?」
「いや、そんな、得体の知れないものを見る目で見られても困るけど」

 説明を要求されるような、たいそうなことではない。

「歩くのとか、しゃべるのとか、ペン回すのとか、そういう」
「ペン回しは苦手だわ」
「ああ、そう。何でもいいけど、とにかく、無意識で」

「こうしてしゃべってるのも、思えば奇妙よね。言葉って、どうやって生まれてくるのかしら」

 突然、哲学的なことを言い出されたので、さすがに鶫は答えに窮した。指先で回っていた鍵が、ころん、と手のひらに転がり込んでくる。音がやみ、足音もいくぶん低くなったように感じる。
 妃春はそのまま、黙り込んでしまった。ほんとうに言葉のしゃべり方を忘れたのかもしれない、と、鶫は一瞬、思った。
 リズムをなくした重たい足音だけが、廊下の薄暗がりに沈んでいく。鶫は、背筋が冷えるような感じを覚え、眉をひそめて妃春を見つめる。

「何かあった?」
「何か、というほどではないの。ただ、言葉ではないやりとりって、どういうふうに理解するんだろう、って」
「ああ、ひょっとして例の噂?」

 鶫の問いに、妃春は無言でうなずいた。
 学校の片隅の百葉箱の噂は、鶫の耳にも届いている。密かに受け渡される鍵、言葉を持たない何かで伝えるメッセージ。そういうものが、高等部の生徒の間で、静かに広まっているらしい。

 妃春が鍵を受け取ったのだろうか、と、鶫は想像する。しかし、それを問うてしまうのは、あまりに品のない行いだ。鶫はあまり噂に興味はないけれど、そうした神秘を守りたい同級生の気持ちくらいは察せられる。

 だから鶫は、なるべく重たくならないような調子でいった。

「わかんなくてもいいと思うけどね」
「……そう?」
「超能力みたいに、ぴったり意味が伝わることなんてない。言葉でも、歌でも何でも」
「そんなものかしら」
「人のいってること、いつでも100パーわかってた、って思う?」

 どこか引っかかりを残した様子の妃春に、鶫が苦笑しながらそう訊ねると、彼女もすこし表情をゆるめた。一瞬だけ遠い目をした妃春の瞳が、夕暮れの濃厚な影を映して、触れれば崩れてしまいそうな深海の色をしていた。
 鶫は、もう一度、手の中の鍵をくるりと回した。

「歌詞とか、メロディとか、けっこう繊細だしね。苦労してるし、うまくいってるかどうか、あんまり自信はないね」

 ふたりは一階まで降りて、そのまま玄関口に向かう。鶫は、肩からずり落ちてきた楽器のケースを担ぎ直す。

「お客さんみんなに、意味がわかったかどうか聞いて回るわけにもいかないし」
「それなら最初から、文章で伝えたほうが楽ね」
「だけど、ただの文章じゃ退屈だから、音に乗っけて楽しくするわけ」

 自分でそういいながら、それがすべてではないのを、鶫もわかっている。だけど、妃春の疑問にうまく応えるためには、これが比較的まともな答え方だ、とは思っていた。
 妃春が目を細めた。薄暗い廊下の片隅で、なかば亡霊のように影に溶けかけている彼女の姿形のなか、その瞳はいっそう色濃く際だつ。彼女の中にわだかまっていた疑念のいくばくかが、心の底でとろりと溶けたのがわかる。
 瞳の輝きは、解けた謎と、解けない謎の色だ。

「まあ、わからなくたって困らない暗号なら、わからないままほっとけばいいんじゃない?」
「もっともね。ミステリーでもあるまいし」

 職員室には、当直の先生たちが何人か居残って、何か他愛ない話題で笑っていた。鶫と妃春は、初等部の頃から慣れ親しんだよそよそしい礼儀正しさでドアを開け、おきまりの言葉を交わしながら、先生に音楽室の鍵を預けた。
 こういうときに使う言葉遣いは、鶫の口にはいつまでもなじんでいなくて、何か上滑りしている感じがする。

 職員室を出ると、妃春が笑った。

「何」
「だって、鶫さん、やけに堅苦しくて」
「妃春さんにはいわれたくない」
「私は大丈夫なのよ。慣れてるから」
「ああいう言葉こそ、自分のものにはしたくないね。体制的で」
「そのいい方、ミュージシャンっぽいわ」

 ぽい、という助詞が耳に引っかかって、鶫はつい、思い切り顔をしかめてしまう。眉間にぎゅっとしわが寄るのが、自分でも痛くなるくらいだった。その顔を見て、妃春がまた、くすくすと笑っていた。
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