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一日一輪 ~女子校の日々はときめきに満ちている~ 作者:扇智史
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第77話「線路というのは、歩いては進めない道ですから」

 駅からすこし東、フェンスに覆われた跨線橋の中央あたりに立って、線路の彼方を眺めるのが、阿野(あの)範子(のりこ)は好きだった。活字に飽くことはないけれど、たまには別のことをしたくなる、夕暮れどきもある。
 そういうとき、彼女はここに来て、金網越しの世界を眺める。高架を駆け抜ける子どもたちのはしゃぎ声も、足元を抜けていく電車の走行音も、すべてが半歩遠ざかってしまって、線路と自分だけが本物のような気がしてくる。
 いつか、足元の感覚さえ消えていく。

「範子さん」

 名前を呼ぶ声に、範子は夢想から醒めて、現実に降りてきた。そうして、自分の体重や温度を自覚すると、つい一瞬前までの開放感は忘れて、自分が生身の人間であることを再確認させられるみたいだった。
 ゆっくり振り返ると、リュックサックを背負った同級生が、まっすぐにこちらを見つめていた。

千鳥(ちどり)さん」
「何をしていたんですか?」
「何もしてない」

 範子の答えに、初野(はつの)千鳥はただうなずくだけだった。いまの言葉に納得できる要素があっただろうか、と範子のほうがいぶかしんでしまう。

「千鳥さんこそ、何をしてるの?」
「歩いていました」
「……それはそうだろうね」
「長らく勉強漬けで、あまり歩いていなかったので。今日はすこし足を伸ばしてみました。まさか級友に出会うとは思いませんでしたが」
「ああ。そういえば、ウォーキングとか好きなんだってね」

 どうやら、千鳥はしばらくとどまるつもりらしい。範子はフェンスに体を預けるようにして、千鳥のほうに向き直る。後ろ手がフェンスに触れて、しゃん、と、出来損ないの打楽器のような音が、遠くまで響いた。

「こっちまで来るのは、めずらしい?」
「だいたい、駅ぐらいまでですね。今日はすこし、線路沿いを歩いてみようと思いまして」

 千鳥はちらりと、フェンスの向こうに目をやった。夕陽がさして、跨線橋の長い影が線路を横切って落ちている。影よりも東に広がる街並みは、昼のなごりのような日の光に照らされ、ほんのりと浮き上がっているようだった。
 影のあちらとこちらで、世界が区切られているみたいにも思えた。

「新しい挑戦、というか、苦手克服のつもりだったのです」

 つぶやく千鳥の視線は、ずっと線路の先を見ている。

「苦手?」
「電車というのが、あまり好きではなく」
「へえ」

 範子自身は、電車は嫌いではない。座って本を読んでいるうちに目的地に着ける便利な乗り物、という程度の認識で、好悪を判断するようなものでもないと思っていた。
 ぴんと両脚を伸ばして立っていた千鳥が、かるく上下に肩を揺すって、リュックを背負い直した。

「自分の足で歩いていないと、勝手にどこかへ連れて行かれるような気がして、恐くて」
「それなら、自動車でもバスでも、何でも同じじゃないの」
「ええ。慣れの問題でもありますし、それと」

 線路の果てを見晴るかしている千鳥の顔には、うっすらと影が落ちている。
 陰影を宿した彼女の瞳は、宝石のように黒い。

「線路というのは、歩いては進めない道ですから」

 つぶやいて、彼女はわずかに歩を進め、範子に並びかけるようにしてフェンスの際まで近づく。
 底が分厚くて固い靴のつま先が、金網をかすめるようにぶつかった。

「このままずっと歩いて行ければ、また、気持ちは違うのかもしれませんけれど」
「それ、なんだか映画みたいね」

 範子の言葉に千鳥は、ほんのわずかに表情をゆるめた。お互い、あまり表情豊かなほうではないから、この場では、そんなちいさな微笑も貴重だ。がしゃがしゃと階段を上る子どもたちの、はしゃいだ歓声があたりにこだまする。
 警笛を鳴らして、電車が足の下を通過していった。橋桁が、ささやかに揺れた。

「歩いて行けないから、いつも、勝手に想像してしまうんです。この先には、何か私の知らない、この世ではない世界があるのではないか、と」
「……それは、どんな?」
「それが見当もつかなくて、困っているのです。だから恐くて」

 千鳥は、ちらりと横目で範子を見る。橋の上を抜けていく風にも、千鳥の髪は動じていないみたいに見えた。ゆるやかに波打つ彼女の髪は、どうやら、とても頑健なようだった。

「範子さんは、そういう想像はしないのですか?」
「……何で」
「本を読んでいる方でしたら、そういうのも得意かと思ったのですが」
美礼(みれい)さんとかとは違うわ。私は読む専門」

 範子のカバンの中には、読みさしの本がいつも入っている。栞を挟んで中断されたそれは、一時停止された動画のように、乱切りされて水につけられた野菜のように、宙ぶらりんのまま停滞させられている。

「読んだものが現実だと誤解するのは、幼稚園のころまでよ」
「サンタクロースもすぐに信じなくなった口ですか」
「……夢がないって?」
「認識の仕方が違う、というだけですけれど。いいとか悪いではないです」
「千鳥さんは、信じてたほう?」
「どうでしょう。親にプレゼントをもらっていた記憶しかないのですが」
「さばけた家ね。なんだかイメージ通りだわ」
「きっと、そうでもないですよ。私の両親は、私にはすこしも似ていません」

 つぶやいてから、一瞬、千鳥は妙な顔をした。驚きか、困惑のように、かすかに目を見開いて唇をすぼめる。思わず飛び出した自分の言葉が、宙を漂うのをじっと見つめているような、ゆらゆらとさまよう視線。
 かくん、と、操り人形の糸が切れる音が聞こえるような仕草で、千鳥は首をかしげた。

「親の話など、するつもりなかったのですが」
「いいじゃない。すこし意識も変わったんじゃ?」
「……意外な方向です」
「そういうものよ。心と文学は、思ったような方向には進まないもの」
「さっき言っていたのと違いますね。詩人ですよ、範子さん」
「やめてよ」

 範子は肩をすくめ、ふたたび、金網の向こうに広がる線路の果てを見渡す。うっすらと暗がりに沈んで行く風景は、たしかに、この世ならぬどこかに通じているようでもある。
 けれども、結局、線路は線路であって、単なる社会のインフラだ。どんな理想を託しても、行く先は最初から決まっている。

 それが好きか嫌いか、範子は考えたこともなかった。
 先の読める予定調和も、想像もつかないどんでん返しも、同じふうに読んでしまうから。

 範子の背中から、夏の風が吹く。乾いて、熱を帯びて、奇妙に圧力を感じさせる風の流れが、通り過ぎていく。
 ふとかたわらを横目に見れば、千鳥の髪が、羽根のようになびいていた。

 千鳥なら、空でも飛べるんじゃないか、と、範子は思う。もちろんそんな言葉は、絶対に、口には出せそうになかった。
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